いざ尋常に、負!? 戦場での思想と戦術の変遷【第回】


■『いざ尋常に、勝負!? 戦場での思想と戦術の変遷シリーズ』は当初前後編二回で
お送りする予定でしたが、文章推敲の結果二編で収まりきらないことがはっきりしたため、
急遽前中後編三回でお送りすることになりました。
回編成でお送りすることになりました。 (・(ェ,,)・ )。oO(あきらかに中編が長すぎます。 )




 さて、文字通りの命懸け、修羅場に手柄と命を賭けて合戦場に赴いていく『戦国武将』と、その御先祖様…本年の大河『平清盛』に登場する平安時代末、黎明期の平安武士に関連する話題を桶屋が大けしそうな展開で長々と解説していく『いざ尋常に、勝負!? 戦場での思想と戦術の変遷』シリーズ。

 今夜はその第三回をお届けしたいと想いますが…。


         


 豊臣家の誇る二枚看板、武断派の双璧である桶屋(福島正則の実家は桶屋)鍛冶屋(加藤清正の実家は鍛冶屋)に話の展開を読まれてしまいましたが、御明察。


 今夜も『平安武士』の御話、本題に入る前にわん・くえすちょんm9っ;・`ω・´)

 本年大河ドラマの原作ともいうべき『平家物語』、その栄枯盛衰の一大叙事詩を愛してやまない大Fanだったという戦国大名・上杉にまつわるエピソードからです。

 の織田信長さんがリードしていますがまだ まだ どなたにもchanceはある。
冷静かつ大胆に参りましょう次の問題ですどーぞ。

(しつこくアタック25の故・児玉清さん風に)


 

 上杉謙信がまだ二十歳、名前も『長尾景虎』時代…世は1549年頃のこと。

 謙信には石坂検校(いしざかけんぎょう)というお気に入りの琵琶法師があり、彼と二人酒を交し合いながら様々な教養や知識を得ていました。

 そんな検校が得意だったのが、平家琵琶の伴奏と共に語られる『平家物語』。

 謙信も彼の語り口調と物悲しい琵琶の音色、諸行無常の響きと共に話し聞かされる平家物語を愛し、たびたび耳を傾けていたそうですが…毎回、あるくだりに差し掛かると謙信が
を流してしまう、ということがあったそうです。

      


 さて…―戦国の覇者・織田信長が唯一その武威を恐れ、甲斐の虎・武田信玄の好敵手でもあった大剛の驍将である越後の龍・上杉謙信、その彼が聞けば必ず泣いてしまっていたという『ある場面』とは?


 一ノ谷の合戦で源氏軍の熊谷直実(くまがいなおざね)が平家武将・平敦盛(たいらのあつもり)と一騎討ちした際、彼がまだ十七歳だったことを理由に見逃そうとするもかなわず、泣く泣くその首級を討ち取る悲哀の場面。

 源平合戦の最終決戦・壇ノ浦の戦いで平家滅亡を悟った平知盛(たいらのとももり)が『もう栄華も滅びも、見るべきものはすべて見た。』と、大鎧二領を着込み瀬戸の荒波に入水自殺する、盛者必衰の理をあらわす場面。

 時の帝・二条天皇の御所だった清涼殿に夜な夜な出没する妖怪・(ぬえ)を退治する話で、源氏の勇者・源頼政(みなもとのよりまさ)剛弓を引いて妖怪に強矢を喰らわし、従者が取り押さえて刀でとどめを刺した、という勇敢な場面。



 『あの上杉謙信を涙させたというからにはきっと相当に涙腺に来るヘヴィな諸行無常、盛者必衰な話であろうことは間いないだろうから、もしくはだろう…と、実質二択問題じゃないか。』と思われた読者の方も多いかとは思いますが…。

 





 実を言うと解はだったりします。


 本来であれば時の帝を悩まし、朝廷と内裏を恐怖のどん底に陥れた魔性の妖怪・鵺を源頼政が三尺(約90cm)の強弓で射撃し、みごと退治するという…いかにも戦闘狂の謙信が好きそうな、平安武士の武勇談展開だというのに。

 なぜ謙信は泣いていたんでしょう?




