さあ、今宵は週一回なはずの更新規則に急遽として不意討ちを喰らわせる『歴史痛の眼』コーナー。前回更新が何というか残念な内容だったため、謝罪と賠償を兼ねてお送りいたします。
大河『風林火山』を見るにあたって、ちょいとばかり内容を理解できやすくなる予備知識になるかわり、読めば読むほど脳細胞を無駄に占拠せしめるという素敵な副作用があなたを襲います。
戦国歴史痛がその残念な叡智をフル回転させてお届けする至高なひととき、今夜も存分にお楽しみください。
…――えぇ、なんどでも僕はこの眼でぶっちゃけますよ、ぶっちゃけてやりますとも。『こっから下は、忙しい人は別に読まなくっても大丈夫』と。
それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間を拝借。
。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!
■戦国武将官職講座【第三回・弾正忠】
さて、第七話『晴信初陣』で爽やかな笑顔と共に初登場した真田幸隆(佐々木蔵之介)。
彼の官職名は『弾正忠』(だんじょうちゅう)とよばれるもので、幸隆が『真田弾正』と通称されることにつながるのですが…戦国Fanの皆様であれば必ず一度は耳にするであろうというほど頻繁に、そして色んな戦国武将の通称・綽名として見聞される『弾正』という官職。この弾正という官職、いったいどういう職務なのでしょう
…実をいえばこの弾正、つい先日まで新聞を賑わせていた『あの機関』のことなのです。
□悪・裂・弾正忠!! 法と秩序を掌る弾正台
弾正忠とは、弾正台(だんじょうだい/ただすのつかさ)と呼ばれる機関に所属する官職です。
弾正台の長官は弾正尹(だんじょういん/定員一名)。従三位という高いクラスに相当する職位で、時には親王(しんのう。天皇の子供達)が『弾正宮』』として選ばれることもありました。
上級次官が弾正大弼(だんじょうだいひつ/定員一名)、下級次官が弾正少弼(だんじょうしょうひつ/定員一名)。
上級官吏が弾正大忠、弾正少忠(だいんじょうだいちゅう/定員一名・だんじょうしょうちゅう/定員二名)で、こちらについては単に『弾正忠』と呼ばれることも多かったようです。
つまり、真田幸隆はこの弾正台の上級官吏を官職名に名乗っている、ということになります。
弾正台の主な職務は京の町の風紀・風俗の取り締まりや朝廷による中央行政の監察です。
特に重要視されたのが朝廷内での不正や非違非法を摘発、糾弾すること。
…つまり、朝廷内の行政機関を厳しく監視し、汚職や悪事に手を染めている不良官吏が居ようものならば、その罪を徹底的に調査し、白日のもとへ明らかにするというもの…。
はい、ここまで説明すればもうお判りですね?
つい先頃まで、連日のように報道されていた民主党の小沢一郎元代表の政治資金問題。あの暗い闇に隠された真実を徹底的に追及し、その罪を暴くべく奔走していた"あの機関"。
…――そう、弾正台とは、今で言う検察庁のことなのです。
弾正台の不正摘発・糾弾権限は非常に強力なものです。
朝廷内でも独立した機関であるため捜査には調査対象となる官人達にも遠慮が無く、人臣としての最高官職である太政大臣(だじょうだいじん)以外、総ての官職にあるものを告発することができました。
そのため、弾正台に就任する判官には律令・法規のスペシャリストである明法家(みょうほうか)と呼ばれる官吏たちが選ばれました。今風に言えば、法学部で刑法や民法をみっちりと学習した人達といったところでしょうか。
当然、弾正台の職員が不当な調査や間違った摘発をすることもありました。そうなった場合にそれを指摘し、弾劾することが出来たのは左大臣と右大臣のみ。要するに、彼らの調査や告訴を止めることが出来たのは朝廷における事実上のNo.1とNo.2の二人だけだったということです。
ここまで聞くと、弾正台の権威がどれほど凄いものかが実感出来る気がしますが…実のところ、弾正台はその機能をフル活用して朝廷内の非違非法を暴きまくったのかといえば、そうでもありませんでした。
なぜなら、弾正台には『罪を摘発した容疑者を逮捕したり、裁判に掛ける権限が無かった』からです。
彼らの仕事は、あくまで犯罪を発見、摘発するというところまで。犯人逮捕を掌る警察権と、裁判で罪を糾す司法権は、刑部省(ぎょうぶしょう/うたへただすつかさ)という別の部署が担当していました。
これは非常にややこしい話です。
だって、弾正台が詳しい調査の末に法を犯した者を発見しても刑部省が動かなければ裁判にならないですし、刑部省は刑部省で法律違反を犯した者や悪人を見つけても、弾正台が動かなければ何も出来ません。
しかも、弾正台の権限が通用するのは京の町だけ。地方で起きた非違非法を奏聞し、摘発することは出来なかったのです。
そんなまどろっこしく煩雑な犯罪摘発を一本化すべく新たに設置されたのが、歴史の教科書でもお馴染みの検非違使(けびいし)です。
検非違使は当初こそ京の町の治安維持程度でしかありませんでしたが、次第に罪の摘発から犯人逮捕、裁判まで何もかも出来るようになり、平安時代末期には地方の犯罪すら担当。
そのため、弾正台や刑部省は有名無実化、組織の形骸化が進んでいきました。
藤原道長ら藤原家による摂関政治が栄華を極めた1018年(寛仁二年)頃には、既に弾正台はあってないような官職になっていたようです。
しかし、そんな弾正台も戦国武将達には大人気の官職になりました。なぜでしょう?
