これを読めばあなたも『松永秀』が良くわかる?【前編】





 こちらを御覧になられている読者の皆様には『何をさら。(´・ω・`)』なお話ではありますが、補足して置きますと…

 当『髭亭』は、かつて赤髭が無駄に溜め込んだ歴史痛的知識と諧謔を駆使して連載していた『大河ドラマと国を語る』ブログシリーズの記事を再構成・加筆修正を加えて掲載・連載をしていくことを趣旨としているわけですが、

 この一連のシリーズを御愛読いただき、頻繁にコメントを頂戴する御贔屓様(常連客)の一人、にHN.『ギリ』様という方がいらっしゃいます。
( ・(,,ェ)・) 小さくて申し訳ありませんが、日ごろの御愛読には、この場を借りてお礼申し上げます。



 まるで外国の映画俳優を想わせる響きを感じさせるお名前でらっしゃいますが、実はこの『ギリワン』という言葉、某巨大掲示板の戦国歴史愛好家の間で『とある戦国』のことを示す符牒、いわゆる『インターネットスラング』の一つが由来となっております。(御本人様もそれを自認されています。)



 その戦国武将は、かの第六天魔王・織田信長をして『普通の奴なら一生涯かけて一つ出来るかどうかという大事を、三つ重ねてやってのけた!!』と言わしめ、その戦国の覇者たる信長にも二度に渡って叛旗を翻した乱世の梟雄です。

 恐らく、下剋上が当たり前だった戦国時代でも彼ほど異類で悪逆非道、またはそう誤認される命運を辿った武将は皆無と言ってよいでしょう。


…彼が歩んできた生涯はどこを切り取っても、文字通り『いつ見ても波瀾万丈』。そして、その野望深き策略家の生き様は数多くの戦国武将・歴史Fanに多大な印象を与え、もちろん『信長の野望』シリーズでは鉄板の常連。

 武将のマスクデータ(隠し設定)で、【義理】の項目が100点満点でたった""しかないことが先述した『ギリワン』(giri-One)の由来となるほど、冷酷非道だった彼の武将人生はまるで、良く出来たピカレスクロマンが服を着て歩いているかの様。


 最近では、戦国時代をスタイリッシュかつ斬新な角度で切り取り、今の武将ブームを支えている女性戦国歴史Fanに強い影響を与えている『BASARA』シリーズにも遂に登場を果たすほどになりました。



 氏素性もはっきりしない、顔も判らなければ何処の誰かもわからない。

 けれど、『城の天守閣に火薬を仕掛け、切腹すると同時に大爆発を起こさせ…此の世に頭髪の一本も残さず、蓮の業火に消えていった。』という最期の幕引きの潔さには、彼に凋落させられた阿波三好家のFanである赤髭もある種の感慨と憧憬を想わずには居られません。


 さぁ、HN『ギリワン』様を初めとする戦国歴史を愛し嗜好とする紳士淑女の皆様方、おたせいたしました。 ( ・(,,ェ)・)ノ < Ladies & Gentlemen!!

        

 今夜御紹介する武将は…はい、もうこれ以上の言葉は野でしょう、戦国時代最高のトリックスターにして、ドがつく悪党武将の代名詞。

 『戦国武将の人柄シリーズ』第三回は、人呼んで『松永弾正』…松永(まつながひさひで 1510?~1577)について御案内、前後編でお送りしていきたいと思います。


 それでは、御一緒して戴ける皆様のお時間を少々拝借。
                     。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!




