戦国武将官講座 【第二回・駿河守/備前守/美濃守】


歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。

■戦国武将官職講座【第二回・駿河守/備前守/美濃守】

 さて、大河『風林火山』に登場する甲斐武田家の家臣達…『板垣駿河守』や『甘利備前守』、『原美濃守』といった面々に限らず、戦国武将達の異名や肩書きには『日本の旧国名+守(カミ)の一文字を付け足した称号』がヤケに多く見られます。


 これはいったい何を意味するものなのでしょう?


 ぶっちゃけて言ってしまうと、『駿河守』は今川家でおなじみの駿河国(現静岡県から伊豆半島を除いた領域)、備前守は備前国(現岡山県東南部)、美濃守は美濃国(現岐阜県の中南部)の、『廷公認の国支配責任者』です。


 ただし、美濃”守護”や駿河”守護”と言った場合の様に、旧国名のあとに『守護』とつく場合は、府公認の国支配責任者・長官』なので要注意。


 戦国武将の肩書き・名前を続け様に読むとこれら二つがこんがらがって非常にややこしく、戦国ファン初心者を混乱させる原因ともなっています。(例・甲斐国守護職の武田陸奥守信虎。)


 これら『○○守』という官職は中央朝廷の官職ではなく地方長官でしたので、『官職名』とは呼ばず『受領名』(ずりょうめい)と呼ばれています。(例・織田信長の受領名は『尾張守』、官職は『弾正忠』。)


 定員は『長官』なのですから、当然一名。

 のハズなのですが…戦国時代には朝廷の官職はとある理由で乱発されまくっていたせいもあるほか、朝廷が弱くなったのを言いことに勝手無法な自称・僭称が相次いだため、日本全土に数多くの『○○守』が居ました。


 例えば…板垣駿河守信方・甘利備前守虎泰が甲斐武田家に居た同時期、Gackt謙信率いる越後長尾家には宇佐美駿河守・大熊備前守という風に、板垣・甘利両人が名乗っているはずの長官職が二人、ちゃっかりと名乗っていました。

 そしてどちらも、おたがいに真贋で喧嘩をしたという記録もありません。戦国時代が終わり江戸幕府による統治が始まるまで、この官位僭称と定員超過問題は続いていくこととなります。


 受領名通りの国に行ったことがない人たち。(画像は斬Uスピリッツより)

□国司職の衰亡と存在意義

 さて…○○守、『朝廷公認の国統治責任者』の別名は『国司』(こくし)とも言います。
歴史の教科書でも御馴染みですよね。

 国司は各国の長官として統治国から税金を徴収する権限もあった為、裕福になりたい中級貴族はこぞって国司に推挙される事を望みました。

 御堂関白・藤原道長を筆頭とする藤原氏や、平成24年大河『平盛』でも注目されるであろう平氏一門が栄華を極めたのも、一族で日本各地の『国司』を独占状態にしたからです。


 本来であれば朝廷の選任した今で言う県知事なのですから、税金を集めれば国庫に納めなければいけませんが、国司になって任地に赴けば、墾田永年私財法…――本来であれば朝廷領であるはずの土地を自分のもの、すなわち『荘園』とし、そこから生産される財産はすべて自分のぽっけにナイナイ出来たのですから、京都で細々と貧乏役人をするより、国司になるほうがずっと儲かったのです。


 しかし、平安時代から源平合戦の末期、鎌倉時代にさしかかると…

 まず、摂関藤原家の力が白河法皇による院政で事実上無力化し衰退、その院政によって力をつけた天皇家が皇位を争う内乱で衰退すると、まず平清盛ら平家による武士の政権が誕生。

 次いで、その平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を開き、本格的に朝廷以上の権勢で日本全土に武家政権を敷きます。
 すると事情は一転。歴史教科書でも御馴染みの『守護』『地頭』が幕府公認の支配者として日本各国に派遣され、国司の権限は形骸化します。


 守護・地頭は地方にあった貴族達の荘園や国司の徴税権限を徐々に侵食していき、室町幕府に限っては国司が行える権限の殆どを守護に移行してしまった為、○○守という地方長官の肩書きは、戦国時代には殆ど名ばかりの名誉職になってしまっていました。

