戦国武将に学ぶ人生格言シリーズB 本多


春休み特別企画!!『戦国武将に学ぶ人生言シリーズ』。


 さぁ、こないだ正月が終わって幕が開かれたと思っていた平成二十四年も気づけば三月も半ば。

 あと少し日数を重ねれば世間様では『年度末』を迎え、新たな年度の始まり…学生さんは進級や卒業、そしてそれらをも終えた方々は新たな世界…――もはや学徒ではなく、混迷する日本経済の一角を担う社会人として新たな足跡を刻む季節となりました。
 ( ・(,,ェ)・)。oO ( 早いもんですねぇ、体感的にも実感的にも。)



 かくいう赤髭も、更新しない間に色々あって心機一転、新しい職場に挑戦。

 今までとはまるで勝手が違う職務に、元より臨機応変とは言い難い性格を再確認させられながら四苦八苦しておりましたが…よくよく考えても見れば。

 "子供"から卒業して大人になり、未知の世界に挑んだのは何も現代日本の社会人一年生だけではなく、戦国武将も一緒のはずです。
 彼らの経験や知識、それを後世に伝えた名言にはひょっとしなくても今の平成日本にも相通じるものがあるかもしれません。




 そこで、戦国武将や戦国時代に関する知識を無駄に会得している割にはそれを人生に活かせていない典型的な歴史痛・赤髭が『これは!!(笑)と想った戦国武将の格言・名言をチョイス。

 どっちかと言えば一般的知識に活用し難いジャンルである戦国歴史をしく人生に活かそう、その言葉から読み取れる人生訓・教訓を学ぼう…そしてついでに自戒もやっちゃおうという、一石で鳥を幾つも叩き落としてやろうという実用的でお徳なコーナーを久々に更新。

( ・(,,ェ)・)oO( びっくりするほど自虐自賛。新シリーズの更新は、勢いと根拠レスな自信、そして忘れた頃ちっくな間で出来ています。)




□第一回では前田利家を、第二回は多胡辰敬と来た本シリーズ。今宵第三回では一気に武将の知名度を上げて…。
 『東照大権現』徳川家康の誇る最強の鬼札であり、近年の戦国時代ブームでも高い人気を誇る機動戦士ホンダム本多(ほんだただかつ)の格言から御案内致します。


 それでは、御一緒して頂ける読者様の御時間を、少々拝借。
         。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!



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『我が本多家に勤める武士は、よりもまず

"た目"の風体から、武士の正道に入るべし。』


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この言葉には、本多忠勝を知る戦国歴史Fanの皆様も
『…れ?
σ(゜、。 )?』と思われた方が多かったのではないでしょうか。

 おおよそ、彼らしくもない言葉だからではないかとお察しします。
心構えは二の次で良い、格好から武士の道を踏み出せ。だなんて、あの本多忠勝の言葉とは思えないですもんね。





 戦国歴史Fanの皆様にはいまさら、改めて御紹介するほどでもないでしょうが…本多(ほんだただかつ 1548〜1610 鍋之助・平八郎、中務大輔)といえば、言わずとしれた不撓不屈の闘将であり、徳川家の守護神と言っても過言ではない名将です。

 

 黒い鹿角脇立兜に漆黒の鎧、袈裟懸けの大数珠といういでたちに、一丈四尺(約4.24メートル)の威容を誇る愛槍、穂先にとまったトンボが真っ二つになったという挿話を持つ『蜻蛉切り(とんぼぎり)を抱え、名馬『三国黒』に跨った忠勝の雄姿は、その武勲ともども三河国や近隣諸国に鳴り響きました。











 織田信長・豊臣秀吉・武田信玄ら名だたる戦国武将達が口を揃えてその軍略と勇敢さをめ讃え、十三歳で桶狭間合戦の初陣を皮切りに生涯五十七度の合戦に参陣、挙げた武勲は徳川家中随一を誇りながらも自身はかすり傷ひとつ負わなかったという無敵振り。


