これを読めばあなたも『豊臣吉』がよくわかる?


■この読物が執筆されたのは平成二十三年、去年のことです。文面では大河『江』を今年の大河としていますが、本年平成二十四年の大河は『平清盛』ですので、読者の皆様方にはお間違いの無いようにお願い致します。


■先日放映された大河『江』第六回では、びっくりするほど貧相な山崎合戦(暴言)により明智光秀(市村正親)の三日天下がさくっと終了。

徳川家康(北大路欣也)の神君伊賀越えに同道した江(上野樹里)も無事に生還。いよいよ戦国時代は羽柴秀吉の掌中に傾きつつありますが…今回はそんな話の流れを受けてとっぱちからの『歴史痛の眼』コーナー。

歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。


 戦国歴史を楽しむにあたって、知ってるとちょっとした自己満足になる、だけど日常生活を普通に送る分にはあんまり重要じゃない誰得的トリビアを真贋関係なく御紹介していきます。

 最近は、『もう江姫のゆるゆる浪漫ちっく路線は追わずにこれ一本で行ったほうが良いんじゃないか』とか思ったりしてましたが、たぶんそれは何かの幻想でしょう。諦めたらそこで試合終了って安西先生も言ってましたし。

 ( ・(,,ェ)・)こっちメインのが良いと仰る視聴者の皆様、励まし&苦情のお便りをコメント欄にどうぞ(弱ッ。


■平成二十四年十月加筆
…赤髭好みの本格歴史路線を鉄板で通した大河『平清盛』は、視聴率で江に敗れるどころか最低視聴率記録を大幅更新しました。時代はやっぱり、堅苦しい本格よりも江みたいなロマンチックを欲していたのかもしれません…( ・(,,ェ)・)




 今夜のお題は『戦国武将の人柄シリーズ』第二回。
今回は後の天下人・『羽柴』について採り上げたいと思います。


 本年大河『江』では岸谷吾郎さんがねっとりとした癖のある、ユーモアとコミカル、そして黒さが同居した不思議な猿面冠者。
いやらしい性格であまり好感が持てないというわりと珍しい秀吉像を好演していますが…岸谷さんの好演もあいまって、視聴者の皆様も印象深く見られているのではないでしょうか。



 登場当初は信長に殴る蹴るの暴行を受け『お許し下され!!』と徹底服従の姿勢で喚いていた彼も、前回第五話『光秀の天下』では野心家としての横顔を見せ、中国大返しを敢行。



 山崎の合戦で謀反人・明智光秀(市村正親)を討ち果たし、織田信長(豊川悦司)の後継者として一躍歴史の表舞台に踊り出ました。今後は主人公・江(上野樹里)の人生を大きく動かしていく超重要なキーパーソンとなっていきます。

 『歴史上の人物で、仕事場の上司になって欲しい人は誰?』というアンケートを取ると必ず上位にランクインする天下人、難波の太閤様として今も高い人気を誇る豊臣秀吉。




 一見すると、『江』での彼は何か違和感を匂わせているようにも感じますが…

彼の性格や人柄を示す資料・逸話を読み解いていくと、大河『江』での『ダーティで野望にギラついてる、黒い秀吉像』というのは、割かし納得できる描写だったりするんです。庶民肌の英雄、人殺しを嫌い愛嬌と智略で戦国時代に終焉をもたらした稀代の出世人・羽柴秀吉の詳細について、今回も歴史痛の偏見たっぷりに御紹介いたします。




■関白太政大臣、難波の太閤、戦国時代を終らせた猿面の天下人。果たして、その実は?

 さて、今宵もさっそく歴史痛の偏った観点から、武将薀蓄を徒然と与太話していくわけですが…最初にお断りしておきたいのは

豊臣秀吉という人物の生涯は、
  実のところ前半生に関しては良くっていない


ということです。




 歴史を研究する上で重要な事は、吟味する資料に嘘偽や誇張、虚飾が無いかという点が重要になってきます。

 戦国時代は平成の今を遡ること五百年も前のお話。当然ながら当時の、または当時に近い時代の史料は見つかっただけでも大発見ですが…某『なんでも鑑定団』を御覧の皆様ならお判りかとは思いますが、価値のある史料というものは必ずその真贋が問われます。


