紹介 三好一門衆〜ぶしょうしょうかい みよしいちもんしゅう〜

 

 

 


 


三好長逸 ミヨシナガユキ (1514〜????)
三好家家臣。三好長則ミヨシナガノリの嫡男で、長慶の叔父に当たる。
長慶の後継者・三好義継ミヨシヨシツグの後見役である三好人衆の筆頭。
早くから長慶に仕えて頭角を表わし、
兄長慶が父の敵・細川晴元ホソカワハルモトと戦いを始めると東摂津に進出し
これを良く支援した。その後も播磨・丹波各地を転戦し長慶の信頼を得た。

1564年に長慶が逝くと三好政康ミヨシマサヤス・岩成友通イワナリトモミチらと三好人衆を構成、
後継者義継を後見し三好政権安定に努め、
1565年には松永久秀マツナガヒサヒデと結んで室町幕府復権を目指していた将軍・足利義輝を襲い
これを暗殺している。
その後は義輝の従兄弟である阿波の足利義栄アシカガヨシヒデを室町幕府14代将軍に推戴、堺に幕府を形成。
これを操り政治を壟断したが、やがて松永久秀と決裂。
以後は久秀と長く権力闘争を繰り広げ、三好家の勢力を悪戯に浪費していくこととなった。
翌1566年には、後見していた三好義継が久秀に通じたため大和奈良でこれと戦い、
本陣を敷いていた奈良東大寺が炎上、大仏像を焼亡させてしまう。

1568年に織田信長オダノブナガが足利義昭アシカガヨシアキを奉じて上洛すると
近江の六角義賢ロッカクヨシカタと結んで信長・義昭に対抗したが、戦わずして阿波へ逃れている。

1569年には再び畿内に舞い戻り入京、本圀寺ホンコクジの義昭を襲撃するが撃退された。
1570年には摂津中島城に拠って本願寺と結び、摂津・河内の信長方勢力と争う。

将軍・義昭が反信長勢力をまとめ上げ、信長包囲網を形成するとこれに参加するが
1573年信長の侵攻を受けて敗北し三好三人衆は瓦解、長逸も所領を失い没落した。

以降の長逸の生死は不明。歴史上からも姿を消してしまった。


長慶死後の室町幕府を牛耳った三好三人衆の筆頭も、信長には敗れ没落。
その最期すら知れないというあたり、戦国の世の無常を感じさせてくれる人物。
当コーナーでは同僚の政康・友通らとお笑いトリオ「三好三人衆」を形成。
鬼ツッコミ役の主君・長慶の居ぬ間に漫才ブームさながらの
ボケボケを展開する事になる。^^;



三好政康 ミヨシマサヤス (1528〜1615)
三好家家臣。釣閑斎宗渭チョウカンサイソウイと号する。
一般に流布している系図では三好頼澄ミヨシヨリズミの次男で、長慶の叔父とされているが
長慶の父の仇で、政敵であった三好宗三ミヨシソウザン(政長マサナガ)の子で
三好政勝ミヨシマサカツの兄に当たるとも云う。この説を採るなら、主君長慶は父の仇ということになる。
長慶の後継者・三好義継ミヨシヨシツグの後見役である三好人衆の一人。

1562年の久米田合戦で三好義賢ミヨシヨシカタが戦死すると、河内和泉に展開していた三好軍は瓦解。
長慶も居城・河内飯盛城を畠山高政ハタケヤマタカマサに囲まれ危機を迎えるが、
政康は三好義興ミヨシヨシオキ・松永久秀マツナガヒサヒデらと軍を立て直して長慶軍を救出、
河内教興寺キョウコウジにおいて畠山高政を撃破して名を上げた(教興寺合戦)。