 実際、板垣信方や甘利虎泰は駿河国や備前国長官の肩書きを持って居ても、駿河や備前を統治したこともなければ税金が届いたこともありませんでした。甘利虎泰に限っては、備前国に行ったことすらないでしょう。



 ただし、飽くまでも『朝廷公認の国支配責任者』という肩書きは残った為、戦国武将達が合戦を起こすための『大義名分』には充分に利用出来ました。


 たとえば、今川義元は尾張国の大名であった織田信秀と三河国の覇権を巡って小競り合いを続けていたころ、最中に朝廷へ働きかけて自身を『三河守』に叙任して貰いました。
 こうすることで、三河国の朝廷公認の支配者は今川義元、今川家が治める大義名分を獲得し、織田信秀を侵略者と位置づける事に成功したのです。


□ああ、哀しきかな地方豪族の見得
 ただし、上野国(現群馬県)・常陸国(現茨城県)・上総国(現千葉県の中部)は、それぞれ親王(しんのうにんこく)といい、長官である守には親王(しんのう。皇族で、天皇の子供達のこと)が叙任される決まりがありました。

 親王はその三カ国の国司になっても京都で暮らし任地には赴かないケースが多かったので、それらの国は本来であれば朝廷公認の次官である『○○(○○のすけ)が事実上統治することになります。

 この次官級の官職名を名乗った人物で一有名なのは、少々時代は下りますが間違いなく上野介(きらこうずけのすけ)でしょう。お馴染み『忠臣蔵』では四十七士が主君の仇と復讐を誓う敵役として有名な人物ですが、彼の諱は義央(よしひさ)。

 受領名の上野介は『上野国の””』ですから、上野国の次官という肩書きになります。


 …ですので、朝廷がお金に困って官職を売り、自称僭称する厚顔無恥な輩が数多く居た戦国時代であっても、本来は親王任国である上野・上総・常陸国の長官である『上総守』や『上野守』だけは武将に叙任されることもなかったですし、自称する不遜な輩もそうそう居なかったようです…―――が。



 若き日に『上総介』(かずさのすけ)という受領名を名乗っていた織田長、どうもこのしきたりを知らなかったようです。

 まだ二十歳台、尾張国(現愛知県東部)の小大名に過ぎなかった頃のごく僅かな時期だけ、『織田上総信長』と名乗っていた期間がありました。

 まだこの頃は第六天魔王どころか、尾張国の半分も支配できてない小豪族なのに親王級の受領名を名乗るとは何たる不遜でしょう。
 朝廷や幕府がしっかり機能していれば問責の使者が送られ、織田信長は処罰されるところでしょうが…何せ世の中戦国時代なため、そんな余裕はなかったらしく…しばらくの間、信長は知らずに『上総守』を名乗続けていたようです。

      林佐渡守秀貞&今川上総介義元。林秀貞はこういった有職故実にうるさいという逸話がいくつかある。(画像は斬Uスピリッツより)


 後に誰かから指摘を受けたらしく、ある時期から内緒で自身を”上総”に格下げしていますが…残念、上総守名義での発給文書が思いっきり二十一世紀まで残っちゃいました。

 
田舎者っぽさ全開過ぎてこっぱずかしいこと限りなく、織田信長ファンの皆様には信長らしからぬうっかりさん振りなのですが、これも歴史が物語る織田信長の意外な横顔の一つといって良いでしょう。


 後に地方長官どころか右大臣 (うだいじん。朝廷の事実上のNo.2!!) まで登り詰め、時の帝・正親町天皇に譲位を迫るほどの実力者となり、朝廷から

『征夷大将軍、太政大臣、関白。どれでも好きなのになっていいよ。』

 とまで言わしめた戦国の覇者・織田信長の、若き日のあやまちの一つです。



    皇室を自宅に呼びつけた&養子にしたサル&皇室を将軍家より目下にすることにある意味成功したタヌキ。どちらも死後神様になったので、現人神である天皇とは互角になったとも言える。(画像は斬Uスピリッツ・太閤立志伝Xより)



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