■乱世の雄・松永弾正久秀の謎。

【その生年と出について】


 さて、もはや一部の戦国歴史・武将Fanの皆様には語ることもないでしょう、稀代の悪党にして下剋上の(きょうゆう。梟(フクロウ)の様に抜け目がなく、昨日まで親類・縁者だった者でも平気で殺すような情け容赦のない英雄、という意味です)である松永弾正の生涯。
 その経緯は既に御存知の方も多いかとは思いますが…―― 『戦国武将の人柄シリーズ』第二回でお送りした豊臣秀吉以上に、この松永久秀という人物の氏素性ははっきりしていません。


 秀吉の場合は尾張国(現愛知県西部)の中村か、国内どこかの生まれだろうとまでは判っていますが、久秀の場合はそれよりひどく、何処でまれた人なのかすら、確たる証拠が未だ見つかっていないからです。

 生まれた年については古い史料などでは1510年(永正七年)頃だろうとされていましたが、『多聞院日記』の1568年(永禄十一年)2月19日条で『当年六十一歳』との記載があり、1508年(永正五年)生まれである事が確認されています。
 当時の年齢は”数え年”の為、0歳ではなく1歳から数える。よって1568-60=1508になりますね。



しかし、依然として諸説入り乱れているのは出身地説。赤髭が知っているだけでも、これだけあります。



①摂津国(現大阪府北部)の高槻説。

 現在の大阪府高槻市出身とする、近年では有力視されている説です。
江戸時代の書物『陰徳太平記』では、摂津国五百住(よすみ。現高槻市)の百姓の子供だった、と記されています。

 これは久秀が高槻城を"自分の領土に"としきりに欲しがったり、高槻の土豪・入江氏と懇意にし、その一族から末養子として永種(ながたね)を貰っていること、その永種の子で、江戸時代初期の俳諧師(はいかいし、俳句を詠むプロ)として名高い松永(まつながていとく)が『我が先祖は摂津入江の裔』と言ったことも根拠の補足とされています。



②山城国(現京都府南部)の西岡説。

 現在の京都府西京区出身とする、以前は最有力説とされた話。

 この説によれば、久秀はとある土(どそう。蔵を建てられるくらいに裕福な商人、今で言う消費者金融が多かったようです)の家に生まれたことになっています。

 後に松永久秀が主君である三好(みよしながよし 1523~1564)に仕えたさい、京洛全般の内政や裁判を行う奉行職を任されたのは、久秀がそれだけ京都の事情に詳しく、物事の計算に優れていたからだ、というのが根拠の一つです。

 なお、余談ですが山城国西岡といえばもう一人、時代を代表する梟雄である斎藤(さいとうどうさん)が若い頃に油商人・山崎屋庄五郎として大活躍した場所で、二人は顔見知りであるという俗説もあります。

        




③阿波国(現徳島県)の犬墓説。

 現在の徳島県阿波市 市場町犬墓の出身とする説。

 松永久秀が仕えた三好家の本拠地は阿波だから、彼もおそらく阿波の出身なのだろう…というのは弱い根拠だとされ、説としてはそれほど有力ではありません。

 しかし、犬墓(いぬのはか)には松永久秀が築き、阿波在住時代に居城としたとされる松永城跡の石碑があり、現在もその城跡近辺には久秀の末裔という人々が暮らしています。











■平成24年8月15日 追記
 前回の挑戦では不覚にも見つけることが出来なかった松永城跡石碑を無事に発見したので掲示。
事前に調査しておいた情報では『山の上にある』ということでしたが、何のことは無く…松永さんという御宅の庭端にデンと構えていらっしゃいました(苦笑。


 どうやら近隣にある城王山の頂上にある日開谷城(ひがいだにじょう)と松永城を勘違いなさっていた様子。日開谷城は南北朝時代に南朝の武将・新田義宗が築いたとされ、戦国時代に松永久秀が松永城の出城として利用したとされていますが、こちらは想像を絶する悪路だった為ステップワゴンでは登山できず、また毒虫や蛇が居てもおかしくないような鬱蒼とした山道であった為に今季到達を断念しました。
 

           


 地元の人の話では、松永久秀の末裔は江戸時代には何と地元の庄屋様になったらしく…今でも子孫の方々は名士として地元では敬われているようです。探索した限りでは、久秀と同じ『五三の桐紋』を家紋とする松永家のお墓が多数あり、恐らくは傍流であろう『松尾家』『福永家』の表札も沢山ありましたし、畿内では滅亡の憂き目を見た松永家も徳島では順調に繁栄したようです。




