行列の出来る分国律事務所  【戦国時代は裁判も大?】


歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。


領民の生活が
一?戦国時代の民衆を守る分国法

 さて、大河『風林火山』第七回の『戦国与太噺』で御紹介した『早雲寺殿廿一箇条』ですが…これは
(ぶんこくほう)と呼ばれる、戦国大名達が領内政治をするにあたって定めた家訓・法律のひとつです。

 1467年(応仁元年)、日本を平和裏に統治してきた室町幕府が『応仁の乱』で日本全土を管轄できるだけの統治機構を失ってしまって以降、法も秩序もない弱肉強食の時代…実力あるものだけが生き残る壮絶な乱世が到来しました。

これが
国時代の始まりであるというのは、皆さんも御存知ですよね?



 そして、『室町幕府が何も出来なくなった。誰もその法と秩序を守らない乱世の時代がやって来た。それじゃあ、俺が実力で新しい統治機構を築いてやろうじゃないか』と旧幕府勢力に下克上を起こし、日本各地に勃興した新勢力こそが『戦国大名』なのも周知の通りかと思います。


 もちろん、旧勢力…元は幕府の家臣だった守護大名やその代理職である守護代、守護大名や守護代の家来である被官
(ひかん)と呼ばれた地方豪族たちもこの乱世に乗じて主君を倒して群雄割拠し…彼らは明日を生きる糧を、新たな領土を、そして天下を目指して戦いに明け暮れました。


 名目上は存在し続けた室町幕府が一応、法と秩序を掌ってはいましたが…もはや京都周辺のごく僅かな範囲内しか威光も通用しない弱小政権となった幕府の言うことなど誰も耳を貸しません。

 幕府や朝廷の領地は部下であるはずの戦国大名達に横領され、最高権力者である足利将軍ですら部下に京都を追われたり、挙句の果てには殺される有様です。




 しかし、室町幕府をないがしろにして無法勝手に暴れまわってきた彼らも、勢力拡大につれて膨張していく家臣団や領民達を統括するにあたり、新たな法規制の必要性を認識することになります。

 それはそうでしょう。せっかく自分が合戦に勝利して新たな土地を得たとしても、領民や家来達が自分達と同じように好き勝手暴れたんじゃ本末転倒です。
 人も領地も更に荒廃して、元の木阿弥…――いや、それ以上にひどくなってしまうでしょう。

 そこで、戦国大名達が領内統治を円滑に進めるために編み出したローカルルール…統治している領地内だけに通用する法律群が『分国法』です。
 戦国乱世を生き延びてきた勝ち組達が、新時代に対応するために定めた新機軸と言っていいでしょう。。

 奥州伊達家の塵芥集
(じんかいしゅう)、相模北条家の早雲寺殿廿一箇条、駿河今川家の今川仮名目録(いまがわかなもくろく)、甲斐武田の信玄家法…マイナーなところでは近江六角家の六角家式目、周防大内家の大内家壁書、肥後相良家の相良氏法度。

 これに戦国武将の家中だけで通用する家法や掟、教訓等をを加えれば…はたして戦国時代に幾つの法制度が敷かれたのか、数え切れないような量となります。



 そして、その数多い分国法を戦国大名達が定めるにあたり、特に細心の注意を払って充実に努めたのが『裁判に関する法律』でした。



 平和な現代日本とは違って、戦国時代は実力社会です。

 裁判による原告と被告の審判に納得のいかない要素やえこひいきがあれば、それは裁判後すぐに暴力沙汰・流血事件に直結する時代。

 裁判をするほうも訴えられるほうも、懐には脇差やら太刀やらを忍ばせている時代。気に入らなければ実力行使を敢行する人達に、両者納得いくような判決を出すことなんて
可能です。

