戦国武将も柄にこだわる。 【戦国武将由争い】


歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。

 さて、大河『風林火山』の第二十三回、関東戦線史が大幅に塗り替えられる契機となった河越夜戦があった回ですが…歴史痛的注目ポイントは上杉憲政が

ではない…じゃぁ。
 …元は伊勢のあぶれ者、伊豆相模を掠め取った盗人じゃあ。その伊勢があつかましくもかつての執権北条の姓を名乗るとは、虫唾が走るわ!!』と長野業正を一喝した一言です。
 

 関東管領上杉憲政は、家臣の長野業正や倉賀野直行(大門正明)達が『北条。』と言う度に

『…長野、何遍言うたらわかるのじゃ…北条ではない、伊勢じゃ。』

 …と何度も言い直させていました。
 


 命の遣り取りでの勝利をものにせずになにを小さいことをグダグダ言っているのか…関東管領の器の小ささを如実に物語る場面ですが…



 実は、歴史上でも今回の憲政のような仕様も無い意地の突っ張りにしか思えない…姓の言い換えを何度も何度も繰り返したであろう人物が、大河『風林火山』の他の主要人物にも人か居ます。



  …誰だ、そんなくだらない事を言う連中は(;゚Д゚)って?


 …何のことはないです。





長尾景虎(Gackt)。今回はOPのみの登場。(画像は長尾景虎写真集『龍の化身』)





 …武田上杉北条です。
 

 …実は、今回上杉憲政が二言目には『北条じゃない、伊勢じゃ。』とこだわりまくっていたのには単なる名家の意地以外に、歴とした理由があります。


…それは、『敵対する武将の正統性の』です。
 


 今川家の客将であった伊勢(いせそうずい 1456〜1519 人呼んで北条早雲享年が88歳という戦国史上稀有の長寿であったという説は、近年になって否定されつつあります。)が今川家の御家騒動を上手く収拾し、駿東郡興国寺城を与えられ、そこを基盤に伊豆・相模二ヶ国を勝ち取った経緯は以前にもお話しした通りですが…。



 この伊勢家が、鎌倉幕府の執権・北条家の姓を名乗るようになるのは、伊勢宗端の子であり、大河『風林火山』序盤でも登場した北条氏綱(品川徹)の代になってからなのです。

 つまり、北条早雲は生きている間、北条姓を名乗ったことはありません。

     


  しかし、なんで氏綱は伊勢氏を捨て、遥か二百年も前に滅びさった執権北条家の姓を名乗ったのでしょう。

 一説に拠ると氏綱は鎌倉に在住していた執権北条家の末裔である後家の娘を側室に迎えて、由緒ある北条家の姓を名乗ったとされていますが…南関東に親子二代で確固たる基盤を築いた頭脳明晰な名将である氏綱のこと、それには当然理由がありました。
 


 …執権北条家は桓武平氏の血流を受け継ぐ名門であり、一時は源頼朝に近侍してその覇権成立に尽力した関東武士には由緒正しい家系。
 源氏将軍が三代で絶えた後に鎌倉幕府の政権指導者となった『執権』を世襲、大河でも八代執権・北条時宗がドラマ化したことでも御馴染みの御家です。


 かつては関東は勿論の事、京都に六波羅探題・九州には鎮西探題を置き日本全土を支配した武門の頭領たる家柄でしたが、1333年の鎌倉幕府滅亡後は時の流れに埋もれ、歴史から忘れ去られていた一族となっていました。


 …しかし、そんな没落した過去の残照しかない北条家であっても、二つと無い勲章を持っています。

 そう、関東地方を統治するための大義名分です。



 昔は関東どころか日本全土を支配した執権北条家の末裔なのですから、関東地方の諸豪族に対して合戦を起こすときにそのネームバリューは絶大です。

 
 何せ、合戦を起こすときにいちいち必要な大義名分に困りません。こう宣言すれば全て事が済むのですから。
 
『我が北条家はかつて鎌倉に君臨し関東十カ国を支配した執権北条家の末だ。再び関東にを唱えるべく、故地奪還のため宣戦を布告する。』



 当時の関東を修めていた関東管領も古河公方も、もとをただせばすべて室町幕府の家臣です。
 
 足利尊氏率いる室町幕府は、執権北条家の末裔にしてみれば『鎌倉幕府に謀叛を起こして成立した建武新政府と同じ穴のムジナ、関東を不法に支配している人』です。


 執権北条家の末裔ならば、古河公方や関東管領家と戦うのに立派に大義名分が立つのです。


 …ですから、古河公方と関東管領としては、伊勢家が執権北条家の末裔をなのり関東制覇を宣言する事を、『…うん、俺達盗人だしなー。』とか言って、受容するわけにはいきません。



 認めてしまっては、相模北条家の軍事活動や伊豆・相模・武蔵などの占領を認め…自分達は悪党になってしまいますから。
 




 そんな、旧鎌倉政権の大義名分を受容しないにはどうしたら良いか。
 
 …はい、そうです。…憲政と一緒に、こう言えばいいんです。
 


『北条家ではない、伊勢家だ。…あいつらこそ、執権北条家の末裔と勝手に騙って関東を不法に占拠している人だ。』




  ・・・とまぁ、こんな感じでお互いの大義名分を否定し『自分達こそ正義の為に合戦を起こし、その土地の正当な権利者である』と宣言することは、自家の威信を煌めかせる為にも絶対に必要だったのです。
 

 後に紆余曲折あって関東管領を名乗る事になる上杉(1568〜1571年の越相同盟中は兎に角)相模北条家を『伊勢家、関東の』と罵り続けましたし、北条氏康は氏康で上杉謙信を生涯『越後の守護の長尾家』と呼んで関東管領であることを否認し続けました。

 北条氏康は後に、古河公方家を継いだ甥の足利(あしかがよしうじ)を半ば操り人形とし、自らを関東管領に任させます。


 
上杉謙信はこの古河公方・足利義氏を『あれは伊勢家が勝手に古河公方を僭称させたに過ぎない偽者だ!!』と否定。

 関東各地を放浪していた義氏の異母兄・足利(あしかがふじうじ)を推戴し『藤氏様こそ古河公方であり、その藤氏様に認められた関東公方である我が上杉家こそ真の関東公方であるッ!! m9っ ;・`ω・´)』と突っぱねました。
 


 関東管領に上杉謙信を容認すると困るのは、甲斐武田家も一緒です。


 信濃国を火の如く侵掠し続ければ、城や土地を奪われた信濃の諸豪族は上杉謙信を頼り、頼られた謙信は『無法な侵を繰り返す甲斐武田家を関東管領としては容認できない。征伐すべく、宣を布告する。』と川中島に出兵する大義名分の錦の御旗を認めてしまうことになります。
 

 ですから、信玄も終生…家臣達の前では上杉謙信の事を『越後の守護代の尾家』と呼び続け、謙信が関東管領であることを生涯否定し続けたのです。


( ;・`ω・´) …一見すると幼稚にも思える無駄な片意地を張り通すのも、また戦国武将として必要な矜持なんですね。




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