1564年に長慶が逝くと三好長逸ミヨシナガユキ・岩成友通イワナリトモミチらと三好人衆を構成、
三好家を後継した三好義継ミヨシヨシツグを補佐。これ以降の行動は
1565年将軍足利義輝アシカガヨシテル弑虐、1567年東大寺大仏焼亡、1569年本圀寺襲撃、
1572年信長包囲網参加とほぼ三人衆の同僚・三好長逸ミヨシナガユキらと行動を共にする。

1573年には信長の攻撃を受けて三好三人衆は瓦解、所領を失い没落し
政康は長逸共々、歴史の表舞台から姿を消してしまう。

ところが。それから実に40年後、大坂冬の陣で政康は歴史に再び姿を現した。
政康の齢は何と米寿八十八歳。出家して三好清海入道ミヨシセイカイニュウドウと名乗り大坂城に入城。
翌年の大坂夏の陣にも出陣し奮戦したが
1615年5月7日、天王寺・岡山の最終決戦において真田サナダユキムラらと共に戦死を遂げた。
なんと88歳においての討死は驚嘆に値する。

徳川方に参戦していた弟・三好政勝は、いったいこれをどんな思いで見たのであろう…。


人生の前半生は将軍殺しの大悪党、後半生は豊臣秀頼に殉じた忠義の老将。
その勇姿は後に『真田十勇士』の一人、三好清海入道のモデルにもなったという
三好家でも最も異彩を放つ漢(オトコ)である。(´・(,,ェ)・`)
そんな彼も、当コーナーに於いてはお笑い三人衆の一角。
阿波弁で駄洒落をまくし立てる別の意味で異彩を放つ漢に仕上がっております。(苦笑)



岩成友通 イワナリトモミチ (1529〜1573)
三好家家臣。姓は『石成』とも書く。官途は主税助チカラノスケ。
備後国岩成荘住人・岩成蔵人正辰イワナリクランドマサトキの子と云うがはっきりしない。
長慶の後継者・三好義継ミヨシヨシツグの後見役である三好人衆の一人。

正確には三好家一門衆では無いが、『一門同然の扱いを受けた』程の
重臣であったと云う為、この項【三好一門衆】に列する事とした。

1564年に長慶が逝くと三好長逸ミヨシナガユキ・三好政康ミヨシマサヤスらと三好人衆を構成、
三好家を後継した三好義継ミヨシヨシツグを補佐。当初は他の三人衆と同様政権の維持につとめ、
政敵松永久秀マツナガヒサヒデとも同調、1565年には室町幕府13代将軍・足利義輝アシカガヨシテルを弑虐する。
しかし、同年秋には早くも久秀と対立、主君三好義継を高屋城に擁立した。
1566年には久秀と結んだ河内守護職・畠山高政ハタケヤマタカマサを撃破、
また大和にも侵攻して久秀方と戦い、さらに堺に逃れた久秀を追撃している。

1566年には阿波より義輝の従兄弟・足利義栄アシカガヨシヒデを迎えて室町幕府14代将軍に推戴し政治を壟断。
翌1567年には主君・義継が突然久秀方に出奔したため他の三人衆と共に奈良東大寺に布陣。
この合戦は久秀による夜襲を受けて敗北し、大仏殿を焼亡させてしまう。

1568年に織田信長オダノブナガが足利義昭アシカガヨシアキを奉じて上洛すると
主君三好義継と久秀はこれに降伏。三人衆は南近江の六角義賢ロッカクヨシカタと連携し
信長軍を迎撃するが、六角軍は降伏・潰走。友通は山城勝龍寺城ヤマシロ ショウリュウジジョウに篭城し
猶も反抗したが結局は敗走、同城を失陥する。

翌1569年正月には義昭の居館であった京都六条本圀寺キョウトロクジョウ ホンコクジを襲撃するも敗退、
他の三人衆ともども阿波に逃亡するが、翌1570年には再び上洛。
野田ノダ・福島フクシマに城砦を築き本願寺と連携して信長軍に対抗するが、
最終的には松永久秀の斡旋を受け降伏、信長軍との和解が成立した。

