これを読めばあなたも『武田玄』がよくわかる?


 □大河『龍馬伝』も最終回を迎え、気づけば暦も師走に突入。"もう少しで、今年も終わりですねー♪"とか唄いたくなります。
 歴史ブームはまだまだ真っ盛り、それを種にブログやら旅行記やら書いてる者としては、のんきに喉を鳴らしてる場合じゃないわけですが。



 そんな与太話は脇に置いて、わりと重要なお知らせを。



 ここ数週間、方向性について色々と冒頭でぼやいてきた当ブログ『風林火山と戦国を語る 復・刻・版』ですが…

 色々考えました結果、来年大河『江~姫たちの戦国~』を毎週視聴し、毎回毎回に渡って感想や与太話を連載していくことに決定いたしました。



 といっても、大河『風林火山』の感想や解説を完全放棄するわけではなく、やや規模や熱意は減る可能性はありますが同時進行していきますので、御安心下さいませ。



( ・(,,ェ)・)大風呂敷だと思ったそこの彼方、たぶんそれは正解です(またんかい。



 あんだけ毛嫌いしていた大河『篤姫』と同じ脚本家さんが担当してるとか、たぶん『風林火山』と比較したらびっくりするくらいに生優しい女性向け物語な展開になるんじゃないかとか危惧することも色々あります、が…。

 北大路欣也さんの徳川家康や萩原聖人さんの石田三成というのを見てみたい気もありますし、何より主人公の江姫が『戦国時代の悲哀を知り尽くしたような激動の生涯だった』ことが惹かれた魅力でしょうか。



 だって、今までの戦国大河ヒロインに×2だなんて居ませんでしたよ、バツ2。(バツイチなら去年居ましたが…)。純愛物語にしよーたって、何度も旦那が変わるんですからある意味斬新です。

 あと、浅井久政がムスカ大佐なのも惹かれたといえば惹かれましたが(今何て言った。



 ( ・(,,ェ)・)そんなわけで、来年以降も当ブログをどうか御贔屓に、宜しくお願いいたします。(礼


歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。



■--と言うわけで、長い前置きが終わったところで今回ものっけから『歴史の眼』コーナー。

 戦国歴史を楽しむにあたって、知ってるとちょっとした自己満足になる、だけど日常生活を普通に送る分にはあんまり重要じゃない誰得的トリビアを真贋関係なく御紹介していきます。

 最近は、『もう風林火山よりこっち中心のエッセイにしたほうが良いんじゃないか』とか思ったりしてましたが、たぶんそれは思い過ごしでしょうし、諦めたらそこで試合終了です。
 
( ・(,,ェ)・)こっちメインのが良いと仰る視聴者の皆様、励まし&苦情のお便りをコメント欄にどうぞ(弱ッ。




 今回のお題は『戦国武将の人柄シリーズ』。第一回は大河『風林火山』の副主人公格、甲斐の虎こと武田信玄の人となりについて歴史痛の偏見たっぷりに御紹介いたします。



 これまた、よぉく考えてみなくても『風林火山』を語るにあたって最初にお話しておくべき戦国浪漫の予備知識だった気もしますが、四年近く経ったところで気づいても遅いので無問題です。( ・(,,ェ)・)反省ハシテマスヨ?

 …――えぇ、この際なんどでも僕はこの眼でぶっちゃけますよ?『こっから下は、別に読まなくっても良いです』と。 
 
 それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間を少々拝借。 
。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ 




■戦国最強軍団総帥、甲斐の虎、風林火山軍旗の名将。果たして、その実態は?



□現実主義者、合理的思考、剛毅果断な実行力
 大河『風林火山』では市川亀治郎さんが『悩める文系のハムレット』として好演した武田信玄ですが…

 この武田信玄という人の行動理念を一言で表すなら、それは『わりと我田引水で猜疑心が強い、合理的思考の現主義者』ということです。



 この後もいくつかの項目に分けて長々しくとりとめの無い説明をしていきますし、それが『歴史痛の眼』の本質なわけですが(ちったぁ反省しろ)、彼の人となりだけを知りたいのなら、その言葉でだいたい説明がついてしまいます。




 武田信玄は孫子兵法十三篇を崇敬し、理論詰めの政策戦略を第一に考えていました。

 孫子の兵法を実践するには戦略を分析するための情報力はもちろん、分析した結果に打ち出された最適の行動を迅速に行う必要があります。武田信玄の無敵たるゆえんは圧倒的な情報力と騎馬軍団を利用した行動力にありました。



 たとえば、今も山梨県-長野県内に残る武田信玄の政策跡。
 八ヶ岳山麓には『信玄の棒道』と呼ばれる山道が今も残っていますが、これは信玄が家臣に命じて増設した『軍用高速道路』です。



