前回は『猛将・武田信虎の実像』シリーズ前篇と題して武田信虎の人となりや背景事情をお話しましたが、今回は『猛将・武田信虎の実像』シリーズ後編。 大河『風林火山』の表舞台から退場したその後…つまり、信虎が駿河から追放された1541年(天文10年)以降の彼の足取りとその後の余生について、歴史痛的与太話を交えて徒然と語っていきたいと思います。 人生五十年の時代に齢八十一歳という毛利元就も徳川家康も超える長寿を生きた、甲斐の虎の物語、その後半生に起こった激動の人生と隠されたエピソードを探っていきます。 では、御一緒して頂ける皆様の御時間を少々拝借。。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !! ■静かな老後を生きられない暴虎 信虎が甲斐武田家総領の地位を失い、嫡男晴信のクーデターによって 駿河に追放されたのは1541年(天文十年)のお話。 1541年と言われてもピンと来ないと思われますし、時系列的に軽くお話しすると… 時代はまだまだ戦乱の行方は読めない状況で、日本各地は戦国大名達が覇権を争う群雄割拠の真っ最中。後に名を上げることになる毛利元就や斎藤道三も苦境のまっただなか。 戦国時代に終止符を打つことになる戦国の覇者たち…織田信長や豊臣秀吉達もまだ10歳にも満たない子供でしたし、徳川家康や伊達政宗などはこの世に生を受けてすらいない状況でした。 当然、大河『江〜姫達の戦国』の主人公である江姫も生まれていません。 また、日本の戦国時代を語るにあたって外す事の出来ない一大事件だった『鉄砲』や『キリスト教』も、日本に伝来する前のことです。(鉄砲伝来は1543年、キリスト教伝来は1549年。) こう箇条書きしてみると、皆さん『武田信虎はずいぶん、古い時代の人なんだなぁ。』と思ったりするかもしれませんが、1541年を逆の言い方で表現してみると 『室町幕府の統治機構が実質上・名目上共にその機能を停止した、第15代将軍・足利義昭の京都追放から32年前、 織田信長が本能寺の変で倒れる41年前、 豊臣秀吉による小田原北条家征伐・天下統一の達成の49年前』。 応仁の乱(1467年)から始まった戦国時代も、開始から既に80年余りの時が過ぎていました。 さて、廃嫡し追放したつもりだった息子・晴信と重臣達により甲斐国から追放されてしまった信虎ですが、駿府での隠居生活は意外にも安定していたようです。 大河『風林火山』では我が身一つで故郷から放り出された挙句に勘助や青木大膳に斬り伏せられ、額から血を流しながら哀愁の独り言をつぶやく寂しい暴君の顔を、仲代達矢氏が感情色豊かに好演しましたが…実際の信虎は"追放"に間違いはありませんが、形式上はあくまで"隠居"です。 駿府出向には甲斐時代の近習や側室達も随行しており、甲斐武田家からも隠居生活の為の仕送り資金が毎年きちんと送られてきていたそうですから、信玄も妙な意味では親孝行を続けていたことになります。 今川家も僧衣の軍師・太原雪斎の補佐を受けた義元が着々と勢力を拡大.。 最盛期には駿河・遠江・三河・尾張の一部に渡る広大な領土を統治し、今川義元の武名は『海道一の弓取り』(東海道で一番戦上手な大将)と讃えられる様になり、その庇護を受けた信虎の隠居生活も安定したものでした。 しかし、1555年(弘治元年)に今川家を支えた名軍師であった太原雪斎が世を去り、1560年(永禄三年)に"戦国の覇者"織田信長の台頭の契機となった『桶狭間の合戦』が起きると、膠着していた東海戦線は大きな転換を迎えます。 今川義元が、負けるはずの無かった桶狭間であっけなく討死してしまったからです。 静かな余生を送るはずだった信虎の周囲も、この混乱で少々話が替わってきます。 ■再び甲斐の地に戻るために…さまよう老虎 …聡明な政治家であり、怜悧な戦略家であった名君・今川義元が戦国時代の表舞台から退場し、今川家家督は嫡子・氏真(うじざね)に引き継がれます。 氏真は暗愚だ凡庸だと評判の良くない人物とされていますが、少なくとも信虎には義元ほどの器量を見出せない人物だったようです。 故郷甲斐から追放されて二十年あまり、信虎の眼は久々に野望で煌きを放ちだし… 1563年(永禄六年)には、信虎は遂にこの氏真の追い落としを画策します。 