これ以降、何故か友通はかつて害した義輝の弟・足利義昭に重用され
山城淀城ヤマシロ ヨドジョウを与えられた上、山城国内にも様々な権益を有した。
信長にもその人柄を「表裏のない人物」と評価され、関係良好であったが
1573年義昭と信長の不和が確定的になると思案の末義昭方につき、淀城に籠城。

同年7月、義昭が若江城に退去した後も城を守り続けたが、
長岡藤孝ナガオカフジタカ(後の細川ホソカワユウサイ)・三淵藤英ミツブチフジヒデ率いる信長軍の攻撃を受けて
遂に戦死、落城した。その首級は藤孝配下の勇士・下津権内シモヅゴンナイが挙げたと云う。

足利将軍を殺害し、足利将軍を傀儡とし、足利将軍の為に死んだ
これまた、他の三人衆達に負けず劣らずな奇異なる人生を送った漢(オトコ)。
その生き様は、明日の生死すら知れない戦国乱世の無常を感じさせてくれる。
しかし、悲しいかな彼は三好三人衆。
当コーナーでは、ボケてボケてボケ倒しますのでそのつもりで。(爆。



三好康長ミヨシヤスナガ (1506〜1585)
管領細川氏家臣。三好長秀ミヨシナガヒデの次男で、長慶の叔父に当たる。
通称孫七郎。官途は山城守。剃髪して山城入道笑岩ヤマシロニュウドウ ショウガンと号す。
1562年久米田合戦クメダカッセン・教興寺合戦キョウコウジカッセンにおいて畠山軍を撃破する勲功を挙げ
河内畠山家の重要拠点であった河内高屋城カワチ タカヤジョウを接収して居城とした。

長慶の死後は三好家の本拠地である阿波を治めて三好三人衆の与力となり
彼らの軍事活動の後方支援を務めた。つまりは三好家総領・三好義継ミヨシヨシツグから見ると
陪臣(バイシン。家臣の家臣)にあたる訳だが、
宗家との血筋の近さや軍事力は、三好家内でも大きな影響力を持っていたとされる。
1568年に織田信長オダノブナガが将軍・足利義昭を奉じて上洛すると
三好三人衆に付随して高屋城を捨て、阿波へ退去。
1569年には三好三人衆と共に入京し、本圀寺ホンコクジの義昭を襲うが失敗に終わる。

やがて将軍・足利義昭と信長が対立し、信長包囲網が形成されるとこれに参加し信長軍と交戦。
1573年に室町幕府が滅亡し義昭が京洛より退去、松永久秀マツナガヒサヒデが降伏、
三好三人衆が没落してもなお河内高屋城に拠って信長に抵抗し続けたが
1575年4月、遂に康長は信長と和睦し、その軍門に下った。

以上の経緯で執拗に信長に反抗した康長であったが、以後は其の強い影響力を買われ
石山本願寺と織田家の和睦や、河内半国の統治者として活躍。
1582年5月には信長より『阿波一国を堵する。』という朱印状を獲得、
織田政権より遂に阿波国の太守たる地位を認められる。
さらには信長は、三男である神戸信孝カンベノブタカを康長の養子にすることを予定していた
という。四国平定のため、四国内に権威がある三好家を継がせようとした為であろう。

しかし。もはや目前にまで迫っているかに見えた栄光は
本能寺のによりすべて水泡に帰した。

その後康長は信長の後継者となった羽柴秀吉ハシバヒデヨシ(後の豊臣吉トヨトミヒデヨシ)に接近し
秀吉の甥・三好信吉ミヨシノブヨシ(後の豊臣次トヨトミヒデツグ)を養子とする
秀吉の四国平定後、阿波国は秀吉の側近であった蜂須賀正勝ハチスカマサカツが獲得する。

