河越夜戦前夜までの関東の状況【前編】


■さて、歴史好きには緩くって仕方が無い展開が続いている本年大河『江』ですが、平行連載している07年大河『風林火山』ではひとつの山場、北条氏康(松井誠)率いる北条家と上杉憲政(市川團十郎)率いる関東管領家との激戦、日本三大夜戦のひとつである『河越夜戦』に差し掛かります。
 歴史に忠実、本格大河だった風林火山でも指折りの見所です。( ;・`ω・´)っ

 しかし、これは五年前の連載当事ですが…

今週の大河(第二十三回『河越夜戦』)、面白かったけど…北条家が何であんな8万からの軍勢に四方八方から攻められなきゃならなかったのか、周囲の状況がどうなっているのかが、あまり説明されていなかったので少しりにくかった。

 という意見が当ブログに書き込まれたことがありました。



 確かに大河『風林火山』は歴史痛すら唸らせる深い歴史考証ゆえ敷居が高く、ある程度の知識を踏まえていなければ状況や台詞の意味がわからないだろう、という箇所が幾つかありました。

 歴史痛的には百点満点だった大河『風林火山』の、数少ない欠点とも言うべきでしょうか、あの難解さは。


 そこで、今回はおいおい感想として掲載するであろう第二十三回『河越夜戦』を前に、複雑な利権が絡み合った当時の関東諸勢力の状況・歴史的事情の背景などを歴史痛的視点から与太話で解説していきたいと思います。

 それでは、皆様のお時間を少々拝借仕るッ。 m9っ ;・`ω・´)いざッ。

戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■そもそも室町幕府が京都にある理由って?

 戦国時代の日本を名目上統治していた政権は、皆様もご存知の通り幕府(むろまちばくふ 1338年(暦応元年)開幕 〜 1573年(元亀4年)事実上の滅亡)です。


 この室町幕府は日本の歴史上三つ存在した幕府のうちで唯一、関東ではなく関西…京都を政治的中心に据えて開幕されました。(鎌倉幕府は鎌倉、江戸幕府は江戸。)

 室町幕府が、関東…鎌倉幕府の統治機構が整い、武家政治の基礎や実績のある東国を遠く離れ、天皇と公家達の都であった近畿・京都にわざわざ武家政治の都を置いたのはなぜなのでしょう。


 …――当然、そこにはある『理由』があったからです。

 室町幕府を開かれたのは1338年(暦応元年)。
 91年の大河『太平記』で主役を務め、歴史教科書でも御馴染みの足利(あしかがたかうじ 1305〜1358)が初代将軍でしたが、実のところ彼も、当初は源頼朝以来武士政権の都であった鎌倉での政権樹立を目論んでいました。


 しかし、当時の京都及び畿内諸国は長い日本の歴史上でも稀に見る"異常事態"のまっ最中であり、尊氏は近畿を離れ、京都から目を離すわけにはいかない状態でした。

…そりゃあそうでしょう、この時代の日本には、驚くことに天人居たのですから。



 …そう『南北時代』と呼ばれる、北朝・南朝二つの朝廷が存在した時代。


 そして、その両朝がお互いを"異端"と批難して、武力を以って排除しようと日本各地で兵火剣戟を交えるという日本史上でも二度と無かった異常事態です。
 世の中の武士は北朝派と南朝派に分かれて争っており、幕府が開かれたというのに戦火は絶えず…とても『泰平の世』などとは言えない状況でした。


 おまけに、室町幕府自体が尊氏以下の力争いで混乱しており南北朝の騒乱を鎮めるどころの騒ぎではありません。




 室町幕府は鎌倉幕府や江戸幕府と違い、地固めがちゃんと出来た政権ではなく…出来たばかりの時点で既に統治機構が混乱しており、日本各地を統べる力を十二分に持ち得ない政権でした。


 室町幕府が真に日本の支配機構たる確固とした権力と武力を備え、南北朝問題を解決するのはずっと後の話…金閣寺や北山文化で有名な三代将軍・足利の到来を待たなければいけませんでした。





