戦国武将に学ぶ人生格言シリーズC 織田


春休み特別企画!!『戦国武将に学ぶ人生言シリーズ』。


 さて、春は曙…とか嘯きながら弥生四月を緩慢に過ごしていたら、気づけば
前回更新から十日以上が過ぎてしまい…春休みどころか、気づけば新年度が幕を開いている始末。これじゃあもう『春休み特別企画!!』じゃありません。

 相変わらずマイペースに過ぎる更新速度で、毎日御閲覧頂いているご贔屓様には申し訳ない限りです。
 ( ・(,,ェ)・)。oO ( 新年早々更新遅刻で謝罪とか、もう相変わらず平常運転過ぎてもう。)


 しかし、そんな赤髭から今回は前説変わりに、この場を借りて一言…

 特に今年、『学徒』から『社会人』となった皆様。そして、敢えて言い換えれば今後の日本経済の発展と飛躍を約五十年間ほど担うことになるだろう新世代の方々に向けて…と或る戦国武将の言葉を拝借し添えることで、是が非でも訴えておきたいことがあります。

      

 肥前国(現長崎県・佐賀県西部)の戦国武将・鍋島直茂(なべしまなおしげ)が初代佐賀藩主となった嫡男・勝茂(かつしげ)へ残した遺訓は『利発は分別の花という。しかし、世間では花を咲かせているのにが出来ない者は多い。』という言葉から始まります。

 上の言葉は、その直茂が生涯で得た経験や信条の教訓を二十一箇条にまとめた『直茂公御壁書(なおしげこうおんかべがき)の第十条に登場する、赤髭も身を持って思い知り、痛感することになった含蓄の深い言葉です。


 『人間の一生は、若い時分の思慮分別や嗜みで決まる。それゆえに、若い頃は周囲の人間に呆れられ、見落とされることがないように懸命に力するべきである。』という意味で、赤髭の個人的感覚では"若い頃"とは、具体的に『思春期を迎えてから二十五歳くらいまで』じゃないかなと思っています。

 人間はちょうどこの若い年齢層に経験した知識や習慣、思想や物事の判断などを基礎にして『"自分"とはいったい何者なのか?』という生涯最大の疑問に、意識の有無に係わらず『ひとつの』を見出すことになります。

 ( ・(,,ェ)・)。oO ( いわゆる自己同一性(アイデンティティ)の確立です。保健体育の授業で習いましたよね)



 この『自分は何者なのか、どういった人間なのか』という、人間個人の路線が確定してしまうと…――それが例え良かろうが悪かろうがその人の『自己同一性』として、魂に宿ってしまいます。

 それは年齢が若いうちに、心や性格がまだ未熟で発育成長の余地がある柔らかい土台だったはずの『人間性』に、それまで見聞きしたり体験したことが『常識』となって宿り、頑強な根を張ってしまい…後から変更しようにも容易に掘り返しが利かない硬さを得てしまう、という意味に他なりません。


 正直、赤髭はこの社会人としての精神的・肉体的な成長と生涯設計に大きく関係するこの期間を無駄に費してしまい、もうすぐ四十路を迎える今になって非常に後悔しています。

 若いうちに自分自身に甘え、怠惰と目的のない漠然とした生涯設計を組み、二度と戻ることはない若き頃の日々をただ意味もなく過ごしたツケが、いまになってきっちりしっぺ返しとなって我が身に降り懸かって来ているからです。



 この春から新たに社会人となる、もしくは新たな世界に飛び込んでいく若い世代、輝かしい未来を願望に描く読者の皆様。

 赤髭は改めて鍋島直茂の言葉を贈ることで、未来の日本を背負う覚悟と有意義な生涯を得るべく奮励努力して欲しいと願っています。

  ( ・(,,ェ)・)oO( 大事なことなので二度言います。はい、それはもう心底リアルな意味で。)

      



 さて、赤髭の柄にもない人生訓はこれくらいにしておいて…今夜の更新について御案内。


 戦国武将や戦国時代に関する知識を無駄に会得している割にはそれを人生に活かせていない典型的な歴史痛・赤髭が『これは!!(笑)と想った戦国武将の格言・名言をチョイス。

