2007年大河『風林山』   - 第十三回『招かれざる男』 - 


■先日、とある所用で高知県高知市の方へ小旅行に出かけてきたのですが…いやはや、あと一ヶ月弱で終わってしまうとは思えないような熱烈な坂本龍馬ブームを目の当たりにして来ました。いやぁ、長宗我部元親の居城・浦戸城跡はひっそりと木陰の暗闇にあるのに対し、そこから徒歩一分の場所にある坂本龍馬記念館は超満員、入り口玄関には絶えず人の波が押し寄せていました。


 来年の江姫ブームでは、おそらくは滋賀県や大阪府などでああいった光景が見られるのでしょうけど…観光ブームも大事ですが、私にとっては江姫が功名が辻や天地人、利家とまつみたいなおかしな戦国大河にならないかというほうが心配だったりします…。


 …――いや、まぁ、たぶんそうなるんでしょうけれどもね。本格派戦国歴史大河だった風林火山が下から数えた方が早かったほど視聴率がアレだったことを思えば、ねぇ…。( =(,,ェ)=)



■山本勘助(内野聖陽)
 いやはや。『兵者詭道也』とはよく大書したものです。




『味方の好む場所、好む時間に敵の一番弱い場所を突く』とは遊撃戦理論にある言葉ですが…戦場での槍働き、武勲こそ至上と信条にある『古い戦国武将』気質である原虎胤(宍戸開)を詭弁に接ぐ詭弁で剣撃を鈍らせ、うまうまと自分の好む場所に敵を誘い込んでみせました。


 まさに騙り者の面目躍如です。古の兵法家・孫?(そんぴん、孫氏と歌われた名軍師孫武の子孫で、その兵法もまた孫氏の兵法と言われていました)が宿敵の?涓(ほうけん)と雌雄を決した『馬陵の戦い』を思わせる、見事な引き込みでした。(苦笑 


ぁ、笑っちゃいけませんね。虎胤にとっては真剣勝負だったんでしょうし( ・(,,ェ)・)。

 虎胤はその気になれば勘助の詭弁に乗らず、問答無用で勘助を斬って捨てる事が出来たのです。最悪の場合勘助の手に乗らず、ただの斬り合いに徹すれば勘助に勝ち目はありませんでした…が、武勇と槍働き、剣の腕で勘助を凌駕していると強く自負していた虎胤にしてみれば『この口先だけの騙り者を完膚無きまでに叩きのめせるなら、何処でだって戦ってやる』と高をくくっていたでしょう。



 だからこそ、勘助の誘いに乗ったのですし、そう来ると勘助も踏んだのです。敵を知り、己を知らば百戦危うからず。



甘利虎泰も思わぬ展開に唖然とした後『ばかぁッ!?』と素っ頓狂な声を上げてしまいましたが、大笑する周囲の家臣団と、駄目押しをする飯富虎昌の前にはグゥの音も出ず、顰め面をするばかり。


 …これで家臣一堂、勘助の智謀を認めざるを得ないでしょう。



 で、場面が移って躑躅ヶ崎館。以前の海ノ口城攻めで勘助に手痛くあしらわれた教来石景政が勘助に兵法を学べ、と付けられたということになります。…教来石景政、後の武田四名臣筆頭格、『不死身の鬼美濃』と謳われる事になる名将、馬場信春です。





 信春は若い時に勘助に兵法と築城術を教わったと伝わっていますから、その複線では無いでしょうか。…『たまには笑みでも浮かべて貰えるとありがたい。』と言われて…無理矢理に顔をひん曲げる勘助はなんだか微笑ましいものがありました(苦笑



 三条殿の、勘助に感じた悪い予感は…恐らく後々への複線でしょう。…結果的にその悪い予感は…げふん。…女の感というのは、恐ろしいもので。


 新築の館に帰ったときに子供に囲まれた時の勘助の『(・(ェ,,)・ )?』な顔色も、鬼気迫る形相の目立つ勘助とはまた違った良さがありました(苦笑。…一瞬厭な予感が頭を過ぎらなかったといえば嘘になりますが、やはりライトな視聴者の方には戦場、兵法、戦国の気風といった堅苦しい場面ばかりを見続けるのは少々苦しいでしょうし、こういった息抜きもたまにならアリなんじゃないでしょうか…たまには。ですが。




■原虎胤(宍戸開)
槍働きにかけては家中屈指の武勲者・鬼美濃も、騙り者の兵法の前には煙に巻かれてその実力を十二分に発揮できなかったようです。


 …戦場で傷ついた敵方武将に肩を貸して敵陣まで送り届け、『元気になったらまた戦場で会おう!!』と高笑いして去っていったという話や、城攻めの際には落城後の修繕を考えて、最小限の被害で敵城を陥落させる事を得意としたいう話など、地味に浪花節で良い人な挿話を多く残す虎胤だけあって、大河『風林火山』でのキャラクター付けも単純明快、根は人が良いんだろうなというのがありありと推測出来ます。


