河越夜戦前夜までの関東の状況【後編】


■さて、それでは引き続いて07年大河『風林火山』に関する読み物…おいおい感想として掲載するであろう第二十三回『河越夜戦』を前に、複雑な利権が絡み合った当時の関東諸勢力の状況・歴史的事情の背景などを歴史痛的視点から与太話で解説していくコラム『河越夜戦前夜までの関東の状況後編をお届けいたします。
 

 本年大河『江』の戦国アットホーム幻想とはあまりにも落差があり過ぎて、そろそろ『この二つを同じ"大河ドラマの感想・解説"っていうジャンルに絞っちゃって良いんだろうか。( ・(,,ェ)・)』とか考え始めましたが、たぶん気にしたら負けです。

 それでは、皆様のお時間を少々拝借仕るッ。 m9っ ;・`ω・´)

戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■勢力を拡大する相模北条家、衰退していく扇谷上杉家

  山内上杉家と扇谷上杉家が同族同士で仲違いするなか、伊豆の堀越公方を攻め滅ぼし、相模国をも切り取った乱世の梟雄・北条早雲。
 
 その北条早雲が1519年(永正十六年)に死去し、家督を相続したのは嫡男の北条(ほうじょううじつな)です。

 大河『風林火山』では、品川徹さんが歴史の重みたっぷりに氏綱役を好演されました。



 家督を継いだ氏綱は父・北条早雲の悲願であった武蔵国(現埼玉県・東京都)の攻略に着手。武蔵国は扇谷上杉家の本拠地でしたが、氏綱は時に兵を動かして剣戟を交え、時には謀略を張り巡らして勢力を拡大。

 1524年(大永四年)にはとうとう扇谷上杉家の居城であった武蔵江戸城の攻略に成功します。

 
 その手際は策略を駆使して扇谷上杉家の家臣を寝返らせ、江戸城を奪わせるというもの…。
 
 そして、その時に寝返った扇谷上杉家の家臣というのが、太田(おおたすけたか)…。


 
かつて扇谷上杉家が謀叛を疑い、粛清してしまった太田道灌(おおたどうかん)だったというのですから、歴史の流れとは皮肉なもの。




 扇谷上杉家の総領・上杉(うえすぎともおき 1488〜1537 五郎・修理大夫
)は哀れ江戸城から追い落とされてしまいます。


 扇谷上杉家は新たな居城を武蔵河越城とし、反撃のスキを伺うのですが…乱世の梟雄・北条早雲の薫陶を受けた北条氏綱と家臣団の結束は堅く、奪った領地を取り戻すことが出来ません。


 そこで上杉朝興は駿河今川家と同盟を結び、北条家を東西から挟撃せんと目論みます。
 
 この同盟により出来上がった扇谷上杉家・駿河今川家の連合軍は1530年(享禄三年)、武蔵府中へ進撃を開始。小沢原で北条氏綱軍と睨み合うことになったのです、が…扇谷上杉家はまたしても大敗を喫して多数の死傷者を出し、恥の上塗り泣きっ面に蜂の醜態。上杉朝興はまたしても、みじめな撤退を余儀なくされました。  


 この『小沢原の合戦
(おざわばらのかっせん)で見事初陣を遂げたのが、氏綱の嫡男で大河『風林火山』でも登場した『相模の』こと北条(松井誠)です。


 
 氏康は1515年(永正十二年)に北条氏綱の嫡男、武田信玄より六歳年長の戦国武将として生誕しました。




 後に、あの徳川家康を驚かせるほどの完璧な統治システムを敷いた辣腕官僚であり、武田信玄が治める領土の民衆からもその治世を羨まれた優秀な政治家でもあり、その身に負った向こう傷は数知れぬ勇敢な武将でもあったという、まさに八面六臂の英雄。