 そして、たとえ本物だとしても書いた人に偏見や事情があれば当然、その記述内容には嘘・おおげさ・紛らわしいものが入り込むことになります。これは大名家の公式文書などでも散見されることで、歴史研究家は常にこの『歴史的資料の真贋』について論議し続けてきました。

 そんな数多くの資料のなかでも、一番正確で信憑性が高いであろうという史料の事が『史料』です。



 一次史料とは『あえて嘘や偽りを書く必要性が無いもの』、戦国武将の手紙や公家の日記などが多いのですが、秀吉の名前がその「一次史料」に初めて登場するのは1565年(永禄八年)8月23日、彼が三十歳になってからの話。


 
逆に言えば、秀吉という人は三十歳より前は何をやっていたかよくらない武将なのです。秀吉は六十三歳でこの世を去っていますから、実にその生涯の半分以上が未だ厚い謎のベールに包まれたまま、ということになりますね。



 『あれ?豊臣秀吉って織田家の足軽の子に生まれて、義父と大喧嘩してお寺に預けられて、そこも飛び出て日本の各地を放浪、故郷に帰って織田信長の草履取りになった…って良く聞くけど?』


 はい、ごもっとも。( ・(,,ェ)・)



 しかし、

『豊臣秀吉は1536年1月1日生まれ、尾張中村の鉄炮足軽・木下弥右衛門の長男で、母親は なか。

 姉がとも、妹が旭姫、腹違いの弟が秀長。


 実父の死後、母親の再婚相手である筑阿弥と折り合いが悪く家を飛び出し東海道各地を放浪、今川家家臣・松下加兵衛の家来を経て織田信長の草履取りになった…』



 という、偉人伝でも良く知られた秀吉の幼少時代というのは、かなり信憑性の怪しい話…――というか、

 あるラノベ作家が手にでっち上げた可能性の高い経歴なのです。




 一般に知られる豊臣秀吉の生涯、その幼少期から織田信長に仕えるまでの話は、『太閤記(ほあんたいこうき)という江戸時代に成立した書籍に詳しいのですが…

 実はこの甫庵太閤記の著者・小瀬(おぜほあん 1564〜1640)という人は、本業が儒学者兼医者。別に、正確な歴史を責任もって編纂する仕事というわけでもありません。
 甫庵太閤記はそんな甫庵がたまたま同じ時代を生きた豊臣秀吉の一代記を、真実ではなくライトノベル
として書き記したものに過ぎないのです。



 確かに、太閤記で記された秀吉一代記の大筋は歴史上の事実に沿ったものですが、細かいところやよく判らないところは全部彼の創作。

 秀吉が一晩で墨俣城を築いたという『一城伝説』も、実のところ90%くらいが彼の想像、フィクションだったりします。


 この時代の織田家に関して、信憑性の高い史料として知られる『信長公記』や秀吉の生涯を書き記した『太かうさまぐんきのうち』の筆者である太田牛一のことを

『アイツの書いてることは堅真面目過ぎてユーモアがなく、ちっとも面白くない』

 
と評価するなど、甫庵はあくまで『物語の楽しさ』を重視した小説作家であって、ことの真贋はさっぱり気にしない人だったのです。

 面白さを一番に追求した内容、それが一般大衆の好む娯楽ですよね?




 ですので、読み手の事を考え、楽しくて荒唐無稽な通俗小説として著述された『甫太閤記』は歴史に残る大ベストセラーを記録。


 
い時代にわたって日本人に読み継がれ…いつの間にかその内容が歴史上の真実として一般知識に刷り込まれてしまった、というのが事の真相だったりします。

 まぁ、第一回で御紹介した武田信玄も、真偽が妖しいとされる甲陽軍鑑』や江戸時代の挿話で随分歪んだ史実を参考にしてましたが、取りあえずということで…。



■自己顕示欲が旺盛で女好き、だけど洞察力に優れた自信家

 大河『江』では『ある意味コミカルな、けれど好印象を持てないイヤな奴』という変わった人物像を名優・岸谷吾朗さんが好演している羽柴秀吉ですが…


 この羽柴秀吉という人の器量性格を一言で表すなら、それは

自己顕示欲旺盛で好色、人間観察に長けた器量人の自信家

 ということです。

 この後も例によって、いくつかの項目に分けて長々しい歴史痛的与太話をしていきますし、それが『歴史痛の眼』の本質なわけですが(むしろこっちが本番(真顔)、彼の人となりだけを知りたいのならば…この言葉でだいたい説明がついてしまいます。