1585年、康長は大坂城に登城した長宗我部元親チョウソカベモトチカを歓待したという記録があるが
これ以降、彼の歴史上の記録は途絶える。同年頃に亡くなったとも云う。


長慶死後の三好家に大きな影響力を持ち、戦国の覇者達にも一目置かれた
文字通り三好家の最長老。歴史があと少し彼に味方していれば、
三好家一門は阿波国の太守たる地位を得ていたかもしれない。
本来『信長の野望・烈風伝』には登場しない人物だが、長慶のワガママ(笑)により
当コーナーにも登場。三好家の裏方を支え、内政や朝廷工作・外交に活躍する。



三好義興ミヨシヨシオキ (1542〜1563)
長慶の嫡男で、通称孫次郎。初めは名乗りを義長ヨシナガと称した。官途は左京大夫・筑前守、従四位下。
名乗りにある「義」の字は1560年、時の室町幕府将軍・足利義輝アシカガヨシテルの偏諱を受けたもので
同年に父の長慶は居城を河内飯盛城カワチ イイモリジョウに移しており、
それまでの居城であった摂津芥川城セッツ アクタガワジョウは義長に与えられた。
長慶が父の仇・細川晴元ホソカワハルモトと戦いを始めると、義長も軍勢を率いて出陣。
晴元方に組する諸大名の軍勢を各地で撃破し、長慶に賞賛された。

1561年には父長慶の斡旋で将軍・義輝の御相伴衆オソウバンシュウ となり、
従四位下筑前守ジュヨンミノゲ チクゼンノカミ に叙位され、名乗りも義興ヨシオキに改めた。
筑前守は、父長慶も叙任を受けた官位であり、長慶の父 元長モトナガ・曽祖父 之長ユキナガら
歴代の三好家総領達も叙任拝命を受けた官職であった。

この『長慶の居城を与えられた』『長慶の斡旋で幕府要職に就いた』『三好家歴代総領と同じ官職を拝命した』
という諸事情は、言うなれば義興が早くから長慶に次代三好家後継者として強く期待されていた、という事を
意味しており、特に歴々の三好家当主が拝命した『筑前守』の叙任は
其れを決定付け、周囲に宣言した証と云える。

義興も其の期待に応えるべく各地を転戦、1562年久米田合戦で三好家重鎮・三好義賢ミヨシヨシカタが戦死し
長慶が居城飯盛城を畠山高政ハタケヤマタカマサ軍に包囲されると河内和泉の軍勢を纏め上げて反撃し、
見事父を助け出す戦勲を挙げている(教興寺合戦キョウコウジカッセン)。

また、同1562年には家宰・松永久秀マツナガヒサヒデとともに上洛し
政敵であった室町幕府政所執事 伊勢貞孝・貞良イセサダタカ サダヨシ 父子と京都杉坂で交戦し大勝。
貞孝父子の居城であった山城堂ノ庭城ヤマシロ ドウノニワジョウ も陥落させ、敗死に追い込む武勲を挙げている。

この様に、次代の三好家総領として恥ずかしくない大功を修め名声を得た義興であったが
1563年、急に病に倒れてしまう。
これに驚いた長慶は奈良東大寺を初め、京洛の諸寺院に依頼し平癒祈願を執り行なわせ、
名医を呼んで治療を施し其の治癒を願ったが、義興は遂に幽冥境を異にした。
享年22歳。その死は、弟達の死に落胆していた長慶を更に追い込んでいく事になる。

尚、その急逝を『裏切り弾正』松永久秀の毒殺とする説もあるが、
これは後に将軍暗殺・大仏殿炎上等の大罪を犯した久秀を憎んだ周囲の者達が
「あいつならやりかねない」と後ろ指をさした事に起源するとも、
同年に畿内を席巻した悪疾に罹患した為とも云われている。


