紹介 松永久秀 〜ぶしょうしょうかい まつながひさひで〜

 

 

 


 


松永久秀 マツナガヒサヒデ (1510〜1577)
戦国史上最大のトリックスター。腹に一物 手に荷物、謀略暗殺何でもござれの稀代の梟雄。
手を染めた悪事は数知れず、ついた渾名は『裏切り弾正』ウラギリダンジョウ。
通称弾正ダンジョウ、霜台(ソウダイ 弾正台の唐名)。官途は弾正少忠、次いで弾正少弼ダンジョウショウヒツ。

山城国西岡出身の商人とも、摂津国の百姓出身とも、阿波国出身とも言われはっきりしない。
山城説だと、かの下克上の梟雄『美濃の蝮』斎藤道三と同郷のためか二人は知り合いであると云う。
近年になっては、摂津高槻の豪族・入江春景イリエハルカゲと親交を結んでいることや、
江戸時代初期の俳人で久秀の孫であるとされる松永貞徳マツナガテイトク が
『我が祖先は摂津入江氏の裔』と語っていることから、摂津国出身説が有力とされている。
阿波国出身説に拠ると1529年に、長慶少年に右筆(書記)として仕え始めたのが
史上に姿を現した最初であるという。

当初は右筆(書記官)であったが、次第に行政・司法実務に長けるようになり
長慶の懐刀として信頼を得るようになった。
長慶が父の仇である細川晴元ホソカワハルモトと戦いを始めると、久秀も軍を率いて出陣、
1551年には晴元の本拠地であった相国寺を攻め、戦功を挙げた。

その後も長慶の信頼を得て畿内の平定に力を尽くし、1560年には大和国をその統治下に納めた。
1562年久米田で長慶の次弟・三好義賢ミヨシヨシカタが銃弾を受け戦死すると、
和泉方面における三好家の支配は瓦解。
長慶も居城・河内飯盛城を細川方・畠山高政ハタケヤマタカマサに包囲される危機を迎えたが
久秀は畠山軍を撃破し包囲を突破、長慶の救出に成功する。(教興寺合戦)

この勲功により三好家中における久秀の発言権は拡大、その権力は主君長慶ですらも
無視できないものになりはじめていた。

ここから、久秀の稀代の梟雄たる所以が発現する。

1563年。まず手始めに長慶の長男で、期待の後継者であった三好義興ミヨシヨシオキを毒殺

その翌年には長慶の弟である安宅冬康アタギフユヤスに謀反の兆しありと長慶に吹き込み、
これを殺害させた。

弟達や長男を失い落胆した長慶は同年に病に伏し、病死を遂げたがこれも久秀の毒殺であると云う。

三好家は十河一存ソゴウカズマサの子で長慶の養子となっていた三好義継ミヨシヨシツグが後を継いだが、
まだ14歳の少年であることから、これを三好三人衆と共に後見。
後見というと聞こえは良いが実質上は久秀の操り人形に等しく、
ここに至り久秀は十中八九三好家を掌握する事になった。

こうなるともう、誰にも久秀の暴虐を止めることは出来なくなった。

長慶未亡人で、美貌を以て知られた左京太夫局をその娘もろとも略奪し、妾とした。
1565年には、自分の云う事を聞かなくなり、
将軍家の勢力拡大を始めた室町幕府13代将軍・足利義輝アシカガヨシテルを暗殺。
後の憂いを経つべく、奈良一乗院の門跡となっていた
義輝の弟・覚慶カクケイ(後の15代将軍・足利義昭アシカガヨシアキ。)をも
暗殺しようと企んだが、これは失敗している。
1567年には、奈良東大寺で反久秀の兵を挙げた政敵である三好三人衆と激しく衝突、
東大寺境内に布陣した三好方の陣を焼き討ちし、なんと
大仏殿に火を掛け大仏の首を焼き落とすという暴挙に出た。

だが、その暴走も1568年にあの織田信長オダノブナガが義昭を奉じて上洛したことで終結する。
久秀は主君・義継と共に信長に謁見、その価値は一国一城に匹敵するという名物茶器である
『九十九髪茄子』ツクモガミナスビを献上することで、今までの罪をあっさり許された。