この計画の途上に信虎は甲斐へ使者を送り、信玄に『氏真は取るに足らない小人物で、今川家は明らかに弱体化している。今こそ、駿河を切り取る好機である』と密書を認めます。 これを機に、信虎は躑躅ヶ崎へ帰ろうと画策していたのでしょう。 …しかし、この策略は今川氏真が事前に察知。 事態に窮した信虎は、今川家を退去し京都に向かうことになりました。京都は息子の嫁・三条夫人の実家である転法輪三条家があるため、それを頼ろうと考えたようです。 この京都への旅の最中に、信虎は志摩国で起きた伊勢国司・北畠家と志摩の豪族達の争いに北畠側の軍師として参戦し、北畠軍を勝利に導いたと伝えられていますが… この際、志摩の豪族側に参軍し、敗戦の末に所領を失い流浪の牢人になった人物こそ、後に熊野九鬼水軍の頭領となって無敵の鉄甲船団を率いることになる九鬼嘉隆(くきよしたか)です。 ■京都に来たはいいけれど さて、そんなこんなで花の都へやって来た信虎ですが、ちょうど彼が来た頃の洛中は政治も民衆の暮らしも、幕府も朝廷も混沌とした状況でした。 時の室町幕府公方は第十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)。 その右腕である管領には細川晴元(ほそかわはるもと)が就いており、特に晴元は正室が武田晴信の正室・三条夫人と姉妹であったため、信虎にとっては好都合の後ろ盾でしたが…。 この頃の将軍家と管領家は、本来なら家来筋であるはずの三好長慶(みよしながよし)・松永久秀(まつながひさひで)一党と激しい権力争いを繰り広げており、あぁ・・・ぶっちゃけて言えば。 一番偉いはず、なのに部下に言うことを聞いて貰えない将軍さまと執事 vs 『将軍なんかしらねーや』と幅を利かせている将軍様より強い家来。 というおかしな闘争が展開されていました。ほとんどクーデター寸前、『安定した政権』には程遠いです。 信虎の来る四年前、1559年(永禄二年)までは京の都から追い出され、亡命政権化していて…元号が『弘治』から『永禄』に変わったのに朝廷から知らせても貰えなかった、と言いますから…幕府の権威も将軍の威厳も、あったもんじゃありません。 信虎は将軍義輝に拝謁し、御相伴衆(おしょうばんしゅう。将軍の供周りをすることが許される、普通は血筋の良い守護大名家出身の者にしか任命されない肩書きですが、幕府が弱くなった戦国時代では事実上の権力は無いに等しい名誉職でした。)に任じられた事が判っていますが、斜陽も斜陽…落ち暮れ寸前の幕府で仕事を貰っても、なにがどうなるわけではありません。 足利家に仕えた後には伊勢志摩の時みたいな軍を率いた活躍は無く、1565年(永禄八年)にはその足利義輝も松永久秀・三好三人衆(みよしさんにんしゅう。前述の長慶が1564年に没した後、三好家の権力を握った三人の重臣達)により暗殺されてしまいます。 さて、困ったのは信虎。三好家は遠い遠い親戚にはあたりますが、武田より近い親戚である信濃小笠原家が息子の晴信によって滅ぼされてしまったので、頼るに頼れません。 当初の予定では頼るはずだった藤原清華家の名門、大河『風林火山』にも登場した三条夫人の父・三条公頼(さんじょうきんより)卿は十年以上も前、1551年(天文二十年)に周防大内家で起きた御家騒動に巻き込まれて命を落としていました。 左大臣まで出世した公頼卿を輩出した三条家もそのころは他の公家同様、懐事情は惨憺たる有様で…とてもではないですが信虎を養う余裕はなかったようです。
結局、信虎は『手元に残しておいた末娘を別の公家である今出川家(いまでがわけ)へ嫁がせ、新婿の舅として一緒に居候する』という奥の手を使った様です。 今出川家も由緒正しい藤原氏の血流を受け継ぐ名門で、時の総領は晴季(はるすえ)。晴季は屋敷に見事な菊の花が咲く庭園を持っており、今出川家は世の人々から菊亭(きくてい)氏とも呼ばれていました。 末娘の縁談がまとまり、ついでに隠居出来そうなお屋敷も見つかった。 よほど嬉しかったのか、信虎はまだ娘の嫁入りも出来て居ないのに菊亭屋敷に突然押しかけ、新婿や今出川家の面々は大層驚いたそうです。 そんな当時の信虎の行動は京都の人達の間でも評判になったらしく、こんな落首(らくしゅ。