自己顕示欲がびっくりするほど旺盛
 さて、まず豊臣秀吉の性格を語るにあたって外せないのが『己顕示欲が驚くほど旺盛』、まぁ早い話が極度の立ちたがり屋だということです。この頃の秀吉に関するエピソードは幾つもの軍記物語や逸話集に残されていますが、それらを紐解いていくと…先述した秀吉の性格、その片鱗を幾つもみつけることが出来ます。


織田家に仕官がかなった秀吉、当然最初は身分も卑賤で大きな仕事も回って来ません。

 このままではいつまでたっても名前が売れないと判断した秀吉が最初に買って出た仕事は『トイレ掃除』でした。しかも、皆が小用を足す糞尿桶のちょうど真下の掃除です。

 そんなところを掃除していれば、当然何も知らない織田家家臣が小便をすれば頭や体に掛かるのは当たり前なのですが…――そういう時には

『何をされるのですか、人が掃除をしているのに!!』と大声で怒鳴ったそうです。


 いかん、幾ら小者とはいえ失礼な事をした…――相手がそう感じれば、当然ながら謝罪と同時に彼の名前を聞こうとするはずです。そこで秀吉は胸を張って、こういうわけです。

『先ほど織田家に足軽として仕官致しました、木下藤吉郎です。』



 と。幾ら名前を売るためとはいえ、人間なかなか糞尿が落ちるトイレの底の掃除なんか出来ませんよね。



□ほかにも、織田信長の居城・清洲城の城壁が十間(約182m)に渡って壊れ、改修普請が二十日掛かっても終らなかったという事件があったときのお話。

 秀吉はこの仕事を信長から買って出るや、普請作業に当たる人足を十のチームに分けて現場を分担制度に改革。いち早く仕上げた者には報奨金を出すと喧伝し、夜毎に酒宴を開いて現場の士気向上を図り、見事二日で終らせました。

 これが、『清洲城の三日普請』…秀吉の合理性や洞察力を示すエピソードなのですが…秀吉はこの仕事を請け負うために、わざわざ信長に聞こえるような場所でこう言っています。


『まだこの城壁、修理終らないの?油断も隙もない戦国乱世に悠長なことだ、俺がやったら三日で終るのに。』


□柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ岳の合戦では、戦場のあちこちで傷を負い憔悴した兵士達が太陽に照らされているのを見て

近隣の農家から笠を買い集めて来い。そして敵味方の区別無く、傷ついた兵達にかぶせてやれ

 と命令したことも
、秀吉の優しさというより第三者の視点を意識した自己顕示欲がさせたものでしょうし…

 明智光秀を討ったあとに自分の実績を『惟任退治記』(これとうたいじき)という書籍にして公家や諸大名にばらまいたり、
 『明智討(あけちうち)という能の脚本を著作して自ら主演したことも、自らの実績を誇示したいという顕示欲から来る行動です。




□天下人になってからも自己顕示欲の旺盛さは続きます。
 秀吉の成金趣味の集大成である『黄金の』です。

 …茶道具から座敷、調度品の総てにいたるまで黄金で出来た有名な茶室ですが、実はこの黄金の茶室、分解して持ち運びすることが可能でした。


 なぜ茶室が持ち運び出来なければいけなかったか。

 そう、あちこちに移動させてせびらかすためです。
 これが自己顕示欲じゃなくて何なのでしょう。


 また、己の権威と財力を誇示すべく豪華絢爛に建築された大坂城。
 誰かが訪問したときには秀吉本人が案内役になり、来客に大坂城の素晴らしさを逐一説いて聞かせたと言います。

 有頂天になった秀吉がいかに自分の偉大さと器量を誇示したかったか、その欲望が歳を重ねても衰えなかったことがよく判ります。


■かなり重症な女好き
 大河『江』でも描写されていたことですが、この秀吉という人は日本史上にも稀有なほど性欲が強かったようで…要するに極度の女きだったということです。