長慶期待の後継者で、次代の三好政権を背負って立つ筈であった人物。
その夭折は確実に三好家の栄光ある未来を閉ざし、その崩壊を早めたと言える。
当コーナーでも、長慶の後継者候補最右翼として登場、政治67・采配70を誇る。
しかし、歴史上の早逝が示す通り健康状態には、一抹の不安を感じざるを得ない。
果たして、彼が三好家総領として立つ事はあるのだろうかっ。



三好義継ミヨシヨシツグ (1551〜1573)
長慶の四弟・十河一存ソゴウカズマサの子で、初めは名乗りを重存シゲマサと称した。
1563年には嫡男義興ヨシオキを亡くした伯父・長慶の養嗣子となり三好宗家に入り、
翌1564年に伯父長慶が病没した為、松永久秀マツナガヒサヒデ・三好三人衆らの後見を受け
弱冠14歳で三好家総領の地位を後継した。

相続当初は三好政権維持の為に後見人である久秀・三好三人衆と協調路線を採り
彼らと結託して将軍義輝ヨシテルを弑虐するなど行動を共にしたが、
やがて三好三人衆と松永久秀の関係が破綻。河内・大和など各地で抗争し始める。
義継は当初三好三人衆方に組したが、これに不満を持ってか1567年に突然久秀方に出奔、
奈良東大寺にて挙兵・布陣した三好三人衆と激突し大仏殿を炎上させてしまう。

1568年に織田信長オダノブナガが足利義昭アシカガヨシアキを奉じて上洛すると松永久秀とともに信長へ降り
若江城と河内半国守護職を獲得、翌1569年には信長の媒酌で足利義昭の妹婿となった。

しかし1572年に久秀と共に周辺の親織田勢力を攻めて信長に敵対し、
信長に追われた将軍義昭を若江城に匿ったために
翌1573年信長配下の将・佐久間信盛サクマノブモリの攻撃を受ける。
義継は篭城してこれを良く防いだが、側近である若江三人衆の筆頭家老・野間左橘兵衛ノマサキツヒョウエの
裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。 享年23歳。

彼の死後間も無く三好三人衆も信長に破れ瓦解、これを以て
三好家の畿内における支配はほぼ終焉を迎える事となった。


彼にとっても三好家にとっても、『三人衆』というものはいよいよ鬼門らしい。^^;
当コーナーでも長慶の後継者候補の一人として登場するが
政治41戦闘29采配63智謀35という容赦の無い低能力では先が思いやられる。 || orz
彼に後を継がせなければいけないと云う状況だけは、避けたいものである。




安宅信康 アタギノブヤス (1549〜1578)
安宅冬康の嫡男で、通称甚太郎。名乗りの「信」の字は、織田信長の偏諱と思われる。
官途受領については目下の所調査中。ちなみに父冬康は摂津守、弟清康は河内守。
1564年に父冬康が長慶により誅殺された後に家督を相続、以後は淡路水軍を率いて
摂津・和泉などに転戦、淡路国由良城を本拠地として紀淡海峡・東瀬戸内海の制海権を確保した。

1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、主君三好義継・松永久秀らは信長に属したが
信康は三好三人衆・石山本願寺方に与力し、1570年には信長方の伊丹衆らと戦った。
1572年には足利義昭・信長陣営に従属するが、東瀬戸内を掌握する要衝・淡路国を抑える
安宅家を支配下に置こうと目論む織田家・三好家・本願寺陣営間を転々とし離合集散を繰り返した。

しかし、1573年に主家・三好家の総領であった義継が河内若江城で討死し三好三人衆も没落、
1577年には松永久秀が度重なる謀叛の末、大和信貴山城で壮絶な爆死を遂げると
もはや畿内に於ける覇権は織田信長に握られることになった。信康は三好一族の最長老であった
三好康長の説得を受けて織田家に降伏し、本拠であった淡路由良城、同洲本城を安堵された。

