解読!!戦国歴史事件。【第一回】 真田幸村最の猛攻撃事件


■つい先日、新企画連載を投じておいてまさかの第二弾発表です。( =(,,ェ)=)。o O (鬼が出るか蛇が出るかは考えませんよ?)


 題して、『解読!!戦国歴史事件。』。


 戦国時代に起きた様々な合戦や事件について、"歴史痛"(れきしつう)こと赤髭が独自の切り口でそれを分析。

 なぜその事件が起きたのか、それによってどんな風に戦国歴史・後世に影響があったのかを一回読み切の短編コラムにしてお届けしたいと思います。


 例によって歴史"通"じゃなくて歴史"痛"、ちょっと社会常識がないかわりに戦国歴史に詳しいおばかさんが展開するヨタ話ですので、多少事実と違う点もあるでしょうがそこは肩の力を抜いて戴いて。

 気楽な気分でお楽しみいただければ、幸いに思います。


 記念すべき第一回は、つい先日にご紹介した真田幸村…その彼が大坂夏の陣で見せた鬼のような大活躍について。

 いったい彼は、なぜ十五万近い徳川軍の陣営を突破して家康の首級をねらうことが出来たのか?



 そこには、通説や歴史常識に隠された秘密があったのです。( ;・`ω・´)< キリッ!!


今宵は、この『真田幸村最後の猛攻撃事件』を検証していきたいと思います。


 それでは、ご一緒して頂ける皆様のお時間を少々拝借。
今年の大河『江』の路線では絶対語ってくれそうにない、歴史と浪漫のピースが複雑にからまったパズルをお楽しみ下さいませ。



■大坂夏の陣で起きた真田幸村の大活躍、けどそれを別方向から見てみると?


 大坂夏の陣といえば、いわずと知れた最終決戦。真田幸村や後藤又兵衛、長宗我部盛親といった戦国時代終盤の武将達が大活躍した戦国最後の晴れ舞台ですが…――前にお話しした通り、真田幸村は軍神でもなければ常勝無敵のヒーローってわけでもなさそうです。



 いったいぜんたい、何がどう間違って四千人足らずの真田軍が家康を追いつめることができたのか。


 単純に”真田幸村がヒーローだから”でかたづけちゃあ面白くないですよね。( ・(,,ェ)・) さっそく、考えられる事柄を箇条書きにしてまとめてみました。


 


@徳川軍が、真田幸村なんか目じゃないほどの『凶悪な軍勢』に押されまくってたから。

 これがびっくりするほど知られていない事実。
真田幸村が徳川軍の乱れに乗じて家康本陣に突っ込めたのは、すぐ近くで…幸村なんか比較にならない鬼のような闘将が暴れまくっていたからです。


 その彼こそが、毛利勝永(もうりかつなが 1577?〜1615 吉政・豊前守)


 大坂城内の豊臣軍で真田幸村・長宗我部盛親と『大坂城三人衆』を結成、一・二を争うほどの名声と信頼を得ていた武将です。
 元は豊前小倉(現福岡県北九州市)で一万石の大名をしていましたが、関ヶ原合戦で西軍についたためお家は断絶。

 死罪はまぬがれましたが、父・勝信と一緒土佐の山内家あずかり…はやくいえば禁固刑になりました。1611年に父を亡くしたあと、徳川家と豊臣家が一触即発の状態になると、豊臣秀頼の招聘に応じて監禁から脱出、大坂城に入ります。

 え、聞いたことがあるような経歴だって??

 そりゃあそうでしょう。関ヶ原で負けて所領を失って、監禁されて、大坂城に入る…おまけにおやじさんを亡くした年まで真田幸村といっしょのいきさつなんですから。
キャラ被りもはなはだしい。( =(,,ェ)=)


 そして、大阪夏の陣。わりと善戦だった冬の陣とは違い、大坂方は苦戦の連続。城内では最強の頼みの綱と思われていた後藤又兵衛が討死、塙団右衛門や薄田兼相らも後を追う様に戦場の露と消えました。

 一発逆転を賭けて発言した豊臣秀頼出陣策が上層部の弱腰で却下されたあと、勝永は真田幸村、長宗我部盛親ら三人衆で語りあいます。


『いよいよ大坂夏の陣の終幕だ。明日は一緒に死に花を咲かせようじゃないか。』


 最期を悟った二人は、夏の陣後の野戦で2トップを組みます。狙うは、豊臣軍五万をつかって合戦を長期戦へと持ち込むこと。


 幸村と勝永は互いに連携をとりあうことで、徳川軍のスキを突こう。と誓いあいますが…この奇襲作戦は失敗に終わりました。毛利勝永隊の前衛が徳川軍・本多忠朝(あの本多忠勝の次男)による挑発にひっかかり、勝手に突撃しはじめたからです。



 結局、徳川軍を正面から突破することになっちゃいましたね。

 普通ならこれ、負けフラグなんですが…。



 しかし、ここで毛利勝永が常識では考えられないような大活躍!!
( ・(,,ェ)・)!