 どっちかと言えば一般的知識に活用し難いジャンルである戦国歴史をしく人生に活かそう、その言葉から読み取れる人生訓・教訓を学ぼう…そしてついでに自戒もやっちゃおうという、一石で鳥を幾つも叩き落としてやろうという実用的でお徳なコーナー『戦国武将に学ぶ人生言シリーズ』を今回もお届けしたいと思います。

( ・(,,ェ)・)oO( びっくりするほど厚顔無恥。新シリーズの更新は、勢いと根拠レスな自信、あと残り半分は生優しさで出来ています。)




□前回・第三回では徳川家康最強の鬼札にして三つ葉葵の守護神、江戸幕府創業の勲臣である本多忠勝の意外な教訓の言葉を御案内しましたが…

 今回は趣向を変えて、逆の視点…『新社会人に企業・用主側が求める、備えるべき素質や心構え』についての格言を御案内したいと思います。


 戦国時代、武将達の"雇用主"である大名達も直面したであろう人事と新規採用問題。
 家臣の薫陶や教育、そして人選や待遇について平成現代でも通用するような名言・格言を残した戦国武将は枚挙に暇がないほど数多いのですが…


 暴騰寸前の円高市場とそれに振り回される日本経済、石油価格や電気代の値上がり、そして盆暗どじょう内閣はそうでなくても冷え切っている消費をさらに冷え込ませるべく『年度内国会での消費税増税法案』のカードを切る、などなど…混迷の一途を辿り続ける先行きも見えない真っ暗な不況。


 これらの悪影響は、高校・大学からこの春卒業する新卒者の就職内定率を直撃。『就職活動』という名の合戦は、新たな社会の一員となるべく学び舎から巣立った雛鳥たちに猛然と槍を突きつけて来ています。



 そこで…今回は、今の不況にあえぐ日本経済に匹敵する阿鼻叫喚の世情で、史上類を見ない稀代の大成長を記録した凄腕社長から、珠玉の格言を拝借。


 戦国乱世に弱冠十八歳で家督を継承し、我が身一代で武田信玄・上杉謙信らが生涯に得た領土の十倍以上という一大勢力を築き上げた辣腕経営者にして、平成現代ではおそらく、どころか戦国時代当時で既にぶっちぎりで『対に上司にしたくない人ランキング』一位を獲得していたという、あの戦国大名…。



 と言えば、もう勘の良い戦国歴史Fanの皆様にはお判り頂けましたよね。



 そう、『戦国の覇者』、性酷薄にして熾烈過激を極める覇道の生涯を歩んだ第六天魔王・織田(おだのぶなが)の格言から御案内致しましょう。


 今から四百五十余年前に颯爽と登場して戦国時代に幕を引き、豪華絢爛な安土桃山時代の扉を押し開いたところで紅蓮の業火に灰燼と帰した稀代の英雄が満を持しての登場です。

 修羅場のような現代の就職戦線、この際ですから最高にして最凶の上司に御意見を伺っておいて、それを踏まえて新たな戦場で闘いに臨んでおいて損はないでしょう。


 それでは、御一緒して頂ける読者様の御時間を、少々拝借。
         。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!



───────────────────────────





『だいたい人とは、""と""を働かす

ことをもって、良しとするなり。』


                                 (備前老人物語)   


───────────────────────────


家臣に対し精魂至誠、一生懸命の忠勤を常に要求し続けた戦国の覇者・織田信長らしい、経質な気性が伺える言葉です。

『ただ唯々諾々と言われるまま体で働くのでは目だ、心と気も一緒に働かせなければ良いこととは言えない。』という意味になります。


 
信長はそれまでの武家では当然とされてきた家柄重視・年功序列による家臣編成を否定し、たとえ先祖代々仕えてきた重鎮の家柄であっても武勲がなければ用いず、逆に身分卑賤であったり新参者であっても働きがあればどんどん出世させてより重要なポストに据える、という実力派志向の人材活用術を駆使していました。



 この向きに偏重が過ぎたがゆえに、織田家では親族衆に有力な武将が出ず…本能寺の変以降は重臣達による領土の分割・織田総領家の形骸化が進んだとも言われており、ある意味諸刃の剣な徹底振りではありましたが…熱意のある家臣にしてみれば、実に働き甲斐のある職場だったと言えます。