織田家と石山本願寺の争いが苛烈を極め、石山戦争が佳境に入った1577年には
本願寺を支援する毛利家の勧降を受けるが拒絶し、織田家陣営に加担。
1577年の第一次木津川口の合戦にも出陣し毛利水軍と戦ったが、潮流を読み誤った織田水軍本隊が
上げ潮に乗る毛利家方・村上水軍の焙烙火矢の猛火に撃沈し壊滅。毛利水軍の突破を受け
石山本願寺への兵糧支援を許すこととなり、本願寺は勢いを取り戻してしまう。

1578年に再び毛利水軍が襲来し第二次木津川口合戦が勃発するが、この合戦で
世に名高い織田水軍鉄甲船団が出撃。今度は毛利水軍は殲滅されたが
この合戦の後に信康は淡路にて没した。享年30歳。

安宅家の家督は弟・安宅清康アタギキヨヤス(????〜1581) が襲封するが、清康は織田家より離れて
毛利家に従属したため、東瀬戸内海の制海権を取り戻さんとする織田信長の命を受けた羽柴秀吉は
1581年、鳥取城を攻め落とした後に明石から淡路国に出陣。淡路岩屋城を陥落せしめ由良城を攻撃した。
清康はこれに降伏し近江安土城に登城、信長に謁見し従属の誓紙を差し出し、本領安堵を受けたが
帰国後に病没した。以降、淡路国は仙石秀久・脇坂安治ら織田家・豊臣家の家臣が統治していく事となる。

1615年には大坂夏の陣で武勲を挙げた蜂須賀至鎮(1586〜1620) が恩賞として
淡路国を獲得。この頃には安宅家はすっかり没落してしまっており、これ以降
紀淡海峡に武名を馳せた安宅家が大名として勃興することは、二度と無かった。


冬康の長男にして、その亡き後の淡路水軍を統べた三好家海軍の統領。
水軍適正Bは家中一で、流石はその名に高い淡路水軍!!と賞賛したいところであるが
ほかの軍事適正がすべてDである上に政治49戦闘50采配36智謀43
いうのは少々頂けない。(泣 しかも、寿命が短いとあってはいよいよ・・・。(´・ω・`)




三好長治ミヨシナガハル (1553〜1577)
三好義賢の嫡男で、通称彦次郎。官途は阿波守。1562年久米田合戦において父義賢が戦死した後、
重臣・篠原長房シノハラナガフサら篠原一族の補佐を受けて家督を継承、本国である阿波国を維持した。

1566年に摂津富田普門寺セッツ フモンジ に阿波公方・足利義栄アシカガヨシヒデを擁し、1568年には三人衆とともに
義栄を室町幕府第14代将軍に祭り上げ政治を壟断するが、その直後に
織田信長オダノブナガが足利義昭アシカガヨシアキを奉じて上洛し、これに敗れた三好氏勢力は沈滞。
長治は阿波にあって長宗我部元親チョウソカベモトチカの侵攻を受けることとなる。

1570年に三好三人衆が摂津中島城に拠って野田・福島に砦を築くと
これに呼応して阿波より上陸し信長軍と激しく争うが、1573年に室町幕府が滅亡。
三好家の重鎮であった三好三人衆が没落するなど三好家の威光は地に堕ち、長治自身も
佞臣(ネイシン。主君に対して都合のいいことばかり言う悪い家臣の意。)・篠原自遁シノハラジトンの讒言を
間に受けて自身を後見した重臣・篠原長房を誅殺してしまい、家臣団への求心力を失ってしまう。

1575年には、遂に信長の軍門に降り、同年中に元親の攻撃を受けて阿波海部城アワ カイフジョウ を失陥。
阿波における三好家劣勢を立ちなおせないまま
1577年、かつて父・義賢が暗殺した阿波守護職・細川持隆ホソカワモチタカの遺児で
自身の異父兄でもある細川真之ホソカワサネユキに攻められて荒田野アラタノ でこれと戦うが敗れ、
板野郡長原において自刃に追い込まれた。享年25歳。
辞世の句は、次の通り今の世に伝わっている。