 では、そんな余計な心配のもとになる裁判沙汰を起こさないためには、どうしたら良いのでしょう。


 答えはカンタン。単純明快で判りやすい法律をつくり、その条文のなかで
『これはやっちゃ目!!』とハッキリ書けば良いのです。


 戦国大名達がいったいどれだけ領土の法律や裁判制度に神経を傾けていたか。
各大名家の分国法から、裁判やその関連項目について御紹介していきましょう。




喧嘩をした場合、どちらが正しくてどちらが間違っていようが、両方に罪を申し付ける。喧嘩は両成敗である。
(今川仮名目録第八条)






喧嘩を起こした者は是非を問わず、両方を処罰する。
ただし喧嘩をしかけられても
忍し、事を構えなかった者は処罰しない。
(甲州法度之次第 第十七条)





喧嘩・口論を堅く禁止する。この法に背いて甲乙互いに勝負に出た場合、理非に寄らず
方を成敗する。
(長宗我部元親百箇条)





■ただし、十四歳未満の子供に関する喧嘩については関与しない。(今川仮名目録第十一条)


 豪快です。

 要するに『喧嘩したら理由はどうあれどっちもすから、お前ら騒ぐな!!』ということです。
 これは今川義元、武田信玄といった代表的な為政家を筆頭に色んな戦国大名が明文化している法律の一つですが、実は『喧嘩』が武士の間で歴として認められた紛争解決法だったことに由来しています。
 何か面倒ごと揉め事が起きたら、裁判などせず実力行使で白黒をつけていたわけです。


 しかし、幾ら法も秩序もない戦国乱世に勇躍した戦国武将であっても、事あるごとにお膝元である領地で喧嘩をされちゃ適いません。武士の喧嘩は子供の喧嘩とは訳が違います。決着がつくまでに何人の首が飛ぶか判ったものではありません。

 だからこそ、古くは”武士”というものが興った平安時代末期から認められていた『喧嘩』を禁止し、総ては戦国大名が裁可することにより領地の治安維持を図ったわけです。


 尚、『子供の喧嘩は別』と釘をさしてあるのは、子供の喧嘩でも『なんで両成敗で殺さないんだ!!』と突っ込んでくる輩が居たからでしょう。

 また、武田信玄が『喧嘩を売られても買わなかった者は処罰しない』としているのは自暴自棄になった者が無理心中狙いで誰彼無しに喧嘩を売り、死刑の巻き添えにするのを防ぐためと思われます。

   今川義元像今川仮名目録に追加を設定した分国法のプロ。




理由もなく古文書を探し出し、それを証拠に田畑の所有権を主張してはいけない。(今川仮名目録第三十一条)




 たぶん、これもたくさん居たのでしょう。『この古文書には、いついつ誰々が誰々に何処の所領を与えたとある。だからあの領地は我が家のモノなんだ!!』と捻じ込んで来る人が。

 古文書の真贋を検分していてもキリがありませんし、これで古文書の言うとおりに領土管理をしているようでは永遠、領土裁判は終わりませんから。




殺人罪が死罪であるのはもちろんの事、殺人幇助も罪である。
 ただし、殺人幇助罪に問われたものが罪を逃れるために主犯を討ち取って出頭してきた場合は罪を問わない。

(塵芥集 第十六条)


 武田信玄の弟・典厩信繁が遺した『武田信繁家訓』九十九ヶ条、長宗我部元親百ヶ条といった膨大な項目数を誇る掟法・分国法があるなか、全
百七十一ヶ条というダントツの項目数を誇る『塵芥集』から、殺人幇助罪(殺人罪の手助けをする罪)について定めた項目。

 何でもありの戦国乱世、平和安穏な平成現代と違って人の命は随分と軽いものでした。しかし、人間一人の命が巻き起こす怨讐や騒動は現在同様かそれ以上でした。人一人が殺されれば、その命の代償を巡って凄まじい報復合戦が起こり、それがために治安が悪化することも少なくなかったでしょう。


 そこで伊達稙宗は『殺人幇助も殺人罪と同様だ。ただし、罪を逃れるために主犯をぶっ殺すなら罪に問わない』とかいう凄まじくも明瞭な法を敷きました。
 これなら、たやすく殺人幇助に加わる者も減るでしょうし、いちいち大名家が面倒な裁判に追われる手間も省けたことでしょう。


