戦国武将のウソ・本当物語 第一回 真田


■唐突ながら、今週から新企画の連載を開始いたします。( ・(,,ェ)・)

 題して、『戦国武将のウソ・本当物語』。今までは本年大河『江』や07年大河『風林火山』に関する歴史コラムしか出来ませんでしたが、もっと広範囲に色々な戦国武将も取り上げてみたいと感じ、満を持しての立案に踏み切りました。

 かたっくるしく、初心歴史Fanにはとっつき難い文章体ではなく…ちょっとした息抜きに戦国武将の実像を楽しめる読み物になればと考えております。
 記念すべき第一回は『真田』のウソ本当。昨今では女性支持が急上昇、もっとも人気のある戦国武将としても過言ではない、タヌキ狩りの名人にスポットを当てていきます。


 それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間を少々拝借。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ 


■真田幸村って誰だ?
 さて、16年大河『真田丸』で主人公に選ばれた”日ノ本一の兵”こと真田幸村。

 既に数多くの媒体で喧伝されたことでしょうが、そもそも彼自身は一度も『村』という諱(いみな)を名乗ったことがありません。

 彼自身が書面に認め、生涯に渡って名乗ったとされる実名は(のぶしげ)です。




 この信繁という名は、幸村の父である真田昌幸が十五歳のとき初陣として臨んだ『第四次島の合戦』で討死を遂げた武田信玄の弟・武田(たけだのぶしげ)にあやかったものだとされています。

        

 武田信繁の生涯については、07年大河『風林火山』を御覧になった皆様には馴染みが深いものかと思われます。


 やもすれば、不仲の関係…家督を巡って壮絶な同士討ちを演じる戦国時代の兄弟にあって、彼は兄・武田信玄を忠実に輔弼。”甲斐の虎”と恐れられた甲斐武田家の屋台骨を支えていきます。

 その文武に優れた器量と高潔な精神は、後に山県昌景が『毎事相整う真の将なり(甲陽軍鑑)と褒め称え、その事績に詳しい『甲陽軍鑑』が江戸時代に広まると、庶民からも『まことの武将』と賞賛され、後世に語り継がれるようになります。


 信繁最後の戦いとなった川中島の合戦では、上杉謙信の強襲を受けて窮地に陥った兄・信玄を救うべく、我が身を捨てた激闘の末に討死。
 その首級は上杉方の勇者・柿崎景家が討ち取ったとも、信濃の宿敵・村上義清が討ち取ったとも伝えらていますが、敵味方より『惜しみても尚、惜しむべし』とその死を惜しまれました。
( ・(,,ェ)・) 個人的には上杉謙信贔屓である赤髭も、川中島の合戦は『領土を守りきった武田信玄の勝ち』だと思っていますが、この武田信繁を失ったということに関して言えば『甲斐武田家のボロ負け』だと考えています。

 もし彼が長生きしていれば、信玄と嫡男・義信の相克や武田勝頼と家老達の不和、長篠の合戦は勿論のこと、甲斐武田家の崩壊すら見ることは無かったでしょう。武田信繁はそれほど重要な武将だったのです。



 あの冷静沈着で思慮深い信玄も、このときばかりは信繁の亡骸を抱いて号泣したと伝えられており、その最期に感銘した昌幸が彼の武勲にあやかろうとして次男に同じ名を付けた、とされています。(甲陽軍鑑)  

 こんな由緒正しく感慨深い名乗りを頂戴している幸村が、この名を捨てるとは考え難いですよね。



 では、この”幸村”という名乗りは一体誰が名づけたのでしょう?

 それは、彼が1615年(元和元年)に大坂夏の陣で悲劇の討死を遂げてから半世紀ほど後の1672年(寛文十二年)に成立した『難波戦記(なにわせんき)という軍記物語が初出とされています。

 この『難波戦記』は後世、浄瑠璃や講談の種本として真田幸村の大活躍を伝えたものであり、歴史的な信憑性は大幅に損なわれるものです。


 しかし、この難波戦記が成立した頃から既に『真田幸村』という名前は世間に広く認識されていたらしく、もう少し後…元禄時代に日本の長い長い歴史を『日本史』に編纂した”水戸”こと徳川光圀(とくがわみつくに 1628-1700)

         