 池の淵での一戦、最初の剣撃を振り抜いた際『お待ちくだされ。』に引っ掛かって剣を止めた処など、その最たるものでしょう。その直後も勘助の舌先三寸に上手く丸め込まれ、自身の腕を頼みにするばかりに勘助の思う壷に巻き込まれます。



 虎胤の人の良さも一因ですが、勘助も上手いんですよ。


 普通に掛け合っても、歴戦の猛将である虎胤がそう易々と不利な状況である、舟の上で戦うとは限りません。この事を現場で面と向かって申し出たのも勘助一流の策略でしょうね。…書面で、"合戦"の事前に言われたら、実は泳げないという弱みがある虎胤が承知するとは思えませんし(苦笑



 …晴信達の目の前であー言われれば、意地も外面もある手前断われないですからね…勘助、お見事でした。


 沈みゆく舟に一人取り残されて、命綱を勘助に握られた際に、思わず漏らしてしまった『…ぁ、ぁ。』という情けない声も、なんだか面白いやら物悲しいやら。(苦笑 





 …勘助の面目躍如の為とはいえ、同僚の家臣団には笑われるわ風邪はひくわで、さんざんな鬼っぷりでしたが…今後、汚名返上名誉挽回の時はあるのでしょうか。

(*,,・ω・)…くしゃみして、照れ臭そうに体を拭くための布切れを受け取る鬼はまぁいろんな意味でラヴィ!!でしたが(ん?




■三条夫人(池脇千鶴)
…いや、絶対由布姫よりこっちの方がかぁいいッてば!! (*,,・ω・)(しつこい)


 …失敬。ぃや、困った時の顔や勘助を忌まわしい者の様に怯えて睨む時の表情もさることながら、声が良い。



次男・龍芳が疱瘡の病で失明してしまった事を医師から告げられた時に想わず放った一声『…嘘じゃ。この母の顔が見えぬ筈が無い。』の一連の台詞の声色には、お腹を痛めて生んだ我が子と、その子を想う自分に唐突に不幸が舞い降りたのを信じきれない悲壮さと薄幸の姫君の雰囲気が良く伝わってきていました。


 井上靖原作『風林火山』のヒロイン?は飽くまで由布姫なのですが、今のところは晴信の寵愛を一身に集めている様です…。


彼女の経歴を思うと、今が至福の絶頂期なのではないのかなーとか赤髭的には思います…。( ´・ω・) 本格的に由布姫が登場したらどーなるんだろう…。(心配



 余談になりますが…戦国大名としては1582年に滅亡の憂き目を見る甲斐武田家ですが、武田家嫡流の血筋は現在まで連綿と受け継がれており、(一度は徳川"にわか源氏"家康の子・信吉が武田家嫡流を名乗りますが、彼は一代で夭折しています。)平成の今、甲斐武田家の総領である武田昌信氏は今回登場した盲目の赤ん坊・龍芳の直系の子孫にあたります。



■今週の風林火山
【註・あくまで歴史痛の観点から視聴した個人的感想です。】


■総合 ★★★☆☆ 勘助の智謀、いまだ本格的な合戦では活かされていない兵法の真価を猛者猛者揃いの武田家に見せ付ける展開。前回に無理難題を吹っかけてきた甘利虎泰の憤怒の吠え面は必見デス。


■戦闘 ★★★★☆ 原美濃守との息詰まる果し合い…もとい『いくさ』の描写あり。また太鼓の音だけで展開かと思いきや、勘助が策を発動した後のBGMがまた良かった。★五つにならなかったのは…一重に、勘助の仮面ライダー張りの跳躍力。その場飛びで鬼美濃飛び越えるとか、それは無しだと思う(苦笑。



■俳優 ★★★☆☆ 今回は宍戸開さんの硬軟交えた演技力がMVP。次点は三条夫人の悲しそうな声音と顔色か。


■恋愛模様 ★☆☆☆☆ 今回はそういった甘い雰囲気は無いっぽい。


■役立知識 ★★☆☆☆ 武田信玄の次男・龍芳が生来盲目なのは実話のこと。これを勘助の隻眼と結びつけて物語を展開したのは歴史考証に重きを置いた本格大河らしく。江姫も、これくらい気合の入った歴史考証を…無理だろうなぁ(溜息


■歴史痛的満足度 ★★★☆☆ 



 ■次回は第十四回『孫子の旗』。『東より災い来る。これぞ神のお告げです。』と意味深な台詞を紡ぐ由布姫(柴本幸)、『戦はこの世の定めじゃ』との晴信の台詞、それと対を成すような諏訪頼重の『武田に勝ったのじゃ。』という言葉、そして遂に満を持しての登場となった風林火山の旗と、次々に印象的なシーンが織り成される秀逸な予告。



 風林火山紀行は山梨県/甲府市。武田信玄が京都の五山に習い甲府五山に指定していた法泉寺・能成寺・東光寺、五山の筆頭で武田信玄が薙髪・大井夫人の菩提寺ともなった長禅寺、その長禅寺が所蔵する武田信虎夫人像、三条夫人の菩提寺である円光院・三条夫人の墓などが紹介されています。


 歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。


さあ、ここからは大河『風林火山』を見るにあたって至極どうでも良い重箱の隅、世間の一般常識から隔絶された戦国歴史痛がその無駄知識をフル回転させてお届けする、長すぎる付録こと『歴史痛の眼』コーナーです。
 …――えぇ、なんどでも僕はこの眼でぶっちゃけます。『こっから下は、別に読まなくっても良いです』と。


 それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間をさらに拝借。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!