罪を犯して逃亡している者を発見し、それを連絡してきた者には逃亡者の主人は発見・通報者一人にあたり三百文(現代の貨幣価値で約24,000円)を支払うこと。また、逃亡者を捕まえた者が遠地から訪れた場合は旅費・諸経費は逃亡者の主人が担すること。

 逃亡者が元の主人から財貨を盗んで持ち去っていた場合、逮捕・通報者はこれも一緒に返還すること。もし返さない場合は、盗人と同罪である。

 もし逃亡者が盗んだ財貨を紛失・もしくは売却し、第三者がそれと知らずに獲得していた場合、逃亡者の証言で罪の有無を決めてはならない。
(塵芥集 第四十八条)


 まるで平成現代に定められた法律か、と勘違いするほど事細かいのは『塵芥
(ちりあくた)のように多数ある』という命名通り、項目がとにかく多い塵芥集の特徴です。

 特に強盗殺人に関する検案に多くの項目が裂かれているのは、この手の殺人事件に関して伊達家は調査に乗り出さないので、極力民間で片が付くようにと願ったからでしょうか。





■余興であっても酒の席で刀を抜いてはいけない。刀を抜けば、人を斬りたくなるものだ。
武芸の稽古以外で剣舞や槍の演舞をしたものは問答無用で
腹の刑に処す。(加藤清正七箇条)




 『賤ヶ岳の七本槍』で武名を馳せた、加藤清正の訓戒から。

 加藤清正は”最前線の現場の苦労を知っている”叩き上げの軍人気質、家来も猛者が揃っていたでしょうから、彼らが起こす刃傷沙汰には悩まされたのでしょう。
 酒が入れば、ただの演舞も一歩間違えば大変なことになったであろうことは想像に難くありません。

 そして荒々しい戦国時代のこと、演舞云々は関係なく酒の席で無闇に刀を振り回す非常識な輩も、そんな輩が起こす事件も多かったんでしょう。
だから、思い切って『酒の席で刀を抜いてはいけない、抜いたら死ね』なんていう豪快な法律を定めたのだと思われます。

 酔っ払った人の事を示す『大虎』の語源となったとされる加藤清正ご本人や、七本槍の同輩である福島正則なんか、酒の席での大失敗がごまんとありますし。





■合戦場において味方に殺された場合、それは
死と同然である。(塵芥集 第百三十二条)




 戦国時代の最前線、槍をかついで手柄首を求めた足軽達にとって味方とは”安心して背を預けられる同僚”ではなく”競争相手”であり、”ある意味、もっとも恐ろしい敵”でもありました。


 なぜなら、足軽達は手柄首を取るためなら、戦場で財貨を得るためなら”どんなこと”でもしたからです。

 つまりは『味方の足軽が血まみれになって獲った手柄首』を闇討ち・騙し討ちで得ようとするものが大勢居た、ということです。


 伊達家ではそういった厄介ごとに対してハッキリと『戦場で味方に殺されたら討ち死に同然に扱う、だから自分の身は自分で守れ。殺された側の家族もそう思って報復はするな。』と法に定めたわけです。

 これで、合戦ごとに足軽間で起きる”底辺の争い”を裁く手間を省いたわけですね。





■主家から授かった恩地・所領は質入してはならないが、困窮する者は三年に限り質入を許可する。ただし、それ以上の期間質入した場合は所領
収とする。(新加制式 第一条)




  『金の切れ目が縁の切れ目』とは今も昔も同じ事、大将たる者は奉公人に対して然るべき俸禄を支払うのが当然の義務でした。
 それはそうでしょう、幾ら尊敬を集める武人であっても、勤めている奉公人は食っていかなくてはいけません。