 実は、平安京と平城京は知る人ぞ知る界都市。

 鬼やら妖怪・物怪の類、百鬼夜行やら、超常現象やこの世のものではない魑魅魍魎(ちみもうりょう)、そして怨念と悪霊が跳梁跋扈とかいう伝承話は枚挙にいとまがないほどで、ゲゲゲの鬼太郎もビックリな領域でした。

        

 一昔前に話題になった『陰陽師』や祈祷師はもちろん、平安武士も多数の妖怪退治に参加したことが伝承に残されています。(もちろん、多分にフィクションを含むものでしょうが)



 そして源氏といえば、妖怪退治でも数え切れないほどの武勲を挙げた筋金入りのエクソシスト一族なのです。

 この源頼政のほかにも源頼光と四天王は、京都は大江山に居たという大鬼・酒呑童子を退治した伝説がありますし…

 茨木童子の腕を切り落としたと伝承される太刀で、重要文化財に指定されている『童子切安綱(どうじぎりやすつな)は源氏の一門である渡辺綱(わたなべのつな)の佩刀と伝わるもの。



 また、『いざ尋常に、勝負!? 戦場での思想と戦術の変遷』第二回で登場した源氏でも最高の武人・八幡太郎こと源義家も凄のゴーストスィーパー(懐かしいなォィ)

 彼が持っていたは置いてあるだけでも鳥羽天皇に憑りつこうとした妖怪を退散させ、『義家ここにあり!!』と唱えながら弓の弦を鳴らせば、たちどころに悪霊は消えうせると言われるほどの退魔力があるとされていました。

 それほどに源氏の、平安武士の神秘的な武勲は素晴らしかったのです。


 しかし、そんな源氏の武威も頼政の頃…大河『平清盛』の頃にはかげりが見えたのか、脅せば逃げていたはずの妖怪へ実際に弓を撃ち、それでも殺しきれずに従者が刀で止めをささねば鵺を退治することが出来ませんでした。

       

 謙信はこう言って、平安時代の武士と比較しても戦国武将の偉勲は衰えてしまった…と嘆き悲しみ、平家物語を聞き杯を傾けながら遠い過去の先輩達を思い、涙していたというわけで。

 要するに悲し涙ではなく悔し涙だったんです。


 まぁ…。

 そんな越後の龍の無駄な正義感に振り回されて毎年の様に戦い続けていた上杉家の武将達や、無駄に好敵手認定を受けてしまった武田信玄は、きたいどころの騒ぎじゃなかったでしょうけれども、ねぇ…。
 ( -(,,ェ)-)。oO( 信玄も変なのが隣に居たせいで、とうとう上洛出来ませんでしたからねぇ。謙信は二度も達成してますが。)

        





 っと、それた話を元に戻すことにしましょう。

 まぁ、第二回まででお話したとおり…先祖が帝という誇り高き賜姓皇族も代替わりするたびに困窮し、しまいには平家も源氏も出自であるはずの朝廷への反逆者すら輩出してしまいました。

 しかし、いくら地位が凋落したとは元皇族である一端の貴族だった源氏と平氏。

平氏でも源氏でもない一般階級の出身で、もっと貧乏で地位も名誉もない者たちならなおさら悪逆非道に走るだろうな、というのは想像に難くないのではないことですよね。



 大河『平清盛』第一回でも、平安京ですら盗賊野党が跳梁跋扈する時代になり、その鎮圧に都の平家や源氏が躍起になっていた様が描かれていますが…。

 実際、京都の治安はかなり悪化しており、あの藤原道長の子・藤原頼宗(ふじわらのよりむね)の屋敷ですら盗賊の大群にわれ、家財を略奪されて焼き討ちされる有様。

 平安武士達も、そんな悪化の一途を辿る治安維持のためには名誉だ律儀だとは言ってられません。
 もはや平安時代も退廃末期、のんきに一騎討ちしながら鎮圧出来るような世相ではなくなっていました。





