解読!!戦国歴史事件。【第二回】 お市の方・絶世の女疑惑。


戦国時代に起きた様々な合戦や事件、疑惑や謎について、"歴史痛"(れきしつう)こと赤髭が独自の切り口でそれを分析する『解読!!戦国歴史事件。』

 最近の戦国時代ブーム、戦国武将Fanにとって常識となってしまった歴史知識や事件、通俗などについて歴史"通"ではなく歴史"痛"が付け焼刃にわか仕込みに検証。

 その結論を、ちょっと社会常識がないかわりに戦国歴史に詳しいおばかさんが十分に噛み砕いた上でヨタ話。例によって、多少事実と違う点もあるでしょうがそこは肩の力を抜いて戴いて…気楽な気分でお楽しみいただければ、幸いに思います。


 今宵第二回のお題は、今いろんな意味で評判の大河ドラマ『』でも登場し、芯の強い美貌の姫を鈴木保奈美さんが熱演した『お市の方』。

 先日、惜しまれながらも物語の表舞台からは去って行きましたが…戦国を生きた姫君でも特に『絶世の美女』とされた彼女の魅力に迫ります。



 浅井長政、柴田勝家、羽柴秀吉…そして一説には、実兄であるはずの織田信長にまで愛されたという美貌の御姫様、いったい彼女はなぜそれほどに美しい容貌を今の世に伝えられているのか。


そこには、通説や歴史常識に隠された秘密があったのです。( ;・`ω・´)< キリッ!!


 それでは、ご一緒して頂ける皆様のお時間を少々拝借。
今年の大河『江』の路線では絶対語ってくれそうにない、歴史と浪漫のピースが複雑にからまったパズルをお楽しみ下さいませ。


■絶世の美姫、何人もの戦国武将に愛されたお市の方の実像。
 さて、ここでいきなりぶっちゃけるんですが…まずは、今の世に残されている『お市の方』の肖像画を御覧頂きましょう。戦国歴史Fanな紳士淑女の皆さまであれば、一度は目にしたこともあるでしょう有名な絵なのですが…。



 …――何、そんなに惚れ惚れするような美女でもない?

( ・(,,ェ)・)はい、ごもっとも。


 まぁ、お市の方様の名誉の為にも言っておけば…この当時の肖像画というのは、まず間違いなく『ご本人様を目の前にして描いたものではない』ということを説明しておかなければなりません。

 当時の肖像画というのは本人に会ったことがある者からの証言や、伝聞で得た顔や目鼻立ちを参考に、想像しながら描くものなんです。
 さらに、当のご本人が亡くなった後に描く場合や死後何年も経ってから描くパターンもあり、そうなってくると殆ど御本人に似ているかいないかは問題に出来なくなってきます。
 
 上の有名な肖像画も、実はお市の方の長女である茶々が、母親の七回忌を迎えた1590年(天正十九年)、彼女の菩提を弔うために描かせたもの。



 早い話、似てるか似てないかは当時この絵師にお市の人となりを教えた情報にかかっているわけです。
 
 
■戦国美人は何が基準なのか?
 なんど肖像画を見直してみても能面かおたふくにしか見えない『お市の方。』

 しかし待ってください。今の世はともかくにして、当時はどういう女性が”美しい”と判断されたのでしょう。

 大和撫子という言葉が死語、そういう人種が絶滅危惧種になってしまった平成日本のこと。今を四百五十年以上もさかのぼれば、美人の判断基準も大きく変わってくるのではないでしょうか?( ・(,,ェ)・)


 そこで、戦国時代当時の女性の美貌や美的観念を順番に御説明していきたいと思います。


@ まずは女性の命、髪については?
女性の美貌の象徴、美しく光輝く髪に惚れ惚れとした経験のある男性陣は多いかと思われますが…戦国時代当時、成人女性の髪を美しいと判断する基準は『』と『長さ』にありました。


 ずばり、髪の色が黒ければ黒いほど良いとされていました。
 今ではテレビや雑誌に映るモデルさんや俳優さんでは純粋に髪が真っ黒、という人もなかなか居ないように感じますが、当時は赤茶けたり褪せた色の髪は受け入れられなかったようです。