 まさに、『きのスペシャリスト』と呼ぶにふさわしい履歴の持ち主です。


  
■歴史痛
Check-Point 武勲日本一? 忠勝あれこれ


さて、今日日の平成日本でもお昼下がりにテレビ番組を見てみれば、顔をまともに合わせたこともなさそうな関係な癖に誰彼がああだとかこういう性格だとか、他人様を噂や論評をしている人達を多数目にすることが出来ますが…。


 そんな平和呆けした今の私達にとって遠い遠い御先祖様にあたる戦国武将。他人の噂や寸評する前に戦ってそうな彼らも、意外ですがこの手の他人論評をしっかりやっていたようです。

 史書に見られるそれらの評価に目を通すと、さすがにそこは戦国時代。
名誉毀損罪や裁判どころかリアルで命のやりとりをしていた乱世のこと、総じてその評価は酷なものが多かったようです。

 例えば、山本勘助今川義元と駿河今川家を『悉皆
(しっかい。みなことごとく、という意味)主が居なきゃ話が進まない国です。』だなんて随分とキッつい評価を残しています。

 この"坊主"とは、大河『風林火山』でも伊武雅刀さんが存在感たっぷりに演じた怪僧にして黒衣の宰相、雪斎(せっさい、一般に言う
太原雪斎)のこと。

 実際、義元は雪斎没後わずか五年後に桶狭間合戦で討ち死に、今川家は十五年弱で滅んでしまったので、勘助の慧眼は正鵠を射ていたというべきでしょう。


 乱世の時代考証をリアルに、かついきいきと描いた本格戦国歴史漫画『センゴク』では、男前過ぎて読者が♂でも惚れてしまいそうな格好良い策士振りをみせつけてくれた美濃斎藤家最後の総領・斎藤龍興(さいとうたつおき)。
 彼も、『愚鈍、どもり癖のある風采のあがらない肥満体の小男』とまるでいいところがないような酷評を頂戴しています。


 普通だと英雄Classの上杉謙信や武田信玄にしても、豊臣秀吉に掛かれば『しょうもない戦を十年以上も続けてた田
大名』扱いだったのは前にもお話した通り。


 そんな酷評飛び交うなかで、おそらく唯一と言っていいでしょう。主君の徳川家康をはじめ『戦国の覇者』織田信長、『太閤』豊臣秀吉。…そして『甲斐の虎』武田信玄と、名だたる四人の英雄達に揃って褒められている戦国武将…それが本多
です。


 姉川の合戦や三方ヶ原合戦での奮闘を見聞した信長は『花実兼備の勇士
(花も実もある素晴らしい武士だ)とその槍働きを大絶賛して、わざわざ忠勝と会見におよんでいます。信長は基本、家臣の評価は峻厳過酷な減点方式の人だったので、実はこの手の好評は(リップサービスも多少はあるでしょうが)稀少なことだったりします。

   

 1584年(天正十二年)の小牧・長久手の合戦では、僅か五百の手勢を率いて秀吉軍三万八千の軍勢を相手に鬼神の如き働きをしめし、これをみて驚いた秀吉は『日本第一、古今独歩の勇士』とこれまた大絶賛。
 戦後、なんとか家康から本多忠勝を引き抜いてやろうと色々画策しています。


 そして忠勝の武歴でも圧巻なのは1573年(元亀四年)、甲斐武田騎馬軍団二万五千を相手に先陣を切り、敗走する味方の殿軍を二度も勤めきった三方ヶ原の合戦と、その前哨戦である一言坂(ひとことざか)の合戦。

 満を持しての上洛に向けて、ほぼオールスターといってよかった布陣の武田軍による猛攻撃・熾烈な追撃をきりぬけた忠勝の戦いぶりには基本的に他人評価が辛口な武田信玄も目を見張ったようで、『本多忠勝は家康には過ぎたもの
(家康の家臣にしとくにはもったいない。)』と惜しみない賞賛をしています。