世の中を皮肉ったり時の権力者を批判したりする内容の和歌のことで、当然詠み人不明。京都の町では、大通りの片隅に貼り出される出されてることが多かった様です)が残されています。 聟入りも まだせぬ先の 舅入り 菊亭よりも たけた入道 (新しい嫁が聟(むこ)のもとに行く前に、舅(しゅうと)が先に行ってしまったんだと。 入道(信虎)は、きくてい(菊亭/聞く体(聞いてたよりも、の意)よりもたけた(武田/長けた(この場合は図々しい、の意)お人だなぁ。) その後、信虎は京都で隠居しつつも、畿内の情勢を逐一甲斐に報告。 たびたび信玄に上洛を促した、と伝えられていますが…。 孫子兵法十三篇を熟知し情報戦の妙を知る信玄のこと、武田家の諜報機関出張所は京洛にもあり(特に比叡山延暦寺とは親密な関係でした)、上杉家や徳川家を牽制する為にも本願寺と連携もしていた為、情報力は充分でしたから信虎がそんなことをやる必要もありません。 上洛云々というのも後に信玄が動いたからこそ言えるのであって、当時の信玄は甲斐信濃を押さえはしたものの、宿敵・上杉謙信との死闘で大忙し。 上洛し将軍を奉じるなどまるで夢物語に等しい状況でしたし、大義名分も無いため、野望を叶えられる状況でもありませんでした。 ■親子虎の和解、歴史の流れに引き裂かれる しかし、その上洛作戦が夢物語に終わらない好機が到来します。 1568年の末、今川家の屋台骨を最後まで支えていた『女戦国大名』寿桂尼が亡くなり、今川家の勢力が恐れるに足りないものだと判断した武田信玄はいよいよ駿河を侵略を決意。 この盟約違反に怒り、反逆を企んだ嫡男・義信を幽閉、後ろ盾となっていた飯富虎昌を処断すると、百戦不敗の構えで入念に今川家の基盤を揺るがし、破綻させる計略を施し…ついに武田騎馬軍団は甲駿国境を超え、今川家の本拠地・駿府今川館を強襲します。 。 今川氏真は当然迎撃を各策しますが、肝心の今川家家臣たち大多数が既に武田家へ寝返ったいため、今川氏真は抵抗らしい抵抗も出来ずに駿河を失陥。 遠江掛川城城主で今川家に忠義を尽くす重臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)を頼って落ち延びます。 大河『風林火山』で仲代達矢氏演じる信虎が 『…見ておれよ…今川家を切り取り…天下に号令するのは…晴信じゃ…。』 と呟いたあの情景が、ここに実現することになりました。 信玄はその後も快進撃を続け、その破竹の勢いを頼もしく思った室町幕府将軍・足利義昭から『軍を率いて上洛し、室町幕府をないがしろにする織田信長を討て』との御内書が。 これで大義名分、状況の両方が揃いました。遂に武田信玄は上洛を決意し、その道を阻む徳川家康を三方ヶ原の合戦で難なく撃破。 『勇猛で鳴る三河武士団の棟梁・徳川家康軍を蹴散らし、甲斐の軍勢は三河の野田城まで落したそうな。あとは尾張・美濃へとなだれこめば織田家は四方八方敵だらけ、信長殿にとって駄目押しのトドメになるだろう。 …甲斐の猛虎・武田信玄が上洛をはたすのも、時間の問題だな…。』 人の口に蓋は出来ません。信玄軍の勇猛さは噂に乗って飛び交い…その実現が、武田信虎の予言が成就するのは間違いないと世の中の誰もがそう思った…いや、そう思われていたのですが…。 ――…何とも、時とは無情なものです。 1573年(元亀四年)4月12日。 三河野田城を陥落させた甲斐武田軍は、織田信長との対決を目前にして、信濃を経由し本国の甲斐へと退却を始めます。 これには、上洛を指示した足利義昭、そして信玄の父親である武田信虎も眼を剥いて驚嘆したことでしょう。その理由は信玄の体調が思わしくないため、ということでしたが…実際は違っていました。 …武田信玄が、亡くなってしまったからです。享年五十三歳、信濃国の駒場という処で、駕籠に揺られながらの寂滅でした。 死因は現在でもはっきりしていませんが、『甲陽軍鑑』に記録されている信玄の主治医・御宿監物の診断よれば、信玄の病気は膈(かく)というもの。 咳や喀血などの症状が顕著だったため今で言う『肺癌』だとも、最期は殆ど食事を受け付けなかったため『胃癌』『大腸癌』などと考えられています。 最晩年にはトイレから離れることが出来ず、しかたなく京風畳敷きのトイレつき(しかも水洗!!)