■さて、今週も言ってることの説得力とか信憑性は二の次、だけど戦国武将の意外かつ知られざる物語を紹介していく『戦国武将のウソ・本当物語』のお時間がやって参りました。
何年たっても抜けない赤髭文章の悪癖である『かたっくるしい言葉使いや専門用語の雨あられ』を極力排除し、初心歴史Fanにも判りやすく楽しめる…ちょっとした戦国トリビアコラムを目指すこのコーナー。
今週第二回は、先週ご紹介した真田幸村の義父にして石田三成の親友・『大谷吉継』のウソ本当にまつわる小話です。
昨今では戦国歴史Fanに絶大な支持のある三成と幸村を繋ぎとめるキーマンであり、その生き様が死後四百年を経た今でも賞賛される義侠の士。
関ヶ原の合戦で凄絶な最後を遂げた白覆面の闘将・大谷吉継を少し違った角度で切り込み、そこから見える歴史秘話をお届けいたします。
それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間を少々拝借。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜
■関ヶ原に散った白衣の義将。
大谷吉継(おおたによしつぐ 1559〜1600
紀之介・吉隆・刑部少輔)と言えば、昨今では女性歴史Fanの人気も高い石田三成にとって無二の友であり、前回採り上げた真田幸村の正室・竹林院(ちくりんいん)の父親…幸村にとって舅(義父)にあたる武将。
戦国乱世ではあまり堅持する必要がない感情…"義"という心を重んじた名将であり、関ヶ原の合戦では病で動けなくなった体を輿に乗せ、見えなくなった眼で采配を握り続けた勇敢な武人でもありました。
そんな吉継ですが…関ヶ原の合戦で西軍についた武将では屈指の大活躍、三成とは豊臣秀吉の小姓として一緒に仕えた同期の同僚ながら、西軍について当たり前というほどの関係でもなかったようです。
関ヶ原合戦では旧来の友情を重んじ、敗北必至とわかっていながら三成方についた、という話がありますが…そもそも、吉継が開戦直前に三成の居城・佐和山城に立ち寄ったのは、徳川家康の起こした上杉家討伐の軍勢に参加するためでした。
どちらかと言えば、彼は家康から深い信頼を受けていた親徳川派閥の武将だったんです。
吉継が佐和山城に寄り道した理由は、三成の嫡男・石田重家を大谷軍として徳川家康に引き合わせ、大坂方と関東方の仲を取り持つつもりだったのです。
しかし、そこで三成から挙兵・徳川家康討伐計画を告げられたということ。
大谷吉継が三成の挙兵が失敗に終わることを予想し、三成に思いとどまらせようとしたのは、彼が親徳川派閥の武将としてその内情を知っていて…今の三成や西軍所属の大名達では家康に勝てそうにないことを、よーく知っていたからなんです( ・(,,ェ)・)。
もっとも、彼の娘婿…真田幸村は『舅の吉継殿が石田三成に与するのなら、義息の自分も西軍に着かなきゃならないだろう。』と判断して西軍所属になったと言いますから…ここでもし、あくまでも吉継が家康への義理を通していたなら、関ヶ原の東軍には赤い六道銭の旗が二つ揃い、幸村は兄・信幸と揃い踏みで西軍を蹴散らしていたのかも知れないんですけどね…。
■大谷吉継の顔はなぜ崩れた?
