軍師ってだ? 【前編】


歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。

『某(それがし)の名は、武田信玄が"軍師"、山本勘助である。』

…というフレーズで序章が始まった大河『風林火山』なわけですが、戦国漫画や光栄社の『信長の野望』シリーズに慣れ親しんだ歴史Fanならいざ知らず、一般の視聴者の人には「軍師」と言われてもどんな職業なのか、どういった任務を担うのか?なんていう事はあまりピンとこないのではないでしょうか。

 今回の『歴史痛の眼』では、そんな『軍師』と呼ばれる職業について与太話を展開していきたいと思います。例の如く読まなくても大河『風林火山』を楽しむにあたり何ら影響は御座いませんので、内容だけ知れればOkという方は次回更新をお楽しみにと言うことで(苦笑。

 それでは、御一緒して頂ける方々の御時間を少々拝借
。゜+. M9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!

■足軽大将が参謀総長?
 山本勘助といえば武田信玄の"軍師"、そういう歴史的常識の上で織り成されていく大河『風林火山』なわけですが…

 いきなりぶっちゃけますと、山本勘助が戦国武将として乱世で活躍した様を今の世に残す唯一の歴史的史料である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には、どこを見ても「山本勘助が武田信玄の"軍師"であった」などとは書いちゃいません。


 実際の山本勘助の肩書きは『知行八百貫の足軽大将』。

 直属の部下は二十五人しか居なかったと言いますから、とてもじゃありませんが猛者揃いの甲斐武田家では軍議の際に武田信玄の傍らに侍られる身分ではありません。
 恐らくは、合戦前の重要な会議に顔を出す資格すらなかったでしょう。


 …こう言われると「え?」と面喰う読者の方もいらっしゃるかもしれませんが、山本勘助が武田信玄の軍師であるという背景が生まれたのは、江戸時代になってからのこと。しかも、歌舞伎などの芝居や浮世絵などの英雄物語だけに通じるノンフィクション。

 『山本勘助が天才軍師であり、甲斐武田家の百戦百勝ぶりを陰日向から支えた、無くてはならない名参謀』なんていう話は、江戸庶民達を楽しませた物語のなかだけの話なんです。

 昨今の戦国時代ブームでも、伊達政宗や真田幸村、長宗我部元親といった戦国武将達の美男化・偶像化は失笑を禁じえないものですが、江戸時代にその風潮をもろに受けた山本勘助だって負けちゃいません。

 江戸芝居物のなかの勘助は『絶世の美男子で、武田信玄の嫡子・勝頼と上杉謙信の娘が恋仲になったのを知り、その恋愛を成就させるために大活躍しちゃうZE!!』とか、戦国時代の歴史を知る人が聞けば『それなんていうラノベ( ・(,,ェ)・)』と言わざるを得ない様な変貌振り。

 ひとつ目が 増えて信玄 やたら

 なんていう川柳が江戸時代に読まれたほどで、言ってみれば…山本勘助は、昨今の戦国時代ブームで美男化・偶像化が進む戦国武将達の大先輩だったわけです。


■軍師は宴会のたいこもち?

 また、"軍師"と呼ばれるこの職業、『三国志演義』などの中国発祥の物語では諸葛亮孔明をはじめとする合戦の花形であり、大活躍が約束されたポジションだったわけですが…。

 実は、日本における"軍師"という職業、それほど合戦の流れを左右するほどに重要でなければ、派手でもないものでした。

 大河『風林火山』において山本勘助は神算鬼謀の兵法を駆使し、信玄から全幅の信頼を置かれる名参謀として鮮やかに華やかに描かれるのですが……本来の"軍師"の職務とは最前線での兵法駆使などではなく、縁の下の太鼓持ちっていうか…かなり精神的で裏方的な役職で、かなり地味な役回りです。


 そんな虚実入り乱れた戦国時代の"軍師"の実情を、前編後編の二回に分けて御紹介しましょう。


 "軍師"の役割とは、戦場で華々しく活躍する最前線部隊ではなく、バックアップ担当です。『戦闘開始になる前に、自軍に有利になるような
ごしらえを施す、または戦闘後の後始末、儀式的業務に従事する』ような職業が主な任務でした。

