戦国武将のウソ・本当物語 第三回 武田玄 【前編】


■『あれ。何か最近、大河『江』がだんだん面白くなってきた気がする』『いや私は鉄板の保守派歴史痛、それはないわ( ;・`ω・´)』とか人知れず&どうでもよい葛藤と戦っている今日この頃。戦国歴史fanの諸兄姉様方はいかがお過ごしでしょうか。

 さて、今週も…言ってることの説得力とか信憑性は二の次、けれど知っていたら戦国武将Fanのお友達に自慢できるような無駄史実…歴史の意外かつ知られざる物語を紹介していく『戦国武将のウソ・本当物語』のお時間がやって参りました。


 何年たっても抜けない赤髭文章の悪癖である『かたっくるしい言葉使いや専門用語の雨あられ』を極力排除し、厨二っぽい表現を抑えて初心歴史Fanにも判りやすく楽しめるコラムを目指すこのコーナー。

 今週第三回は、大河『風林火山』でも大活躍している戦国最強軍団の総司令官にして百戦百勝の元帥『武田信玄』のウソ本当にまつわる小話です。有名な人物ですので、前後編の二回に分けて御紹介していきます。

 越後の龍・上杉謙信最大の好敵手である甲斐の虎。
 あの徳川家康を半泣き級の惨敗をお見舞いし、戦国の覇者・織田信長を震え上がらせた巨獣。

 庶民に英雄視されること既に五百年近いという人気戦国武将のはしり『武田信玄』の実像へ鋭い角度で切り込み、そこから見える歴史秘話をお届けいたします。


 それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間を少々拝借。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ 



■武田信玄、七変化。

 武田( 1521〜1573 太郎・晴信、徳栄軒信玄、大膳大夫)と言えば、今まで大河ドラマを始めとした様々なジャンルで取り上げられた有名戦国武将。

 昨今では女性歴史Fanの皆様に人気が高い真田一族の主君であり、『越後の龍』こと上杉謙信のライバルとして、隠れない名声を得ている戦国大名の代名詞ですが…。

 逆に言えば、有名すぎて実像がかぎりなくぼやけてしまっている武将のひとりです。



 いかに、真たる実像から離れてしまっているか。
 その最たる例が、まずいきなり『信玄の顔』に表れていたりします。




 この肖像画に描かれた武将はいったい誰ですか?


 …――はい、有名な『武田玄像』です。
 
  高野山成慶院所蔵のもので、歴史の教科書でもおなじみの顔ですが…戦国歴史Fanを自認する方々なら耳にしたことはあるでしょうが、どうも最近になってこの像は武田信玄』を書いたものではないということが有力になっています。

 そもそもこの像が武田信玄像であるというのは、後年になって出羽米沢藩の上杉家に仕えた信玄の子孫が『武田信玄の像です。』と一筆書いて高野山に送ったから、とされているのですが…


 …――なにせ現代と違って美術品の価値や管理があいまいな時代、送るほうも受け取るほうも記録が硬くない。この像も、その過程で何かの手違いにより誤認されて現代に伝わったのでは、とされています。

 それ以外にもこの像が否定されている原因はいくつかありますが、まずひとつが『甲斐武田家の家紋である武田菱がどこにも描かれていない。この像の人物が服や刀につけている家紋は二引両である』ということと、そして『出家したはずの武田信玄なのに、後頭部をよーーく見ると小さく髷がついている。』という事実。


 しかし、それ以上に考えにくいことがこの絵には隠されています。


 『武田信玄が、こんなに恰幅がよくっているとは考えにくい』からです。




 武田信玄、出家する前は武田大膳大夫晴信ですが…若い時は『顔の腺が細い白面の男前で、男女かかわらず様々な浮名を流した恋愛に奔放な』武将であったと伝わるほか、なにより『若年期より持病持ちで病弱』だったという記録が残っているんです。



 ちなみに持病とは『労咳(肺結核)だと考えられていますので、当時の医療や栄養学、戦国武将達の平均的な栄養摂取を考えると、あんなふうに太るというのはちょっとおかしいわけです。( ・(,,ェ)・)




 皆さんが思い浮かべる理想的な武田信玄像…


 白い毛で覆われた武田信玄独特の兜『諏訪法性の兜』に、袈裟がけの甲冑具足をまとった赤ら顔の堂々とした入道姿。

        