 と語り、世間に広まった彼の名前が間違いであることを指摘しています。
( ・(,,ェ)・) 逆の言い方をすれば、黄門様の生きた1650〜1700年には既にみんなが『真田幸村』を本名だと思ってたということですね。


 さらに光圀は『真田幸村は”徳川家に祟る妖刀”とされていた正を大小揃えて腰に差しており、それは豊臣家に仇を成す家康を調伏するつもりでそうしていた』とも言っています。

 つまり、幸村という名前は真田家に受け継がれてきた通字であり、兄である真田信幸が後に江戸幕府に慮って捨てることになる””という字に、徳川家康に祟るとされた魔剣・村正の””を足して出来たものだと考えられます。
( ・(,,ェ)・) 細かいツッコミを入れれば、近年の研究では真田家が連綿と受け継いできた通字は””だったと考えられているそうです。
 幸村の祖父・真田幸隆の名前も”
幸綱”の見間違いが後世に伝わったものであり、幸隆の父は棟綱(むねつな)、嫡男が信綱(のぶつな)だったことを考えればこっちが妥当でしょうね。
 真田昌幸は兄の真田信綱が討死しなければ真田家家督を相続する予定がありませんでした。このときから、昌幸が父から受け継いだ”幸”の字が真田家の通字となったのでしょう。



 また、江戸時代では徳川家康は”生き神様”―――東照大権現として絶対の存在であり、例え民間向けの軍記物でも家康に敵対した真田信繁を実名で持て囃すわけにはいかず、また真田家も歴とした大名として存続していたため、多方面に配慮して当事の劇作家や講談師達が”幸村”という偽名を考えたのかもしれません。


 

 

■真田幸村の合戦履歴。
 真田幸村といえば、戦場では軍神のように勇敢で策略にもたけた武将、というイメージがありますが…。
 
 実は、幸村が一端の戦国武将として軍団を指揮したのは、1614年〜1615年の大坂冬の陣・夏の陣だけだったりします。

 関ヶ原の合戦のときも、信濃上田城で父・真田昌幸の指揮下で部隊を率いただけ。独立軍団を率いた実戦の武将としては、『めだたない』と評判の兄・真田信幸のほうが経験も戦歴も多いんです。世間の評価は真反対ですが。
( ・(,,ェ)・)



 真田幸村の風貌。

 また、かっこいいということになっている風貌も疑問すべき点がちらほら。
 


 真田幸村が大坂城に入り、豊臣秀頼の家臣となったのは1614年、幸村48歳のこと。



 当時の感覚では立派なおじいさんで、自筆の手紙でも『最近、白髪が増えた。』『が抜けてしまった。』などと愚痴っていたり、信頼ができる資料には『禿げあがった額に3〜6pほどの刀傷痕がある、温厚そうで小柄な人』という記載があります。


 
 また、当時の大坂城には日本全国津々浦々から豪傑や元大名が集結していたため、幸村の風貌や経歴はあまり目立つものでもありません。


( ・(,,ェ)・) ぶっちゃけ、家康も『大坂城に入った連中で”武士”と呼んでいいのは後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ』なんて言ってます。
 幸村、ノーマークだったんですね。



 あんまりにも風貌がぱっとしないので、大坂城にはいるまえに門番が止めた、なんて話があるくらいです。

 
真田幸村はこの冴えない顔のおかげで、数々の作戦や提案を豊臣軍の上層部、淀殿や大野治長に却下されたとも。





■真田幸村の軍旗、不惜身命の六道銭!!
 そして、真田幸村といったら『六連銭の軍旗』ですが…大坂の陣では、幸村はこの旗を
使用していません。



 当時、徳川家には兄の信幸が真田家嫡流の大名として仕えていましたし、大坂城を囲む徳川軍には信幸の子、幸村にとって甥にあたる真田信吉・信政兄弟が居たため、これみよがしに六連銭の軍旗を掲げると非常にややこしいことになります。
 
 また、幸村が六道銭の軍旗のもとで大暴れをすると、家康がそれを恨んで真田本家を取り潰しかねませんので、幸村はそれを避けたかったとも言います。




実際の幸村は、刺繍…真っ赤な旗に金色の糸で四角く縁取りした旗を使っていたようです。



 ■真田幸村の赤備え、まっかに燃える戦闘軍団…は?