 しかし、この『天皇家に弓を引いた賊軍』vs『朝廷が編成した正規軍』という、これまでの平安時代にはなかった構図が、まるで紳士の決闘じみた掟法が敷かれ、不名誉な戦い振りをすれば恥とみなされた平安武士の合戦模様と、戦場での思考を大きく変える一大契機となりました。


 なにせ相手は同じ貴族階級ではなく、反人。

 事もあろうに現人神である帝と朝廷に叛旗を翻し、それまでの法や秩序を乱して暴れまわっている反逆者なのです。

 そんな不届き者相手に、前編でお話したような『決闘』じみた毅然とした態度、筋道を通した礼儀作法を通して戦う義理はありませんし、また戦う相手が武士ではなく『賊』や『賊』なら、向こうも向こうでそんなルールを守ろうともしないでしょう。


 こうなって来ると、勇敢で華々しい一騎討ちで勝利を誇るために弓馬の道の鍛錬に明け暮れるのみだった平安武士も『自分外の戦闘補助員』の必要性を考える様になります。




 ですが、平安武士がもともと自分ひとりの一騎駆けで戦場に馳せ参じていたのかといえば、それは違います。


 合戦模様が一騎討ちだけだった初期の頃の平安武士も、自分の所領下にある農民や家中の使用人から動きが俊敏で体の逞しい者を選び、家来として合戦に連れて行っていました。

 彼らは『従者』や『下部(しもべ)、『下人』『所従(しょじゅう)と…その呼び名こそ様々でしたが、いずれにせよ戦闘員であり、騎乗した主人の後をついてまわり武具や馬の誘導など、主に諸雑務に従事していました。

 合戦が起こり一騎打ちが始まっても、後ろで遠巻きに観戦だけしていれば良く、また敵軍も彼らに対して殺傷行為を働くこともありませんでした。


 しかし、叛乱軍や賊軍が相手となればそんな礼儀は通用しません。賊徒は戦闘員・非戦闘員の区別などしないからで、下手をすれば殺されてしまいます。




 そこで平安武士達は『(ばんるい)と呼ばれる、武装軽歩兵を自分の領地内から徴兵するようになります。

 しかし、普段から戦闘訓練に勤しみ武術胆力に優れた平安武士とは違い、伴類は領内から半ば強制的に連れて来られる場合が多かったため、戦場では思ったほど躍しませんでした。



 だって、考えてもみてください。

 生活が豊かなのならともかく、食うや食わずやの貧しい暮らしで日々を送るのも精一杯な平安時代の一般庶民です。それをいきなり命のやり取りが横行する合戦へ無理矢理連れて来たのですから、主人への忠誠心は勿論、本格的な合戦で何が出来るでしょう。

 『平将門の乱』でも、彼ら伴類は合戦になっても戦うどころか、建物が燃える炎を見ただけでもう戦意を喪失、恐慌状態で戦場から散したと記録されています。(将門記)


        


 また、彼らは『合戦よりも自分の生活が第一』と考えて居たため、田植えや稲刈りといった農繁期になると勝手に故郷へってしまうケースも多々あり、いよいよ軍事力としては頼りにならない…到底『軍隊』の一員とは言えないありさまでした。




  『やっぱり頼りになるのは、
    御
に代々仕えてきた使用人たち、従者たちだ。』


 平安武士は再び、最初期には非戦闘員だった家中の従者達に武装させ、戦場での身辺警護や戦闘補助をさせようと考え付きます。

 領内の農民と違い主従関係で結ばれている家来であれば、累代の御恩に報いるためなら主人の危機にはを張ってくれますし、ふだんから武士の鍛錬を間近に見ていたし手伝いもしていたでしょうから、少なくとも戦場で『ずぶの人』みたいな失態をさらすことはありません。



 準戦闘員となった従者達は、騎乗したまま弓矢で戦う主人に替わり接近戦を担当しました。とはいえ、その武装はまだまだ貧相なもの。

 下手をすれば挂甲(けいこう)と呼ばれる奈良・飛鳥時代に使われた質のよくない防具や、中には粗末なお手製の篭手だけ、などという者がある始末。


      