 武田信玄の領地は甲斐-信濃が中心で、その大半は峻険な山麓やアップダウンの激しい丘陵地でした。戦国時代以前からある街道や山道はこの険しい地形を縫うように走っていたためカーブや迂遠路が数多くあり、素早い軍事行動には不向きなもの。



 そこで信玄は甲信間を往還する経路のうち、比較的真っ直ぐに敷かれていた逸見道を整備しなおし、騎馬武者が二列になって走れる様に道幅を増幅。

 さらにバイパスとして二つの直線道路を敷設し、それぞれ上ノ棒道・中ノ棒道・下ノ棒道と命名。甲斐の山奥から信濃へ速やかに抜けられる軍用道路を作ったのです。



 そして、徹底した合理的思考の武田信玄なこと、その道はただの高速道路ではありません。棒道の要所要所には関所を設けて、敵の密偵や諜報活動をシャットアウト。敵がその道を安易に利用できない様に門扉や砦なども併せて配置されました。



 また、棒道沿いには『武田の隠し牧』と呼ばれる秘密の軍馬牧場があちこちに造られ、そこでは軍馬や伝馬の養成調教のほか鍛冶屋・細工師・皮革職人などが配備されました。

 これは、甲斐武田軍が棒道を通って行軍する場合に軍馬や武具を補充したり、伝令将校である蜈蚣衆(むかでしゅう)が火急を告げる際には早馬を交替させるために信玄が置かせたものです。



 さらに、この棒道を増設するにあたり甲信間で併せて設置されたのが狼煙台

 遠方で何か事件が起きたときに狼煙(のろし)を上げることで情報を伝えるシステムです。武田流の狼煙は燃料の調合法により煙の色を変え、伝達する情報内容によって上げる場所を定めることによって様々な情報を伝えることが出来ました。



 川中島合戦の際、長野県北部にある善光寺平に上杉謙信が軍を引き連れ侵入したときに働いた狼煙ネットワークは、躑躅ヶ崎館まで僅か二時間半で連絡を届けたと言いますから、自動車も高速道路もない戦国時代では超絶スピード。



 ひとつの政策に併せて多方面での利益が出るよう計算されているのは、信玄がそれだけ合理主義者であったことを裏付けています。



□気遣いが出来てカリスマ的魅力のある親分
 大河『風林火山』の主人公は?と問われれば、それは言うまでも無く山本勘助(内野聖陽)なわけですが…これまで架空の人物、『甲陽軍鑑』のなかだけのヒーローだとされた勘助を実在人物とする証拠が、1969年(昭和四十四年)に発見された『市川文書』。



 市川文書は武田信玄が信濃の親武田豪族・市川藤若(いちかわふじわか)に宛てて送った文書で、市川藤若が長尾景虎の攻撃を受け、降伏勧告を受けた際にこれをはねつけて徹底抗戦し、長尾軍が撤退するまで頑張ったことを褒め称えた感謝状のようなものです。

 大河『天と地と』を視聴していた北海道の市川氏が『うちの蔵にも、今日の大河ドラマで出た手紙と似たようなのがあったな…?』と捜索し、見つかった古文書を近所の図書館に持ち込んだことで発見されました。



 書面の内容は次の通り。



 『あなたから頂いた報告書は読みました。長尾景虎に攻撃され、降伏勧告されながらも一生懸命戦ってくれたとのこと。市川殿の働きは実にあっぱれで、頼もしく思います。



 しかし、今回の長尾軍襲撃であなたから援軍要請を受けたにもかかわらず、受諾した武田領の塩田城が私に援軍許可を求める手続きをしたせいで援軍が遅れ、わが武田軍が市川殿を助けにいったときにはもう長尾軍は帰ったあとだった、というのは問題ありです。



 全く無首尾であったと言ってよく、あってはならないことだと思います。

 今後はこんなことが無いように、市川殿から要請があった場合は私の許可を待たず即座に援軍を出すようにと飯富虎昌に指示しておきましたので、御安心下さい。



 なお、まだ詳しい話があるのですが、それは山本管助が口頭で説明いたします。



                  六月二十三日、武田晴信 市川藤若殿



 実に丁寧に、温かみのある内容で市川藤若を褒め称えているのがわかります。
 武田信玄は自分のために働いてくれた武将には、こういう細やかな心遣いが出来る親分肌な人だったことがうかがい知れる文章です。



 また、市川藤若の居城だった計見城は長尾景虎(上杉謙信)の居城である春日山城から20qほどしか離れて居らず、逆に武田信玄の本拠である躑躅ヶ崎館とはかなり遠く離れて居て、いつ長尾軍に攻め落とされてもおかしくない所。