④播磨国(現兵庫県南部・大阪府北西部)説。

 この説で用いられる家系図では、大概の説で謎とされている久秀の父や祖父の名前、松永家の発祥や由緒まで確定しています。

 祖父は久松、父は三五右衛門清秀(さんごえもん-きよひで)とされ、加賀国(現石川県南部)から播磨に流れてきた一族。元は九州の大宰府で役人を勤める家系だったと伝承されていたということです。後述する、久秀の優秀な役人気質は、遙か遠い御先祖様の遺伝なのでしょうか。

 ちなみに久秀本人は、自分は
原氏の出身だと主張。

 しかし、のちに室町幕府将軍・足利義輝から名誉ある『桐の御紋』の使用を許されると『あ、ごめんやっぱり
氏だった。』と由緒を訂正、源久秀と名乗っています。

( -(,,ェ)-) さすがは弾正、節操が無い。

        



⑤近江国(現滋賀県)説。

 現在の滋賀県、その西部にあたる坂本か瀬田、大津あたりの町人として生まれたという説。

 
すみません、ぶっちゃけ赤髭もこれについては詳細は良く知りません。(爆



【家
・親類縁者ついて】
 
 いつどこの生まれかはっきりしない、父親が誰なのかも判っていない松永弾正ですが…は1485年生まれの1568年没であることが判っています。


 名前や出自については不明のままですが、1556年(弘治二年)に病に臥した際には三好長慶もその容態をがかりに思い、京都の五重塔で有名な東寺(とうじ)は、安井宗運(やすいそううん)を彼女の療養先である堺に派遣。

 宗運は久秀の母に薬を調合したほか、東寺の高僧だった宝厳院祐重や観智院栄盛に
  見舞い金を持って堺に来た方が良い
と勧めたという記録が残っています。(東寺百合文書)


 なお、宗運が堺に来た頃には既に母親の病状は快方に向かっており、『母親よりも、その容態が心配な久秀の方が気れしていた』とのことで…――宗運は久秀にも薬を処方し、非常に喜ばれたのだとか。



 久秀の母は病気が癒えたあとも堺で暮らし、1568年(永禄十一年)2月15日に八十四歳という長寿を全うして亡くなりました(多聞院日記)

 1570年(永禄十三年)、久秀は母親の三回忌法要として堺で千部経(せんぶきょう。千部読経、故人の追善や祈願のために同じ経を千人の僧が一部ずつ読む法会。一人の僧が千回読むこともある)を催し、供養を重ねています。

         



 久秀のについては、正室が三好(かつひめ。三好長慶の娘)、側室に刑部卿(ぎょうぶきょうはるこ。長慶の妹婿・一宮成助の娘、三好義継の乳母)大夫局(さきょうだいぶのつぼね。三好長慶の側室もしくは三好義継の正室)といった三好長慶に関係の深い女達であることが知られていました。

 後に久秀は『主君・長慶の娘を妻にしておきながら三好家を疎んじて横暴を極め、終いには長慶の姪や妻にまで手をした』極悪人であるとされてきましたが―――信頼のおける一次資料で確認が出来ているのは二人だけです。


 一人は『松永(まつながにょうぼう)。彼女が三好勝姫(長慶の娘)だとする史料もありますが、断定は出来ないようです。

 1553年(天文二十二年)には既に久秀の妻だったようですが(言継卿記)…長慶が授かった最初の子である嫡男・三好義興が1542年(天文十一年)生まれであるため、長慶の実の娘であれば、多く見積もっても12歳。

 当時の結婚観からすれば普通に嫁に出ている年齢ですが…この松永女房に対し朝廷から久秀への取次ぎが依頼されていたらしいので、ある程度の年齢であったとみるべきでしょう。
( ・(,,ェ)・) そんなちっさい娘に頼むより、父親である長慶に直接頼んだ方が早いでしょうし。