 時代がやや下って、白河法皇による(いんせい)が始まる頃(1086年)には上位の従者であれば主君と同様に馬へ跨り鎧も着ていたようですが、大半の雑兵や足軽たちは徒歩で、なおかつ粗末な(はらあて。体の前半分しか防御出来ない、袖のない鎧)(はらまき。上から見るとC字型、背中で紐を結い合わせることでやや後方からの攻撃にも対応出来るようになった、袖のない鎧)を着込み、包丁のように刃渡りの大きい薙刀や太刀で武装し、主君めがけて殺到する敵騎の従者に対応しました。


 
  
■歴史痛
Check-Point 藤原家を出し抜いた"政"の仕組


さて、本年大河『平清盛』でも複数回に渡って登場した『院政』という言葉。

 歴史の教科書でもお馴染みに言葉ですし、ご存知の方も多いかとは思いますが念のため、歴史痛的に再チェキ(死語)しておきましょう。


 飛鳥時代の645年(大化元年)に起こった蘇我氏排斥運動…通称『大化の改新』で中大兄皇子(天智天皇)の為に尽力した忠臣・中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子孫である藤原氏。

 朝臣でも名門中の名門である彼らは、時代を経るとともにライバルたちを蹴落とし、奈良時代にはついに朝廷随一の勢力へと成長することになりました。


 朝廷という名の『政権与党』で頂点を極めたのならば、次に欲しいのは『総理の椅子』ですよね。

 しかし、朝廷政治とは本来であれば天皇自らが執るべきもの。そこで、藤原一族はとあるシステムに目をつけました。


 『(せっしょう)と(かんぱく)です。

 聖徳太子が就任したことでも有名な摂政は、天皇が
幼少・または女性で政治馴れしていない場合に任じられる政権運営者代行職ですが、その席につくには、代行する天皇の外(母方の親戚)であることが絶対条件です。


 そこで藤原家は天皇に一族の娘を后として嫁がせ、生まれた子供を皇太子に、そして天皇に据えると『母方の祖父』として摂政に就任、天皇が成人すると今度は『天皇を補佐して政治を関り白す(あずかりもうす、つまり執行する)立場である関白職に就任します。

 関白職はもともと名誉職で、今風に言えば
天皇の政治アドバイザーのようなものなのですが、政治にうとい天皇の替わりに(だって子供の頃は摂政がやってたんですから、天皇は大人になっても政治に詳しくなれるはずがない。政治がうとくて当然です)朝廷政治を代行できたため、事実上政治をおもうままに操れます。

 そしてまた、天皇や次の天皇になりそうな皇族に藤原一族から娘を后に出して男児を生ませ、その子を立太子して天皇に即位させて摂政・関白になる…というルーティーンを実に
年以上繰り返すことで、朝廷政治を藤原家一門で独占していたのです。

 この藤原氏の政治独占システムのことを『
摂関政治』といいます。

         


…――と、いうのは中学校の歴史でも習うことなのですが…
 
 この政治独占機関も藤原道長という一世一代の絶対権力者を生んで以降はさすがにかげりがみえはじめ…1068年(治暦四年)、とうとう藤原家の娘を母としない、
係ない人が天皇になってしまいました。

 この人が白河法皇の父・
条天皇(ごさんじょうてんのう)です。


 後三条天皇は皇位継承権がありながら藤原氏の摂関政治維持のため二十三年間も天皇になることが出来ず、心中はらわたが煮えくり返るほど藤原氏に腹を立てていました。


 
『もうあいつらに二度と、摂関政治なんかさせねえ。』

 後三条天皇は策をめぐらし、まずは藤原家の栄華を生む財源である『荘園』にメスを入れます。

 もともと荘園とは、本来であれば国のものであるはずの村や田畑を『墾田永年私財法』という法律を悪用し貴族たちが私有地化たものだったので、後三条天皇は今までになかったというほど厳しく『荘園』の不法を糾弾、藤原氏に大ダメージを与えました。