 長さについても、長ければ長いほど美しいとされ…戦国時代の御姫様の肖像画をみると、みんな背中どころか踵にかかるほど長い女性ばかり。女の命、と言われたように、当時は長く艶のある髪こそ価値があると考えられてたようです。


 この事に関しては、戦国時代を舞台にした大河ドラマで女性の髪を御覧になれば、お姫様から侍女、村娘に至るまで…みな揃いも揃って髪が長く、後ろ髪は邪魔にならない様に髪袋に入れているのが判ります。

 
戦の際、雑兵の襲撃で乱暴や略奪が起きそうな場合、女性はまず間違いなく目標とされた戦国時代ですが、村娘達が出来るたった一つの防衛手段が『髪を切って顔に泥を塗り男装すること』だったことからも、長い髪といえば女性の美貌を象徴するものだった風習が伺えます。




■月さびぬ 明智が妻の 話しせん
 明智光秀がまだ出世前の御話。
 『汁講
(しるこう。戦国武士が、順番制度で同僚を持てなすための酒宴を主催する習慣)の順番が回ってきた光秀、引き受けたが良いが満足な宴席を催すためのお金がない、けど開催しないわけにもいかない。と困っていたとき…妻の煕子が『大丈夫、殿はお気兼ねなく御同輩を我が家にお招き下さい。』と胸を叩く。

 言われるまま、金のないまま汁講を始めた光秀でしたが…冷や汗もので同僚を呼んでみたら、妻が座敷へ、びっくりするほど豪勢な食事と酒の膳を運んでくる。


 光秀が『お前、どうやってあんな料理を出したんだ?』と妻に聞いたところ、頭の手ぬぐいを外した妻の笑顔からは、長く美しかった髪がばっさりと切られていました。煕子いわく『売ってお金にしました。』と涼しい顔。

 この行動に感動した明智光秀、『おまいを近いうち、必ず御輿に乗れるような身分にしてみせる!!』と宣誓した…という美談が残っていますが、黒くて長い髪はそれだけ価値があったということなんでしょうね。


A眉毛は?
 これも、今の感覚とは大きく異なります。まず、自前の眉は剃る。これは今の女性でもたまにしますが…問題は描く眉毛の形。

 まず、桃眉(ももまゆ)と呼ばれる御公家の姫君みたいな横楕円形の眉を描いたら、これの下端をすぅーっとぼかします。
 この、淡くぼかすのが当時の最先端流行。最近では特定層の趣味になってしまった太い眉は卑しい女性の象徴のように思われ、あまり受け入れられなかったようです。


B目は?
 これも現代とは大きく違って、切れ長い一重まぶたが美しいと考えられていたようです。二重でぱっちりした大きな瞳がかわいいとされる今の風潮とは、びっくりするほど正反対です。

C 口と歯は?
 唇は肉厚で、口自体は小さいこと…つまり、おちょぼ口というのが美しいとされていたようです。
 この口もとの美的感覚は戦国時代はおろか奈良・飛鳥時代から不動の鉄板でした。大きな口の女性というのはやはり卑しいと考えられていたようです。男は、口が大きいと自慢になったみたいなんですけどね…。
 
 あと、歯については『お歯黒を塗ること』がステイタス。

 江戸時代以降は既婚女性の象徴のように思われたおはぐろでしたが、実は古来、女性の歯は『まるで黒漆を塗ったかのようなツヤのある黒い歯』こそ美の象徴とされていました。

 戦国時代では、生まれが高貴であれば七歳くらいの頃にはもう、口の中はお歯黒でまっくろだったようです。


 こうすることで口元がやんわりとした雰囲気になり(そうでしょうか?)、また虫歯や歯の欠落を防ぐことも出来ると考えられていました。
 
芸能人は歯が命!!』とかいう、歯を白くするためならエナメル質すら削り落とすという歯磨きの宣伝もありましたが、白く輝く歯は戦国時代にはやはり、身分が低くお歯黒を塗ることができない女性の象徴だと思われていたようです。


D顔のかたち、肌の色は?
 今では顔が小さくて顎や頬の輪郭がすっきりとしているのが美貌の条件ですが、これも戦国時代は違いました。

  頬骨や顎の骨のあるのが判るようでは、肉づきがよくない萎びた顔だと判断されたらしく…ふっくらとしていながらも下ぶくれの域には達しない、俗に言う『うりざね顔』というのが美しいと考えられていたようです。