 そんな遠く離れた場所に居る人が命を張ってくれるのも、信玄があらゆる可能性を考慮して、自分の味方を敵から守ってくれる良い大将であるということは決して無関係ではありません。



 なお、手紙の最後にある山本管助が=山本勘助のことであり、彼が架空の人物でなかったという確かな証拠となりました。

 名前の字が違いますが、この時代の手紙は普通大名本人ではなく右筆(秘書)が大名や家臣のいう言葉を聞き書きするものなので、勘助の身分が低かった場合、右筆が書き間違いor勘助の事を良く知らなかったため適当な字を当てたのではないかと考えられています。


 また、甲斐武田家が定めた分国法『甲州法度次第』、通称"信玄家法"は領民の統治法から裁判・禁制を破った場合の刑事罰まで厳しく規定された法律ですが、最後の一項目には

この信玄も、法を定めた以上は遵守する所存である。もし、私がこの法を破り秩序を乱していると想うことあれば、遠慮なく言って来い。』と書かれています。

これも、信玄が懐の広い器を持つ大将であることをうかがわせる点とも言えます。


□他人を信じていない、猜疑心が強い
 『赤の他人が、腹を割って話し合える信頼関係になれる』というのは、ある意味理想ですよね。
 その反極端、現実主義者である武田信玄はどうやら、基本的に他人を信頼せず常に疑ってかかる性分だったようです。



 自分が約束や信頼をあっけなく裏切るようなタイプだったせいか、ことさら他人の裏切りや離反を気にしていたふしがあります。



 駿河今川家と交戦するにあたり嫡男の武田義信と対立、これを幽閉した際には家臣団から『甲斐武田家を奉り、誠心誠意の忠を誓う』という内容の誓紙を何度も取り交わしていますが…

 これは義信廃嫡によって家臣達が浮き足立ち、信長・家康や相模北条家といった隣近所の戦国大名へ寝返るのではないかという信玄の猜疑心がさせたことでしょう。



 ほかにも『座頭(視覚障害を持った僧籍にある人たち)どもが甲斐武田家から情報を盗み出し、近隣の戦国武将に流している』と疑って武田家領内に居た座頭を片っ端から放・処刑してしまったり、

 甲斐国で最大の金山である黒川金山が枯渇・閉山してしまった時には『この秘密が他国に漏れては武田家の弱体化が知られてしまう。』と疑い、黒川金山近くを流れる柳沢川の渓谷に藤づるで架けた宙吊り舞台を設置。

 そこへ鉱山夫を相手に慰安・売春業をしていた遊女たち五十五人を呼び集めて舞い踊らせ、そのさなかに藤づるをいきなり叩き切って全員転落死させてしまった、などなど…武田信玄が他人を信じない、猜疑心が強い人であるということを裏付ける伝承は数多く残っています。
(尚、余談ですがこの遊女達が転落死させられた附近が今でも『おいらん淵』と呼ばれ、山梨県内では心霊スポットの一つとされているようです。)



 また、前の項で『良い分だ』と書きましたが…猜疑心が強いせいか、誰かを裏切って味方についた武将はそう簡単に信用しない向きがありました。



 上杉謙信の家臣だった本荘繁長(ほんじょうしげなが)や北条高広(きたじょうたかひろ)をそそのかして謀反を起こさせたのに、

二人が『援軍が欲しい!!』と頼んでも『ごめん、無理。』とそっぽを向いたり

 駿河今川家を攻略する際に策略を駆使して大量の今川家家臣を寝返らせましたが、信玄に重用された武将はごく僅かでした。

 中には『旧主である今川家を見捨てて武田家に来た者が、どうして信頼出来るものか』と、裏切った際の報酬約束を反故にされ、処刑された者も居たようです。




□義理人情を重んじない、他者を切り捨てられる冷酷な心の持ち主
 これは前項目で説明した『現実主義』や『剛毅果断』に重なりますが、信玄は自分なりに考えた戦略や策謀のためならどんな犠牲や背信も考慮しない、非情な一面性のある人でもありました。



 たとえば『同盟の破棄』。実は武田信玄、同盟破りに関してはおそらく戦国時代で一番の常習犯だったりします。ざっと数えただけでも…。



@妹の禰々御寮人が嫁いでいた信濃諏訪家を突然に攻撃、義弟の諏訪頼重を破滅に追い込んでいる。

A駿河今川家の没落につけ込んで三国同盟を破棄、それに反発した相模北条家とも手切れ。織田信長・三河徳川家と同盟を結び今川家を滅亡に追いやる。

B今度は三河徳川家との同盟を破棄。遠江・三河を侵略し、三方が原の合戦で徳川家康を惨敗させる。

C織田信長と将軍・足利義昭が不和となり『信長包囲網』が結成されると一転、今度は織田信長との同盟も破棄、東美濃を攻撃。



 四回もあります。武田信玄贔屓の史料である『甲陽軍鑑』には、いずれの場合も敵に背信行為や裏切りがあった様に書かれていますが、実際のところは武田信玄の飽くなき征服欲が駆らせた結果だったりします。

