2007年大河夏休み特別企画!!『戦国武将に学ぶ人生格言シリーズ』A 多胡辰敬


■大河『江』の感想は現在どう料理すりゃいいのか思案中執筆中です。

■夏休み特別企画!!『戦国武将に学ぶ人生格言シリーズ』A

 さて、今週も…乱世を駆け抜けていったあまたの戦国武将達がその生涯で得た信条や教訓・格言の中から、平成現代の世にも通じるものがある金言をチョイス。

 ただいま夏休みを満喫しているであろう小・中学生や、そういった世代を子供さんに持つお父さんお母さんに紹介していく教養コーナー『戦国武将に学ぶ人生格言シリーズ』を御案内いたします。




 戦国武将や戦国時代に関する知識を無駄に会得している割にはそれを人生に活かせていない典型的な歴史痛・赤髭が『これは!!(笑)』と思った戦国武将の格言・名言を選択。

 その言葉の裏に隠された武将達の想いや現代にも通用する教訓を解析・抽出していきます。

( =(,,ェ)=)oO( そしてついでに自戒もしていこうという、ある意味俺得な一石二鳥企画。 )



□第二回では、いきなり戦国歴史痛のコアな知識をフル回転…比較的メジャー級武将だった前回からは急転直下、多胡(たこときたか 1493〜1562 左衛門尉)という知られざるマイナー級武将の放った至高の格言を御案内いたします。。

 それでは、御一緒して頂ける読者様の御時間を、少々拝借。。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!

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『算用を知れば道理を知る。

      道理を知れば、い無し。』  
(多胡辰敬家訓)


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■算用、つまり物事の計算や運用…――小中学校に所属するお子様方には『算数・数学』と言うべきでしょうか。その難解さから苦手とする人も多かったことでしょう算数の授業にこそ、世の中の真理・物事の本質が篭められていると五百年前に指摘している戦国武将が、今回紹介する多胡辰敬

 何、聞いたことも無い名前だ?


 はい、そうだろうと思います。"どちらかと言えば…。"などと言うお決まりの慣用句を使うまでもなく、多胡辰敬はかなり知名度は低い武将と言えます。


 戦国歴史Fanにとって登竜門となるだろう『戦国無双』シリーズや『戦国BASARA』には登場もしていないでしょうし、『信長の野望』シリーズでも登場武将としてブッキングされたのは第三弾、骨董品とも言ってよい過去作『信長の野望・覇王伝』と、これまた随分な古作『信長の野望・天翔記』…そして『信長の野望・将星録』だけという按配。



 ぶっちゃらかしてしまえば、がつくマイナー級武将と言ってしまって差し支えないでしょう。

 
( -(,,ェ)-)oO( 97年大河『毛利元就』でも、出番はありませんでした。 )



 『多胡辰敬家訓』という十七か条からなる、戦国武将としての訓戒を遺しており、そのなかの一説である『命は軽く、は重い。』という言葉がとくに有名とされています。

 武将とはただ命を永らえるのだけが本領ではなく、いかにしてその武名と誇りを上げるかが重要であるという…――この格言を聞けば、いかにも戦国武士魂らしい名言を吐いた老武者だな。というイメージがありますが…。


 むしろこの多胡辰敬という武将の本意と、その人となりを知り…なるほど、と手を打って感心する事が出来るのは、この一節以外の条文にあったりします。

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□多胡辰敬は1493年、出雲国(現島根県東部)を本拠とし山陰地方の覇者として名を馳せた稀代の謀将・尼子経久(あまごつねひさ)に奉行として仕えていた多胡忠重の嫡男として誕生しました。


 多胡家は先祖を辿れば由緒正しい武家の家柄で、尼子家の上司だった京極家の家臣として…それ以前は、足利将軍家に仕えていたとされています。
 なかでも足利義満に仕えた先祖・多胡重俊は賭博師として名高く、『多胡バクチ』とあだ名されるほどの名手だったと辰敬は告白しています。


 そんな辰敬が若い後輩に戦国武将としての心構え・教訓を教えたのが『多胡辰敬家訓』。

 そのなかで辰敬は武将に必要なスキルとして『武将として、また人としての『道理』を知ること』を挙げ、その手段として算数の重要性を説いています。


□平成現代でも、出世するのは文系よりも理数系ですが…一年を十二ヶ月、一月を三十日の年間三百六十日(戦国時代の暦は長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)というもので、年間が約360日。実際の季節と暦が狂うのを防ぐため、19年に七度の割合で閏月(うるうづき)という一ヶ月を挿入していました。)一日を十二支になぞらえた十二時(一時は今の二時間、"草木も眠る丑三つ時"は今で言う夜中の二時頃。)と定めたのは、天文学や地理、暦などを緻密に計算してはじきだした結果、つまり世の理はすべて算用で計算されたもの。