 けれど、頼り甲斐のある人物であったことは間違いないようで…1570年(元亀元年)に奈良興福寺塔頭・大乗院の所領を巡って相論が起きた際、調停にあたった松永久秀に感謝の意を示す手紙が時の関白・二条晴良のから彼女に届けられています。
( ・(,,ェ)・) ただし、この感謝状を受け取った『城州女房』は彼女とは別人だという説もあります。



 もう一人の妻は、朝廷の武家伝奏(ぶけでんそう。幕府や戦国武将からの申請を朝廷に取り次ぐ官職で、近衛家や日野家に近い高位の公卿が就任する。)で近衛家の家司だった広橋国光の妹・(やすこ)です。

 広橋(ひろはしくにみつ 1526~1568 正二位権大納言)は久秀どころか三好長慶より遥かに官位の高い藤原家の上流階級であり、保子も時の白・一条兼冬に嫁いでいたといいますから、本来であれば雲の上を突き抜けた地位にある人達です。

 

 一条兼(いちじょうかねふゆ 1529~1554 従一位関白左大臣)は僅か25歳で関白左大臣という公卿が辿り着くべき頂点に達し、位人臣を極めた人物でしたが…その一年後、26歳で急死しています。

 その後、一体全体どんな経緯があったのかは知りませんが…―――保子は久秀に嫁ぎ、側室に収まりました。関白の未亡人をにするとか、久秀はいったいどんな手を使ったんでしょうか…。
( -(,,ェ)-) まぁ、当時の藤原家は食べるものにも事欠くような貧乏のどん底だったようですから…京都の実力者であった久秀へ上位の公家が嫁に行くのはある意味、何の不自然もないわけですが。

 

 久秀が大和国(現奈良県)多聞山城に本拠を移すと、保子も一緒に赴いたようですが…1564年(永禄七年)3月19日にくなったようです。(享禄天文之記)


 久秀は彼女を弔うため、当時の臨済宗大徳寺派でも最高級の高僧である大林(だいりんそうとう)やその弟子である笑嶺(しょうれいそうきん)を招いて盛大な葬礼を営みます。


 さらに、長慶が三好家の菩提寺として開基した堺・南宗寺の裏手に勝善院を建立、彼女に勝善院殿仙溪宗壽禪尼という立派な戒名をつけて貰い、追善としました。



 後に東大寺大仏殿を焼き討ちする暴挙に出たとされる無神論者の松永弾正も、愛した女性達には深い哀悼を示し厚く供養することで冥福を祈ったことが伺えます。



■( ・(,,ェ)・) 兄弟に関しては松永長頼(まつながながより)、子供達では嫡男である松永久通(まつながひさみち)、次男の秀次らが知られていますが…―――以降は、次回でお話します。



逆非道の権化とされる久秀、その容貌について】

 …さて、いきなり話題を急展開させますが――…読者の皆様は、
松永
秀って、どんな顔してる?』と質問されたなら、いったいどういったイメージの顔を思い浮かべるでしょうか?

                  

 『信長の
』シリーズで戦国歴史に馴れ親しんだ皆様なら、『頬に黒い痣や刀傷痕のある、二重瞼の細い目をした狡猾そうな策師面』が印象的に思われるのではないでしょうか。

 とくに近年の作品では『何かこちらを威嚇するような目つきで睨みつけ、腹の底が知れない野心家振り』をほうふつとさせる顔貌をしていることが多く、いかにも下剋上の使徒・叛逆の梟雄たる印象を感じますが…――。


                   

 そうかと思えば、『戦国
BASARA』シリーズでは、そういう暗く腹黒いイメージは一掃され、目鼻立ちの通った渋いチョイ悪オヤジ系の二枚目に。主君への裏切りなんか歯牙にもかけない孤高の雰囲気には、戦国武将Fanのお姉さま方もけっこうな数、傾倒なされたのではないでしょうか。 