 というのは、信玄が江戸時代から今日にいたるまで、英雄として庶民の間で高い人気を誇った戦国武将だったため…


 浮世絵や風俗絵で『豪傑である』というイメージが積み重なっていった結果からきています。

 


 この絵は、素姓のはっきりしていない高野山成慶院のものとは違う、高野山持明院が所蔵している別の武田信玄像です。

 有名な先ほどの像とは違い、こちらはずいぶんとスマートな印象を受けます。




 1988年の大河『武田信玄』では、俳優の中井貴一さんが信玄役を好演、髪も剃らずに通すことで武田信玄のイメージを二重に覆していましたが、こうして様々な肖像画を見ていると、的外れでもなかったことがよくわかりますよね。




■名だたる甲斐武田家の騎馬武者か、ますます身震いが…ってあれ?

 …次に、有名な勘違いが『甲斐武田家自慢の騎馬軍団』が挙げられます。

 武田信玄の本拠地があった甲斐国(現山梨県)や信濃国(現長野県)には平安時代以前から、御牧(みまき)と呼ばれる朝廷や公家に献上される馬を飼育する牧場が多く、それを利用した武田信玄はほかの大名家とは規模の違う騎馬軍団を持っていた。

 そして、その騎馬武者の突撃の凄まじさと勇敢さで近隣の大名、徳川家康や織田信長をふるえあがらせた、というのですが…
 

 
 …――はい、これも最近では戦国時代ブームのおかげで様々なメディアで取り上げられ、有名になりましたが

『城跡などから発掘される馬の遺骨などから推測すると、当時の日本産の馬は今日に競馬場で見られる馬…体重500`を超えるサラブレッドと比較するととても小さく、今の区別でいえば馬体重250kg、体高も”ポニー”になってしまう。
 総重量80sを超えただろう鎧武者を乗せて戦場を戦ったとは思えない

という話。 
 
 確かに、官営の牧場が多くあったとはいえ甲斐武田軍の騎馬武者率はそう高いものでもありません。
 有名な川中島の合戦でも、軍忠状などから推定される武田軍の騎馬武者率は10〜12%。ざっと見積もっても二千人くらいしか居なかったことになりますし、
 
 
 まぁ、いろいろあるのですが…そんな事実よりも何よりも、勘違いなのは。

 …当時の日本産馬では鎧武者を支えられないとか数が少なすぎるとかいう以前に、『戦場で騎馬武者は、馬に乗ったまま敵と戦ったりしなかった』ということ。



  戦国時代を題材にした映画やドラマ、マンガなどでは騎馬武者が馬首を並べて敵陣に突撃していく場面がよく登場しますが、これは、前に赤髭が何かの機会でお話した『意図して無視されている時代考証』のひとつなんです。

 
 武田信玄という英雄の一代記である『甲陽軍鑑』にも、甲斐武田軍の騎馬武者は戦いが始まったら『馬から降りて戦った』と書かれています。
 武田の騎馬軍団の総家本元が、じぶんとこの教科書にそう書いてるわけですよ。
 
 
 武田騎馬軍団が崩壊した光景を描いた有名な絵に『長篠合戦図屏風』を見ても、騎馬にまたがって火縄銃に撃たれている武将は居ますが、馬に乗ったまま戦っている武者はごく少数しか描かれていません。


 
  屏風の中央左上には甲斐武田家の老臣・馬場信春が敵に討たれる最後が描かれていますが、無敵の騎馬軍団でも『不死身の鬼美濃』とおそれられた豪傑である馬場信春が馬に乗らずに戦っているのは、それが常道とされていたからなんです。

  
  考えてもみて下さい。鎧武者と違って馬は装甲なんてほとんど着てません。武将を撃ちたいならまず馬を射ろ、という有名な言葉はなにも最近の話ではなく、既に室町時代初期には常識だった戦術なんです。
  
  戦国末期ともなれば、合戦場は長さ5m以上もある長槍と、空が真っ暗になったといわれるほど大量に撃ちはなたれた弓矢、そして具足すらも撃ちぬく火縄銃の時代。
  
  
  貴方に殺意を持っている相手が三十人ほど団体を組み、おのおのが『ものほし竿の先端に包丁をくくりつけたもの』を構えて迫ってくる。その後ろからは、ボウガンを構えた団体がすさまじい勢いで矢を撃ってくる。
  