 その名を天下に轟かせた相模の獅子・北条氏康でしたが…。


 意外なことに、幼少の頃…まだ元服前、伊豆千代丸と呼ばれていた頃の氏康はてんでダメ男くん。大砲の轟音にびっくりして、思わずき出すほどの臆病者ぶりを発揮していました。(大河『風林火山』でも氏康本人が自分を臆病者だったと回想していました)。
 

 父・氏綱も










  と、こんな具合に彼の器量を危惧したというほど。


 …とにかく、武家の世継らしからぬ貧弱な男振りだったとされる氏康ですが、初陣を迎えるや突如にして豹変!!
目も醒める様な大活躍ぶりを見せ…その武勲は一夜にして関八州に鳴り響きました。
 
 氏康が『勝った、勝ったぞーッ!!!(゚∀゚)』と大音声を上げて駆け上がった坂が、今でも『勝坂』という地名として残っています。
 




 いっぽう、扇谷上杉家はその後まったく北条家に歯が立たなくなるほど弱体化。

 上杉朝興は扇谷上杉家の先代君主・上杉朝良(うえすぎともよし)の嫡男・藤王丸を暗殺して権力を掌握し、北条家に一矢報いようとしますが…扇谷上杉家はその後も北条氏綱に連戦連敗。

1537年(天文六年) 、朝興は失意のうちに河越城で病死してしまいました。
 




 扇谷上杉家の総領位は嫡男の上杉(うえすぎともさだ 1521〜1546 五郎。)が継ぎましたが、彼は僅か十三歳の少年。

 この喪中を好機とみた北条氏綱はすかさず河越城を攻撃し、これを陥落せしめました。扇谷上杉家は二度目の本拠陥落で完全に面目と勢力を失い、武蔵松山城にむけて落ち延びていきました。
これ以降、扇谷上杉家はなりを潜め、しばらく歴史の表舞台から姿を消すことになります。

 
■鎌倉府の末裔・古河公方家の分裂

  さて、相模北条家が扇谷上杉家を撃破し南関東に覇を唱えようとしていた同じ頃に古河公方家では何をしていたかというと…こちらも関東管領家同様、親族同士で仲違いを起こしていました。
 

 時の古河公方であったのは足利成氏の孫・足利高基(あしかがたかもと)でしたが…弟である足利
(あしかがよしあき 1487〜1538 当然ですが、室町幕府最後の将軍となった足利義昭とは同姓同名の他人です。)が叛旗を翻して独立を宣言。


 下総国の豪族である武田
(たけだじょかん 1485?〜1534 甲斐武田家とは縁戚にあたります。)・里見義堯(さとみよしたか 1507〜1574)に推戴されて下総小弓城に入城します。
 


 義明は自らを『公方』(おゆみくぼう)と名乗り、鎌倉府の正統後継者は小弓公方であると関東十カ国に宣言。生家である古河公方家に敢然と立ち向かうことになりました。
 

 足利義明は早くから僧籍にあり、古河公方を継承する予定の無い人物でしたが…彼は弓馬に優れ武勇で鳴らした武辺者でもあり、鎧兜に身を包み黒鹿毛の愛馬・流星号を駆って武勲を揚げた猛者。

 生涯を退屈な僧職で終えるつもりなど毛頭なかったようです。
 

 高基が嫡男・晴氏(はるうじ)と仲違いし御家騒動が勃発。そうでなくても不安定だった古河公方家の基盤はこの事件を機に、大きく揺らぎ始めます。
 



  義明は武田恕鑑ら房総半島諸豪族の支援を受けて晴氏に反逆を決意、小弓公方家は古河公方家を脅かすまでの急成長を遂げました。
 


 余談ですが、義明が下総小弓城を奪取し居館と定めたのは1522年(大永二年)の事だとされていますが、この時に小弓城から追い出された元城主・原家の武将達の中に、何故か甲斐国を目指して落ち延びている武将がいました。