■関東十カ国を統べるもう一つの武家政権・鎌倉府

 そこで尊氏は、幕府を京都に開いて自身は近畿や西国を抑え、関東には次男である足利(あしかがもとうじ 1340〜1367)を派遣し、鎌倉に『鎌倉府』と称した、関東十カ国経営の出張機関を組織します。


 これが後に『鎌倉公方(かまくらくぼう)と呼ばれる事になる、関東諸豪族の頂点に立つ権威であり関東武家政治における中心となりました。

 大河『風林火山』でたびたび登場する『関東』という役職は、この『鎌倉公方』を補佐する宰相的な役職のことです。


 
関東十カ国を束ねる政府機関の副長官的という強い権力と、室町幕府の出張機関でありながら室町幕府の将軍から直々に任命されるという権威の強い役職で、初期は二人体制でしたが、後に上杉家が一席を世襲拝命するようになります。


 上杉家は観修寺流藤原家の出身で、足利尊氏に仕えた上杉憲(うえすぎのりあき 1306~1368)が世に出たことで勢力を得た名門です。
 憲顕は基氏に仕えて関東管領のほか越後など数カ国の守護職を歴任し、鎌倉府の創成期を支えました。






 しかし、この室町幕府の関東統治機構として発足したはずの鎌倉府が、基氏の子で二代目鎌倉公方となった足利(あしかがうじみつ 1359〜1398)の代になると、早くも室町幕府との間に確執を帯びはじめます。


 室町幕府は尊氏の嫡流・足利義詮(あしかがよしあきら)の家系、鎌倉府は尊氏次男の家系ですから、どちらも将軍の末裔でしたし…一方は関西の武家、一方は関東武家の頭領。

 南北朝問題でややこしい時に、室町幕府は二つの太陽を天下に投げるという妙なことをしてしまったことになります。


 そして三代目の満兼の代を経て四代目鎌倉公方となった氏満の孫・足利(あしかがもちうじ 1398〜1439)の代になると、もはや幕府との関係悪化は頂点に達しました。


■室町幕府第六代将軍・足利義教の登場

 時の室町幕府将軍は第六代将軍・足利(あしかがよしのり 1394〜1441 将軍職在位期間1428〜1441)でしたが、持氏は義教の言うことを聞かないどころか、彼を『籤引(くじびき)将軍』『還俗(げんぞく。僧籍にあった人が俗世に戻ること。)将軍』と侮蔑し侮っていました。

 足利義教は足利義満の子ですが家督継承権からは遠く、元々は僧籍にあり将軍位を継ぐ予定ではありませんでした。

 しかし、四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の急逝後に開かれた『次の将軍位を継ぐためのくじ引き』に当し、還俗して征大将軍に任命されたという経緯がありました。

 持氏はそんな『運が良くて将軍になった』義教など将軍ではないとあなどり、鎌倉府と関東を室町幕府から独立させようとする動きすら見せていたのです。


 ここで、室町幕府将軍が…重臣達の暴走に拗ねて、政務をほったらかしにしていた四代将軍・足利義持や、酒と女に身を持ち崩して父親より先に急死した五代将軍・足利義量(あしかがよしかず)のように凡庸な人物であればまだ、大した騒動も起きなかったでしょうが…足利義教はそんな愚鈍な人物ではありません。


 義教は室町幕府の最盛期を築き、明王朝に『日本の国王』と認めさせたほどの強い権勢と栄華を誇った父・足利義満の世、すなわち『強い室町幕府』を取り戻そうと奮闘努力する、覇気ある青年将軍だったからです。



 義教は日明貿易の復活や南朝勢力最後の砦となっていた九州の平定、幕府の権力強化や政教分離政策にも熱心な人物でしたが、それ以上に

 『やるといったら、やるんだ!! m9っ ;・`ω・´)

 という、小泉純一郎元総大臣みたいな確たる意思の持ち主でした。

 彼の有言実行振りは、政治にいちいち口を挟み僧兵を動員して武力までちらつかせる比叡山延暦寺に対し、『き討ちし、伽藍堂塔も坊主もみんな燼に帰す』という織田信長の先駆けの様な暴挙が出来るほど。