 この施策のことを『荘園
理令』(しょうえんせいりれい)と言います。


 さらに後三条天皇は考えました。

摂政が天皇を監督できるのは、母方の親戚(外戚)だからだ。それじゃあ、実の父親が政治の後見人になれば、そっちのほうが偉いに決まってるじゃないか!!』。

 そこで後三条天皇は四十歳ちょっとで天皇を引退
(じょうこう。正確には太政天皇(だじょうてんのう)、位を譲った元天皇のことで、事実上天皇よりも強い権力がありました)に就任。
 皇位を継いだわが子・白河天皇の後見人として藤原氏の替わりに政治を主導するようになりました。

 朝廷ではなく、上皇の御所()で執る
治。だから院政というんですね。


このシステムを受け継いだ白河天皇はさらに藤原氏の権勢を弱めて院政による国内統治を推し進め、
賀茂川の洪水と双六の賽、延暦寺の山法師以外で俺の意のままに出来ないものなんてない!!』と豪語するほどの大政治家になったわけです。
 


 また、『伴類』や戦闘員化した『従者』に共通することとして、『足である』ということが挙げられます。

 平安時代の日本人はよほど足の裏が丈夫だったのでしょうか、何が起こるか判らない戦場であっても彼ら下卒の兵は素足で駆け抜けていたようで…当時の戦模様を描いた絵巻物などを見ると、徒歩の雑兵はみんな裸足で活動しています。


 足袋や戦草鞋はまだまだ戦場では一般的な装備ではなく、騎乗する一端の平安武士であっても履いていないこともあった時代のお話ではありますが、そんな白い生足もあらわに、何も履かない素足の裏で軽やかに戦場を踏みしめ、命懸けで戦う彼らのことを人々はこう呼びました。


   (あしじろ)もしくは(あしがる)(源平盛衰記)


               

 後に太田(おおたどうかん)が戦国時代初期にはじめて組織化し、槍衾や槍叩きによる集団白兵戦策を確立することになる、戦国Fanにもお馴染みの下位歩兵たちの通称が、ここに来て初めて歴史に登場しています。

 これは、『足軽』は多くの書物で『発祥は応仁の乱(1467年)降』とされていますが、少なくとも平安末期から鎌倉初期…実に戦国時代到来より百年も前から存在していた、ということを示すものです。

       



 そんな平安時代初期の武装足軽たちが最初に経験した戦いは、多くの場合は大河『平清盛』に見られたような盗賊・夜党の追捕だったことでしょう。

 かつて桓武天皇が千年の平和を信じて築いた平安京、その名を冠する平安時代も世の末ともなれば都も荒れ果て、前回お話した通り藤原家一族の御屋敷すら盗賊団に襲われ、略奪の被害にあう時代。

 平安武士は相変わらず騎馬に跨ったまま弓矢を撃ち続けていたようですが、白兵接近戦は下卒の雑兵が担当していました。


 第一回でお話したような正々堂々たる『決闘』ではなく、お互いに明日を生きる為の糧を得る、今日を生き延びるための壮絶な『死闘』です。後の戦国時代で戦場の主力兵器として活躍した『鉄砲』はもちろん、『槍』すら開発されていませんが、その情景はきっと後の乱世を髣髴とさせる、殺伐としたもの…。


 おそらく雑兵達は刃に反りのある『太刀』(たち)や薙刀(なぎなた)を振り回し、まだまだ防御の隙も多かった敵の雑兵と剣戟の草叢を織り成し、取っ組み合ったり押し倒した相手の首根っこを掻っ切る。など、荒っぽい戦術で生き残っていたと思われます。



 そして、そんな彼らの主人である平安武士も初期の紳士然とした『決闘』の戦術を捨て、源氏は奥羽での反逆者討伐で、平家は瀬戸内海での海賊退治で『より現実的な敵との戦闘法』を会得していきます。