 



■長野業正?業政? -良く見かける微妙な名前の間違い、その正体について。-






 …お気づきの方もいるかも知れませんが、以前から私は長野業政の名前を"長野業正"と紹介していましたが、大河『風林火山』では"長野業政"とクレジットされています。


また、春日源五郎(田中幸太朗)の"後の名前"も香坂弾正である、とされていますが…この名前は、いずれも正解でもありますし間違いでもあります。


 



 ぶっちゃけた話、長野業政の名前の正しくは『長野業正』であろうと考えられています。


…何を根拠に?と思うかもしれませんが、これは当時の武将の名前の名乗り方の風習が大きく関係しています。



…長野業正の主君は時の関東管領で、山内上杉家の総領である上杉憲政(市川左團次)ですが、主君の名前の一文字である"政"の字を、家臣である長野業正が"名前の下の文字"に使うことは当時の風習では大変な不敬とされており、特に山内上杉家に固い忠誠を誓った事で名を残す業正に限ってこんな名乗りをする事は考えられないからです。


例え自分が先にその字を使っていても、臣従すれば主君の名を慮って名を変えるのが礼儀とされていました。



 有名なところでは織田家・豊臣家に仕えた名将・蒲生氏郷(がもううじさと)で、彼は元々名前を賦秀(正式な読みが不正確。たけひで、やすひで、ますひで、等。)と名乗っていましたが、1585年(天正十三年)に豊臣秀吉に臣従した際『"秀"の字を名乗りの下の文字に使うのは失礼だ』として、『氏郷』の名に改名しています。


 また、秀吉は自分の"秀"という字を気前良く家臣達にばら撒いたので、豊臣政権期に元服を迎えた武将達はかなりの割合で名前に『秀』という字が入っていますが…伊達政宗の庶長男が秀宗、徳川家康の次男三男が秀康・秀忠、毛利輝元の嫡男が秀就、宇喜多秀家、蒲生氏郷の嫡男が秀行、小早川秀秋、織田信長の嫡孫が秀信…みーんな、名前の上の文字に"秀"という字が使われているのがわかります。

 


 こういった確かな慣習があるのに、どうして戦国武将の名前が間違って記録されちゃうんでしょう。


 これは当時のマスメディア・マスコミュニケーションの能力を考えてみるとわかる事ですが、大きく影響を与えているのはTV・新聞・インターネットが充実した現在の様な『視覚的』なモノではなく、『聴覚的』なもの・・・すなわち、『人々の口伝え、風聞、噂・・・などといったもの』が大きく影響していました。


 後世に歴史を伝える為に綴られた歴史書や、今の世に大きな歴史的価値を示している著名人の日記などは現在でも一級品の資料として戦国時代研究の対象にもなっていますが…彼らはそういった記録を書く場合、自分のもとへ伝わってきた風聞・世上の噂などを多くの場合『耳』で聞き取り、文に起こしていたと推測されます(知人からの手紙などを除けば、情報の大部分は口伝のはずですから)。


 


 『知ってるべか、上州箕輪の殿様のながのなりまさ様が、武田信玄の軍勢を破ったらしいべ。


 


 と噂に聞こえてくれば、甲信越や関東の関係者なら『ぁぁ、長野業正様か』とすぐにわかりますが、それ以外の地方の人が聞いたらどう思うでしょうか。



『…ふーん、あの有名な武田信玄を破ったなんて相当な名将だな。歴史書に名前を書き残そう。
 ぇーっと…なりまさ?…なんて書くんだろ。


 …へ、長野は『伊勢物語』で有名な在原業平(ありわらのなりひら)の子孫なのか。


 …じゃあ"なり"の字は業で合ってるだろう…"まさ"って言う字は…


    まぁ、たぶん"政"って字だろ。』


 



 …実に安易な予測かも知れませんが、こんな理由で名前を書き間違えられた戦国武将とは実に多いです。そうでなくても戦国時代は避諱(ひき)という、自分からみて目下の身分ではない人の名前を呼ぶ・書き残すことが憚られた時代でしたので、武将の名前…特に読み仮名に関しては間違ったまま後世に伝わったものは決して少なくなかったのです。、


春日源五郎こと高坂昌信も、ものの史料では"香坂"と書き間違えられた事が多かったですし、その上に江戸時代に戦国武将の錦絵が流行した時に、『武将の名前を一文字ないし二文字、意図的に間違える』という慣習が流行ったので、武田二十四将に数えられる名将である香坂虎綱は良く名前を書き間違えられた一人でした。


 …ちなみに、山本勘助も名前を"勘介"だとか"管助"だとか"管介"、あげくの果てには"甚介"などと書き間違えられています。





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