2007年大河『風林山』   - 第二十八回 両雄死す -




■甘利虎泰(竜雷太)&村上義清(永島敏行)

 さて、今回は第二十八回『両雄死す』後編と題して、武田の両職・甘利虎泰の最後をピックアップしていきます。

 これまでは小手先ばかりの策を弄して若い武田晴信(市川猿之助)に取り入る勘助に対し敵愾心をむき出しにしていた甘利虎泰ですが…前回は勘助も見落としていた戦国武将としての欠陥を見事に指摘、叱咤することでその存在感を大きくしました。

 今回はその虎泰が大井夫人に謁見、対座する場面から始まります。

 



「…甘利…何があっても、またこの甲斐へ…戻らねばなりませぬぞ。」


 



『…有り難きお言葉。この甘、何があっても…この甲斐の地と共におりまする。


 これまで通り、落ち着き払った甘利の態度と表情。
 物静かながらも、戦場に出れば『野に放たれた猛牛の如く』と賞賛された歴戦の武将に似合わない厳しい表情。勝利に向けての不惜身命…決死の覚悟を見出したのか…大井夫人が心配そうに声を掛けますが、甘利虎泰は感慨に浸ることもなく。


 大井夫人の心配する顔、何があっても甲斐に戻らねばならないという訴えにも『必ず甲斐に生きて戻る。』とは、とうとう言いませんでした。なにがあるか判らない乱世、心が守れぬ約束を交わすことなど…死の戦場を駆け抜けてきた老練な戦国武将である虎泰には、出来なかったのでしょう。


 板垣信方は既に腹をくくり、『守るべきものを守る為』に次の戦場を最後のご奉公と腹を括っていますが、虎泰は虎泰で勝ちに逸り冷静さを欠いている晴信に何としても勝ち鬨を上げさせるべく、乾坤一擲の策に出る覚悟をしています。


 その策略とは、俗に『死間』(しかん)と呼ばれるもの。謀略のため単身敵地に潜入し、目的を達するためにはその場で命を捨てる覚悟も厭わないという、不惜身命の覚悟。

これより…村上の本へ赴く。…敵の懐に飛び込み、村上のをとる所存じゃ。…陣中にて大将が討たれたとあらば、敵は所詮烏合の衆。 まとまりを欠いて引かざるを得まい。…その為の画策じゃ。』

 



《初鹿野伝右衛門》 「貴方様は、如何なりまする!!


『…恐らくはれまい。』 『…さすればこの戦は終わる。…勝ち戦じゃッ…多くの味方をわずに済む。…この儂が、何としてでも勝ち鬨を上げさせて見せる!! …儂にはこれしか、が思いつかなんだ。』


 あの誇り高い甘利虎泰が、小手先でのに走った瞬間でした。

 実はこの『死間』と呼ばれる決死の策、あれだけ虎泰が嫌悪していた勘助が二言目には口にする『孫子兵法十三篇』にも記載されている"用間の篇"、つまりは謀略のためのコーナー…そこで挙げられている五種類の策略のひとつでもあります。

 
甲斐国の民を救うため、守るべき者を守るため。

 かつて『荻原常陸介に並ぶ甲斐武田家の軍師』と先代・武田信虎(仲代達矢)にも賞賛された兵法者であった虎泰が、最後の御奉公に選んだのが槍働きではなく、『戦わずして勝つ為の策略』…孫子の兵法であったことは偶然でしょうか。


 …――いえ。これは長く勘助が解き続けてきた兵法の極意が、勘助にも周囲にも気づかれぬうちに『武田の猛牛』を感化させ、最後の最後で敬服させた証と見るべきでしょう。






 そして、その甘利虎泰が一命を賭して討ち取ろうとした剛勇の武将が、信濃上田原を挟んだ彼方に陣を敷いていました。故地信濃を、侵掠者から守る為に…甲斐武田家の馬蹄に、これ以上故郷を踏み躙らせぬ為に戦う者達を従えて。

 その鋭い眼光で武田菱の馬印を睨み続ける大剛の武将こそが、村上周防守義清(永島敏行)。

 上田原に展開する一万を越す武田軍を目の当たりにしても、その意気軒昂な様子はまったく翳りを見せません。

 

志賀城をよ!! …武田に負ければ、そなたらが首は悉く刎ねられ、野に屍を晒そうぞ!! 領地に残る女子供は、皆り飛ばされよう!