それは、弾正台が『世の中の悪や罪を暴き、正義を司る法と秩序の守護者』という、言ってみれば正義の味方の様な官職だからです。
たとえ時代が秩序を見失い、剣戟と阿鼻叫喚が渦巻く戦国乱世であっても、正義を掌るという弾正台は武将達にとって凛々しいものに見えたらしく、憧れの対象でした。
結果として、日本各地には弾正台官職を名乗る数多くの武将達が現れます。
まずは戦国の覇者・織田信長。
信長の家系は特に織田弾正忠家と呼ばれ、代々の総領が弾正忠を名乗っていました。これは世襲による僭称で、朝廷公認のものではありません。
しかし、織田信長はこの弾正忠という官職を気に入っていたようです。
織田信長は常識離れした革新的な思想と抜群の指導力で戦国時代を牽引していった風雲児、というイメージがある一方、『自分が定めた掟や法には厳格で、違反する者は容赦なく処罰する』という一面もありました。
特に、足利義昭を推戴して上洛を達成した際に織田軍全部隊に課した秩序維持のための法は峻厳を極め、たった一枚の永楽通宝を盗んだために切り殺された足軽や、道行く娘の被っていた市女笠の顔を覗きこんだだけの足軽は信長が直々に斬殺したという念の入れ様。
掟法に厳格で、少しのズレも赦せない信長にはある意味、おあつらえむきの官職です。
信長は法と秩序の守護者である弾正忠の官職を肩書きにして、乱れた世を正すべく、将軍足利義昭を推戴し京の都に上洛したわけです。
そして、朝廷から正式に弾正少弼の叙任を受けたのが越後の龍、上杉謙信。
上杉謙信の一生はそれこそ弾正台そのもの、乱世に静謐をもたらすため、悪が蔓延る戦国時代に正義の鉄槌を振りかざすために捧げた生涯でした。
信濃で小豪族が甲斐武田家に苛められれば憤慨して川中島に兵を差し向け、関東で関東管領上杉家が悲鳴をあげれば怒りの毘沙門天と化し、雪の三国峠を強行突破で駆け抜けていく。下野唐沢山城を救援に出たときなど、敵陣を真っ先に駆け抜けて入城するとかいう離れ業まで演じています。
そして行動を起こすたびに足元がお留守になって領土が削れるけど、んなこたぁ問題じゃない、武田信玄や北条氏康といった世を乱す不埒者がある限り、彼は見返りなしでも軍を出してしまうのです。
彼ほど、弾正台の官職が似合う戦国武将も居ないでしょう。
…まぁ、 中には…。
自分を取り立ててくれた恩人・三好長慶を篭絡して三好家の執政を牛耳ったり、
長慶の嫡男・三好義興に毒を盛って暗殺しちゃったり、
邪魔だからって室町幕府第十三代将軍・足利義輝を足軽達に襲わせて、襖で踏んだあげく槍の滅多刺しでぶち殺したり、
政敵である三好三人衆ごと東大寺大仏殿を灰にしちゃったり、
もと使えていた主君の嫁さんと娘をとっ捕まえて妾にしたあげく、親子丼であんあん泣かせたり、
セックスの研究書を一生懸命執筆して
モノはでかけりゃ良いってもんじゃない。要はテクニックだ。
なんて名言を後世に残しちゃったりとか、なんだか書いててイヤになってくるほど『弾正』にふさわしくない武将も、居なくは無いんですがね?
そこはそれ、生き馬の眼を抜く戦国時代ですから。
たまには非常識で悪辣な正義の味方も居ますよ、ええ…。