 まぁ、『甲陽軍鑑』での武田信玄は漫画もかくやというほどに完全無欠、絶対正義な主人公様に描かれていますので、話半分で読まなきゃいけないわけですが…。



 他にも、将軍足利義輝が仲介した上杉謙信との和睦・停戦条約を数日で破棄してしまったり、他の大名と交し合った誓紙をあっけなく無視したり…などなど、武田信玄は『敵としても恐ろしいけど、味方にしても腹の底が知れない』ような、言ってみればズルイ武将でした。



 好敵手だった上杉謙信が理想主義者、朴訥な一直線突進主義だった人格が敵味方からも賞賛されたことに対し、信玄の人間性が褒められたことはあまり史料にも見受けられません。

 この信玄の性格と外交政策のおかげで、後継者となった武田勝頼(信玄四男)はなかなか他の大名と同盟の交渉が出来ず苦労したそうですし、
 江戸時代に入っても庶民の人気では謙信が善玉、信玄は悪玉とされ、川柳(せんりゅう。滑稽さや社会風刺など、面白みを重視した俳句)でも謙信は賞賛される一方、、信玄は恩知らずの根性悪、といった内容のものが幾つか残されています。



 特に、長年に渡ってこびを売り続けていた織田信長は武田信玄が同盟を破棄したことにびっくり仰天、そして激怒。
 上杉謙信宛てに『あんな油断の出来ない奴は見たことが無い!!』と怒り心頭な内容の書面を送っています。



 信長は、仲の良い同盟関係だと思っていた武田信玄がまさか、自分を裏切って影で浅井長政や朝倉義景、そして一向一揆を支援していただなんて思っても居なかったのでしょう。

 戦国の覇者、第六天魔王をすっぱ抜いて騙してたあたりは、さすがは十四歳年長の先輩戦国武将。信長も家康も、信玄にかかればまだまだヒヨッ子だったといったところでしょうか。

 信玄の死後、武田家を滅ぼし甲斐・信濃両国を支配下に置いた信長は『武田一族は誰一人として命を救ってはいけない。見つけたら即刻祭りにあげろ!! でもって、首を晒せ!!』と家臣に厳命、信玄の弟である武田逍遥軒(信廉)や一条信龍は織田軍に殺害され、最後まで勇猛果敢に戦った信玄の五男・仁科盛信もその首を晒される羽目になっています。

 信長公、よっぽど口惜しかったんでしょうねぇ。( ・(,,ェ)・)

□武田信玄って悪い人なの?…――えぇ、そりゃあ結果を出した指導者、偉人ですから。

 なんだか文面を読み直していると『武田信玄という人が、途轍もない悪人』に思えて来ますが…そもそも戦国大名という職業が善人に務まるかといえば『絶対違う』ですから、仕方ないといえば仕方なかったりします。

 武田信玄本人は






 と言っていますし、かの毛利元就






『善人に管理職を据えるものではない。そんな奴に限って八方美人、無事大過なしが一番だと考えているからだ。それでは絶対に組織改革や指導なんか出来ない。

 この戦国乱世、人が良いなどという性格の者など、居ても居なくてもいいような奴のことだ。』

という、ある意味ものごとの真理を突いた言葉を残しています。

 中華人民共和国を飛躍的に発展させた名指導者・ケ小平(とうしょうへい)

黒かろうが白かろうが、鼠を獲るのが良い猫だ。

 と、指導者に求められるのは善悪ではなく実行力だと指摘したこともこれに通じるものがあります。


 実際、物事の善悪聖邪・義理人情を深く加味して行動したとされる上杉謙信にしても、その生涯の殆どを戦場で過ごしたということは『合戦によって敵国の罪無き領民が苦しむということを計算にいれた上で実行しているのですから、攻められる側の領民にしてみれば”正義の味方"どころかド党です。



 戦国大名はよほどシビアでストイックな考え方でなければ勤まらなかったことがうかがえます。



 ( ・(,,ェ)・)だから中国は世界一国家に大躍進して、民○党の政治家さん達は大事なことが何一つ決められないんですね。ん、誰ですかこんな時間に。



 最近では極端徹底に美化され、偶像化された戦国武将とかが目立ちますが…キレイゴトだけでは激動期や乱世を生き抜くことは出来なかったんですね。

 (ノx(,,ェ)・)だから、民○党さんも八方美人な管さんは切って、指揮権発動してでも小沢さんを総理大臣にすべk(以下検閲にて削除。作者もろとも。





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