さて、関ヶ原合戦では白い頭巾と覆面で顔をおおい隠していたという吉継。
彼の顔が崩れかけ、膿が垂れ落ちていたという病状が縁で、石田三成との友情が芽生えた…のは、戦国武将Fanなら有名な話ですよね。
1587年、大坂城で行われたある茶席の座で、三成と吉継が同席した際…同じ茶碗で濃茶をふるまう場で、吉継が茶碗のなかに膿を落としてしまう。
吉継の病がうつることを恐れた武将たちは飲むふりをして口をつけなかったけど、石田三成だけは堂々と飲みほして見せ…それに感動した吉継が三成と刎頸の契り、たとえ首を切られても悔いはないというほど深い友情関係を結んだというお話ですが…。
そもそも、吉継の顔はなぜ崩れてしまったんでしょう。
はい、ご明察。…らい病(ハンセン氏病)によるものではないかという説がありますね。
ハンセン氏病はかつて、わが国でも『らい予防法』の名において伝染病として認定され、患者の意思に関係なく療養所に強制入院させられるなど差別の時代もありましたが、2009年にらい予防法が廃止になったため、今では名誉が回復しました。
しかし、誤解されないよう言っておけば、らい病(ハンセン氏病)に罹患しても、顔が崩れたり膿が出るといった症状が出るわけではありません。
どちらかと言えば顔の皮膚が堅く引きつるような症状が出るはずですから、吉継の場合は正反対です。そして、そう簡単に第三者に伝染するわけでもありません。
ですが、吉継は顔が崩れて膿が出、晩年には失明してしまい…醜顔を見られるのを避け、頭巾と覆面をしていたと言います。なぜそんな症状が出たのか。
戦国時代に日本で流行していた感染症で顔が崩れ、膿や分泌液が出、失明など視力障害が出る疾患といえば…――豊臣秀吉や加藤清正、黒田如水や結城秀康といった戦国武将たちも罹患したといわれる、あの疾患の第二〜三期症状が考えられます。
…――なんのことはありません。もうすぐ再ドラマ化される『日曜劇場 -JIN-
』でも採り上げられていましたが…『梅毒』です。
■戦国時代に流行した『業病』と戦国武将の関係。
元々、梅毒は北アメリカを発祥地とする疾患で日本在来の病気ではありません。
1492年、イスパニア王国(現スペイン)の支援を受けて西回り航路を開拓しようとしたコロンブスがアメリカ大陸を発見し、その際に乗組員が『ヨーロッパに持ち帰った』ものだとされています。
ちょうど、当時の西欧諸国は大航海時代のまっただなか。性交渉によって他人に感染するというこの病気は、一説によれば13年間で世界中に伝播していったとされています。
それから50年もしないうちに、ポルトガル人が1543年に日本の種子島に上陸、日本と交易する南蛮貿易が盛んになると…梅毒もまた急速に蔓延し、あっというまに日本中に広がっていきました。
何せ当時は医学もさることながら、いつ命を落とすかも知れない戦乱の時代…『やることや娯楽がそう多くなかった』日本人。
戦国時代の終わり頃には、合戦場にも売春目的で出入りする遊女がたくさん居たそうですから、広がるのも早かったんでしょうね。( ・(,,ェ)・)
しかし、当時は梅毒トレポネーマ(梅毒の病原)による性感染、それを治療するペニシリンが知られていなかった時代。
ましてや一般大衆の階級では薬や医者にかかることも出来なかったでしょうから、梅毒に罹患した人たちはわけも判らないまま病状が進行、死に至りました。
それは戦国武将とて例外ではなく…あの虎退治で有名な加藤清正の急死や、天下人の太閤・豊臣秀吉の晩年に起きた狂気的な朝鮮・明朝侵攻作戦は脳梅毒によるものだという説があるほど。
徳川家康に限っては、本人も側室も梅毒に感染し、次男の結城秀康は垂直感染(母体を通じて胎児が感染すること)により生まれてまもなく罹患したといわれていますから…吉継の病状も、この梅毒によるものではないかと考えられています。
いったいナニが原因で梅毒になったのか判らなかった当時の日本人が原因として考えたのが、業病(ごうびょう)という考え方です。
こんな病気にかかったのは己の"業"…現世や前世であまり良くない行いをした因果が報いた結果。
…つまり、生まれてからや生まれる前に天罰が下るような悪事をしたのが原因、悪いことをしたからこんな厄介な病気になったんだ、という思想でした。
実際、梅毒は病状が進行すると脳神経や視神経・臓器とあらゆる方面に障害をきたし、それはあたかも天罰を受けたかのようでしたし…それまで日本にあったような病気とはぜんぜん違った病気でしたから、本当に『自分の行いが悪かったからだ』と言われても疑えなかったんでしょう。
…―――戦国武将なら、いくら明日を生きるためとはいえ…人も殺しますし、だまし討ちや略奪もやります。梅毒の原因がこういう思想によるものだと信じていたなら、罹患してもしかたないーって考え方だったようです。
■なお、現代の日本では梅毒の特効薬・ペニシリンがありますので、早い段階で治療をすれば障害が残る後遺症や死に至るケースはめったにありません。
■大谷吉継が『業病』を払うためにやったことは?