 秀吉の正室といえば おね(1548〜1624 高台院)が有名ですが、十歳以上歳の離れた彼女を娶っていながら、その女盛りを過ぎるや、浮気性と女漁りが過熱。
 近江長浜城の城主時代にはとうとう妾との間に男児(石松丸秀勝、夭折。)をもうけています。


 秀吉が好んだ女性は『高貴な出身の若くて容貌の綺麗な娘』で、特に織田長の血を引き継いだ家系の女性に執着する向きがありました。

 これは秀吉が卑賤の家系だったこともありますが、かつて主君と仰いで敬服していた信長の血族を腕に抱きたいという欲望があってのことかと思われます。


 秀吉が我執に任せて集めた女の数は優に三百人を越し、その面子には信長の娘・三の丸殿や織田信包の娘・姫路殿、…――そして、信長の『三人の姪』のうちの一人も側室に娶り、深い寵愛を注ぎました。あまりにも有名な話ですが、いちおう『江』のネタバレになるのでここでは伏せておきます。


 さらに、秀吉の女好きは困ったことに『相手の女性が未婚か既婚か』という事を配慮していなかったため、浮気も寝取りもどんと来い。

 晩年には既婚の娘であっても無理矢理側室に迎えることも少なくなかったようです。

 ですから、戦国武将達は美貌の娘や妻がある場合は大坂城に出仕させず、どうしても避けられない場合は顔を隠させたり秀吉との拝謁を避けるなどして対応していました。


 なかには、わざと秀吉の前で短刀を落とし『お前の妾になるくらいなら、死んでやる!!』という無言の意思表示をした細川ガラシャ(大河『江』ではたま、ミムラさんが好演中)や、

 わざと顔を白粉で真四角に化粧して秀吉を閉口させた彦鶴(ひこつる。佐賀の戦国大名・鍋島直茂の正室)、

 夫の死後は秀吉の誘いを蹴り続け、出家した冬姫(ふゆひめ。織田信長長女・蒲生氏郷の正室)など、健気に夫への貞操を守りぬいた女性も居たようです。


 秀吉本人も自分の異様なほどの女好き・性欲の強さは自覚していた様で、後に後継者に指名した甥の豊臣秀次に対し、こんな言葉を残しています。






 なお、秀吉は1598年(慶長三年)、六十二歳で世を去るのですが…彼を見舞ったキリスト教宣教師ロドリゲスは

秀吉は干乾びたかのように衰弱し、ぼろぼろになっている。まるで悪霊で、もはや人間とは思えない…。

 という記述を書き残しています。



 人間五十年の時代、確かに命を落としてもおかしくはない年齢ですが、それにしたって異様に書かれ過ぎです。

 まるで生命を使い果たしたかの様な醜悪な最後だったようですが、そんな秀吉の死因、諸説ある幾つかに『腎虚』と『脳梅毒』という病名があります。

 どっちも、『りすぎる』と罹患する病気です…。( =(,,ェ)=)



■人間観察、心の機微を洞察する力に優れている

 これがある意味、秀吉が立身出世するに至った最大の要因にして最高の武でしょう。

 秀吉という人は、戦国武将の心意気・敵や味方の心理、そして一般大衆の心模様を読み取る確かな観察眼を持ち、どういう挙動言動をとれば相手の心を揺らがせたり操ったり、そして意のままに出来るかというノウハウの奥義を心得えていました。


 たとえば、敵の調略。

 秀吉は槍一本、合戦で武勲を立てて出世する武人タイプの戦国武将ではなく、戦わずして勝つ…敵対陣営から敵武将を寝返らせたり反乱を起こさせることで勢力を弱め、後の軍事作戦に繋げるという策略家タイプの武将でした。

 秀吉が最初の出世場としたのが美濃国(現岐阜県南部)なのですが、秀吉はこの美濃で顔が利く蜂須賀(はちすかまさかつ)を軸にして、尾張国との国境沿いに勢力を張る豪族達を織田家へ寝返らせる策略に従事していました。


 坪内利定・大沢正秀などの小豪族から稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就ら美濃三人衆と呼ばれる重鎮まで、次々と敵方武将織田方に寝返らせ、後に織田家が稲葉山城を攻略する基盤を築きます。