 また、雑兵達を指揮・使役する集団戦や、その彼らがみせる命を賭けての合理的な敢闘振りに影響を受けたことも想像に難くないでしょう。その一例とも言える好例が、下記にある『平安時代末期に起きたとある合戦模様』からも伺い知れます。



 (大河のネタバレになるので詳細は伏せますが)1156年(保元元年)朝廷での「ある題」を端に発生した大規模な合戦で、平清盛&源義朝(みなもとのよしとも 源為義の嫡男)と、『いざ尋常に、勝負!? 戦場での思想と戦術の変遷』シリーズ第一回で登場した(みなもとのためとも)が敵味方に分かれて戦うということがありました。

 この合戦は方や天皇の軍勢、方や上皇の軍勢で、つまりは双方ともに『正軍』。

 どちらも賊軍ではないため本来であれば貴族紳士然とした『決闘』での合戦であるべきなのですが…それまでの戦場とは大きく違う変化がもたらされていました。




 これまでは華々しい武士の一騎討ちばかりが主流だったはずの戦場に、大量の足軽が動員されていたからです。


 源義朝などは『敵をって手柄を上げん!!』と躍起になって騎馬突撃を試み、これを危険と感知した家臣の鎌田次郎が轡(くつわ。馬の口に含ませる、手綱をつけるための紐)に取り付いて制止するも全然聞き入れてくれないため、

八十余人ばかりいた立の兵

 を招き寄せて"大将軍を守護せよ!!"と命じています。(保元物語)



 また、この大合戦が始まる直前に双方は戦術会議を開いていますが…そこで天皇軍の平清盛と源義朝、そしてそれに対抗する上皇軍の源為朝はそれぞれの総大将に対し、三人揃ってまったくじ策戦を提案していました。


 その策戦とは…。


 敵の本陣に夜討ち(夜襲)をしかけ、火矢を射ることで災を発生させて指揮系統を混乱させ、一気に勝負を決める!!

というもの。

 当然、この策戦は平安武士だけでなく今回の合戦に多数動員されている下卒の歩兵も同伴ですので、もう一対一の正々堂々ではなく集団白兵戦による立派な奇襲作戦です。



 かつては事前に合戦の日時・場所を決め、いずれに正義があるのかを論戦舌鋒で言い争い、開戦となれば鏑矢を射て合図とし、戦いは第三者邪魔立てなしの一騎討ちで決めていたはずの平武士。

 そして、先祖を辿れば由緒正しい皇族の出・帝の末裔である彼らが、既にこの頃には誇りも恥じもなく、ただ勝つことだけを念頭に置き総大将に『不意討ち』を提言していることにおづき頂けたでしょうか?


 しかし、平清盛・源義朝ら天皇軍の司令官がこの平安武士の風上にも置けない夜討ち奇襲策戦を『勝つためなら』と受理したのに対し、源為朝が属する上皇軍の司令官だったとある公家は『夜襲は下賎な卑者のすることだ』と、これを拒絶。
       


 為朝は『敵は絶対奇襲で来るのに!!』と憤慨しながら敵方の攻撃に備えて迎撃陣を敷き、この二陣営の判断がその後の平安武士の命運を大きく分けることになるのです…。





 正々堂々とした律儀な一騎討ちばかりが戦闘の華だった合戦場に登場した彼ら下卒の足軽と、その彼らを率いて徐々に『決闘馴れした元皇族』から『集団戦とその指揮のスペシャリスト』として成長していく平安武士達。

 まるで紳士然とした正々堂々、時代劇さながらの華々しい尋常な決闘を繰り広げていた彼らの戦術は平安時代、鎌倉時代、室町時代を経て…最終的、戦国時代にはどのように変貌を遂げていったのか?


 それまでの戦術と常識をくつがえす驚くべき武士たちの進歩、その全容は次回第四回最終夜(こんどこそ最終)で明らかになります。


 次回『髭亭』更新に御期待ください。 
( ノ(,,ェ)・)。oO( なるべく早く仕上げますが、首が伸びすぎた方はお早めに接骨院へどうぞ。 )
    

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