みよし野の 花の数には あらねども 
         散るにはもれぬ 山桜かな


(私は吉野の山に咲く美しい桜の中にあっては、名も無い山桜に過ぎないのだが
     そんな私でも、散っていく運命にあるのだなぁ・・・。)

父・義賢は日蓮宗に深く帰依しており、堺サカイに妙国寺を建立するなど深く尊んでいたが
長治の信仰心はそれ以上で、阿波国領下の民全てにまで日蓮宗への改宗を要請するに至った。
これに反発した真言宗寺院が『勝瑞宗論』を引き起こし阿波国内は混乱、
篠原自遁が仲介に立って長治に日蓮宗改宗を撤回させている。
また、鷹狩の鷹を領民の童子が誤って射殺した際、この童子を『牛裂きの刑』に処すなど
政治感覚のない暴君という印象が強いが、父・義賢死後の阿波をよく治め
宗家没落後の阿波三好一族を良く統率し長宗我部家の侵攻に頑強に抵抗した面も
彼を評価する際には見落としてはならない事実であろう。


義賢の長男で、阿波国を治めた最後の『三好家』大名。
当コーナーでも義賢の後継者として登場し、叔父・十河一存に付いて領内各地を
転戦するが、政治38戦闘53采配47智謀29という低能力は
父義賢でなくても一抹の不安を抱かずには居られない。後方の留守居役確定か。(泣




十河存保ソゴウマサヤス (1554〜1586)
長慶の次弟・三好義賢の次男で、通称孫六郎。官途は隼人正・阿波守・民部大輔。
初めは名乗りを義堅ヨシカタと称した。名乗りの読みは『ながやす』とする説もあるが、
彼の名乗りを別に『正安』『政泰』と表記する資料書籍もあるので、当項では『まさやす』説を推す事とする。

1563年、三好長慶の嫡男・義興が病没し、その継嗣に讃岐十河家当主・義継が入ったため、
義継に替わって十河家総領を継ぐ。その後は讃岐十河城サヌキ ソゴウジョウ を本拠とし、勢力維持に努めた。

1570年に三好三人衆が摂津中島城に拠って野田・福島に砦を築くと
軍を引き連れ畿内に上陸し三好三人衆とともに織田信長に対抗したが、1573年に降伏。
その際に信長より『三好義継の拠る河内若江城を攻略すれば、河内半国を与える』と約束されたが、
若江城は若江三人衆の裏切りにより自落、畿内の三好宗家は半壊滅状態となる。

この頃より三好家は土佐の戦国大名・長宗我部元親チョウソカベモトチカによる
侵略を受け、阿波・讃岐を席捲されていった。
存保は一族の長老・三好康長や阿波三好家総領である実兄・三好長治らと連携し抗戦するが
1577年に三好長治が細川真之ホソカワサネユキにより自害に追い込まれると
以後は存保が三好家総領を継承、四国戦線における三好軍の総大将となった。

1578年より存保は畿内から阿波に渡海して阿波勝瑞城アワ ショウズイジョウ に入り、長宗我部軍に抵抗したが
1580年にかつての姻族・一宮成助イチノミヤシゲスケのため勝瑞城を逐われて讃岐へ退去。
しかし、翌1581年には三好康長軍と連携して勝瑞城を奪還、一宮成助・細川真之軍を攻めた。

1582年になると、長宗我部家の阿波侵略を半ば黙認していた織田信長が突如としてこれを翻し
三男・神戸信孝カンベノブタカを総大将、重臣・丹羽長秀ニワナガヒデを軍目付とする四国征伐軍を編成。
存保は自らこの先鋒軍を申し出、三好康長らと共に先発隊として阿波へ侵攻したが
本能寺のにより全ては水泡に帰し、康長は阿波を退去。