(青丸で囲んだ武将が勝永の突破・もしくは受け持った敵軍。地図は上が北、大阪城。)


 兵四千、真田幸村隊とほぼ同じ兵力の毛利勝永軍は家康本陣を遠く正面に望んだ、今の四天王寺南門あたりに布陣。


 戦闘が始まるや、最初の突撃で本多忠朝や小笠原秀政らをバッサリと討ち取り、続いて襲い掛かってきた徳川軍にも連戦連勝!


 勝永が突破した部隊、願いましては…浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純の十部隊!!

 立ちはだかる徳川軍をごぼうぬきに次々と撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入しかねないほどに。


 この勢いに驚いた徳川軍の後衛・松平忠直(家康の孫)軍が『じいちゃんが危ない!!』と慌てて突撃をしかけたため、徳川家康がいる本陣を守る壁の警戒が薄くなり…

 このすきをついて、真田幸村は一気に徳川家康軍に向かって突っ走っていったのです。つまり、真田幸村は大坂城の別働隊として動いていたことになりますね。



 
 のちの幸村は家康をとり逃がし、力尽きて討ち死にしますが…毛利勝永は無駄死にを避けて退却。

 この撤退戦でも鬼神かと見間違うような強さを発揮し、追撃してきた徳川軍の藤堂高虎勢を突破、井伊直孝や細川忠興ら歴戦の戦国武将たちを振り切って大坂城内に撤退していきました。

 まさに『戦略的後方移動』、勝永鬼すぎる。


 後世になって書かれた『翁草』(おきなぐさ)という戦国歴史をつづった書籍でも毛利勝永の活躍はたいへんな評価を受け、

惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず。』

(残念だなぁ、ここ最近は真田幸村ばかり英雄だ英雄だって言われるけど、みんなはどうして毛利勝永のこと、知らないんだろう)


 と記しています。
 
 


 A気合っていうか心構えの問題。
 大坂夏の陣で両軍がかき集めた兵力は徳川軍が総勢十五万、豊臣軍は五〜七万ほどだと言われています。


 兵力差だけ見れば徳川軍が二〜三倍という圧倒的優勢、しかも豊臣軍が篭もる大坂城は前年、冬の陣での講和で内堀と外堀が埋めたてられたおかげで防御力がかなり落ちているため、単純に衝突しあえばどう間違っても徳川軍の勝ちは動きません。

 
 しかし、真剣勝負は兵力の多寡だけで決まるとは限りません。


 『誰も居ない路地で人が倒れていると、通りがかった人は100%近い確率で声をかけるが、大勢が通る大都会の表通りで人が倒れていても通りがかる人達は案外、声をかけない。』


 だなんていう人間心理の実験結果がありますが、あれと似たよ
うなもので…――勝負事も、戦力差が圧倒的優勢ともなってくると、雑兵の心理としては『こんだけ大勢が戦えば、必死に最前線でがんばらなくても他の誰かが一生懸命やってくれる』と思うものなんです。



 だって、頑張りすぎて死んじゃったら…ご褒美にありつけないじゃないですか。


 徳川軍の雑兵たち、その大半は『大坂城が陥落したときに勝利の凱歌に酔いしれて…金目のものや、女子供を略奪して楽しんでやるんだい♪』というごほうびをとても楽しみにしています。

 だから、必死に戦うよりも生き延びることを重視しているでしょう。

 『なまけるな!!』とか言っちゃいけません。戦いに勝ったら恩賞がもらえるのは本当に勇敢で腕前に覚えがある、度胸のある者だけ。合戦場に出た雑兵のほとんどは、このどさくさまぎれの泥棒が楽しみで、命を張っているんです。



 
 その点、豊臣秀頼についた大坂方の武将は気合からして違います。


 『これが戦国最後の大合戦になるから、死に場所としてふさわしい舞台になるのは間違いない。ここで死に損ねたら、逃亡してもとっつかまって晒し首、みじめに死ぬだけだ…』と大多数の武将達は考えていますし、夏の陣の時点で大坂城に残っている雑兵たちは、そんな大将に惚れたからこそ豊臣軍についてるんです。


 そういう気のない武将や雑兵たちは、冬の陣講和で大坂城の内・外堀が埋まったときにサジを投げ、『こんなとこで戦えないから、退職金貰ってずらかろう!!』と城を退去していますから…ある意味では夏の陣の豊臣軍は腹をくくってる、気合入った精鋭の溜まり場だったわけです。(ちなみに、退職金については大坂城の首脳部・大野治長によって却下されました。)

