紹介 敵対勢力 〜ぶしょうしょうかい てきたいせいりょく〜

 

 

 


 


細川晴元 ホソカワハルモト (1514〜1563)



木沢長政 キザワナガマサ (????〜1542)
総州家河内畠山家家臣。官途は左京亮サキョウノスケ。
足利将軍家から見れば陪臣に当たるが、その権勢は主君である河内畠山家を優に凌ぎ、
管領細川家の畿内支配にも大きく影響を与えた。長慶の父の三人のうちの一人。

応仁の乱以降、幕府を牛耳った管領・細川政元ホソカワマサモト死後、政元の三人の養子たち
(細川澄元ホソカワスミモト・同 澄之スミユキ・同 高国タカクニ)らが
後継者争いを始めると、細川高国、細川晴国ホソカワハルクニと陣営を転々とし
1531年1月には京都においてその高国方と戦っている。
1531年には高国党の細川尹賢ホソカワタダカタ を摂津富田に滅ぼし、河内飯盛城カワチ イイモリジョウ城主となる。

1532年に主家である畠山義英・義堯ハタケヤマヨシヒデ・ヨシタカ父子に攻められるが
細川晴元ホソカワハルモト と共に逆襲してこれを自刃に追い込み、主家の勢力を失墜させるに至った。

戦国時代とは云え、将軍家の御膝元である畿内に於いて
三管領家の一角である総州家河内畠山家の総領が家臣に下克上されたのである。
木沢長政の名は、稀代の梟雄として天下に鳴り響いた。
さらに長政らは堺へ進撃し、長慶の父・三好元長ミヨシモトナガを堺顕本寺に包囲して自せしめた。
1536年には大和信貴山城ヤマト シギサンジョウ を築き、1541年には山城笠置城ヤマシロ カサギジョウ を
修築して居城とし、畿内一円に威勢を張った。

しかし、やがてその大勢力は時の管領・細川晴元にも無視できないものとなったため遂に両者は対立、
1541年には京都を窺って年末には晴元から討伐令が出されるに至った。

晴元軍との戦いに優劣がつかないまま迎えた1542年、
既に自身の手に掌握していた主家・河内畠山家で内乱が起き、長政が傀儡として擁立していた
河内畠山家総領・畠山政国ハタケヤママサクニ が追放されるという事件が起きた。
長政は政国を助けて畠山稙長ハタケヤマタネナガ を高屋城に攻めたが
三好政長ミヨシマサナガ・三好長慶らの迎撃に遭い、河内太平寺カワチ タイヘイジにて戦死を遂げた。

彼は長慶の父元長を死に追いやった仇役ではあるが、実は
長慶を細川晴元に紹介し被官として斡旋してやったのは、何と木沢長政である。(1534年)
政敵の、しかも自身が死に追いやった男の息子を殺すこと無く仕官の世話までしてやった
長政は父の仇と同時に命のでもなるわけだが、彼の死後遺領は尽く細川・三好家に帰し
木沢家は没落。以降、歴史の表舞台に立つことは無かった。

主君を殺し主家を蔑ろにし思うままに権力を振るったものの、最後は
かつて討った男の倅に討ち取られて生涯を終えた、戦国時代前半最大の梟雄。
言わば長慶や松永弾正の先輩格となる人物だが、如何せん登場時期が早すぎた。
当コーナーでも当然出番は無く、そもそも本作『烈風伝』には登場すらしないのだが
長慶の生涯に大きな影響を与えた人物である為、掲載とした。(顔グラは『嵐世記』。)




三好政長 ミヨシマサナガ (1508〜1549)
管領細川家家臣。三好勝時の嫡男。通称神五郎ジンゴロウ、官途は越後守(資料書籍によっては越前守)。
入道して半隠斎宗三 ハンインサイソウサン と号し、一般にはこの三好宗三ミヨシソウサン の通称で知られる。
細川晴元の腹心的重臣であり、長慶の父の三人のうちの一人。

当初は長慶の父・三好元長らとともに細川晴元政権の確立に尽力し、晴元の政敵であった
管領細川高国・足利義晴方と争い、1527年には足利義維アシカガヨシコレ(義晴の弟)を擁して
元長や兄・勝長カツナガ、柳本賢治ヤナギモトカタハル らとともに高国・若狭守護職武田元光タケダモトミツ らを
洛西桂川に撃破し、翌1528年には将軍義晴を近江坂本に追放。
これにより、足利義維を将軍とする堺幕府サカイバクフを形成するに至った。

しかし1529年には早くも三好元長と権力闘争を勃発し柳本賢治と共に元長を阿波に追放。
だが、今度は前管領細川高国方の勢力が盛り返し晴元が元長に救援を求めると元の鞘に納まり
摂津天王寺において共に細川高国を撃破、これを捕らえて切腹に追い込んだ。(大物崩れ。)