 領地の経営支配が上手くいかない場合は、所領を質に入れてでも矜持を維持しなければいけなかったこともあったでしょう。


 しかし、『元寇』――――海を渡って日本へ襲来した蒙古騎兵に対して鎌倉幕府が家臣達にほぼ無償で奉公を強いた結果、貧窮のあまり領地を質入し、買い戻せなくなって所領を失う家臣が続出しました。

 そこで、鎌倉幕府が選んだ選択肢は『武士の借金はチャラ、質流れした土地は元の武士に返却すること』という無茶苦茶な法律を敷くことでした。

 これが有名な『永仁の徳政令』、なのは歴史の教科書でも御馴染みですが…実は永仁の徳政令には『御家人が土地を質入・売却することを禁じる』事も併せて定められていました。
また借金棒引きを期待して、無計画に土地を質入する者が現れかねないからです。


 新加制式は戦国時代中盤に阿波国
(現徳島県)を支配した三好実休(義賢)の重臣・篠原長房が主君の施政を参考に制定した分国法ですが、彼は過去の教訓を参考に同じ項目を採用したようです。

 三好家は室町幕府を傀儡政権化し、一時期は天下人として京都・大坂に君臨しただけあって家臣達も物入りが多く、土地を質に出す者が多かったのでしょうが…背は腹に変えられません。

 そこで、どうしても困った時は三年に限り質入を許可したわけです。




■『建武式目』にあるように、
賂は贈収ともに古来より禁止されている。賄賂を認めたものは自他共に潔く評定衆へ白状しあって討議を重ねること。(新加制式 第二条)




 さて、『下克上』というある意味最悪のルール違反を犯して興隆した戦国大名達が分国法を制定するにあたって参照にしたのが、鎌倉幕府が定めた『御成敗式目』や室町幕府初代将軍・足利尊氏が定めた『建武式目』など、古い歴史と実績のある既成の法律でした。

 「こんな大昔から決まってるんだから、みんな守ろうぜ」と戦国大名が言うから厚顔無恥ですが…どうも鎌倉時代から裁判を有利にするための賄賂は横行していたらしく、訴訟を有利に展開するなら袖の下を包むのはある意味当たり前になっていたようです。

 三好家は1568年
(元亀元年)に上洛を果たした織田信長に追われるまで、京都・大阪に君臨した天下人でしたので、裁判を求めてくるのは皇室関係者や公家、大寺社や大商人といった古い歴史を持つ勢力が多かったようです。
 無論、裁判が起きれば多額の賄賂が飛び交ったことでしょう。


 三好家ではそんな腐敗を見かねたのか、これを禁止として明文化しています。
 ただし、当時の公家や僧侶の日記に『
裁判にあたり、三好長慶や松永久秀に口添えを依頼した』と再々書かれているところを見ると、法が遵守されていたかは怪しいところですが。



■裁判の際、原告・被告双方とも証人を出すこと。
 但し証人は贔屓で一方が有利になるような嘘の証言(偽証)を行ってはならない。
 余りに酷い場合は詮議の上、証人を所領没収あるいは
罪とする。(新加制式 第六条)



そんな三好家の分国法『新加制式』が殺人に匹敵する重罪として挙げているのが『偽証罪』です。

 嘘の証言で裁判を混乱させ、冤罪を誘発するような証言者は所領没収、あまりに酷い場合は死刑に処するという大変厳しいものでした。
 今と違って化学捜査が発達して居なかった当時のこと、有罪無罪を問うに当たって『証人』の真贋は非常に重要なものだったからです。

 皇室関係者や公家、寺社など色々面倒な裁判を数多捌いていたであろう三好家にとっては、偽証罪は窃盗や殺人に匹敵する罪だったのでしょう。




■夫によく仕えた女房であるのに、夫の浮気や身勝手で
婚した場合、妻は持参した財産はもちろんのこと、夫の財産を好きなだけもっていっても良い。(吉川氏法度)




 男尊女卑で当たり前な戦国時代では非常に珍しい、妻が離婚する正当な権利を認めた法律です。これを定めた吉川元春は自ら進んでぶちゃいく
(暴言)と評判だった嫁さんを貰い、また大変な愛妻家として知られる武将です。