 たぶん、こんな面子に揃って賞賛されているのは忠勝くらいのものでしょう。


 

 そんな筋金入りの武人であるはずの彼が、『本多家で勤めるのなら志は二の次、まずから入れ』だなんて言ってるんですから。

 勇猛果敢で頑固者が雁首を揃える三河武士らしからぬ言動にも聞こえますが…いったいなぜ、忠勝はこんな遺訓を残したのでしょうか。
 同じ徳川四天王の同僚であり、全身傷だらけになりながら徳川家の先陣を受け持ち続けてきた井伊直政(いいなおまさ)あたりが聞けばり出しそうな話です。

      


 しかし、この言葉の裏には、忠誠無比ながらも単純明快・頑固一徹な性格揃いだった三河武士らしからぬ、けれど五百年過ぎた平成日本でも応用が利くという、忠勝の深慮遠謀な思惑がめられていたのです。




■戦場で勇猛果敢なだけが、職場で真面目なだけが『武士』ではない?

 わずか十三歳だった1560年(永禄四年)、六歳年上だった家康に強談判して初陣を遂げ、十五歳で敵の首級を獲り武勲を挙げたという筋金入りの三河武士だった忠勝は、槍働き一筋の武人として順調に出世。

 豊臣秀吉の天下統一後、家康が関東地方250万石余という莫大な領土を得ると、安房里見氏の抑えとして上総大多喜城(現千葉県南東部)十万石の所領を得てとなります。


 徳川家康の関東入封で、徳川家家臣で十万石を超える所領を得たのは当時家康が寵愛していた井伊直政(上野箕輪十二万石)と榊原康政(さかきばらやすまさ、上野館林十万石)、そして忠勝の三人だけです。


     


 1600年(慶長五年)の関ヶ原合戦では井伊直政と共に東軍の先陣とその軍監(ぐんかん。他の先陣軍が真面目に戦っているか見張る職)となり、開戦直後まもなく到来した東軍苦戦の際には真っ先に敵陣へ突っ込み、衰えを知らない大奮闘。

 この武勲により、戦後は伊勢桑名(現三重県桑名市)十五万石に加増転封となりました。


        

 現・千葉県から三重県への転勤。江戸からは遠くなっていますが、これは『譜代大名は江戸を守るために交通の要衝を守るように配属させる家康のえに拠るもの…――


 というのが建前なのですが、実際にはもはや関ヶ原以降には三河武士の様な堅苦しく扱いが難しい、政治に向かない家臣が遠ざけられ、算盤勘定や治世術に優れた官僚型武将を重用するようになった家康の変わりも、決して無関係ではないでしょう。



 事実、忠勝は徳川家康を大変尊崇している反面、優れた内務官吏として幕府の政治を補佐をしている官僚派武将らを毛嫌いしており、特に家康の参謀であり右腕として知られた本多正信(ほんだまさのぶ)とは同姓ながら猿の仲。
 (なお、たまたま姓が同じなだけで二人に血縁関係はありません。正信は元が鷹匠の出身で武士ですらない出自だったと言われています。)



 彼のことを『佐渡の腰(佐渡とは本多正信の受領名・佐渡守(さどのかみ)のこと)と呼んで嫌悪感をはばかりませんでした。





 ですが、家康と正信はまるで劉備と諸葛孔明の如くに蜜月関係。

 …そして遠江国(現静岡県西部)出身の官僚型武将達は幕府の中枢で政務を執り活躍し、本多忠勝や榊原康政ら三河武士の活躍は過去のものになろうとしていました。

 まだ豊臣家は存在していますが、世間の風潮は既に天下泰平の兆し。


     


 もう、忠勝の様な武辺者は居場所がない時代がすぐそこまでやって来ている、足音が響き聞こえてきている…。戦国乱世の終焉はすなわち、もう勇猛果敢な魂魄より治世の能臣が求められる時代の到来を意味していたのです。