執務室で書類に目を通していたと言いますから、消化器系疾患による体力の減衰で、過酷な上洛作戦に体が壊れてしまったのでしょう。 もともと信玄は壮健そうなイメージとは裏腹に、若年期から健康状態に色々と問題を抱えていたため、漢方と迷信頼りだった当時の医学レベルを考えれば、これでも長生きしたほうなのですが…。 何にせよ…織田信長が誰よりも恐れた戦国最強・不敗の騎馬軍団を率いし甲斐の虎は、戦国の表舞台より姿を消しました。 …なお、信玄の死因には他に『三河野田城を攻撃中、城内から聞こえてくる笛の音に聞き惚れていた信玄の姿を見た徳川家康が鉄砲で狙撃した』というものがありますが…。 あんな寝言を真に受けないで下さい。 …すみませんね、徳川家康嫌いなもんで。 ■信玄死後の甲斐武田家と信虎の最後 信玄逝去の報を聞いた信虎が何を思ったのか、どう考えたのかは史書には記されていませんが…永遠に親子が和解することが出来なくなったことと同時に、『これで故郷である甲斐国に帰れる!!』とは考えたようです。 1574年(天正二年)、信虎は京を辞して甲斐国を目指し、その国境間近である信濃国高遠まで出向。 信濃高遠城で甲斐武田家の新しい総領となった孫の武田勝頼と謁見。三男であった孫六こと武田逍遥軒(信廉)とも再会します。 …晴信に甲斐国を追われてから、既に33年の時が過ぎていました。信虎は実に齢八十歳。真偽の妖しい北条早雲を除けば、戦国大名経験者では恐らく余裕の最年長記録保持者です。 …その長かった生涯のあいだに、甲斐では幾つもの大きな合戦があり…久方振りに再会した家臣達の顔ぶれもずいぶんと変わってしまいました。 とくに、大河『風林火山』で甲斐駿河間の国境関所前、信虎の追放を宣言した者達…――嫡男の晴信(信玄)、次男の信繁。…板垣信方、甘利虎泰、原虎胤。飯富虎昌、諸角虎定、…それに山本勘助。 …信虎にとって憎きも懐かしい面々は、みな草葉の陰に旅立ってしまっていました。 武田勝頼は1546年の生まれ…信虎甲斐追放後に生まれたため、祖父の顔を知りません。 …祖父と孫の感動の初対面、武田信廉とは三十三年ぶりの再会。 聞くも涙語るも涙、島田紳助でなくても『感動するやん?』と言いそうになるであろう感動の雰囲気が期待された、この対面でしたが…。 …ここで信虎、意外な行動に出ます。 勝頼と対面した信虎は、甲斐武田家伝来の佩刀である筑前左文字をすらり抜くと、齢八十過ぎの老人とは思えぬ鬼気迫る勢いで刀を二・三度振り下ろし…驚いた勝頼や家臣団にこう言い放ったのです。 『…儂はこの刀で、自分に諫言した家臣ども五十余人を悉く手討ちにし、 斬り捨てて来た。…勝頼にも、この非情な祖父の力は必要であろうな?』 満座の家臣団は慄き、凍りかざるを得ません。 信虎時代の暴虐を知る家臣ならなおさらでしょう。もう甲斐武田家は信玄-勝頼二代が強い地盤を築き、いまさら信虎が座る席などないというのに… 信虎は権力への復帰を諦めて居ないことを宣言したのですから。 勝頼の側に控えていた家臣が一瞬の隙を突いて信虎から刀を取り上げ…家臣団は勝頼に、信虎がかつて犯した兇状、暴虐非道の数々を取り上げて…全部打ち明けました。 …色をまいた勝頼は、祖父の顔に視線を戻し、非情の宣言をします。 このくだりについて赤髭は、また『信虎が暴虐非道な鬼君主だったから、甲斐国に戻れなくても仕方が無い』的意味合いが作為的に篭められ、真実が伏せられていると思っています。 当時の戦国武将、戦国大名というのは基本的に『老いては子に従う』だなんて殊勝な風習がありません。 例え隠居して家督を子孫に譲り渡したとしても全権力の委譲は無く、重要な国策の決定権はしっかりと握ったままのケースが多いものでした。 言うなれば、戦国武将の隠居は『自分亡き後の次代がスムーズに権力委譲できる様に、後継者が主君業務の予行演習をするために』行うものだったのです。 実際、織田信長や徳川家康ら戦国時代後期の指導者をはじめ北条氏康や毛利元就、斎藤道三も一時は"隠居"を行い嫡子に家督こそ譲りましたが、政権指導者としての地位は死ぬまで離しませんでした。 今風に言えば、一大企業の創業者が社長職を降りて後継者にその席を譲るかわり、自分は名誉社長やら会長職やらに就任、現場を若手に任せても、実質的な会社の実権を握り続けるようなものです。 