 しかし、実際のところはどうなのかといえば…

 実は松永久秀、戦国時代頃のものと思われる肖像画や木像が、今日まで一点も発されていなかったりします



 やはり、松永家が『滅んでしまった戦国大名』であることも大いに関係していると思われますが、その実力最盛期…永禄年間には、京洛を訪れたキリスト教宣教師達から

京の都には天皇様だの将軍様だのと偉い人がたくさん居るが、実質上この都を掌握しているのは松永正殿だ。彼が想う通りでなければ、将軍らはなにひとつ自由に振舞うことも出来ない。

 とまで記録させるほどの権勢を誇った下剋上の梟雄、乱世の寵児らしからぬ寂しさと言わざるを得ません。

 松永久秀は権謀術数に優れていたため、自身の安全のため簡単に面を割るのを嫌った、というのもあるでしょうし、自分の記録をあまり残したがらない性格だったと推察されるため、それも彼の実像をぼやけさせる一因となっています。
(■この時代の戦国大名は『○○家譜』とか『○○家記』といった感じに自分の御家の由緒や誇りある歴史を文書に残す場合がままあるのですが、久秀は幕府の実権をほぼ掌握するほどの実力者となったのに、この手の『大名家公式文書』を残してないのです)


 しかし、戦国時代が終わって平和な江戸時代が訪れると戦国武将達は平成現代と同様、一種の『アイドル』として途端に庶民の注目を浴びることになり…『稀代の党武将』の代名詞である久秀も浮世絵や武人絵の題材として、盛んに描かれることになるのですが…。

           


 それらを確認しても『平安朝の大鎧と兜を着用した、大仰な』であったり、『白髪頭を振り乱し咆哮している、狡猾そうな』まで、その風貌は多趣多様。


          


 『結局、どれが松永久秀の実像に一番近いわけ?』と戦国歴史Fanの皆様は思うかも知れませんが、そんな彼の風貌を活字ながら残しているものに(現大阪府堺市)の会合衆(えごうしゅう。堺の街を合議制によって運営する自治政府の議員たち。たいていは、堺でも上位の大商人が選出されました。)たちが書き残した日記があります。


 この時代の記とは『自分の後継者など、他人にまれること』を前提に書かれているため、筆者の主観や御世辞、贔屓(ひいき)が混じることにはなるので鵜呑みには出来ないのですが…ある会合衆の日記には、松永久秀の人となりが記録されています。


    『立ち振る舞いが優雅で容姿に優れ、
               連歌や茶道に長けた教養ある風流の人』




 
"…あれ?(´・ω・`)"、と違和感を覚えた方も多いかと思いますが、さにあらず。


 実は松永久秀、堺の会合衆とはしょっちゅう茶会や連歌会を開くなど、実際『茶数奇』や『教養』に掛けては一流なんです。

 しかも茶道を教わった師匠は、武野(たけのじょうおう 1502~1555)

            

 そう、千利休の師匠にあたり、利休が時代を席捲する前の『侘び茶の大成者』、早く言えばこの時代最高峰の茶頭・武野紹鴎です。

 紹鴎は戦国武将の教養として欠かせないものとなっていく茶の湯の『侘び寂びの心』、その独特の美意識と世界観を確立した茶道史において欠かすことの出来ない偉人であり、堺の町では皮革問屋を営む大商人でもあり、数多くの茶道具や芸術品を所蔵する一流の教養人でもありました。





 そんな彼に茶を教われるということ自体が、久秀が一流の素養を持つ風流人である何よりの証拠といえます。

 そしてたぶん、年齢からしても久秀が利休より兄弟子でしょう。(千利休は1522年生)


 松永久秀が後年、織田信長でも垂涎の茶道具を大量に揃えていたのは(信長や秀吉と違い)ただの金持ち道楽ではなく、正真正銘に彼が超流の茶人だったからです。








 また、ずっと後年になって…1568年(永禄十二年)、織田信長が流浪の足利義昭を御輿にして上洛を達成すると、多くの三好一門が信長に敵対するなか久秀はあっさりと信長に降伏してしまうのですが…――この時、既に61歳になっていた久秀のことを、性の高い史料とされる『信長公記』では