 
 適当に頑張ろうとしか考えてない、命が惜しい大勢のチームと、ここで死に花を咲かせて男を上げようと思って覚悟を決めてる少人数のチーム。

 ぶつかったらどうなるかは『結果はどうであれ、大勢チームの楽勝ってわけにはいかなさそう』というのは皆さんも御想像がつくんじゃないでしょうか。


 
■B徳川軍は数こそ多いが軍団指揮官や兵士達、家康の側近達が戦馴れしてない。 おまけに家康本人も半分壊れかけてる。
  大坂夏の陣・冬の陣というのは、関ヶ原の合戦以来になる…約十四年ぶりに起きた合戦でした。

 
秀吉による天下統一から関ヶ原合戦までの十年間には、東北地方でおきた一揆の鎮圧や朝鮮出兵などで合戦もぼちぼちとおきていましたが、今度はまるっきり十四年振り。


 今でこそ『十四年』というとあっさりしていますが、人生五十年だった戦国時代には大きすぎる月日です。


 軍団の主力、雑兵の大多数を占めているだろう十代後半〜二十代の若者達は、そろいもそろって"大坂冬の陣夏の陣が初陣。"だなんていうルーキーばかりということになりますよね。

 また、十四年前に現役だった世代は…少なくとも三十路か四十路にリーチがかかる年齢、当時の感覚では壮年も壮年、初老に足をひっかけたような老人武者ってこと。
 軍団の攻撃力や統率に問題がおきそうなのは明白ですよね。



 当然、この十四年という月日は戦国武将たちにも重くのしかかります


 1600年、関ヶ原合戦のときには徳川家康は59歳。

 大の漢方薬・健康マニアだった家康は六十路前でも体調管理はばんぜんで、大黒様をかたどったという黒い鎧兜で身を包んで頑張ってたといいますし…家来たちも筋金入りの腕っきき、家康と一緒に戦国時代を生き抜いてきた一流揃い。

 あの武田信玄に『こいつらすげえ!』と言わしめた、家康自慢の家来たち…戦場での経験も豊富な猛者が、ところ狭しと顔を並べていたんです。



 …――ですが、1615年、大坂夏の陣の頃には家康もいよいよ74歳。


 胃癌を患った老年期の体はすでに衰えがはげしく、戦国最後の大合戦だというのに鎧を着ることもできなくなっていました。
 また、十四年のブランクで狸もびっくりなたいこ腹の肥満体になってしまい、一人では帯も締められなかったんだとか。



 仕方が無いので、『
茶色の羽織はかまに草鞋ばき、編み笠をかぶったご隠居様スタイル』で戦場に座っていたといいますから、かつての勇敢で健康だった家康とは思えない有様です。
(実際、この戦いから一年もしないうちに病気で亡くなりましたし、本当にギリギリの健康状態だったんでしょう。)


 また、本多忠勝や井伊直政ら"徳川四天王"や、鳥居元忠・服部半蔵といった自慢の三河武将たちはみーんな亡くなっていましたし、家康本陣を固める者たちも、土井利勝や酒井忠世、…――武人というより江戸幕府を支える官僚、ろくに戦場へ出た経験もない青びょうたんばかり。

 十四年の平和のおかげで、新世代は槍の腕も度胸も、戦国武将の心意気も鍛えられていません。
もう"武将"じゃなくって"内政官"なんです。


 江戸城の廊下は槍を抱えた侍が歩けないほど天井が低かったり、

腰の刀、でかかったら江戸城内を歩きにくいよね。

 とか言って、刀の刃渡りを詰めて短くすることが流行ってたり。


 これが武田信玄を驚かせた徳川軍団でしょうかっていうほどのなまくら状態だったんです。
 



 
 そんな体たらくのスチャラカ本陣へ、一説によれば…


 『"三途の川の渡し賃"意味する、六道銭の軍旗を背負った全身真っ赤っかな鎧兜の軍勢…あの徳川家康に二度三度とほえ面をかかせた真田家の連中が、命も惜しまずにものごっつい勢いで突っ込んで来た』んです。


 
 命が惜しい、死にたくない、経験薄い徳川軍には…真田幸村と毛利勝永の軍勢はまるで地獄の閻魔さま、死神の使いかのように錯覚しても仕方なかったんじゃないでしょうか。




 真田幸村の突撃で家康の本陣は壊滅、馬印『金の大扇』は真田家に踏み倒されて…旗本らとはぐれた徳川家康は必死で逃げました。

 もうあきらめて腹を切ろうとしたそうですから、家康がどれだけ絶望にかられ怯えていたかがよくわかります。


 十五万もの家来たちも毛利・真田軍の突撃で完全に浮き足立ち、統一した行動がまったくとれないほど動揺していたそうです。
 
 …――しかし、これが皮肉なもので…家康は寸でのところでまんまと逃げ延びて、幸村はあとちょっとのところで大物を逃してしまい…大坂夏の陣は家康が開戦前に豪語したとおり、本当に三日で終わってしまいました。


 
 これが実力による結果だというなら、本当に徳川家康という人は”運”が良かったんでしょうねえ…。 
( =(,,ェ)=)





トップへ戻る