 次に織田家が戦った浅井・朝倉家攻めでは浅井長政に属する豪族・武将達の切り崩しを担当。

 このときは近江に顔見知りの豪族が多かった竹中半(たけなかはんべえ)を軸にして調略にあたり、もともと勢力地盤の繋がりが弱かった浅井家の勢力から多数の武将寝返りを成功させています。


 そして、大河『江』第五回の頃には織田軍団中国地方司令官に就任、播磨国(現兵庫県南部)攻略を担当し、やはり敵方からの寝返り工作を播磨姫路出身の黒田兵衛に指示しています。

 秀吉のブレーンと呼ばれた蜂須賀正勝や竹中半兵衛、黒田官兵衛といった者達はすべて、秀吉の寝返り工作で重要な役割を果たしていました。


 先週放送された第六回『光秀の天下』でも、秀吉の寝返り工作は炸裂。


 
光秀が頼みにしていた池田恒興・中川清秀・高山右近といった寄騎武将達や、姻族である細川忠興・細川幽斎までをも味方に引き込み、山崎合戦の頃までには兵力差が四万対一万五千という圧倒的なものにしていました。



 この際、秀吉が『信長公と御嫡子・信忠様はまだ生きている!!』と嘘の手紙をばらまいた、と描写されていましたが、これは史実の策略。

 そしていざ皆と合流したら、今度は出家剃髪して僧体の身で武将達の前に現れ、信長公への追悼と弔い合戦を宣言し、信長から養嗣子として貰っていた秀勝、信長三男の信孝らを形式上の総大将に推戴。

 
ここに総勢四万からなる明智光秀討伐軍を編成するに至りました。



 武力で脅し、利権で釣り、外交で説き伏させ、理想を語り、時には義侠心を見せて相手を感嘆させる。


 秀吉の数多い綽名のひとつに『人誑し(ひとたらし)というものがありますが、これはいかに秀吉の人間観察力や洞察力が特に優れていて、敵対する武将を説得し、たらし込む技術に長けていたかを示すものでした。

 実際、秀吉が手はずを整えて寝返らせた武将の数というのは戦国史上でもトップクラスの多さ。

 鉄の団結力と忠誠心を誇った徳川家康の家臣団から武将を寝返らせることが出来たのは、武田信玄と豊臣秀吉だけです。



■自分の才覚や器量を信じて疑わない、鉄板の自信家

『いくら適正や素質があっても、度胸と自信がない奴は何をやってもだ。』

 とはよく聞く言葉ですが、豊臣秀吉の場合は格別です。


 秀吉語録を紐解いていくと、いかに彼が自分の器量にとびっきりの期待と自信を持っていたかが伺えます。





◆織田信長に仕える前、世話になっていた今川家家臣・松下加兵衛の元を辞した時の言葉。






◆川中島合戦で十年に渡って戦った武田信玄・上杉謙信を評して。




◆奥羽征伐の前、かつて武田信玄・上杉謙信らと時代を共にした佐野房綱から信玄・謙信の人となりや偉大さを説明された後の言葉。






◆小田原合戦の時、鎌倉にあった源頼朝の木像前で語りかけた言葉。






◆飼っていた鶴を逃がしてしまった下僕にかけた言葉。ただし、飼っていた猫が逃げたときには京都から大坂まで猫の総狩りだしを命じていますが。





◆新しく雇った家臣に向けての訓示。俺くらい勤め甲斐のある君主は居ないという意思表示。



◆和歌の会で『奥山の紅葉踏みわけ鳴く蛍』と詠み、「蛍は鳴きません。」と突っ込まれた際に切り替えした言葉。"鳴かせてみよう不如帰"の面目躍如。




◆天下人になった後年、亡き主君・織田信長を評価した言葉。




 赤髭はどっちかというと、自分に自信が全然持てないタイプですので…──この駄々漏れなほどにあふれ出る秀吉の自信、ちょっと分けてもらいたい気分です…。( =(,,ェ)=)



■けど、日本を総べた独裁者とは思えないその愛嬌

 こうして挙動や言動を追っていくと、鋭い洞察力と観察眼で計算づくに行動し、冷徹理知に天下を取っただけの様に見える秀吉ですが…――ただそれだけでは当然、今日に至るような人気を得ることは出来ません。