さて、そんな己の『業』が梅毒の原因と考えられていた時代。
当然、そんなに高価な医薬品や治療法を試すことも出来ず、おまじないや医学的観点で考えると、正しくない・もしくはとんでもない行動をとっていたようです。
たとえば、『薬師如来を信仰』すれば治る、『百日間の水ごり(水に浸かる神道的な修行法)』で治る…──果ては『もう梅毒に罹患してる異性を抱けば治る』などなど、病理的に考えても全然治療にならない行為が業病を癒すと信じられていたほか…。
おっそろしい話ですが、『人の生き肝を食べれば治癒する。』なんていう凄まじい迷信もあったようです。
吉継がそんな人の道を外れた治療法をしたとは考えたくありませんが…――。
…――実は吉継、患っていた業病を癒すために、とんでもない迷信を実行に移していたという噂があがったことがありました。
その迷信とは、『業病は、合計千回の辻斬り…いわゆる”千人斬り“を達成すれば治癒する。』というもの。
とんでもない願掛けがあったもんだ、と皆さんおどろかれるかもしれませんが…戦国時代は非科学的知識が先行し、人の生命や魂には、神秘的なご利益があると信じられている時代でした。
戦国武将が敵の首を討ち取るのは、人間の首に宿る魂を自分の味方につけることで武勲が上がり、加護を得られるという考え方があったからこそ。
また、戦場で討ち取った首は『首実検』(くびじっけん)と呼ばれる、大将が見聞する儀式がありましたが…この首実検、参加する人全員がちゃんと鎧兜で武装した格好で行うのが通例とされていました。
なんで武装を解かずに首実検をするのかといえば、実は『討ち取った敵の首が飛んできて、噛みつこうとするのを防ぐため』なんです。オカルトじゃあるまいし、ふつーは信じられないですよね?
けれど、こんな思想がまかりとおって信じられていた時代だったからこそ、千人の命を奪えば業病が治癒すると信じられていたのかもしれません。
大坂城下で犯人不明の連続辻斬り事件が発生した際、取り調べをしていた役人や武将達は本気で『大谷刑部が辻斬りを繰り返して、業病治癒の願掛けをしている』と信じたといいますから、吉継個人の思想意外にも、偏見や風評はかなりひどかったとも考えられます。
■しかし、石田三成との友情は永遠。関ヶ原に散った不屈の驍将は死んで伝説に。
ですが、大谷吉継がそんな迷信に振り回されるような意思の弱い人間だったのかといえば…――それも違うのではないかと思いますよ。
関ヶ原合戦で大谷吉継が指揮していた兵数は、約千五百〜三千人。
万単位の軍勢を率いた戦国武将たちが激突した関ヶ原合戦では、本当に数勘定にあわないような寡兵でしたが…大谷吉継はこのわずかな軍勢を、ある味方武将の隣に布陣させます。
その武将の名こそ、あの小早川秀秋。
関ヶ原合戦で西軍が大敗する世紀の裏切りを演じた武将です。大谷吉継は小早川秀秋が離反、徳川軍に寝返ることを確信していたとされ、その裏切りの際には必ず戦ってやると心に決めていたといいます。
そんな吉継本人も、当時優勢と考えられていた徳川家康軍に着くことも出来たというのに。しかも、小早川秀秋の軍勢は一万五千人から二万近い大軍、自軍の五倍から十倍。普通に激突したら、まず大谷軍は生きて帰れないでしょう。
なのに、吉継は最後まで三成のために命を張り通したんです。
徳川家康は、大谷吉継が西軍についたと聞いて『んなアホな!!!(#゚Д゚)』とびっくりしたそうですから、裏切ればきっと恩賞にありつけたでしょう。
それでも、吉継は動かなかったのです。
きっと勝てはしないという合戦で、かつての友情に応えるために。
既に業病が進行し、足も動かせず、一説には失明までしていたという体を押して…小早川秀秋の軍勢が案の定徳川軍に寝返り、攻撃してきたときには僅か六百の兵を指揮して、これを二度も三度も
押し返すほどの激闘ぶりを演じて。
そんな吉継の心意気に打たれた戦国武将も、また多く。
関ヶ原合戦で西軍の敗北が決定的になたっとき、同僚の平塚為広は『あんたのために戦って、どうやらあの世に行けそうだが…この命、惜しいとは思ってない!!』という意味の辞世の句を吉継に送ったのですが…吉継が返した和歌もまた、辞世の句でした。
契りあらば 六の巷に まてしばし
おくれ先立つ
事はありとも
『…――あぁ、死んだら三途の川の前当たりで待っててくれ。ちったぁ送れることもあるだろうが、俺もかならず其処に行く!!!』
…―――こんな鬼格好良い最後のセリフが吐ける人が、業病なんかに惑わされて百人も千人も、罪無き命を斬ったりするはずないじゃないですか。(*-(,,ェ)-)