 戦場に赴く前に自軍に施す下ごしらえ、と言われたら読者の皆さんはますます煙に巻かれるかもしれませんが、軍師の仕事を今風の言葉に現代に置き換えると、それは『中央政治や地方政治などでの議員選挙戦で、選挙戦の舵を取る選挙
』のようなものです。

 選挙戦に赴く議員候補と、戦場に赴く戦国武将。

 やりとりするものが根本的に違っていも真剣勝負である事には変わりはありません。軍師も選挙参謀も、勝利の二文字を目指してその地固めに深慮遠謀を尽くして戦っているのです。

 まず、戦国武将が戦場へと向かうにあたり執り行われたのが『出陣式』。

 選挙戦が始まると、普段は見向きもしないくせに我ら一般市民へ喧しく御願いの挨拶をしまくる偉い議員の先生と、その腰ぎんちゃく。
 近所遠所を問わず元気いっぱい欲望二倍に走り回っている選挙応援の人達も、選挙戦が始まる前に『事務所開き』『結団式』とか、出陣式と似たような事を行っていますよね。

 出陣式などの儀式を主宰するのが、実は軍師の役目でした。
 日本を舞台に繰り広げられた数々の戦い、その長い歴史で少しづつ熟成されていった戦場儀式の礼法やしきたりを完璧にマスターし、筋の通るように、験(げん)の良し悪しに添った方法で儀式を司会進行する。その目的は、多分に士気高揚の為の験担ぎ(げんかつぎ)です。

 まずは、式の日取り。陰陽道や各種様々な占いの結果に照らし合わせて、験の良くない日にはやりません。日本人はそうでなくても日取りを気にする人種です。選挙の出陣式だって、友引にはやらないものです。


 城中で出陣式を行う場合は、まず床に置いた刃物を総大将に踏ませる。
 これは『剣の刃を乗り越えて勝利する』という縁起担ぎです。出陣式での宴で行われる宴会の料理だって気を遣う。

 『打ちアワビ』、これは薄い熨斗(のし)状に切った干し鮑のこと。
 そして『搗栗』(かちぐり)。栗の皮を剥いて天日干しにしたものです。もうひとつが『昆布』でした。

 『敵を"討ち"、"勝ち"、"喜ぶ"』という洒落た意味の験かつぎです。

 また、酒宴に使う箸だって細いものは使わずかなり太いものを選びます。戦場に赴く前に箸が折れたりしたら縁起が悪いですから。


 あと、ジンクスなんかも盛大に取り入れます。その武将が前の合戦で勝ったとき、事前にやったことがあればそれもついでに出陣式でやって置きます。

 たとえば連歌会をした後に出陣して勝った経験があるだとか、舞いを踊って出陣して勝ってたのなら、ジンクスを頼んでそれも行います。近所に神社があるなら、戦勝祈願の参拝をする、とかも当然の如くです。



 そして、出陣式が一通り終われば軍団は鬨(とき)の声を上げて戦意を高揚させ、出発します。

 よく戦国時代のドラマで聞かれる
 
えい、えい、おーーーーう!!!  ( ;・`ω・´)っ

 っていうあれですね。ドラマや漫画では、何故か戦いに勝った後に勝鬨としてやることが多いのですが、実はあれは出陣前の掛け声なんです。


 また、一人で『えい、えい、おう!!』とは普通、
いません。


 大将にあたる戦国武将が『えい、えい、えい…』と何度か大声を張り上げたあと、区切りの良いところで家来達が『おーーーう!!!』と叫ぶのが本当です。


 そもそも、『えい、えい、おう!!』のえいえいとは『良いか、良いか?』という確認の
味の言葉です。


 何の確認か?