 
 江戸幕府が組織ぐるみで豊臣秀吉のネガティブ・キャンペーンを展開したにも関わらず、秀吉の人気は時代を超えて続き、世代を継いで語り継がれてきました。



 …それがなぜなのかと言えば、それだけ秀吉という人間の個性や愛嬌が一般庶民にも分かりやすく、その活躍や出世物語が日本人の夢、憧れの的になったからです。


 
 実際、織田信長の天下布武は徹底された現実主義、敵対する者は一族郎党を滅ぼされ、法制を守れないものは容赦なく処断される政治


 
 …徳川家康の江戸幕府は日本に二百五十年の天下泰平をもたらす替わりに士農工商の身分制度が確立、自由に居場所を替えることも出来なくなるような社会


 
 ですが…豊臣秀吉の統治下はそのいずれでもない、自由な気風と平和で豪奢な暮らしが実現した時代でした。

 これは制度に厳格で酷薄非道な織田信長、物事に律義で用意周到・完璧主義だった家康とは違い、それだけ秀吉の性格が明るくひょうきんで、物事に余裕を持って当たるお気楽主義だったことが大きく関係しています。

 

 平清盛、源頼朝、執権北条家、足利尊氏…日本の歴史上、武家政権の指導者は数え切れないほどその地位にありましたが…


 その誰もが権力へ一直線に走って、登った後は地固めばかりしていたのに対し、秀吉のやったことは権力者らしからぬ…一般庶民に余裕と楽しさが理解できることばかりです。



 
 茶器があれば身分の高貴卑賤にかかわらず参加を許した『北野の大茶会』。

 日本中の大名に莫大な”お小遣い”をばらまいた『大坂城の金賦り』(かねくばり)。



 そうそう、ある日など『…みんなとワイワイガヤガヤきのこ狩りをして、松茸が食べたい!!』と言いだし、女房衆を連れて京都の山で松茸狩りを開催したこともあります。

 この時、京都の山は既に松茸狩りのシーズンが終わっていたため、気を利かせた家臣達が松茸を事前に山へ植えておいたという逸話が残っています。

 秀吉はそれを一発で看破していますが、『家臣達がわしを喜ばせようと頑張ったのだろう。気づかぬ振りをしてやるのが粋というものだ』と言ったそうです。さすがは理想の上司No1。




 朝鮮出兵が始まり諸国大名が北九州の名護屋城に終結した際には、何と『仮装大会』を開催。
 
 自身も瓜商人に変装して『瓜はいらんかねー!!』と仮装会場を歩きまわり、居並ぶ諸大名を唖然とさせたと云います。

 そりゃあそうでしょう、今風に言えば『菅直人前首相がSPも付けずに仮装パーティに参加、野菜売りの扮装してはしゃいでる』ようなもんなんですから。


 あの堅物で有名な徳川家康が『鯵売り』に扮し、

    『鯵はいらんかねーーー!!!(゚∀゚)』

 と大声を張り上げ、観客達から『本職そっくり!!』などと物笑いの種になったなど、たぶんこの仮装大会が最初で最後でしょう。






 この、時代の覇者らしからぬ明るさと庶民感覚、常人でも分かりやすい時代の寵児ぶり。


 赤髭は、この秀吉の英雄らしからぬ子供っぽさ…───良くも悪くも『政治家臭くない』感覚、人情の匂いを感じる素朴な人柄が、豊臣家滅亡後四百年近くたった現在にも彼の魅力を伝えている要因な気がします。





 ■通算すると七百年、気が遠くなるほど続いた武家政権の中でも特に人気が高く、そして盛衰の陰陽が濃い一代の天下人・豊臣秀吉。

 計算高くはあるけれど、庶民肌で英雄らしからぬ人間臭さを併せ持った彼の統治時代は織田信長のそれと合わせて『安土桃山時代』と呼ばれます。


 平安楽土を目指し、仏敵だの魔王だのと罵られながらも天下の静謐を願った信長と、その意思を受け継いで天下統一を達成、百年以上続いた戦国時代にやっと終焉の幕を引いた秀吉。


 
 二人が目指した『天下』を少し離れた場所で目の当たりにし、多感な少女時代を過ごした江。


 羽柴秀吉という、織田信長に勝るとも劣らない影響力を持つ新たな時代のヒーロー出現に、彼女はどんな生き様を見せてくれるのでしょうか。

 




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