 縁故やコネ、血筋家柄が正しくなくても努力して結果さえ出せば誰しもが出世栄達を果たすことが出来たという大名家は、いかに物事の風紀や秩序が乱れた戦国時代においても案外、他にを見ないからです。





 ただし、そのかわり信長は既に武勲を挙げて出世を果たし、城主や国主…今風に言えば理事職や支社長にまで出世した家臣達にも常に忠勤を奨め、武家働きを怠ることがないように求め続けました。




 長年戦場で活躍し続け、織田家でも随一の武勲を誇った重臣・柴田勝家(しばたかついえ)を越前北部四郡の領主に任命し『織田軍団・北陸部隊司令官』とも言うべき大役に任じた際にも、




      

 と、釘を刺すような手紙を書き送り、さらに寄騎(よりき)として前田利家・佐々成政・不破光治らを『府中人衆』として勝家のもとに据えています。

 寄騎とは『与力』とも書きますが、要は『本社から地方支社に派遣された出社員』のようなもので、この場合利家たち三人は組織上では勝家を上司として働くことにはなりますが、身分は信長の直臣(じきしん。戦国大名直属の家臣のこと。)であり、もし勝家が心変わりや職務怠慢をした場合はすぐに信長へ通達する目付役…


 …――早い話が、『見張り番』的なものでした。信長は例え武功派閥の筆頭格である勝家ですら特別扱いせず、全力投球の忠勤を求めていたということになります。





 そんな熾烈にして過酷に過ぎる織田家ではありましたが、そんな織田信長が家臣に求めた条件のひとつが冒頭の言葉です。

 この『気と心を働かせなければ、家臣としては合格。』、そしてそれを要求してくるのがあの第六天魔王、『戦国の覇者』にして戦国時代で最も神経質かつ繊細といわれた織田信長なんだから、生半なことではありません。

 そして、そんな彼の間近で常に侍り、身の回りの世話から文書の受信発信といった私書的役割、遠距離で活躍する織田家武将へのメッセンジャーからはては夜の恋人までという激務をこなし活躍したのが…はい、ご明察。

 戦国歴史Fanのお姉様方を欣喜雀躍させる美貌の少年達…いわゆる『小姓』です。

 実は今回の信長の言葉も、そんな小姓達…いわば未来の織田家を背負って立つ武将候補生である少年達に向けて垂れた訓示のひとつだったりします。


 ある日のこと、信長は城の居室において『誰ぞあるか』と近習の小姓達に声を掛けます。戦国の覇者からじきじきの声掛けに緊張感が走ります。
 何せ急がなければいけません、相手は戦国時代最凶の気難し屋です。信長寵愛の小姓達のうちの一人が直ちに飛んでいき、御前へとまかり越しましたが…。

   

 どうしたわけか、信長は何の用件も告げません。呼んだばかりの小姓に向けて『もう良い。』とだけ言い、部屋から
退出するよう示唆します。


 そして何事にも神経質で果断迅速を旨とする信長の言うことですから、小姓もすぐさまにその場を後にします。 しかし…。

        

 こんな感じで、また小姓を呼び寄せる信長。


 緊張感を張り詰めさせながら彼らが駆け寄って来れば、また同じように『何でもない。下がって良し』とそっけない命令を下し、そして小姓達は言われるままに戻っていく。『いったい何の嫌がらせなんだ』と言いたくなる展開が複数回繰り返されたのですが…。

 そんなやりとりが続いて、呼ばれた何人めかの小姓。信長に命じられるまま下がる際に、彼はと或る異変に気がつきました。


 あの神経質で完璧主義者なはずの信長の部屋に、小さなゴミが落ちていたのです。


 小姓は部屋より立ち去るとき、ついでにその塵を拾ってから拝謁を済ませようとしたのですが…その時に、信長は彼に向けて『ちょっとて。』と言い、その行動を褒めて今回の格言を口にしたわけです。


  
■歴史痛
Check-Point "丸"は一人じゃない?