 無数の計算と数字で埋め尽くされた世の中を理数系が上手く渡り切れるというのは自明の理というものです。


 また、戦国時代は貨幣による商業がとくに発展を遂げた時期であり、算数が出来なければ商売はもちろん、田畑面積幾らあたりに年貢をどれほど貸せば良いか、どれだけの武人を奉公させればよいか…――そして、どれくらいの戦力を駆使すれば敵に勝つことが出来るか、それらすべてが算用で解決された時代でした。

 辰敬は、




『算用が判らない者はモノ・カネの出費は当然、人の出費もわからない。


 生涯の価値や生死の輪廻も判らず、ただ物欲のおもむくままに人生を浪費し、命に限りがあることも知らないで『ただ生きたがる』ために生き、そのせいで迷いの心に囚われて救われない。』


 
と、強く算数の重要性を奨励しています。

( x(,,ェ)x)oO( あだだだだだだだだ!!!(激痛。何か身に覚えがあるらしい。 (爆)



 それじゃあ『国語は放り出してもべつに良いよ。』と言っているかと思えば、これもそうではありません。


 『若い時には手習い・学問を心がけよ。手紙一つも自分で書けない様な者は、人の皮を被った畜生も同然である。』と、辰敬は手厳しい指摘をしています。

 幾ら算数が出来ても学文が出来なければ、算用の正誤を判断するものごとの『理非』が判らない。理非が判らない者が何を言っても説得力がなく、他者の賛同は得られない。


 算数で得られた数字も物欲が深ければ見えなくなり、理非が判らなくなる。そうならないためにも、算数で得た結果を正しく運用するためにも、学問は必要だと説いています。



 実際、辰敬は奉行の家柄に生まれながら齢二十六歳にして諸国行脚の武者修行に出掛け、持論の算用を駆使して見聞を広め、三十八歳で出雲国に帰国。

 山陰の風雲児・尼子経久のもとで寺社奉行職・石見国(現島根県西部)岩山城主を務めるまでに出世しましたが、これも長い放浪の旅で世間を見据え、学文を修め、算用を極めたために経久の信頼を勝ち得たからに他なりません。



 算数こそが乱世の真理と目聡く見抜いた辰敬の慧眼は、他にも数々の格言を家訓に残しています。


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 『出世して知行(所領)と地位のある者になり、権力を誇ろうと欲するのならば、

  まず人に親切にし、人の悪事を悲しみ、人の善き事を喜び、人のに立て。』
  (多胡辰敬家訓)


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□『多胡辰敬家訓』は、辰敬が尼子家に仕えていたときの後輩…名も知れぬ若武者に戦国武将としての心意気を教えたものですが、辰敬は出世の秘訣を"情けは人の為ならず…"…他人に親切懇意に接し、人望を得ることだと説いています。

 
また、そうなるためのコツとして『例え親しき関係にあっても、悪い噂などしてはならない。どうしても言いたい時は、それを昔の人の事に置き換えて話せ』と説明していますが…――これは赤髭も正解だと思います。

 休憩時間に他人の噂話に花を咲かせたり、そういう情報を入念に集めてる上司というのはちょっと、信頼と尊敬を抱き難いものがありましたから。



 人の信義など紙の様に薄い戦国乱世にこそ、こういう細やかな心遣いが周囲の人望を集めたであろうということは容易に想像がつきますよね。 ( ・(,,ェ)・)

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 『大きく太い竹であっても、一本や二本では雪に折れる。だが、藪に群生している竹は折れぬ。



  力ある者でもたった一人では心もとない。頼れる親類や知人が数多くあり、それらが心一つに団結すれば

  他人の妬みなど少しも怖くは無い。敵が攻めてきても、力を合わせて戦えばれることはない。』 
 (多胡辰敬家訓)


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□これも含蓄の深い言葉です。

 辰敬は『人の身の内にある宝とは"知恵"と"才覚"であり、身の外にある宝は"人"である。』ことを強調し、上記の言葉の後に



『この心得は所持に渡って応用が利く事である。

 一人で十日かかる普請事業があるなら、十人が掛かって一日で終らせた方が遥かに要領が良い。一人では持ち上げられぬ巨石も、八人が掛かれば動かすことが出来よう。これこそが衆力の強みというものだ。

 これは無論、知恵に関しても同じ事が言える。

 思案や計画は知恵者一人が考えたものより、愚者三人が寄って考えた方が良いこともある。特に、大勢の人数が心を合わせて一つにした言葉は、道理が適っていることが多い。』

と続けています。



 そして、この信条をさらに堅実なものにする心意気が、前項の『他者と懇意にし人望を得る』ということ。

 人間関係や同僚・同級生との付き合いを避けて通るとこういった協力関係は出来にくく、結果として職務に支障をきたしたり、果ては孤立やいじめの原因ともなり得る。



 奉行職を掌る家柄に生まれながら見識を広めるべく十二年間の廻国行脚の修行を積み、世の中の理非や仕組みの真意を見抜いた多胡辰敬の言葉は、偉大なる先人が紡いだ金言の歴史に加えられて然るべき真理であることがお判り頂けたと思います。