 
 彼の名は、原美濃守虎胤
 
 …そう、後に武田信虎・晴信の二代に仕え数多の合戦城で武勲を挙げ、全身に槍疵を負った猛将で『美濃』こと(宍戸開)その人です。
 



 命知らずの勇敢な武将として武田信虎に寵愛された原虎胤ですが、意外にも彼の経歴は外様者でした。

 元は、下総国(現千葉県北部)の出。同じ余所者だった山本勘助(内野聖陽)同士、張り合っていた大河『風林火山』の演出は奥が深いと感じさせられます。
 


■古河公方家の迷走と善悪の逆転

  さて、小弓公方家の圧力が日に日に強くなるのを懸念し、対決が避けられないと感じていた古河公方・足利(あしかがはるうじ)はどうしたのか、といえば…。


 
仲違いばかりして家宰職の役目を全く果たさない関東管領上杉家より、南関東地方に覇を唱えつつある新興勢力と同盟を組む事を考えていました。
 
 …そう、戦国時代の下克上の風潮の中、着々と勢力を伸ばしてきていた相模北条家の総領・北条です。
 
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□さぁ、ここまで来ると視聴者の皆様だけでなく赤髭にも、本格的にワケがわからなくなって参りました。( ・(,,ェ)・)


 前篇・中篇と続いた関東情勢の経緯、ここでいったん整理してみましょう。


@『小弓公方家』と『古河公方家』は元々が鎌倉府、つまり室町幕府の関東十カ国統治を担う出張期間の長であり、

A『山内上杉家』と『扇谷上杉家』はその関東公方の執事、関東経営の副司令官たる家系。両家とも見事に分裂し、お互いに牙を剥き合っています。

Bそして、『相模北条家』はそんな彼らの暴走迷走振りにかこつけて伊豆の『堀越公方家』を滅ぼし、扇谷上杉家の統治していた南関東を勝手に攻め取ってしまった…言ってみればアウトロー、無法者の勢力です。
 

 古河公方家は、そんな反逆者・悪党も同然の北条家と事もあろうに仲直りをし、小弓公方家をぼすために協力し合おうと握手を差し伸べたことになります。

 
これにはおそらく、山内上杉家と扇谷上杉家も驚きのあまり開いた口が塞がらなかったのではないでしょうか。

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 さて、相模北条家…北条氏綱はどうしたのかと言えば…武蔵国攻略を大方針とし、古河公方と小弓公方の同族争いには、基本不介入の立場を取っていました。


 北条家にとって、古い権威の象徴、由緒ある血統である関東公方家は敵も同然。
 その双方が牙を剥き合おうが、日和見を決めても害は無かったからです。
 
 しかし、1524年(大永四年)に扇谷上杉家より江戸城を奪取し、武蔵国での戦線が広がるにつれ、お隣である下総国の古河公方・小弓公方家の強い影響力は北条家にとっても無関係ではなくなっていきます。

 そこへ、頼んでも居ないのに古河公方家が『一緒に仲良くして、小弓公方を討とう!!』と頭を下げてきたのですから…そう、これはまさしく渡りに船。
 
 古河公方家と手を組んでおくことは、敵方とはいえ関東の最大権威者とお友達になれることを意味するのですから…南関東地方の筆頭株に成長した北条家としても、領土統治のお墨付き、そして箔がワンセットで手に入るという、おいしすぎる展開です。
 

 かくして、関東管領上杉家を侵略していく新興勢力と、名誉と秩序を重んじる保守派の名家は同盟関係となり、1538年には下総国府台で北条・古河公方連合軍と小弓公方・下総諸豪族連合軍が激突します。

 後に『第一次国府台合戦
(だいいちじ-こうのだいかっせん)と呼ばれることになる、激戦の始まりでした。
 

 『下克上の徒など何するものぞ!! ヽ(#゚Д゚)ノ モルァ!!
 