 田嶋先生某女史が大喜びな内容の法律ですね。 ──ただし…。


■女房が罪を犯して離婚した場合、女房が嫁入りの時持参した財産を
す必要はない。(吉川氏法度)

■夫と親しい客人が来ても、妻は自分の親族以外、接待に出てはいけない。(吉川氏法度)



 こんな法律も合わせて決められていところを見ると、やっぱり吉川家も女性にとって住みやすい環境であるは言えなかったようです。田嶋先生ご立腹。





■ある屋敷の下女のもとに別の屋敷の下男が通ってきたとき、顔見知りでなければ捕まえること。もし、仮に
してしまっても屋敷の主は罪に問われない。(今川仮名目録第七条)



  『ロミオとジュリエット』禁止令。これは別に下々の者の自由恋愛を禁じたのではなく、御家の情報漏えいを防ぐため。

 何、『屋敷の下男や下女がそんな重要な情報を知ってるもんかな』って?

 それもごもっともですが…OLさんがいっぱいいるタイプの会社勤めの方、もしくは病院や介護施設など女性の勢力圏が強いタイプの職種に勤めてる方。

 昼休みとかに、お局様が花を咲かせてる噂話に耳を傾けてみて下さい。あの人達、会社内部に妙に通じてたり、誰かと誰かが良い仲だーなんてことを異様なほどに知ってませんか?…――そう、使用人は下手な主人よりも御家の事情通になることだってあるんです。

『ある他人の家の事情が知りたいなら、その家の使用人に聞くのが一番てっとりい。』って、あのシャーロック=ホームズも言ってますし。




■夫の留守中、その屋敷で妻が留守番をする場合、妻の親兄弟以外はたとえ誰であっても男性の訪問は
止する。(長宗我部元親百箇条)




 間男禁止令。これも御家からの情報漏えいを禁止するためのものですが、これだと戦国武将の奥さんは留守番してるときはずっと閉じこもってなきゃ居なきゃいけないことになりますが…退屈しなかったのでしょうかね…。

 というか、前の吉川氏法度といい、戦国時代の奥さんの浮気はそんなに多かったのでしょうか。




不倫をした妻は、不倫相手と一緒に
つこと。(六角氏式目)





 だなんて、物騒な法律も残っています。





■夫を亡くした後家さんを嫁に貰うと言っておきながら、
り飛ばす者は盗人同然である。
 但し、質流れ
(借金のカタ)となった女房・後家の売買に関しては詮議の上、有罪無罪を問うものとする。
(相良氏法度 第二十九条)



 結婚詐欺and人身売買禁止令。戦国乱世であっても、こういう食えない犯罪をする詐欺師は居たということでしょう。

 ただし生々しいのは『質流れ=借金のカタになっていた女性』の場合はある程度の斟酌が為されたという事。時代の荒み様を感じさせます。


 ちなみに『
身売買』について言えば、戦国時代では非常にポピュラーな犯罪のひとつでした。

 戦場で勝ち馬に乗った軍の足軽達が略奪するのは何もお金や食料、牛や馬といった家畜だけでは無く…男女の性別拘らず、人間もその対象だったのです。

 武田信玄や上杉謙信が合戦に勝って凱旋帰国をすると、その城下町には大規模な人身売買市が立ったと言うのは07年大河『風林火山』でも描かれた有名な話です。


 特に、上杉家に至っては『捕獲して売るまでの段取り』が非常に良く、過剰供給
(要するに”捕まえすぎた”)で相場が崩れた場合、二束三文でき売ってしまうことすらあったようです。
 これは、上杉謙信が『義の人』でも『越後の龍』でもなく、戦勝を納めた折には奴隷売買も由とする非情な戦国大名であったことを示すものです。