 (;x(,,ェ)x)oO( ギブギブギブgiveッ!!!(仙痛発作。書いてて自分の胸が一番棘で痛む筆者像。 (爆)


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■さてさて。

 五百年の時を超えて通用する、世情を読み解く鍵…――理不尽に満ちている様で理詰めのパズルで出来上がっている世間の真理を見出した知られざる名将・多胡辰敬のその後のお話。


 ――山陰の覇者となった尼子家も、英邁な梟雄であった初代・経久亡き後は新世代の旗手・毛利の登場によって斜陽の時代を迎えます。





 経久没後に尼子家家督を相続した嫡孫の尼子晴久(あまごはるひさ 1514〜1560 民部少輔・修理大夫)は辰敬が説いた心意気を知らず暴挙を重ね、合戦を起こせば連戦連敗。


 毛利元就の謀略に騙されて叔父・尼子国久率いる新宮党を粛清するなど、愚挙を重ねて家臣達に離反され、逆境を挽回出来ないまま篭城中に病死。




 晴久の後継者として家督を継いだ嫡子・尼子義久(あまごよしひさ 1540?〜1610 三郎四郎・右衛門督)はさらに器量の足りない坊ちゃん武将で、山陰の覇者と謡われた尼子家は麾下の武将や地侍達からの人望や掌握していた忠誠を急速に失っていきます。



 多胡辰敬はそんな尼子家に忠誠を誓い、毛利家との激戦区となった石見国で一人気を吐きますが…1562年(永禄五年)に居城だった刺賀岩山城を毛利軍に攻め落とされ、討死を遂げました。

 享年七十歳での戦死は戦国乱世でも驚目すべきことで、辰敬がどれだけ尼子家に忠義を尽くそうとしたかが偲ばれます。


 尼子義久はその後も尼子家の劣勢を挽回するための人望を取り戻すことも出来ず、また他者に猜疑心を抱き不信感を募らせ…家中でも一番の忠臣だった家老・宇山久兼(うやまひさかね)を暗殺。



 この馬鹿げた愚行が決定打となり、尼子家は内部崩壊。遂に1566年(永禄九年)、山陰地方の覇者だった出雲尼子家は毛利元就の軍門に降り、戦国大名としての歴史にピリオドを打つこととなりました。





  しかし、多胡辰敬の想いを受け継ぐ後輩達一党はその直後から行動を開始。後に、織田信長の庇護下という条件付ながら尼子家を復興させることに成功します。


 百戦錬磨の毛利軍を相手に幾多の戦場を渡り歩き、ついに悲願を達成した尼子家残党達を引っ張ったのは、戦国歴史Fanの皆様のお馴染みの、あの青年武将。



 御家復興を誓って武士としての道理を守り、算数により物事の可能性を推し量って尼子家の後継者を探し当て…合戦では自ら先陣を駆って勇敢に敵と闘い、若輩の武士達に戦場での心得を訪ねられれば懇切丁寧にその心意気を教え、その生涯に七難八苦を与え給えと三日月に祈った…。


 その武将の名は、山中(やまなかゆきもり 1545〜1578 甚次郎・鹿之助)




 戦国武将達のなかでも特に忠誠と義侠心にあふれていた心優しき無頼漢・山中鹿之助の心意気は、多胡辰敬という歴史の影に咲いていた偉大な徒花がその土壌を育んでいたのです。





 歴史の1ページに名を刻むための、当たり前の様で達成が難しい努力。


 平和惚けした平成日本に暮らす老若男女が憧れる戦国乱世という一大叙事詩を織り成した男達の信条は世代を超えて受け継がれ…こうして五百年たっても、色褪せない説得力と訓示に満ち溢れているのです…。


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■多胡辰敬の格言に学ぶ、今回の

 @算数を制するものは世の理に覇を唱える。苦手な君は、頑張って算数・数学を得意科目にしよう!! ( =(,,ェ)=)oO( 赤髭は算数嫌いだったおかげで、今も絶賛苦労中だ!!(威張れば威張るほど悲しい実績 )

 A将来の出世栄達への切符は、普段の素行や心構えにあり。人の為に働き、人の心の喜怒哀楽を共感する…尊敬される大人になろう!!

 Bジャンプ漫画の王道『友情・努力・勝利』は何も御伽話だけの鉄則ではない。人間関係に気を配り、他の人達と一致団結できる心の余裕や機微の読み取りが出来る人になろう!!

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