その後も信長とはうまが合ったらしく共に行動する。
1571年、信長が越前平定戦の際に義弟・浅井長政に裏切られて退路を絶たれ、
金ヶ崎から京都に向かって命からがら撤退した時にも、久秀は近江朽木谷の朽木元綱クツギモトツナら
道行く先の諸豪族衆を説得しながら信長を先導、無事に京都まで送り返している。
この際、羽柴秀吉ハシバヒデヨシ(のちの豊臣秀吉トヨトミヒデヨシ)と徳川家康トクガワイエヤスが
殿軍として取り残されている事を思うと、信長も存外久秀の事を気に入っていたのだろう。

事実、かつて久秀に命を狙われた室町幕府15代将軍・足利義昭は
信長に久秀の処刑の命じたが、信長はこれを断り側近として用いているし、
盟友・徳川家康に久秀の人となりを紹介する際に
『この老人は並みの人間では出来ぬことを
   三つ(主家乗っ取り・足利将軍暗殺・大仏焼き討ち)もやってのけた。』と
得意気に話している。

しかし。やがて信長と足利義昭が反目し、信長包囲網が構築され始めると
1573年、久秀はこの包囲網に参加し大和多聞山城で挙兵する。
この当時の信長は武田信玄タケダシンゲン・朝倉義景アサクラヨシカゲ・
浅井長政アザイナガマサ・一向一揆・三好三人衆と周囲を完全に敵に囲まれており当に絶体絶命の危機。
久秀に取っては、もう一度京都の、畿内の支配者に返り咲くまたとない機会だったのだ。

しかし、この包囲網は武田信玄の病死により呆気なく瓦解。
久秀も多聞山城に攻め寄せてきた信長軍の前に降伏し、許されたものの
自らが築き上げた居城・多聞山城と大和守護職をあっさりと奪われてしまう。

その後は大和信貴山城に居城を移し、織田家の対本願寺戦線に参加するが
この男、まだ懲りていなかった。

1577年、越後の龍・関東管領上杉謙信ウエスギケンシンが信長に対して挙兵。
加賀手取川に於いて信長軍を撃破すると、畿内はたちまち大混乱に陥った。
久秀はこれに呼応して大和信貴山城で再び挙兵、信長に反旗を翻したのだ。

しかし。上杉謙信不在を好機とみた小田原北条氏が関東に点在する上杉領を突く構えを見せたため、
謙信は軍を反転させ、本国越後に引き上げてしまった。久秀の思惑は、またしても外れてしまう。

危機を脱した織田信長は嫡男・勘九郎信忠ノブタダ・羽柴秀吉らの率いる大軍を派遣し
大和信貴山城を包囲。次いで久秀に使者を送り、降伏を促した。
降伏の条件とは、久秀所蔵の名物茶器・古天明平蜘蛛釜コテンミョウヒラグモガマ を差し出す事。

だが、久秀はこれを拒絶して信貴山城天守閣に昇った。
信長が咽喉から手が出るほど所望した名物、平蜘蛛釜一杯に爆薬を詰め込み、
もはや眼前に迫っていた信長軍に対し大音声を張り上げた。


『儂の白髪首と平蜘蛛の釜だけは信長の目に掛けさせぬッ。
          松永弾正少弼久秀の最、しかと見届けるがいい!』


次の瞬間、信貴山城天守閣は轟音を上げて大爆発を起こした。
これが、松永久秀の最後であった。
かつて主君を蔑ろにし、将軍を弑逆し、東大寺の大仏の首を焼き落とし、
京洛を支配した稀代の梟雄は、一片の頭髪も残さずこの世から去っていった。

時に1577年10月10日。
奇しくも10年前、久秀が東大寺大仏殿を焼き落としたその日のことであった。

当コーナーでは、主人公である長慶を補佐する有能な官僚と
根暗な奸臣の二つの顔を使い分ける老武将を演じる。
史実では、主家をしのぐ権勢を手に入れ思うが侭に振舞った久秀だが
果たして、このコーナーでも梟雄ぶりを発揮するのであろーかっ。






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