   そんな団体へ、50ccのスクーター(自動二輪中型免許があるなら250ccでも結構)に乗って、真正面から突撃したらどうなると思います?( ・(,,ェ)・)
  
  
  当時の戦場での心構えを記した書物に『犬槍』という言葉があります。
  
  
 これは戦場での槍の使い方のうち『やっても無駄なこと』『やっても手がらが立てられないからしないように』という槍の使い方を示したものなのですが、その犬槍のなかの一つにはっきりと

馬に乗ったまま槍を使うこと

 と記されています。これは、馬に乗って戦うより、地面にちゃんと足をついて槍を使わなきゃいけないということですね。

  
  『やあやあ我こそは!!』という名乗りから始まる決闘じみた平安〜室町初期の合戦とは違い、戦国時代はなんでもあり。馬に乗ったまま戦うこと、槍を振るうことはまさに『犬死に』になりかねなかったんですね。( ・(,,ェ)・)


■川中島合戦で最大の見せ場!!『啄木鳥の戦法』は可能なのか?
 さて、そんな武田信玄最大の見せ場といえば、宿敵・上杉謙信と五度に渡って戦ったという川中島の合戦。

 その四回目である第四次川中島…『八幡原の合戦』では、信玄が本陣とした川中島の北部・海津城に対し、上杉謙信はなんとその南側である妻女山に陣取。

 越後への退路となる善光寺を向こうに見るという大胆不敵な謙信の策戦に対し、信玄の軍師・山本勘助が『啄木鳥の戦法』を献策し、信玄はこれを実行に移します。


 …勘助の立案した『啄木鳥の戦法』とは、部隊を二手に分けて別働隊を編成、その部隊に謙信の背後を奇襲させる作戦。

 これも有名な話で、今まで様々なメディアで再現されてきた戦国合戦の一大事件…大河『風林火山』では最終回にあたる最大のホットスポットなわけですが…。
 
 
 これも、近年になって無理があるという説が数多く浮上して来ました。
 
 まず、そもそも上杉謙信が妻女山に陣をとるのが無理という説。

 妻女山周辺には武田信玄が築いた幾つもの砦や山城があり、そんな場所を謙信がいきなりたやすく占拠できないこと、妻女山は狭く険しい場所で、謙信軍一万以上が陣を張れる余裕がない、などなど諸説理由もありますが…。

 
  そんなことよりも、何よりも。( ;・`ω・´)

 
 甲斐武田軍が編成した別働隊は山県昌景・馬場信春らが指揮する軍勢一万二千。この数にはあるていどの誇張があるでしょうが…ぶっちゃらけて言うと、彼らが上杉謙信軍の背後に『奇襲をしかける』、ということ自体が不可能です。 
 

 ずばり、原因は『物音』です。頼山陽の有名な漢詩『鞭声粛々、夜河を渡る…』と、当時の大軍勢が夜の闇を縫って敵を襲う様を表現する詩ですが…

 実は、ある学者さんが『戦国時代の武装をした兵士一万人が移動するとどういうことが起きるか』ということを検証、規模をある程度落として実験してみたというのですが…。



 『移動中に、足軽の足音や具足がこすれる音、槍が当たる音や話あう声のおかげで、”昼間の渋谷交差点並みの騒音”が発生した』という結果が出たそうです。


 その軍団の動く音は、10q離れた場所からでも余裕しゃくしゃくで聞こえたんだとか。隠密行動の奇襲作戦もへったくれもあったもんじゃありません。 

 そんな騒音が出てちゃ、どんなに上杉謙信が深酒好きで熟睡出来るタイプだったとしても…っていうかバカでも気づきます。

 戦国時代を生きた武田信玄がこれに気付かないってことは少々考えられませんし、それを承知なら上杉謙信が妻女さんを降りて真正面から突っ込んでくることは予想出来たはずですので…きっと、川中島の合戦も実際の光景はかなり違っていたのではないでしょうか。( ;・`ω・´)
 
 
 ■さて、後篇では『武田信玄』に数多く関係する伝説の数々…影武者武田信玄やその最後、有名な格言などについて御案内いたします。

戦国武将のウソ・本当物語 第三回 武田信玄 【後編】




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