 と義明は息巻き、煌びやかな鎧兜姿で黒鹿毛の名馬・流星号に跨り、勇敢に戦場を疾走しますが…そんな総大将の意気軒昂な様とは裏腹に、小弓公方軍の士気は奮いません。


 実は足利義明、武勲は確かでしたが性格が粗暴で、麾下の豪族達からもそれほど忠誠を得ていませんでした。血筋と腕力だけで成り上がった粗忽者だったのです。


 副将の里見義堯はその状況を冷徹に判断すると、被害を最小限に抑えるべく、積極的に軍勢を動かしませんでした。のちに義尭は『関東の副将軍』と号して房総半島に勢力を誇り、北条氏康の好敵手となります。
 
 そんな足並みの揃わない軍団とは全く知らない義明、武勲を頼みに、愚直な覇気で最前線まで撃って出た行動は文字通りの勇み足でした。



 

 結局、関東の最高権力者を目指した義明は『流れ矢が頭に当たって討ち取られる』という葉武者同然の最後を迎え、小弓公方家は壊滅。

 この合戦で足利義明の弟・基頼や嫡男・義純といった主要な一族郎党も揃って命を落とし、小弓御所は呆気なく
亡を迎えます。
 



 この戦いを機に、相模北条家・古河公方家は盟友として信頼感を深め、同盟を強化する為に両家は婚姻関係を結ぶほどの親密関係となります。
 

 古河公方・足利晴氏は北条氏綱の娘・芳春院(ほうしゅんいん)を正室として迎えることになり、両家は婚姻関係に。

 そして古河公方の舅となった氏綱は何と、晴氏から『関東管領補佐』に推認不法の無頼漢であった氏綱は一転、関東管領に匹敵する実力者となり…彼の庇護のもと古河公方も発展。
 
 これによって、戦火が絶えなかった南関東に一時の平和が訪れました。
 

北条氏綱の死と古河公方・両上杉家の決起

 しかし…その蜜月関係、関東の平和も長続きしませんでした。
 

 相模北条家の総領であった名将・北条氏綱が1541年に
去したためです(大河『風林火山』では第十一回『信虎追放』の頃で、武田信虎が甲斐国から追放されています。)




 

 ここで歴史の表舞台へ再び登場するのが、扇谷上杉家の総領・上杉
(うえすぎともさだ 1525〜1546)
 



 氏綱の死を聞いた朝定は、積年の恨み重なる北条家へ復讐雪辱のために挙兵しました。かつて父・朝興の死後間もない喪中に、混乱を突いた北条氏綱に攻撃を受け、武蔵河越城を奪取された恨みを…彼は忘れていなかったのです。

 氏綱の死は、相模北条家に意趣返しと積年の恨みを晴らす最大の機会でした。
 

 上杉朝定は古い盟友関係にあった駿河今川家と連絡を取り合い、総領・義元と密約を結んで北条家を挟撃せんと企みます。
 
 駿河今川家は今川家で北条氏綱に遺恨があります。

 花倉の乱
(第五回『駿河大乱』)の後、相模北条家の敵だった甲斐武田家と同盟を結んだ今川義元に怒った北条氏綱は相模と駿河の国境地帯・駿東郡を占領しており、義元にとっても氏綱の死は旧領奪回の好機です。


 

 義元は婚姻同盟を結んでいた甲斐武田家の総領・武田晴信と語らって一気に駿東郡に出撃。


 これを迎え撃たんとした北条氏康の軍勢を駿河吉原城に撃ち破りますが、氏康も駿東郡を奪われまいと小田原から援軍を呼び寄せて粘ります。

 第二十二回『三国激突』は、まさにこの時の緊張状態を描いたお話でした。この騒動を『河東一乱』と言ったのは、本編でも説明があったとおり。


 
 駿河今川・甲斐武田連合軍Vs相模北条軍の戦線は完全に膠着し、両軍は進むことも退くことも出来ない、泥田にはまったような状態になりました。




 これこそが、上杉朝定の狙いだったのです。



 