 『風貌のい老人』と記録しています。

        



 松永久秀が三好家に仕官したのは1529年(享禄二年)、22歳の時のことらしいのですが…その頃からかなりの美貌があったらしく、身長も六尺(約180cm)に迫るほどの長身。

 主君だった三好(みよしもとなが 1501~1532)やその嫡子・長慶から寵愛を受け、(ゆうひつ。主君の発給する文書を代筆したり、受給文書を管理する文官。早い話が、秘書)に取り立てられたのは久秀が能筆であったことはもちろん、その容貌が大いに関係していることは間違いなさそうです。



 また、おいおい記載しますが…――松永久秀といえば、房術(けいぼうじゅつ)…―。

 …――あー、あれのことです。( ・(,,ェ)・)


 ベッドの中で女性を喜ばせる技術の達人で、かなり詳細なハウツー本を書き残してるほどの『夜がれん坊』だった人ですので、幾ら権力者であっても…それだけ大勢の女性をときめかせるだけの浮名が流せる男前であったと根拠とも言えるでしょう。



 
ここ最近の大河ドラマでは『功名が辻』で登場、大河『風林火山』で北条氏綱役を好演した品川徹さんが老獪な梟雄の雰囲気と貫禄たっぷりに演じていたのが印象に残っていますが、赤髭の個人的なイメージとしては、やはりプレイボーイとして数々の女優と浮き名を流した名優・火野正平さんを強く推したいところです。(何を言ってる。




【下剋上の寵児、松永弾正忠の性とは?】

 さて、そんな多くの謎に包まれていながらも、数多くの戦国武将Fanを魅了する稀代の梟雄・松永久秀ですが、容貌や生まれは兎も角…『性格』や『思考』ならば、残された史料からある程度の推察は可能です。


 この松永久秀という人の器量性格を一言で表すなら、それは

恵まれた才能・素質を備え、それらを一流の域まで高められる几帳面な努力家、けれど上昇志向と我欲が強過ぎるわがままな実主義者

ということです。以後、その分析結果をつらつらと説明していきますが、単純に松永久秀という戦国武将の人生の経過をたどれば、随所にそういった顕著な向きがあることに気付けます。



 まず、先述した通り…久秀が戦国時代の桧舞台に登場するのは1529年、右筆からのスタートなのですが…武家の生まれでも無ければ上流階級でもなさそうな境遇から、当代でも一流の実力者である三好家に仕官出来たのは、それだけ器量があったということ。

 もし久秀が巷説どおり阿波の出身でないなら、縁もゆかりもない三好家に出仕するには相当高いハードルを越える必要もあります。今風に言えば、政権与党でもTOPクラスの政治家の秘書に、同郷でもなく縁故もコネもないのに就職するようなものですから。


 また、久秀の才能は茶道、歌道、書道、礼儀作法一般、刀剣鑑識、交渉術、処世術、医学、智謀策略…本当に幅広いながら、どれを見ても一流の腕前です。

 人間、向き不向きというもの…素質や適応もありますが、これだけ多趣多岐に及ぶジャンルに堪能なのは、それだけ彼が天賦の才に恵まれ、それを自己鍛錬できる努力家だったことを示しています。



 しかし、彼がその才能を主君や上流階級に忠勤することで真摯に発揮したかと言えば、それは多くの戦国歴史Fanの皆様が御存知の通り、




 最初の主君だった三好元長が幕府内の勢力争いに敗れて自害に追い込まれ、死に別れになると…久秀は彼の後継者、十三歳年下の三好長慶に仕えることとなりますが、最初こそ有能な『秘書官』だった彼も、徐々に活躍の場が広がっていきます。


 久秀の名が信頼できる資料に初登場するのは1540年(天文十年)

 この時は長慶の名により、和泉国・連歌田(現大阪府堺市)を圓福寺・西蓮寺・東禅坊などの寺社に寄進するためで、まだ『秘書官』の域を出ていませんが…。(岡本文書)