 冒頭の言葉…おおよそ忠勝の性格からは考えられない思想は、若かりし頃の栄光からは程遠い、寂しい晩年を迎えていた忠勝が1610年(慶長十五年)、伊勢桑名で死の床に臥した際に家臣達へ残した遺訓のひとつです。


 十三歳で戦国乱世の阿鼻叫喚へ突撃していった彼も、既に齢六十三歳。

 槍一筋で頑張って来、譜代大名でも屈指の大身となりながらも中央から遠ざけられた老兵武将が自分の死後に本多家を支えるであろう若武者達に遺訓としてまず教えたのが、『心よりもさきに、た目』でした。



 忠勝は病床の枕元に居並ぶ家臣達や世継ぎである長男の忠政(ただまさ)へ、そして寵愛していた次男の忠朝(ただとも)らに遺訓を言って聞かせる前置きに念を入れる言葉を残します。

     


 確かに、戦国時代も開幕直後は武将達も勇猛果敢こそが大事とされ、戦場で臆気に囚われず闘えることが第一という気風思想が広まっていました。

 事実、戦国武将の教養として知られる茶の湯や連歌といった趣味がもてはやされるようになったのは織田信長の台頭後のこと。
 それまではどちらかといえば気性が荒く粗野で、腕っ節ばかりが強い乱暴者が重宝されていましたし、そういった者達は基本的に豪放磊落なので普段は身なり格好、嗜みなんか気にしていません。


 しかし、忠勝の活躍した時代は戦国時代と安土桃山時代、そして江戸時代と三つの『歴史の換期』を跨いでいます。忠勝が武将人生を駆け抜けていくうちに、乱世が次第に穏やかになっていくにつれ、時代の常識や武士の魂もまた変貌を遂げていきます。


 その微妙な世相や戦場儀礼の変遷を、忠勝は緊迫した合戦場の空気から肌で感じ取っていたのでしょう。忠勝の言葉は続きます。


     


 …――初陣から数えた戦場は五十七回という、他を圧倒する合戦履歴は忠勝をただの戦国武将から慧眼鋭く優秀な観察者へと成長させていました。

 彼がその数多経験した闘いでかすり傷の一つすら負わなかったのは、三河武士にありがちな前後向こうを省みない槍働きではなく、熱い闘志だけでなく冷静沈着に槍を合わせる相手を、また共に戦場で闘う同僚達の行動を観察する構えを決して忘れて居なかったことも大きく関係しているでしょう。


 鹿を逐う者は山を見ず、金掴む者は人を見ず、木を見て森を見ずでは死の戦場を生き残れない。忠勝が長い戦国武将人生で得た教訓の根拠はなおも続きます。

     

 言葉使いに、綺麗に整えられた衣服に、きりりと結った髪に。

 そして荒々しくも勇敢な戦国武将の士魂が篭められた刀と脇差の佩き方にまで気を配れば、それを整えていく過程でその人自身の心構えが洗練され、他者の眼に映る姿からもその意気や武士としての勤めに向ける覇気が透けて見えてくる。

 本多家の家来や武将は、それと判る紋所が無くても人目で判る様に身嗜みを、そしてそれを踏まえた者の心だけに宿る凛とした気魄を忘れてはいけない。


 『""は二の次で良い。まずは形から入れ。』という本多忠勝の遺訓は、言ってみれば『急がばれ』の心。

 身嗜みを固持することで武士としての心構えを確実に芽生えさせ、第三者からはその人の容貌や仕様仕草から戦国武将にふさわしい心意気を知って貰えるという、忠勝一流の『良い国武士の育成法』。

 粗忽者揃いだった三河武士が平和な天下泰平の世でも武士の誇りを忘れないで居られるために、本多家が自分のような『時代遅れ』にならないように、確実に遺訓として子々孫々に、後世までに残したかった真理だったのではないでしょうか。