 上杉朝定は扇谷上杉家が代々争ってきた宿敵である山内上杉家の総領・上杉憲政(市川左團次)を訪ねると、平身低頭の姿勢で和睦。対北条家連合軍を持ちかけます。
 

 今までは目下の敵であった扇谷上杉家の凋落を傍観していた上杉憲政も、山内上杉家に属する諸豪族や所領が散在する武蔵国で暴れまわる北条家は座視し難い状況でしたし、何より扇谷の若殿様が泣きついて来ているのですから悪い気分ではありません

(大河『風林火山』で上杉朝定を演じていたのは竹本純平さんという年配の俳優さんが演じていましたが、実は朝定は河越夜戦当時はまだ22という青年武将でした。)



  かくして、上杉憲政は山内・扇谷上杉家連合軍の盟主に就任。


 武蔵岩槻城城主で、かつて関東一円に武勲を鳴り響かせた太田道灌の曾孫、彼の素質を受け継いだ名将と名高かった太田資正(おおたすけまさ 1522〜1591 北条家に従属した江戸太田家とは別、岩槻太田家の総領。)にも連合軍参加を呼びかけ、彼を北条包囲網に加えると…憲政は誰もが驚くような行動に出ます。





 

何と、古河公方・足利晴氏にまで連合軍参加を要請したのです。



  確かに関東管領上杉家と古河公方は古い古い主従関係にありましたが、晴氏の正室・芳春院は北条氏康の妹、北条氏康と足利晴氏は義兄弟の間柄です。

 そして、北条家と古河公方は強力な蜜月関係にあった筈でした。
 

 それを知っていながら声を掛けた憲政も憲政ですが、もっと意外だったのは晴氏の反応でした。


 …何と、晴氏は関東管領の要請に応じて二万の軍勢で挙兵、義弟を攻撃する連合軍に参加する事を了してしまったのです。




  信義など紙の様に薄い戦国乱世とは言え、まさに戦国武将の胸先三寸に広がる闇は伏魔伝。…おそらく北条氏康、義兄・晴氏の出撃には、空いた口が塞がらなかった事でしょう…。 


 かくして、総勢八万にという応仁の乱始まって以来の大軍勢、反北条氏康同盟は出来上がり…連合軍の矛先は氏康の義弟北条(ほうじょうつなしげ 1515〜1587)が篭もる武蔵河越城を襲撃しました。



 河越城は元来、扇谷上杉家の所領…上杉朝定にとっては父祖達の想いが篭った土地、何としても奪還せねばという意気に燃え、軍の士気は高まっています。
 

 守る北条綱成は北条家でも随一の戦闘集団『北条五色備』の筆頭各。

 黄色の練り絹に八幡大菩薩の名を大書した『八幡』(じおうはちまん)の旗印とその武勲は、北条家中でも随一と評判の高い若武者でもあります。


 戦歴も豊富な、いわば筋金入りの猛将なのですが…八万五千対三千では、いかんせん兵の数が違いすぎます。
 

 撃って出ても篭城戦を決め込んでも絶望的な状況、もはや氏康の後詰(援軍)以外に河越城防衛軍には打開策がありません。

 



 この急報を受け、氏康が選んだ選択肢は『占領していた駿東郡を全て今川家に上する。』という全面降伏に等しい屈辱的な条件。


 今川家・武田家・上杉家の連携プレーの前、したくもない和睦をした上、地団駄を踏むひまもなく武蔵国へ直帰していきました。
 



 

かくして、相模北条家は『総勢八万』という、途方も無い大軍団と戦う羽目になったのです。



 
■物凄い遠回りな関東地方の歴史解説でしたが…。
 この合戦の結末がどうなったかは、次回に満を持して掲載予定である大河『風林火山』第二十三回『河越夜戦』感想を御覧になれば一目瞭然です。

 しかし、感想文なんかよりもずっとずっと一目瞭然に河越野戦を楽しむのなら、それはドラマを見るに越したことはありません。

 ホームドラマ大河『江』の展開に生温さを感じたるという方は是非、これを機会に本格大河『風林火山』を視聴して下さい。




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