 1541年(天文十一年)には長慶の『部将』として山城国南部に出陣。(多聞院日記)

 1542年(天文十二年)の河内太平寺の合戦では長慶の仇敵で、当時畿内でも実力者の一人だった木澤長政(きざわながまさ)を討ち破るなど手柄を上げ、

 1549年(天文十八年)に長慶がもう一人の仇敵・三好政長(みよしまさなが)を摂津榎並で討ち滅ぼす頃には、聞き慣れた彼の通称である『正少忠』に出世。



 この『弾正忠』は戦国武将にありがちな自称ではなく、正真正銘に朝廷から貰った本職の弾正忠です。


 また、この頃には既に『三好長慶の内者(うちのもの、家来という意味)松永正忠』、と長慶の側近でも有名な存在になっていました。(言継卿記)

■弾正忠についてもっと知りたい方はこちら!! 
 戦国武将官職講座 【第三回・弾正忠】


 仕官してたった十二年で"秘書官"が軍勢を預けられる"武将"に出世というのは、考えようによってはあの豊臣秀吉級か、それ以上の出世度です。

 
これは、彼が才能ある武将で長慶に重用されたということもあるでしょうが、彼がそれを望むだけの昇志向があったこと、またそうなれるように努力に努力を重ねたことも意味しています。



 しかし、ここまではまだまだ『長慶直属の家臣』。久秀の上昇志向と権力への欲望は続きます。

1549年(天文十八年)長慶は時の室町幕府将軍・足利義と管領・細川晴元…―本来であれば仕えるべき主君であるはずの二人を京都から追放し、室町御所を占領。

 
彼らに替わる御輿として細川氏綱(ほそかわうじつな)を管領に推戴し、自身はその管領代(かんれいだい。管領の補佐職)として『三好権』を樹立しました。

 将軍と管領が亡命先から帰還するまでの三年間、長慶は事実上室町幕府の政治を壟断(ろうだん。独占と同意語)し、京都の支配者として君することになります。


          



 久秀は京都の治安維持や税金徴収のための奉行職を拝命して辣腕を振るい、このときの地子銭(じしせん。今で言う固定資産税)取立てがあまりに容赦なく過酷だったため『松永久秀の意地悪な法律には、京都じゅうのみんなが困った』と書き記されています。(言継卿記)



 言継卿記(ときつぐきょうき)

■戦国時代の公家で、蔵人頭(くらんどのかみ。朝廷の財務最高責任者)だった山科言継が1527年(大永七年)から1576(天正四年)50年間に渡って記録した記。

 
当時の京都における政治情勢や朝廷・公家達の生活振りをはじめ、芸能から医療にいたるまで幅広い分野にわたって記録されており、戦国時代の史料として貴重かつ信頼性の高いものとされています。

 特に三好家や松永久秀に関する記録が詳細ですが、三好家も松永家も京都近隣にある朝廷領を不法占拠・横領しまくり、そのたびに言継が『お願いだから返してくれ!!』と頭を下げに行っているせいか、概ね三好家も松永久秀に関しても好意的には書かれていないようです。

 余談ですが、山科言継の息子・言経
(ときつね)も父が断筆した1576年から1608年(慶長十三年)まで30年以上も『言経卿記』という日記を書いています。よっぽど日記好きな一族だったのでしょうね。



 1552年(天文二十年)には長慶が京都支配のために本拠地を摂津芥川城へと移転。このとき、久秀も『相住』、つまり一緒に引っ越したと記録されています。

 もうこの頃には単なる家来ではなく、一緒に居ないと政権運営に支障を来すほどに信頼されていたということです。




 1557年(弘治二年)には、ついに摂津滝山城城主に任。一介の秘書が城持ちの軍団長まで出世しました。

 もう手紙を書かされることも集金に駆け回ることも、主君・長慶の御機嫌伺いに毎日登城して、拝謁する必要もありません。



 この頃から大和国(現奈良県)への反三好家勢力への攻撃を命じられ、久秀の支配圏拡大が始まります。この時の久秀の働きは目ざましく、侵攻を開始して半年も経たないうちに大和国の北分を征服してしまいます。しかも、その所領は三好家ではなく松永久秀個人の直轄地として、そのまま与えられることになったようです。