■人間は他人の情報をかなり視覚的なもので判断している

 本多忠勝の『心よりもまず見た目』精神を裏付けるデータに、アメリカのとある心理学者が『人間の容貌が他者に与える印象と影響』を推し量る為と称しておこなった実験のお話を持ち出してみましょう。

■同じニューヨークの商社に勤める、年齢も入社年も営業成績も家族構成も同じ・もしくは似通っている二人の男性A/Bに対し、

@ 男性Aはごく普通に、本人の常識に任せた格好で出勤。

A 男性Bは専属のメイクアップアーティストとスタイリストによるおめかしを施してから出勤。


これを一年間継続して、どんな差が出るかを経過観察する。


 …―結果はといえば。男性Bは昇給やボーナスの金額はもちろんのこと、営業成績まで、男性Aをそれぞれ約20%以上も引き離すという結果が出ました。

 当然、一年間とは言え一例に過ぎないので鵜呑みには出来ませんが、それだけ人間の見た目は第三者やそれを意識する本人にも大きな影響を与える、という論拠にはなりますよね。



 『人間は見てくれじゃない、身だ』というのは格好良い言葉ですが…―よほど達観した人間でなければ、いきなり見ず知らずの他人の内面や善悪までは看破してくれません。人は他人を八割、た目で判断しているのです。


 観察対象となる人間の仕事振りや態度、熱意、仕草…それらの多くは視覚的情報によるものです。そしてそれらの情報を上方あるいは下方修正してしまうのが、第一印象…それの強い根拠となる『見た目』なのです。


 安酒のラベルが貼られた酒瓶に例え銘酒を詰めたとしても、よほど精通した人でなければ美酒を粗悪な酒と見間違う、あるいは錯覚する。
 あるいは素質の良くないものだと決め付けてしまい、グラスで香味風味を確認もしないかも知れない。人間の視覚は他の五感を大きく引き離す判断材料となっているのです。

 本多忠勝の特徴的な戦装束も、戦場で相対する敵に怖じ気と臆病を招くための視覚的効果を狙ってのものだったのかも知れません。



 半世紀に渡って槍一筋で戦場を駆け抜け、数多の合戦で手柄を挙げた本多忠勝。重ねた武勲は江戸幕府の礎となり二百五十年以上の天下静謐に大きく貢献したことは間違いありませんが、その晩年は不遇なものでした。

 合戦で振るい、敵の首級を薙ぎ払い…あるいは突き抜けていった銘槍『蜻蛉切り』の鋭い穂先を見据える彼の目は、敵の命と手柄首もろともにその事実を鋭い観察眼で見抜いていたのかも知れません。


   


 『江戸幕府が開かれ豊臣の世が終われば、天下泰平の世になれば合戦でしか武勲を立てる方法を知らない莫迦が必要なくなるということ…実際の働きよりも先に外容貌が物事の判断基準となる時代が来る』ことを。


 忠勝の遺訓を代々継承していった本多家はその後、姫路城主などを経て最終的には幕末まで続く藩となりました。

 毅然とした態度に凛然とした容貌。幕末を待たずに御家断絶していった譜代大名も少なくありませんが、忠勝の子孫達が最後まで生き残ったのはこの薫陶による賜物、なのはきっと間違いない事実なのでしょうね…。

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■本多忠勝の格言に学ぶ

 身だしなみは自分の心に与える影響はもちろん、『人は八割見た目で判断されている』現代社会でも効果抜群!!

 『服装なんか気にしない♪』とかいう性格は損しかしない。社会人になるまでに修正するのが吉。他人の目に映るのは中身じゃなくて容貌です。

( ;・`ω・´)っ)・ω・`)・∵;; オマエガイウナ!! ← 年中ジーンズとスニーカーで通す洒落っ気マイナスな筆者。 





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