しかし政敵高国が死去し外敵の脅威が去ると堺幕府内に於ける権力闘争が再燃し、政長は元長と再び対立。
元長がもう一方の政敵である木沢長政を摂津飯盛城に攻めると、晴元に讒訴して挙兵、
畿内を席巻していた一向一揆とも結んで元長を攻撃し、ついに堺顕本寺に追い込み敗せしめた。
以降、政長は三好家の総領的地位に就き、幼少の長慶を優に凌駕する勢力を有する事となった。

1533年には摂津榎並城セッツ エナミジョウ を築いて居城とし、摂津東成郡随一の堅城として勢力を維持したが
長慶が成長し、勢力を拡大してくると晴元政権内での対立が深刻化。政長も次第に圧迫を受けるようになり
1544年に嫡男・政勝マサカツに家督を譲って隠居、居城榎並城に退去した。

しかし1546年、長慶は晴元の政敵である細川氏綱ホソカワウジツナ(細川高国の養嗣子)・
畠山高政ハタケヤマタカマサ ・遊佐長教ユサナガノリ らと結んで亡父元長の仇・政長を追討せんと遂に挙兵。
政長はこれと合戦のすえ一度は撃破し、勝利をおさめたが1548年には再び長慶と戦って敗北。
1549年に摂津江口の合戦で三度戦って遂に討死、その首級は長慶の四弟
十河一存ソゴウカズマサに 挙げられた。享年42歳。
その死後嫡男の三好政勝は丹波に逃れ晴元方勢力と結び、長く長慶方と争う事になる。

幕府内で同じ三好一族や多くの政敵と泥沼の権力闘争を演じ、典型的な乱世の梟雄として一生を終えた
政長であるが、堺の会合衆との交流を結び、武野紹鴎タケノジョウオウ に師事して茶道を学んで
多くの名物茶器を所蔵し、境でも屈指の数奇屋として名を上げた風流人でもあった。

かつて足利義満が秘蔵した大名物で後に松永久秀が一千貫で購入し、織田信長に献上した
"唐物九十九髪茄子 カラモノツクモガミナスビ"の茶入も元々は三好宗三政長の所蔵であり、
その織田信長が後に桶狭間の合戦で今川義元から奪い取った佩刀『宗三左文字』ソウサンサモンジ も
政長の佩刀であり、甲斐の武田信虎タケダノブトラ の嫡男・晴信(ハルノブ。後の武田)の
結婚祝儀として贈ったものである。(後に左文字は三国同盟の際祝儀として今川に贈られた。

長慶の父・元長を讒訴して死に追いやった元凶たる姦物だが
幼少の長慶兄弟を軽んじて放置した結果、因果応報を絵に描いたような敵討ちを
喰らって撃沈してしまった。ある意味とても絵にしやすい長慶の政敵であるが、
生没年を見る限りでは本編「長慶公戦記」には出番が無い、困った人物である。
本作・烈風伝には1546年開始のシナリオ0『信長元服』に登場するが、何と
仇敵の筈の長慶と細川晴元家臣として呉越同舟している。何てこったい。(´;ω;`)




畠山高政 ハタケヤマタカマサ (1527〜1576)
河内守護職・畠山政国ハタケヤママサクニの次男で、応仁の乱の原因となった畠山政長ハタケヤママサナガの
曾孫であるとされるが、近年の研究では畠山家の系図には混乱があるとして異説も多い。

通称は次郎、官途は修理亮・尾張守・紀伊守・播磨守。
名乗りの『高』は室町幕府第11代将軍・足利義高アシカガヨシタカ(のち義澄ヨシズミ)の偏諱と思われる。
河内高屋城カワチ タカヤジョウ を居城とし1552年に父政国より家督を後継、
長慶と管領・細川晴元ホソカワハルモトが争いを始めると管領方について三好長慶らと争った。

1553年に長慶が上洛し三好政権を樹立すると河内国を捨てて紀伊に退去するが
1559年に長慶と河内守護代・遊佐長教ユサナガノリが争うと隙をついて高屋城を奪還。
1562年には和泉久米田で長慶の次弟・三好義賢ミヨシヨシカタを敗させて京都へ進撃、
長慶の居城河内飯盛城カワチ イイモリジョウを包囲するが、三好義興・松永久秀軍に敗れた(教興寺合戦)。

1568年に織田信長オダノブナガが将軍足利義昭アシカガヨシアキを奉じて入京すると、
これに降って河内半国守護職と知行を安堵された。

その後も、信長の影響力を利用して家臣団を良く抑えたが、
1569年に家臣・遊佐信教ユサノブノリの専横を憎んでこれを除こうとして失敗し紀伊へ逃亡。
その後も畿内に動乱が起きるとそれに乗じて高屋城奪還に動くが敗北、
結局故地を奪還することなく、1576年に紀伊岩室城キイ イワムロジョウ で没した。享年50歳。