『織田信長の小姓』といえば、戦国武将達の熱い生き様に魅了されたお姉さま方…いわゆる『歴女』の皆様方にはいまさら語ることもないでしょう。誰もが森蘭丸(もりらんまる 1565〜1582 成利・長定)をいの一番に思い浮かべるのではないでしょうか。

 織田信長に一族を挙げて、命を捨てて忠誠を尽くした森一族の出身にして絶世の美男。

 その風姿容貌の流麗さから信長の寵愛を受け、本能寺の変では覇王と最期を共にして壮絶な討ち死にを遂げた蘭丸の生涯に、または平成戦国時代ブームでものの見事にジャニーズ系の偶像化がなされた紅顔の美少年に見蕩れ、心奪われたFanの方も多いことかとは思いますが…。

 実は『織田信長の小姓・蘭丸』は一人ではないという事実を御存知でしょうか?

    

 信長は家督継承後に織田家の総領となって以降、当時の戦国武将の風習に倣い小姓を寵愛。彼の周囲には常に才気煥発なローティーンの美少年たちが侍っていたわけですが…

 どうやら信長は『らんまる』という名前の響きが気に入っていたらしく、十代後半には『卒業』してしまい、替わりに新規加入してくる小姓たちのうち、これはと思った者に『らんまる』と名づけていました。


 そんな"蘭丸たち"のなかでも特に数奇な運命を辿ったのが、伊藤
(いとうらんまる 1539?〜1573 祐広)とその末裔。
 伊藤蘭丸は信長の小姓として知行八百石を得、長じると織田家の武将となり活躍しましたが、1573年(天正元年)の河内若江城(現大阪府東部)で三好義継との合戦で討ち死にを遂げます。


 祐広の死後、家督は子の祐道(すけみち)が継ぎましたが、まだ幼児だったため親戚に養育され、成長する信長の小姓となり、なんと父親同様に『蘭丸』を襲名。
 しかし、その後何かの機会があったらしく武士から商人へと転進しています。

 その後、商人として成功した祐道は織田信長の覇業がはじまった地・尾張国清洲で信長の命を受けて商人司となり、信長の死後も熱心に商売を続けましたが…1615年(元和元年)の大坂夏の陣のとき、突如として武士の魂を思い出したのか、豊臣方武将として大坂城入り。

 落城と共に討ち死にし、父・蘭丸祐広と同じく戦場で散ることになりました。


 しかし、伊藤祐道の次男・祐基(すけもと)が再び商売人として名古屋で開業、呉服問屋として大変繁盛します。

 時は1659年(万治二年)といいますから、もう世の中江戸時代ですが…戦国武将の熱い血潮を商売の情熱として傾注した伊藤家はその後もますます発展を続け、1768年(明和五年)には屋号を『松坂屋いとう呉服店』と改めることに。

 …――ぇ。まさかその松坂屋ってもしかして…はい、ご明察。
平成現代の今でも商売繁盛している有名デパート『松坂屋』の前身です。

        

 まさか信長も、自分の小姓を勤めた『らんまる』が五百年後に方やアイドル化、かたや子孫が大型デパートの経営者になるだなんて思っても見なかったでしょうね。


 まぁ、『出来が悪い』と怒鳴りつけた次男・信雄の子孫が『名前一文字違いで男子フィギアスケート選手になって、天下獲った。』って聞いたら、もっと
いたでしょうけども。



 信長は『ただ単に、言われたことだけを実行して立ち去っていった他の小姓達』とは違い、気と心を働かせて部屋の塵を拾い取った彼の行動を賞賛します。

       


 …――お判りいただけたでしょうか。

 これは、今風に言えば…ここ数年の新社会人に多くみられるという『指示ち症候群では駄目だ』ということを示しているのです。

 上司に言われたことしか出来ない、職場の空気を読んで自分から仕事をこなす、気心の篭った勤務が出来ないものは出世も出来ない…それは平成現代の社会人生活においても普通に通用する、誰もが判っている様で案外実行出来ていない真理です。


 豊臣秀吉が、貧農の子から織田信長に仕官するやいなやトントン拍子に出世街道を駆け上がり、またたく間に城持ち・国持ちの軍団長にまで登りつめたのは、何も奇跡や幸運ばかりが理由ではありません。

 自分の器量才覚に絶大の自信を持ち、人の心の機微を読む能力に優れ、そして極端な自己顕示欲の持ち主だった秀吉の性格が、信長の求める理想の家臣像と見事にシンクロしていたことも大きな要因だったのです。