 あれよあれよの間に、今度は半国ながら国持ち大名に成り上がりました。これも久秀のたゆまぬ努力と、飽くなき上昇志向・権力や富への我欲がなせるわざでしょう。


 1559年(永禄二年)、長い間放置されていた大和国の山城(しぎさんじょう)を修築して居城としますが、この時に四層からなる天守閣を建築。

 主君長慶の本拠地・芥川城にもなかった天下を見下ろす威容からの展望には、久秀も大いに野望と上昇志向に拍車を掛けたであろうことは想像に難くありません。


  
■歴史痛
Check-Point  天守閣は誰が番槍?


 お城の天守閣といえば『織田信長の安土城が最初!!』とは良く聞く話ですが、実はこの松永久秀の信貴山城が初めて…――

               ではなく、
番目です。

 1520年(永正十七年)、久秀が十一歳の頃には既に摂津伊丹城にそういう高層建築があった、と記録に残っているからです。(細川両家記) 

 伊丹城(現大阪府伊丹市)は鎌倉時代の末期に地元豪族の伊丹家が築いたとされていますが、天守閣と思われるものがいつできたのかは、はっきりわかっていません。

          ( ・(,,ェ)・)。oO( 信長公、二番どころか三番煎じだったんですね。)



 1560年(永禄三年)、久秀は朝廷から官職叙任を受け、弾正少忠から弾正少(だんじょうしょうひつ)に昇進。朝廷内の不正を糺す弾正台の上級官吏から次官への出世です。


 室町幕府からも、(おともしゅう。将軍が御所から出向するとき、供奉(ぐぶ)… 一緒についていくことを許される名誉職)に任命されました。おそらくは主君・長慶の推認があったと思われますが…実はこの昇進と拝命、長慶の嫡男・三好義興(みよしよしおき)とほぼ同待遇なんですよね。


 ついに官職が上杉謙信とび、幕府職では(ばいしん、またもの。主君・将軍からから見ると家来の家来。)では異例である、将軍に拝謁できる地位への達です。

 おまけに主君長慶からの信頼も抜群、三好家中では嫡男と肩をならべる好待遇。

 ちょっと家中からは反感も出掛かってますが、んなこたぁ関係ありません。既に家臣としては三好家筆頭格の久秀に見えているのは、さらなる権力への欲と上昇志向だけです。




 官途も職務も、出世街道は前洋洋。

 …得意になった久秀はついに一大決起。己の栄華を象徴し、それを天下に誇示するための豪奢絢爛たるモニュメント・山城(たもんやまじょう)の築城に着手します。


 完成までに五年以上掛かるだろうという広大な縄張りである、久秀自慢の宮殿…その建築基盤は、山城-大和国境に近い眉間寺山(みけんじさん)

 城が完成した暁には、天守閣より西を眺めれば…かつて奈良の都・平城京をひらいた聖武天皇領をに見おろすことが出来るという、上昇志向の権化である久秀には堪らないロケーションです。

         

 そして…―――この多聞山城築城を皮切りに、松永弾正が『下剋上の梟雄』、あの織田信長に『こんな党見たことねぇ!!』と言わしめる由縁ともいうべき、悪逆非道の数々が展開されていくことになるのです…。



 さて、稀代の悪党にして我執深き戦国時代の寵児・松永久秀…前編では彼の出生やその性格分析、それにもとづく履歴の前半生をお届け致しましたが…世上の人々が顔を背け、人の所業ではないと批難を隠さなかった彼の生涯後半部と、数えた悪鬼のごとき所業の詳細については、編でお届けしたいと思います。

 次回更新に乞う御期待。
 ( ・(,,ェ)・)bそ   


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