 それは当然『これから始まる死闘に勝ち残れるか、死ぬ覚悟は出来ているか?』という確認の言葉であり、家来達は主人からのその言葉を聞いたら『応!!』、つまり"おう、当たり前じゃないですか御大将、ばりばりOKですよ!!"と大声で返答するわけです。

 これもひとつの縁起担ぎ、士気高揚の御膳立てです。


 また、軍勢の出陣の方角は東か南向きが鉄則です。

 たとえ敵が北の方角にいても、出発する方向は東か南に出て、その後に軍団進路を北に切り替えるという面倒な段取りを踏んでいました。これは『北枕が縁起が悪い』というのと同じ考え方です。

 とまぁ、よくこれだけ縁起が担げるものだというくらい、出陣前には担げるジンクスは全部担いで置きます。たかが縁起でも、これだけやって戦いに勝てなきゃ嘘だ!!っていうくらい担げば兵士達の士気高揚につながったのです。

 兵士のやる気を煽るのも、戦国武将や軍師の重要な使命でした。


□けれど所詮は験担ぎ、でもそんなの関係ねぇ!!って人も居たわけで。

 ただし、こんなジンクスの応酬や験担ぎのてんこ盛りを否定した戦国武将も居なかったわけではありません。


 たとえば、『甲斐の虎』。

 ある戦いで甲斐武田軍の自軍陣内に白い鳩が舞い降りてきたのを見た家臣達が『これは戦勝の兆しだ!!』と喜んでいたことがあったのですが、それを見て怒ったのが武田信玄

『そんな事で騒ぐな。もし次に白い鳩が来なかって兵士たちが「今度は負ける。。」って落ち込んだらどうするんだ』

と一喝し、火縄銃でその白い鳩を撃ち落としてしまいました。


 また、迷信や極楽浄土を信じていなかったとされる戦国の覇者こと織田信長も、ある合戦で陣幕に据えられていた自分の兜が北向きになっていたことを指摘された際に

『構うものか、敵は四方八方どっちからでも来る。いずれが北かなど関係あるか!!』

 と家臣を前に吐き捨てたそうですし、越前朝倉家の戦国武将で、『武士は犬と罵られようが勝つのが本望だ』という名言を残した老将・朝倉宗滴(あさくらそうてき)

『勝てる!!と思った時は、その勝機を逃さず一気に突撃する行動力が重要だ。くだらない験かつぎやジンクスに気をとられて勝機を逃して負けてしまうようでは、総大将は勤まらない。』

 という発言を残しています。



 また、悪い卦が出てもそれに固執せず、笑い飛ばす豪胆さや機転も時には必要でした。

 豊臣秀吉が本能寺の変を起こした明智光秀を討つべく『中国大返し』を敢行、その途中で姫路城に立ち寄り休憩したのですが、改めてて出陣式の占いをした軍師から

悪い卦です。今日出陣したら、二度と姫路城には戻って来られませんよ!!

 と忠告されたことがあったそうですが、それを聞いた秀吉は得意の頓知を聞かせて得意顔。心配そうに表情を曇らせる家来たちを前に、こう言い放ちました。

 『細けぇこたぁ良いんだよ!!この戦いに勝ちゃあ、姫路城なんぞに戻ってくる心配なぞしなくて良いんだ、俺達が天下を獲るんだ!!』

 …結局、不吉な日に出陣したはずの豊臣秀吉は大勝利、以降は戦国時代の天下人として君臨することになります。


 実力のある戦国武将は、軍師に振り回されるのではなく軍師の言葉の良し悪しをうまく利用して、天下に号令を掛けたのでしょうね。山本勘助の眼がひとつ増えただけでは、験やジンクスを担ぎまくった結果に武田信玄が甲斐の虎になったわけではない、と言ったところでしょうか。


――…さて、"軍師"の解説やってたはずなのに、軍師の役割を否定して終わってしまいましたが…当然、軍師の役割は験担ぎやジンクス集めだけではありません。後編では、軍師によるその他の職務について御紹介したいと思います。乞う御期待。"私が乞う御期添えないっていうジンクスがありますが、気にしちゃいけません。"
<後編に続く>




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