 駄目押しをするなら、真田軍の象徴とも言えた真紅の軍…備え(あかぞなえ)も、これまた真田幸村と、大坂城には居なかったんじゃないかなと考えられます。

 
 理由は、『幸村にそんなものを揃える余
があるとも思えないから。
 
 

 幸村は関ヶ原の合戦で西軍について敗北、兄の助命嘆願で死罪はまぬがれましたが、和歌山県の九度山に罪人として流され…そこで十四年もの歳月を過ごしました。
 

 いちおう、生活資金の援助は真田本家から仕送られていましたが…それは満足な価格ではなく、幸村は『真田』と呼ばれるカラフルな紐を内職で編んだり、知り合いに借金を頼みこむなどして貧乏暮しにあえいでいたといいます。

 現在も残されている真田昌幸・幸村親子の九度山配流時代の手紙の内容も…

『こないだ申し込んだ借金は前金として半分送って貰ったが、こっちもお金がない。頼むから残り半額もいち早く送って欲しい。』とか、

『瓶を送りますから焼酎を詰めて送り返して下さい。恥ずかしい話しですが、ふちギリギリまで一杯に詰めて送り返して下さい…。』など等。

貧乏っていうか、赤に近いですよね…。











 そんな人が、大坂城に招かれたからといって…すぐに真っ赤な鎧兜や、それを着て貰える家来に恵まれたとは考えにくいですよね。


 戦場での具足はすべて手作りですし、ペンキなんていう便利なものがなかった時代、鎧に赤い色をつけるのも結構な手間暇とお金がかかります。

 今と違って、全部が全部職人さんの手作りなのですから…人件費を考えれば、一年足らずで真っ赤っかの軍団が出来たと考えること自体に無理があるんです。

 また、大坂夏の陣・冬の陣での戦いで豊臣秀頼の御膝元である大坂と堺の町は焼け野原になってしまいました。槍や火縄銃の確保は勿論のこと、鎧や兜・具足を作る職人を召集することは相当難しかったでしょう。


 また、本家本元の赤備え…当時は徳川家に仕えていた元武田家の家臣たちも、あちこちが剥げて色あせた赤い鎧兜を着て大坂城の攻撃に参加したことが伝わっています。

 家康は彼ら古武士の戦馴れした色褪せてる赤備えを賞賛しつつ、自らが命じて編成した井伊家の『新生赤備え』が金にものを言わせてギンギラギンの真っ赤っ赤備えだったことには『なんだあのピカピカしたガキどもは!?!あんな調子で戦働きが出来るわきゃねーだろう!!!』と強く憤慨した、なんて話もあります。
 
 
■けど、幸村っていえば問答無用に燃えてヒーロー!!
 けれど、そんな冴えもなければ見栄えもよくない真田軍が見せた命がけの突撃は、徳川家康の心胆を凍りつかせるようなすさまじい破壊力を発揮して…徳川軍の本陣を壊滅。家康をあと一歩というところまで追いつめました。

 このときのすさまじい大活躍が、『一発屋』などという不名誉な称号を感じさせないほどのインパクトを戦国武将達の記憶に刻みつけ、あの命知らずで知られた薩摩隼人達からも『真田こそ日本一の武将!!』と絶賛され、一躍脚光を浴びます。
 
 その後、江戸幕府が色んな政治で世間をがんじがらめに束縛していくなか、庶民のうっぷんや不満は”日本一の武将”真田幸村を『徳川将軍家を恐れさせた唯一の存在』、いわゆるアンチヒーローとして偶像(アイドル)化し…幸村は講釈や舞台劇といった空想物語で不動の人気を獲得します。
 
 
 そして、それが三百年続くうち…いつのまにか、今のような若くてハツラツとした二枚目の英雄へと成長することになりました。言ってみれば、三百年に渡る幸村Fanの思いが少しづつ彼の実像を書き換えていった、というべきでしょう。
 
  もうすぐ死後四百年を迎える真田幸村、はたして今の名声や若者人気をどんな風に思ってるのやら。
 
 
 …――きっと、歯の抜けたやわらかい愛想笑いを浮かべて、雲の上から見下ろしてるんでしょうねえ。


…―俺は、そんなカッコよくないぞって。
(* =(,,ェ)=)


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