 
百姓といえども容赦は無い!! よいか、男どもは金山に送られ、女は遊女に落とされるのじゃ!!

  武田は、我らが、我らが里を侵そうと狙っておる!! 武田、断じて赦すまじ!

 …この戦、我らに正ありッ!!』



 真っ白な鉢巻を締め、黒い当世具足に陣羽織を羽織った威風堂々の演説に村上軍が歓呼します。
武田信玄より二十歳年長、円熟期にある壮年の戦国武将姿が格好よく映えます。


…まだ若輩の晴信には無い深みの有る説得力、肝の底から勇気を奮い起こすかの様な頼もしい親分肌の戦国武将の喝に、村上軍から大きな歓声が上がるシーンは見ごたえがあります。

…板垣信方をして百戦錬磨と言わしめた老練武将の見事な人心掌握術。…甘利虎泰が一命を掛けて討ちとろうと企んだだけの事はあります。


 そしてその頃、武田軍本陣には『甘利虎泰寝返り』の報が。2007年放映当時、本業の歌舞伎さながらの凄まじい顔力を発揮した猿之助晴信のシーンがどうしても目につきますが、顔芸云々という評価は兎も角…この表情ほど勝利に固執し、周囲が見えなくなっている『挫折を知らない青二才』を如実に物語るものもありません。今改めて見てみれば、その鬼気迫る顔には圧巻されます。

 



 そして、勘助は勘助で甘利の寝返りが過日の御説教とオーバーラップし、それが『死間』であると直ぐに看破します。…――ここにきてようやく、晴信の目が醒めるのですが…



 しかし、晴信の心を動かした虎泰捨身の策略は失敗に終わってしまいます。あとわずかで義清を切れる、その瞬間に暗闇から放たれた一本の強弓、文字通り"伏兵"であった平蔵(佐藤隆太)の射た鋭いによって撃ち砕かれ、膝から崩れ落ちた途端、一気に村上陣営の空気が張り詰める一瞬が視聴者へ堪らない圧迫感を伝えます。


…甘利虎泰の投降を本心と信じて疑わなかった義清の眼が見開かれる前、失敗に終わったとあっては『野に猛牛を放つが如し』と唄われた兵法者である虎泰も、虚しく村上方の武者に組み敷かれるばかりです。

 



《村上義清》 『…甘利殿、謀ったか。…捨て身でこの儂の首を取りに参ったか。 それほど武田は窮しておるか。その窮状を、 そなたが命を掛けて、おうとしたか!!

 




  『…窮してなどおらん…。
   おぬしの首など、一人で充分じゃ!!』

 

…篝火に煌々と照らされた中、古気質の戦国武将二人が睨み合いますが…流石は村上義清と言うべきか。

 

 決死の覚悟で突っ込んで来た虎泰の不惜身命かつ不退転の覚悟に、"漢"の魂を見出したようです。
 …言わせて下さい…これは最の村上義清です。


 …こんな侠気に溢れたカッコ良過ぎる義清はついぞ見た事がありません。

 上條恒彦さんの義清も良かったですが、やはり脚本というのはここまで見る者を感動させるものなのでしょうか…義清をここまで、信濃戦線における最大のライバルと位置づけて描き、ただ甲斐武田に一蹴されるだけの存在に置かなかった事は、長年の義清贔屓である赤髭としては感無量でした

…なにせこのくだり、井上靖原作『風林火山』では、義清には台詞一つすらかったのですから…それを踏まえると最強の脚本演出と言って良いでしょう。
 千葉真一さんがこのくだりを読んで脚本家の大森寿美男さんを飲みに誘ったというのも頷ける、良い意味での男臭さ全開です。