 ただし、指示待ち症候群が駄目だからと言って何でもかんでも自発的に、良く考えずに行動してはいけません。返って、良くない結果を招きます。

 信長の言葉にもありますが、『合戦の合』とはすなわち戦場の雰囲気や展開の流れです。現代に言い換えれば、職場の仕事の静動、その流れや段取りの展開に相当するでしょうか。


 これらを状況判断の材料にして良く鑑み、何が第一選択肢なのか、それが最良の行動であるかどうかを良く吟味してからでなければ、せっかくの自発的行動も逆効果。

 っていうか、ただの計なお節介で終わってしまいます。


 確かに豊臣秀吉はお世辞にも控えめな性格とは言えず、何事にも自己顕示欲のおもむくままに職務志願し、信長の麾下で武勲を稼いでいましたが…彼は『のあるでしゃばり』だったことを忘れてはいけません。

 職場で上手く立ち回っているようでも、仕事がうまく片付く様に出来ていなければそれは『心』だけが働いているのであり、『気』が利いていない。…そんな働きには、何の意味もありません。



 数ある戦国大名家のなかでも、総領・武田信玄を筆頭に、軍事・智略・内政において綺羅星の如く優秀な家臣団が揃っていた甲斐武田家でも特に優れた武将であり、信玄からも絶大な信頼を得ていた『不死身の鬼美濃』こと馬場信春(ばばのぶはる)も、歳若い武者に武士としての出世の秘訣を問われた際、

     

 と答えています。

 味方が勇猛果敢に敵を圧倒しているときは自分も前に出て武勲を狙い、逆に敵軍が優勢で味方が劣勢であるなら熱情に駆られず素直に状況を把握し、戦友達と歩調を揃える。こういった『場の空気を読む』ことも重要です。


 かくいう赤髭も『早く職場の仕事を覚えて場に染もう』と昼休み休憩を返上して働いていたら、先輩から『感心なことだけど、みんなが休憩しているときは一緒に休憩をしたほうがいい。職場の雰囲気を読んで、特に勤め始めは同僚と踏ん切りを合わせて、同じリズムを共感することで仲間に溶け込んでいくのも事だよ。』と教えられた記憶があります。

  ( ・(,,ェ)・)oO( みんなが働いているときは一生懸命働く、みんなが休憩しているとき一緒に休む、でもってみんなが手を抜いているときは同調して手を抜く(爆。 まぁそういうことですね)



 ただ単に、漠然と働くのではなく"心"と"気"も一緒に働かせる。

 誰もが感じているようで案外実行に移せないそれを言葉に出して声高に標榜し、武家働きをする家臣達にそれを求めた『戦国の覇者』織田信長と、それに応えて絶大な信頼と武勲…そして最後には戦国時代に幕を引く天下人の切符を手にいれた『太閤』豊臣秀吉。

 彼らが歴史に刻んだ燦然かつ偉大な足跡は、それが刻まれるまでの間に案外と現代社会での職場でも通用する地味かつ地道な努力と、それを"職場"で支えた数多くの同僚や家臣達の気心の結晶体だったわけです。



 この春、新たに社会人としての第一歩を踏み出した皆様も是非、この心構えを実践に移して…――今しかない、二度と来ることはない時を大切にして、有意義な未来予想図の構築とそれの実現に向けて頑張って下さい。

───────────────────────────
■織田信長の格言に学ぶ

 『指示待ち症候群』は新社会人がもっともつまづきやすい病。体だけを働かせず、心と気持ちをフル活用して勤務に励めば、あなたも豊臣秀吉になれる!!

 職場の空気の流れはすなわち、先輩達の築いたいちばん仕事が片付きやすい段取りのエア回路。潮の満ち引きを目で、肌で感じ取ってより良い選択肢を自分から進んで実行に移せばそれがまさしく一生懸命。
 これを踏まえて得た果実を糧にすれば、意義のある人生設計が組める!!

。゚+.(゚∀゚*)。+.゚ 夢が白昼夢しかない社会人生活は、三十路半ばになると厳しいぞ!! ←見事にドツボにはまった張本人。みんなもこうならないように気をつけよう!!(自虐) 





トップへ戻る