この時勢を読み取った長宗我部元親は2万3千の軍勢を率いて阿波に侵入、
海南沿いの軍と中富川(現・吉野川)沿いの軍の二手に分かれて一気に阿波勝瑞城を陥しめようとした。
存保は5千の兵を率いて中富川沿岸に出陣し、これを迎え撃った(中富川の合戦 ナカトミガワノカッセン)

しかし、頼みの綱である上方は本能寺の変で大きく揺れ動いており支援は絶望的。
押し捲られた存保は、勝瑞城で二十日間の篭城戦の末に矢尽き刀折れ、
讃岐へ退去する事となった。

1584年、長宗我部元親は織田信長の後継者の一人である北陸の雄・柴田勝家シバタカツイエと誼を通じ
讃岐へ侵攻。これに対し存保は織田家のもう一方の後継者・羽柴秀吉ハシバヒデヨシ
(のちの豊臣吉トヨトミヒデヨシ)に応援を求め、仙石秀久・小西行長らの援軍、
浅野長政による兵糧支援を得たが、長宗我部軍の勢いは止められず
讃岐十河城・虎丸城トラマルジョウを失陥。存保は京畿へと逃れた。

1585年、信長の後継者たる地位を確立した羽柴秀吉は、弟・秀長ヒデナガを総大将とする
総勢11万の四国征伐軍を。存保もこれに参加し奮闘、
戦後讃岐十河城三万石の領主に返り咲き、仙石秀久の与力となる。

しかし。三好家総領として何とか家名と保ったかに見えた存保に、死の影が迫っていた。
1586年、豊後の戦国大名・大友宗麟オオトモソウリンが薩摩の島津義久シマヅヨシヒサの猛攻を受け、
耐え切れないと判断した宗麟は豊臣秀吉に救援を要請。
この報を受けた秀吉は九州征伐軍を編成、中国の太守・毛利輝元モウリテルモトや四国の諸大名を中心とした
先鋒軍を九州に差し向けた。存保もこれに付随して仙石秀久・長宗我部元親らと渡海する。

仙石秀久を総大将とする四国軍は大友宗麟の要請を受け、島津家久シマヅイエヒサに攻められていた
豊後鶴ヶ城ブンゴ ツルガジョウ の救援に向かい、豊後戸次川ブンゴ ベッキガワ に布陣した。
待ち受ける島津軍に連戦連勝し、気を良くした軍監・仙石秀久は一気に鶴ヶ城への進軍を採択。
長宗我部元親は慎重論を唱えたが、四国征伐で仇怨のある秀久はこれに耳を貸さず、
同じく仇怨の間柄である存保も秀久に同調して慎重論を一蹴。

結局、これが裏目に出てしまい仙石秀久率いる四国軍は
島津軍お得意の伏兵戦法り野伏せ)に遭い大敗。
軍監・仙石秀久軍は真っ先に遁走し、存保は長宗我部元親軍とその穴埋めに奮戦するが
勢いに乗る島津軍に押し斬られ、敢え無く戦死を遂げた。享年33歳。

この合戦で長宗我部元親は溺愛していた嫡男・信親ノブチカを失い、仙石秀久は所領を没収。
十河存保亡き後の十河家には、改易(御家断絶)の沙汰が下された。

此れを以て、
かつて畿内を牛耳り、将軍・管領すらも傀儡とした戦国時代の仇花・阿波三好家は滅亡を遂げた。


義賢の次男で、戦国大名三好家の最後を飾る二代目『鬼十河』。
当コーナーでも養父・十河一存率いる戦闘集団『讃岐衆』の一員として各地を転戦する。
戦闘57采配68という能力は"鬼"と名乗るにはちょいとばかり不甲斐無いが、
それでも彼は次世代のホープである。周りの次世代を見る限りでは。(爆
果たして彼の咆哮は、新しい時代を切り開くことが出来るであろうかっ。






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