( ・(,,ェ)・) 『比叡山焼き討ち』は織田信長の専売特許の様に語られる蛮行ですが、実は織田信長のほかにこの足利義教、細川政元(ほそかわまさもと。室町時代後期の管領)と、二人の先達が居ることはあまり知られていません。

 戦国乱世まっただなかだった政元や信長の時代とは違い、まだまだ世の中平和だった室町時代に、しかも自身が天台座主(てんだいざす。比叡山延暦寺の最高責任者。)を務めた比叡山を焼き討ちした義教は世上にそれこそ、魔王の如く恐れられたといいます。


 そんな傲慢で剛毅果断な義教と、その彼を恐れもしない鎌倉公方・持氏の衝突は誰の目から見ても時間の問題でした。


■鎌倉公方家の滅亡と幕府の混乱、そして鎌倉府の御家再興



と意気まく将軍義教を必死に止めていたのは幕府管領の畠山満家(はたけやまみついえ)と政治顧問の高僧・満済(まんぜい)
 


と挑発を続ける鎌倉公方持氏を諌めたのは関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)


 彼らが生きているうちは大きな事件にならず、ギリギリのところで食い止められていたのですが…その畠山満家・満済が相次いで死去し、上杉憲実が身の危険を恐れて領国の上野に退去すると、いよいよ二人の暴走を止めるものがなくなってしまいました。


 かくして1439年(永享十一年)、将軍足利義教は大軍を率いて関東征伐を敢行。これを迎撃せんとした鎌倉公方軍を討ち破ります。

 大敗した鎌倉公方・足利持氏は出家剃髪と隠居を条件に恭順の意を示しましたが、既に後半生期の織田信長の様に狂気の独裁者となっていた将軍義教には、誰の助命嘆願も命乞いの声も通じませんでした。

 


 足利持氏は将軍の命により、自に追い込まれます。



 足利持氏の一族はその後下総の結城家に匿われたものの、義教はこれも逃さずに追撃。春王丸・安王丸といった持氏の子供達は幼少に至るまで処刑の憂き目に会い…かくして、鎌倉府と鎌倉公方は滅亡を遂げました。

 この事件のことを永享の乱(えいきょうのらん)と言います。


 しかし、その僅か二年後…1441年(嘉吉元年)…今度は室町幕府将軍だった足利義教が家臣の赤松満祐(あかまつみつすけ)に謀叛を起こされ、祝宴の最中に暗されてしまうという一大事が発生します。

 現役の征夷大将軍が突如暗殺された前代未聞のこの事件が、吉の変(かきつのへん)です。


 『親族だった鎌倉府さえも滅亡させた義教が、有力な守護大名である赤松家をほっておくはずがない、近々討伐される。』…そんな噂を信じた満祐が暴発した結果でした。

 皮肉にも、義教はその苛烈で有言実行な性質であったがゆえに命を落としたことになります。



 突然の将軍暗殺劇に大混乱を起こした幕府は、謀叛を起こし討伐軍どころの騒ぎではありません。下手人の赤松満祐は悠々と領国の播磨国に帰ってしまいますし、その赤松家を討伐する余裕すらない状況、とても関東に目を向けている場合ではありませんでした。

 そんな畿内の混乱、関東の無法地帯ぶりを信濃国(現長野県)の山奥から、じぃっと伺っている人物が居ました。彼の名は、足利永寿王丸(あしかがえいじゅおうまる)。




 誰であろう、彼こそが…関東管領に見捨てられ、室町幕府に攻め滅ぼされた最後の鎌倉公方・足利持氏の忘れ形見であり、後に下総の古河城に入って鎌倉公方府復興を宣言、『古公方』(こがくぼう)を称する事になる、足利(あしかがしげうじ 1438〜1497)その人です。


■いつになったら『河越夜戦』に話が着地するんですか?
 一度は滅びた鎌倉公方家が再び復活、将軍を暗殺された室町幕府の弱体化振りは、後に日本史上を百年に渡る大混乱期『戦国時代』へと突入させる土壌となります。

 このあと、話がどう『河越夜戦』につながっていくかは…次回後編でのお楽しみ、ということで。( ・(,,ェ)・)


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