猛将・武田信虎の実像。【編】




 戦国歴史を楽しむにあたって、知ってるとちょっとした自己満足になる、だけど日常生活を普通に送る分には至極どうでも良い与太話を真贋関係なく御紹介していきます。
 最近は、『風林火山の感想より明らかにこっちの方が閲覧件数が多いぞ』とか思ったりしてましたが、たぶんそれは気のせいです。 
( ・(,,ェ)・)そういうことにして置いてくださいお願いします(弱。


 今回のお題は『武田信虎のその後』。第十一話『信虎追放』以降出番が無いけど、実は歴史の影で息の長い活躍をしていた『もう一匹の甲斐の虎』について歴史痛の偏見たっぷりに御紹介いたします。


 それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間を少々拝借。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜  


猛将・武田信虎の実像。【前編】

 第十一回『信虎追放』において嫡男晴信、寵愛していた次男・信繁や甘利虎泰ら重臣達に揃って追放を宣言されてしまった『初代甲斐の虎』こと武田信虎。


 往年の名優である仲代達矢氏の妙演技は『横暴かつ狂気を孕んだ独裁者的』一面や『嫡男晴信の才を認めていながらも、素直にそれを表現出来ず、屈折した愛情を注ぐ後ろ姿の悲しい父親』的一面まで…本当に幅広い顔を見せ、ある意味晴信や勘助たちの存在感を食うほどに視聴された方々の印象に残りました。


 赤髭的にお気に入りだったこの信虎、これで以後は語る事無し。って事にするには少々惜しいと思いして…ドラマでは語られなかった部分にも、まだこの哀れな暴君を語る背景、側面はまだまだあるんですよこれがまた。


 そこで今日は、哀れ実子晴信により追放の憂き目に遭い、今川家に隠居の身となった武田信虎の生涯…虚実に修飾された彼の経歴について徒然と与太話を語っていきたいと思います。



■武田信虎の本性はいかに。暴君・狂君、それとも名君?

 まずは武田家の総領として甲斐国太守として君臨していた頃の『暴虐非道、領民も家臣の諫言も省みなかった頃』の信虎についてですが、この辺りについては実質的なところ『やむを得なかった、次代を受け継いだ信玄にとって決して無では無かった』点や『後世の者達によって不当にめられた』点が多く見受けられます。


 ミツ(貫地谷しほり)が惨殺された下敷きになった挿話、信虎の凶行の一つである『妊婦の腹裂き』や『諫言した家臣を五十人以上斬殺した』事件などを記載し、今に伝えているのは江戸初期に小幡景憲(おばたかげのり)によって編纂された『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)と呼ばれる書物です。


 この本は戦国時代後期から徳川家の軍法の基準となった『甲州流軍学のテキスト』としての一面や武士としての心構え、大将としてどうあるべきかを説いた一面、武田家の家臣達にまつわる逸話挿話集に至るまで…と、その内容は多岐に渡っていますが…

 武田家の人々に関する評価については不当に歪められた部分が見受けられる、鵜呑みにするには少し危うい部分もあります。


 特に武田信玄とその家臣団に対する評価が高く、それと好対照を成すように前後の君主の評価が低く、辛辣とも取れる内容になっていることは見逃せません。


 …つまり、信玄没後に家督を継ぎ、武田家滅亡を招くことになった武田勝頼の評価と、武田信虎の評価は意図的にめられているのです。何故でしょう?


 信玄を大きく評価しようと思えば、当然問題になってくるのが『実の父を追放している』という点です。


 実際の理由がどうであったであれ、子が父親を追うのは大変な不義である事は、当時からも儒学や朱子学で述べられていたこと。

 『甲陽軍鑑』が成立した江戸時代初期には、武田家滅亡後に徳川家に組み込まれた武田家の遺臣達も多く生存しており、「父祖が信虎追放劇に関わった家筋」も多く残っていたでしょう。


 そんな彼らにとって、武田信虎事件や武田家滅亡の頃の記憶はあまり良い思い出ではありません。


 …しかし、『盗人にも三分の理。』という訳でもないですが、ここで『信玄とその家臣団達が父であり主君である信虎を追放している』という事を正当化。

 …とまではいかなくても、ある程度の理解を得られる方法が一つあります。



 『武田信虎が、追放されても仕方ないような暴虐非道の殿様だった』
ことにすれば良いのです。



 
 武田信虎は確かに気性が荒いワンマン性質、多くの家臣を手討ちにし、馬場家・山県家・内藤家といった歴史の古い武田家の親類縁家を幾つも断絶させてしまいましたが、武田信虎は信長や秀吉のような絶対君主ではなく甲斐の小豪族を纏めている小大名です。


 …自分の権力を強化し、甲斐における武田家の勢力を強大にしようと考えるなら、自分の方針に口を挟む生意気な=それだけの事が出来る権勢のある家臣達は邪魔ですし、討ち滅ぼしてしまう事に越したことはありません。

 …言ってみれば『株式会社の代表取締役が、総会屋に依頼して生意気な株主を黙らせた』ようなものです。


 また、『妊婦の腹を裂いた』凶行についても、これは古来より暴君、悪君の業を語る際に多く用いられる定型文。
 言ってしまえば『キ○ガイのテンプレート』のようなもので、歴史上の人物が貶められる際のありきたりな常套句の一つであり、何も信虎の専売特許ではありません。


 実際、妊婦の腹を裂き血まみれの赤子を取り出して悦に浸った、と後に語られる事になった人物には小早川秀秋(こばやかわひであき、関ヶ原の合戦で西軍を裏切り東軍についた元秀吉の養子)や蒲生忠知(がもうただとも、名門・蒲生家の最後の当主。)など、裏切り者だとか家を滅ぼしてしまった者だとかが多いのです。


 信虎が民政を省みずに侵略を繰り返したのも、

『常に国内情勢を流動・緊張化させることで自らの権勢を誇示、下の者を引き締め、また勝ち戦を続けることで自分の、そして武田家の威信を内外に知らしめる為だった。』

 とすれば…それは一概に『間違っている。』とは言い切れません。


 "何処の国の前大統領。"とは言いませんが、戦争をし続けていれば周囲の小国はその勢いを恐れますし、ついていく国民達も『頼もしい指導者だ。』と思われる事もあるのです。

 ( ・(,,ェ)・)…今のような平和ボケした時代と違い、戦国時代当時に厭戦主義のハト派なんて、居なかったでしょうしね。
■ドラマの中じゃ話は別ですが。


 また、武田信虎の破天荒なまでの対外侵略が、結果として身内同士の勢力争いで疲弊と混乱の極みにあった甲斐武田家と甲斐国を一応の統一に導いた事は間違いありませんし、信虎がその確固たる地盤、甲斐国の支配者たるべき地位を築き上げていたからこそ、後にその地位を受け継いだ晴信は戦国大名として邁進する事に専念出来たとも言えるのです。


 大事の前の悪事、創造の為の破壊。とも言えるべきもので、信玄も父親が近隣諸国に『武田恐るべし』と植え付けていた恐怖を利用し、その地盤を堅実に引き継いだとも言えなくはないわけで…
 そういう意味では信玄も、傍若無人な父から恩恵を受けていることになります。

 なのに、信玄は史上類を見ない英雄になり、信虎は暴虐非道の梟雄として名が刻まれる。歴史は勝者が作るもので、敗者や勝者にとって都合が良くない者の歴史はいとも簡単に歪んでしまうものなんですね。

猛将・武田信虎の実像。【後編】



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