徳川家康が江戸幕府を開き、三男の徳川秀忠に家督と将軍位を相続させたあとも『大御所様』と尊称され、駿府で君臨し続けたのはこういった慣習のためです。 江戸幕府二代将軍としての徳川秀忠の評価が一般的に、良い意味でも悪い意味でも極端なのは、彼の実績が彼自身の器量によるものなのか、ただ単に偉大なる大御所・徳川家康に言われたことを堅実にトレースし続けただけなのか、判断が難しいからです。 話を戻しますが…そんなわけで、信虎が甲斐に戻るということは 『武田勝頼政権という政治基盤の上にもう一つ、信虎政権という強い権限のある政治基盤を産み、甲斐武田家の統治機構が二重構造になり領国経営に著しい障害をきたす』 ことになりかねなかったのです。 そうでなくても、勝頼政権というのは亡父・信玄の構築した政権をそっくりそのまま受け継いだワケではない、少し訳有りの政権だったので家臣団は"旧信玄派閥"と"勝頼派閥"に分裂しかけていた時でした。 こんな状況に信虎を帰還させては、勝頼の政権は最悪、転覆するかもしれないのです。 たとえ暴虐非道な信虎の振る舞いが彼を貶める作り話であったとしても、信虎は甲斐に戻れなかったでしょうし…仮に戻れたとしても権力闘争に巻き込まれるか巻き起こすかして、畳の上では素直に死ねなかったことでしょう。 さて、そんな信虎が帰郷失敗で落胆している話はいったん置いておくとして…戦国乱世の状況へ視線を向けてみると…やはり『甲斐の虎』の死は時代に風雲急を告げ、歴史に大きなうねりを引き起こしていました。 まず、信玄の死を聞いて一番大喜びしたのが織田信長。 甲斐騎馬軍団の脅威が去ったことを確認した信長は直ちに行動を起こし…足利義昭の組んだ信長包囲網を一気に突き破りにかかります。 先ず最初は信玄の死を受けて暴発した足利義昭の挙兵を京都・槙島城城と二度に渡って叩き潰し、室町幕府を滅亡においやり…休む暇もなく今度は近江小谷城を囲んで義弟・浅井長政を雪隠詰めにし、それを助けに来た越前の朝倉義景を迎撃。これを散々に討ち破ります。 そして、逃げる義景を間髪おかずに追撃して朝倉家を滅亡させし、返す刀で浅井家を葬り…最終的には、近畿における敵の大半を滅亡に追いやりました。 信長の策戦行動というのは総じて電光石火、今がチャンスだと思えば時代の常識を超えるタイミングで、矢継ぎ早に展開されるのが特徴なのですが… 1573年(元亀四年)、信長は信玄の死を確認すると、一気に三つもの難敵をその年じゅうに…いえ、信玄の死が四月で浅井・朝倉の滅亡が八月ですから、たった四ヶ月で総て滅ぼしてしまったことになります。 『京の都に上洛し、天下に号令をかける。』 その想いを託した嫡男に先立たれ、かつての悲願が別の英雄によって成就されていく様を、信虎はただ信濃高遠で見つめていることだけしかできなかったのです。 ■甲斐の親子虎物語の終焉、そして新しい時代へ 1574年(天正二年)3月5日。 …武田信虎は信濃高遠で81年の激動に満ちた生涯に幕を閉じました。 孫の勝頼は甲斐武田家の誇る常勝騎馬軍団を率いて順調に勢力を拡大し、一時期は信玄時代よりも広範囲な領土を獲得、武田家の最盛期を築くことになりますが… その栄華も、無敗の騎馬軍団も、翌1575年(天正三年)…三河長篠の地、設楽ヶ原で織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲連射の前、木端微塵に打ち砕かれる事になります。 …この『長篠の合戦』を期に、甲斐武田家の凋落が始まるのですが…それを見なかっただけ、信虎は幸せだったことでしょう。 そして、その戦国時代前半期を代表する暴君の死とと入れ替わりに戦国時代の表舞台に駆け上がったのが、戦国の覇者・織田信長。 …そして、その信長の血脈を次の世代へと受け継いでいく女たち…世に浅井三姉妹と呼ばれた、信長の姪たちです。 彼女達の波乱に満ちた生涯は、武田信虎のそれに見劣りしない激動づくめの物語。 ここ最近続いた利家とまつ、山内一豊と千代、直江兼続とお船といったカップルが普通に幸せな一般家庭と思いたくなる波乱の人生劇…になるはずの『江〜姫たちの戦国〜』は、2011年1月9日より放送予定です。 ( ・(,,ェ)・) |