 この美的感覚も古来から日本人から受け継がれてきたもので、それを踏まえて平安時代の屏風絵や奈良時代の壁画などを見てみると…なるほど、みなさん揃いもそろって頬がふっくらとしたタイプの顔です。

 肌については、これは京都の舞妓さんなどを見ればなんとなくわかりますが、白く艶のあるものが上質だったようです。戦国時代の女性もおしろいによる化粧は欠かさなかったようですが、この時代のおしろいは白い色合いを出すために水銀と鉛が含まれており、粗悪な質のものは毒性も強かったため、多くの女性が水銀や鉛中毒で体調を悪くしたようです。

 戦国武将の奥方が使うような上品質のものはきちんと精製をするため、そんなことにはならなかった模様ですが…鈴木その子女史が亡くなって久しい平成現代、白い肌に固執する女性も少なくなってしまったのではないでしょうか。( ・(,,ェ)・)
 

 
国武将が愛した大和撫子たち。
 以上のように『戦国美女』の条件をよく踏まえた上で、もう一度さきほどの『お市の方』の肖像画を見てみると…



 おわかり頂けたでしょうか。

 当時の女性の美貌とされる特徴が、ほぼ全部に渡って揃っていることが判ります。

 これに加え、身長約170p…当時の感覚ではじゅうぶん『大男』の部類に入る織田信長を兄に持ったせいか、お市の方のスタイルは八頭身近いスラリとしたルックスだったとされますから…それに加えて黒い長髪・切れ長一重まぶた・おちょぼ口、うりざね顔という美的観念をすべて取り揃えた彼女はまさしく、まれにみる『絶世の美女』だったのでしょう。
  
 織田信長・豊臣秀吉といった戦国武将たちの多くもこういった美的観念の上で正室や側室を娶っていたと考えられます。特に上記のような『日本美人』に熱を上げたとされている武将が、武田信玄豊臣秀吉

  信玄はとくに面食いだったらしく正室の三条夫人は洗練された京美人、大河『風林火山』でも登場した由布姫こと諏訪御寮人も透明感のある黒髪の美少女、他の側室たちも人が羨むような美女揃い。

 秀吉も権力絶頂期には身分の高い上流階級出身の日本美女を大坂城で三百人も囲っていたとか。


 特に豊後(現大分県南部)の戦国大名・大友宗麟に至っては美女好きが過ぎて領内の美女は勿論、家臣を京の都に派遣し、美女漁りをさせるほど。

 家臣の一万田鑑相が近隣でも評判の美女を正室に娶るや、彼に無実の罪を被せて殺した上で略奪してしまうほどの重症ぶりで、これに怒った鑑相の兄・高橋鑑種が謀叛を起こしています。( ・(,,ェ)・)病気やね。


  若いころの徳川家康は『後家殺し』、既に出産経験のある女性を選んで側室にしていました。

  これは、『既に子供を産んだことがある女性はそれだけ強い子宮を持っている』とされ、丈夫な後継ぎを生んでくれるに違いないという当時の考え方から。
  

  戦国の覇者・織田信長は苛烈で酷薄だった性格とは裏腹に『未亡人』がお気に入りだったようです。

 嫡男信忠、二男信雄を産み信長最愛の女性だったとされる側室の吉乃(いこまきつの)は信長より六歳年上で夫を合戦で失い実家に出戻った未亡人で、信長は彼女の元に足繁く通い、遂には側室として迎え、長男・信忠や次男・信雄をもうけています。

 また、七男信高・八男信吉を産んだお鍋の方(おなべのかた)も、やはり戦で夫を失った未亡人でした。



  あんなに過激で瞬間湯沸かし器な性格なのに、儚い雰囲気の未亡人が好きというのもちょっと意外ですよね。( ・(,,ェ)・)
  
  
 そんな戦国武将達も、この平成の世では様々なジャンルで平成模様に美化され、偶像化が進んでいますが…――今の世の日本の女性像を見たら、どんな行動を取ると思います?

 豊臣秀吉とか大友宗麟は喜んでAKB48あたりに、上杉謙信はジャニーズ事務所あたりに突撃していくでしょうけど…―――武田信玄とか織田長は、どうするんでしょうねぇ…。( =(,,ェ)=)




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