 その手際の良さは後継者の上杉景勝にも受け継がれ、余りの”商売上手”さに他の大名が呆れたほどで…―――1590年
(天正十八年)には堪りかねた豊臣秀吉から直々、人身売買を禁止されたといいますから…毘沙門天の加護もなんともはや。





百姓が年貢を滞納するのは、決して
い罪ではない。
地頭は百姓地においては覚悟して年貢を徴収するように。
(甲州法度之次第 第六条)




 そして、その上杉謙信のライバルであった『甲斐の虎』武田信玄はといえば…実は年貢や税金の取立てが過酷なことで知られた戦国大名でした。

 有名な『信玄家法』…甲州法度次第
(こうしゅうはっとのしだい)五十七箇条も。実に十カ条以上が納税の遵守について定めたものです。



棟別銭については、帳簿を作って村々に申し渡した以上、たとえ逃亡者や
人が出て支払えなくなっても、各村ですみやかに弁済すること。
(甲州法度之次第 第三十二条)

ある村から別の村に引っした場合も、棟別銭は追って取り立てる。
(甲州法度之次第 第三十三条)

■家を捨てる・また売るなどして逃亡した者は、どこまでも追い掛けて棟別銭を取り立てる。本人に支払い能力がなければ、土地家屋の現在所有者が替わりに弁済すること。

(甲州法度之次第 第三十四条)



■棟別銭に関する訴訟を禁止する。ただし、諸所の事情が重なって納税額が元の二倍以上になった場合は申し出よ。寛大な心で罪を斟酌し、配慮によっては減免する。
(甲州法度之次第 第三十五条)


 特に、棟別銭
(むなべつせん/むなべちせん)―――今でいうところの土地家屋税は一軒あたり百文と高額で、だいたい百文前後だった他の大名家の二倍、お隣の相模北条家が一軒五十文(北条氏政の代で更に三十五文に減税)だったことを思えば、かなりのものでした。

 わざわざ『逃げたものはどこまでも追い掛ける、または村に連帯責任で払わせた』のは、あの武田信玄であっても法律に定めねばならないほど農民の逃亡が多かったことを示しています。

 そりゃそうでしょうね、お隣に戦国乱世で一番税金が安くて福利厚生がしっかりした北条家があったんですから。

 いつの時代も『税金は安いに越したことはない』一般庶民と『少しでも多く税金を巻き上げたい』支配者の思惑は衝突していた、ということでしょうか。


      


 とまぁ、最後に”越後の龍”と”甲斐の虎”が喧嘩を始めたところでオチを付けるとして―――こうして分国法を眺めて見ると、既に五百余年前の乱世から実に様々な訴訟沙汰が起き、その裁可に戦国大名達が頭を痛めていたことが判ります。



 そして、その内容はと言えば揉め事・厄介ごとの仲裁に始まり、殺人罪に銃刀法…金銭トラブルに贈収賄、男女関係の痴情の縺れから果ては人身売買、納税の遵守に至るまで法の目が張り巡らされており、戦国乱世から平成現代に至るまで、今も昔も裁判沙汰の種は尽きなかったのだということが窺い知れます。


 まぁ、何かと情状酌量やら何やらで被害者より罪を犯した者の社会復帰を重視しがちな現代法と違い、違反者が容赦無く死刑に処されることが多いところをみると…そこはやはり殺伐とした乱世だったのかな、とは思いますが――――。




 さてさて、そんな物騒な戦国時代も幕を閉じて今年で四百余年。

 相変わらず政争だ政権奪還だで殺伐としてる御様子の永田町ですが、実際に命のやり取りをしてた戦国武将ですらこんなに緻密な法律を組んで頑張ってたんですから…今の偉いセンセイ達も政局ばっかやってないで、少しは下々の領民達を慈しんで欲しいものです。


…ねぇ、『国民の生活が』だったはずの、どっかの政党さん。

■( ・(,,ェ)・) 註・この原稿の初版を書いた頃はまだ、世間様は民主党政権でした。案の定、国民の信頼に応えなかったので滅亡しましたが。


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