 しかし、虎泰は虎泰で彼の男気にあっさり惚れるわけにもいきません。勘助の真似事までして単身敵陣に潜り込んだは良かったですが、その策略があっさり失敗してはいけないのです。前回、叱咤される前の勘助なら余裕で捕虜のままいたことでしょうが、今の虎泰の両肩には、甲斐国の領民の命が掛かっているのですから。


 『自害などさせない』と義清が幽閉を命じますが、決死の覚悟で脱出して上田原を疾駆します。

 この逃亡が命取りになることは、長年の戦歴を考えても虎泰に読めないはずはありません。これから村上軍の総攻撃が始まる以上、何もさえぎるものが無い上田原を単騎駆けとあっては、後ろから矢の雨をその身に受けるのは必定です。

 命が惜しければ捕まったままで居ればいいのです。村上義清は、生きて家臣になって貰うとまでその如才を買っていたのですから、勝っても負けても命は助かるんです。


 …それでも。死ぬと判っていても、失うものが自分の命より重いとあれば、命を掛けて道を切り開く意固地こそが、古気質の戦国武将が最後に敢行した御奉公でした。

 

 板垣信方への陣に辿り着いた時には既に、その背中には肺腑を突き抜けているであろう致命傷の矢が数多突き刺さっていました。板垣の下に辿り着くやいなや豪快に落馬する虎泰、血泡を吐きながら掠れる声で撤退を促す虎泰の顔には、赤髭不覚にもが出ました。いや、何度見ても涙腺に来ます。

 『江』では何回お涙頂戴のシーンをみてもまったく心が揺れませんでしたが、この視聴者に訴える迫力はまさしく、鬼気迫るものがあります。


…かくして、先代信虎の代より甲斐武田家に忠勲を尽くした兵法者・甘利虎泰は戦場にて名誉の討死、この世を去りました。享年不詳。

 



…板垣殿…退け、退けェェェぃ…。
      …謀り事は、やはり不得手であ…済まぬ…。

 その青褪めた顔に見た武田の古兵(ふるつわもの)の魂は、その後に甘利家の家督を継承した子供達…あの武田二十四将に劣らぬ奮戦振りで信玄からも信用された嫡男の甘利昌忠、そして長篠の合戦で戦国最強の鉄炮隊に命を賭けて激闘した次男・甘利信康らに受け継がれていくこととなるのです。



戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


 さて、『挫折を知らぬ青二才』だった武田晴信(市川猿之助)を巧みな武略と采配で迎撃、初めて挫折と敗北感を味あわせた村上義清(永島敏行)でしたが…まさか、あんなにバッサリと義清本人の大躍をカットしてるとは想いませんでした。(泣


 第28話『両雄の死』の終わり頃のシーンで、敵軍の目を惹きつけるべく晴信の影武者になった河原村伝兵衛(有薗芳記)が、窮地に陥った板垣信方(サニー千葉)を見て想わず様ーッ!! ( ;・`ω・´)と叫んでしまう場面。

 その声を聞いた義清が『何、武者…ッ!?』と板垣の替え玉策戦に気づき、視線をめぐらせ…遠い岡の上に居た本物の晴信と山本勘助を見つけ、それ討ち取れと言わんばかりに疾駆するシーンがありましたが…。


 井上靖原作『風林火山』では、このシーンで、義清は単騎晴信に突撃、後の川中島さながらに一騎ちを演じてたりするのです。


 一騎討ちは引き分けに終り、さらに義清が上田原合戦で致命的大敗を喫した…――という、歴史考証的におかしいくだりになっていたため、脚本化が端折ったのでしょうが…まさに村上義清一世一代の見せ場だったってのに、てことをッ!!
( ・(,,ェ)・) 五年前当時の赤髭の率直な感想。まぁ、そういう荒唐無稽な一騎討ちをしてしまうと、本家の川中島での一騎討ちが二番煎じになってしまうため割愛したんでしょうけどもね…でも、勿体無いなぁ…。