彼の死を以て河内畠山家は滅亡とされたが、子孫は江戸幕府に仕え旗本となり
高家(コウケ。朝廷関係の儀礼をつかさどる家)に列せられた。

かつて管領職を歴任した名門・畠山家も乱世に飲まれて零落。
長慶の次弟・義賢を討ち取っているので三好家凋落の一因を造った人物とも言えるが
実は討ち取ったのは高政軍ではなく紀伊の鉄砲傭兵集団・根来衆であり
しかもその銃弾は流れ弾であったというのだから、強いのやら弱いのやら。(苦笑
ゲームでも紀伊手取城に拠る独立勢力として登場するが、システム上の都合
其の独立勢力の長は遊佐信教になっている。・・・嗚呼、無情。



六角定頼 ロッカクサダヨリ (1495〜1552)



足利義輝 アシカガヨシテル (1536〜1565)




三好政勝 ミヨシマサカツ (1536〜1631)
管領細川家家臣。長慶の敵・三好宗三政長男。官途は右衛門大夫ウエモンタイフ・因幡守イナバノカミ。
一任斎為三 イチニンサイイサン と号する。一説によると三好政康は実兄であるとも云う。

1544年に父・宗三政長の隠居を受けて家督を相続し摂津榎並城セッツ エナミジョウ 城主となるが
1549年に政長が江口の合戦に敗北し、長慶兄弟によってたれると摂津榎並城を退去。
のち丹波宇津城タンバ ウヅジョウ に拠って長慶方に抵抗した。

1551年に幕臣・伊勢貞孝イセサダタカ邸に招待された長慶が将軍・足利義輝の刺客に襲われ負傷すると
その直後に丹波の豪族で反長慶派である波多野晴通軍と共に京に進軍したが、長慶軍に撃退されている。
また、河内畠山家家臣で長慶の岳父である実力者・遊佐長教が高屋城で暗殺され、
畠山家で内紛が勃発すると再び京に進軍し、畿内の三好家統治を散々に混乱させている。

1553年、長慶方で丹波国の実力者であった丹波守護代・内藤国貞ナイトウクニサダ が
松永久秀らとともに晴元方の波多野晴通を攻めると、政勝は晴元重臣・香西元成コウザイモトナリ らと共に
波多野方を赴援。これを撃退して逆に国貞の居城・丹波八木城タンバ ヤギジョウ を襲撃して
これを見事落城させ、内藤国貞を戦死に追い込む大功を挙げている。

(余談だが、八木城は敗残の内藤軍を纏め上げた松永久秀の実弟・松永長頼マツナガナガヨリ
たった一日で奪回されている。長頼は軍事活動に関しては久秀以上で、右腕とも呼ばれた有為の人物だが
とても知名度が低い、知られざる逸材の一人である。今後当コーナーで取り上げてみたい。)

上記の通り徹底した反長慶派として歴戦した政勝だが、長慶死後は同政権を継承した三好三人衆と和解。
三好三人衆の与力となり、三好家の勢力維持に尽力する。
しかし、1568年に織田信長が上洛すると当初は三好三人衆に与力し野田ノダ・福島フクシマ両城砦に詰めて
本願寺門徒衆と連携、信長軍に対抗したが
1570年に香西越後守コウザイエチゴノカミ らと共に信長に降り、摂津豊島郡セッツ テシマグン に知行を得た。

その後は豊臣秀吉、次いで徳川家康と時代時代の実力者の元に仕官し、数々の合戦に出陣。
1600年には関ヶ原合戦の発端となった会津征伐に従軍し、戦後河内讃良郡・河内郡・錦部郡において
二千二十石余の所領を得るが、大名(ダイミョウ。1万石以上の所領を持つ者。)には程遠いものであった。

1615年、78の身で元和偃武、即ち大坂夏の陣・冬の陣にも徳川方として従軍。
大坂城に詰める兄・三好政康と袂を分ち、大名となるべく最後の奮闘を見せるが
その夢は叶わず享年96歳にて死去。その子孫は江戸幕府旗本となって家名を後の世に残した。

長慶の仇敵・三好宗三の嫡男として生れ落ちたが為に、その半生を
強硬な反長慶派として生きた三好一族の異端児にして、戦国三好家最後の生き残り。
その生き様はかの真田十勇士・三好為三入道のモデルともなった(彼は徳川方だが)。
当コーナーでも当初は摂津伊丹城に拠る独立勢力・伊丹親興の部下として登場。
長慶とは一線を隔す立場であったが、第三話でその親興が三好家に降伏。
以降は三好家一門衆となって元の鞘に納まっている。当人は複雑な心境であろう。



織田信長 オダノブナガ (1533〜1582)






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