  …まぁ、ひょっとしたら別の場所で再現してくれるのかも、という期待も残っていない訳では無いですが…今まで見事な神脚本で我々を魅了し、サニー千葉をも唸らせた辣腕脚本家・大森寿美男氏に期待したい処です。(村上義清ラヴィ!!(゚∀゚)委員会より願(コラ
( ・(,,ェ)・) 大河『風林火山』には、私も確証があるわけではありませんが、どうやら『撮影したのに使わなかったシーン』が結構あるようなのです。完全版とうたったDVDにはそういう映像があったわけではないのですが…ひょっとしたら撮ってたのかも。


 そして、名前が出たのにあまり目立たなかった武田家武将。



 単騎村上義清の本陣に赴き其の首を狙う、と捨て身の奇策に討って出る決意を零した甘利虎泰(竜雷太)を涙ながらに諌めていた与力の初鹿野伝右衛門(宮坂ひろし)は、この上田原合戦で壮絶な討を遂げています。(妙法寺記)


 伝右衛門は既に60歳に手が届く老武者であったらしく、この合戦が最後の御奉公だと決めていたそうで…甘利虎泰の陣営が輩出した不惜身命の武将は二人目。

 村上・武田軍お互いの旗本衆が入り混じっての大乱戦の中、敵の総大将・村上義清の姿を見つけた伝右衛門は捨て身の突撃を敢行しますが、敢え無く組み伏せられ…――村上義清本人に首級を挙げられたと伝えられています。
( ・(,,ェ)・) (余談ですが、義清はいっぱしの戦国武将でありながら『自ら討ち取った』という武将がわりと多かったりします。けっこうな大物も含まれており、当時の常識から考えても…武田信玄に土をつけた好敵手・義清を後世に伝える為、多少の誇張が含まれていると考えたほうが良いでしょう。



 ですが、伝右衛門の不屈不撓の魂は板垣・甘利と同様にその子孫へと受け継がれます。

 伝右衛門の子初鹿野(はじかのまさつぐ 1545〜1624 弥五郎、伝右衛門尉)は、大河『風林火山』でも御馴染みの伝令将校である『蜈蚣衆』(むかでしゅう)に抜擢されたとき、蜈蚣衆が必ず旗印とした『白四半に黒の大蜈蚣』の旗を用いず『無地の白旗』を勝手に使用するという豪胆振りを発揮。


 信玄より『勝手に変な旗使うな!!ヽ(`Д´)ノ』と咎められると、黙って旗の隅の方を指差し旗の隅に小さく描いてあった黒蜈蚣を見せた、なんていう逸話に名を残しているあたり、古武士然とした気質のある甲斐武田家ではなかなかの伊達男です。



 また後年、信玄が北条氏康と争った関東遠征に従軍したおりには

表地は香車、裏地は

というド派手な陣羽織を着込み『香車の馬印』を掲げた為、武将達の間でとても評判となります。
( ・(,,ェ)・) 傾くねェ。

 将棋の駒である『香車』は、真っ直ぐ前にしか進めない上に後戻りが出来ません。

 しかし、真っ直ぐに敵陣まで切り込めば『金将』に成ることが出来ます。

 …つまり、昌次は『今度の合戦は、不惜身命の覚悟で敵陣に突っ込んで、金に成り上がってやる!!』と喧伝していたわけです。 そしてその言葉どおりに手柄を挙げて、信玄の賞賛を受ける栄誉を得ました。

 この"成金の陣羽織"を着た、信玄の薫陶を知る荒武者はその後、長篠の合戦や武田家滅亡という危機を生き抜いて徳川家康の家臣となり、大坂夏の陣にも出陣。

 1624年(寛永元年)、80歳という異例の長寿で大往生を迎えることになりました。板垣・甘利の死後から実に七十六年目のこと…――上田原に散った男達の魂は無事、彼の背に乗り江戸時代の天下泰平まで辿り着いたのです…。
( ・(,,ェ)・) ここまでキメておいて言うのも蛇足ですが、初鹿野昌次は老伝右衛門の実子ではなく養子、または息子の養子です。




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