公戦記 第五話〜ちょうけいこうせんき だいごわ〜

 

『本願寺家、瓦解す。』

 

 


 

  受ける受けないはこの際置いといてイカす!戦の歌突っ込みシリーズA !!
     ニ曲目、エントリーナンバー2番は誰やっ、一発ぶちかましたれやッ!
 二番、徳島県三好郡出身、三好下野守政康ッ。
     野口五郎の『私鉄沿線』を唄うけんのう!!(客席から『ゴローちゃーん!』と黄色い声)

 (*=ヮ=) ♪たんたんたんたんたんたん たんたた〜 
     たんたたんたた〜 たんたんたんたた〜 たらたらたらたん たんた〜
(イントロ)
 ♪改札口で のコト〜
       いつも〜待った ものでしィたぁあ〜
  電車ぁの 中から 降りて 来ぅる  
     君を すのが好きでした〜♪



 

 …それって、ただのストーカーじゃない。





 最近の若いは、二言目にはすぐコレじゃあッ!!!
                                    (床にマイクを叩きつけて憤慨。)
 最近の若い娘に’75年のヒット曲を唄って聞かせる、アンタが悪い。
(;゚д゚)y-~~ 



<<1563年6月 三好家の戦略です。>>

三好家の本拠地・河内高屋城カワチ タカヤジョウ の南に位置する、河内岸和田城カワチ キシワダジョウ。
この城は、今まで幾度と無く紀伊の本願寺家の攻撃に曝されて来た三好家戦線でも
有数の激戦地であったが、合戦が起こるたびに讃岐衆を率いる『鬼十河』こと長慶の四弟・
十河一存ソゴウカズマサが勇躍、敵を撃退し続けてきた。
同年4月にも、本願寺門跡である顕如が直々に指揮する2700余の軍勢が押し寄せたが
一存は自ら重藤弓を振り絞って此れに応戦、見事敵を撃退することに成功していた。

四国戦線は落ち着いており、長慶から『紀伊攻略を目標とする』という下知も飛んだため
一存は養子の存保や麾下の讃岐衆を従えて岸和田城に残留。
戦支度を整えつつ本願寺家の動向を窺っていたが、顕如は紀伊門徒衆に檄を飛ばして守備を固め、
紀伊国本城・雑賀城には蟻の攻め入る隙すら見せる様子が無かった。

何時終わるとも知れない根競べに鬼十河が堪忍しかねていた、そんな、ある日のこと─。

 【新開実綱】シンガイサネツナ
     讃岐守(サヌキノカミ。一存の受領名。)様。今、早馬から報告が入り申した。
     本願寺顕如が自ら兵3700余を率いて、紀伊雑賀城キイ サイカジョウ を出陣したとの事でござる。
 む…そうか。顕如の奴ばらめ、懲りずにまたこの城を窺おうという魂胆か。
     実綱よ、直ぐに麾下の兵に下知を出せ。篭城の準備じゃ。
 それが、顕如の軍勢は雑賀城より出陣後、進路を南に取り申した。
     どうやら、彼奴らの狙いは紀伊の南、手取城テドリジョウ を支配する独立勢力・
     遊佐信教ユサノブノリを屈服させる事のようでござる。
 ほう?【合戦】はおろか、【開発】【外交】すら行えない【独立勢力】に、
     そこまで目くじらを立てる事も無いと思うがのう・・・。
     さては顕如め、紀伊国を完全に支配下に置く腹積もりか。・・・して実綱よ、
     顕如が出陣した後、紀伊雑賀城の留守居役を任された将は誰ぞ。
 いません。
 ・・・(゜Д。)?・・・いません、とは、JR土讃線の親戚か?
     そういうローカルネタをネット上でやっちゃいかんと、日頃から長慶兄者も言っとるじゃろうが。
     冗談というのは、時と場合を考えて言うもんだッ。
 いや、冗談ではござりませぬぞ。
     顕如は、紀伊雑賀城に一人の留守居役も置かず、全軍で出撃した のでござりまする。
 ・・・(´・ω・`;)・・・。
     冬康兄者は、日頃から顕如の事を『畿内最大の傑物』と賞賛するが
     儂には、戦略眼の無いただの生臭坊主としか思えんがのう・・・。(汗

     ・・・まぁ良いわ。顕如が紀伊国の本城・雑賀城を易々とくれてやると言っとるのだし
     ここはひとつ、我らが讃岐衆の手柄としておこう。実綱、出陣の準備をいたせッ!


かくして一存は、麾下の讃岐衆3300余を引き連れ河内岸和田城を出陣。
同年8月には紀伊雑賀城前に布陣し城を包囲、城攻めの陣立てを開始した。
この動きを見た本願寺顕如は、早々に手取城城主・遊佐信教を屈服させた後
同城を出立し雑賀城に入城し、陣頭指揮の構えを見せ、
同時に下間頼廉ら3300余の兵を手取城から出陣させ、三好家の大和高取山城を
衝かせる策を取った。十河軍の目を高取山城に向ける為である。

しかし、高取山城城代・七条兼仲シチジョウカネナカは京洛の長慶に向けて援軍を要請。
これを受けた長慶は三好義賢・安宅冬康率いる兵2500余を高取山に派遣し、
河内高屋城カワチ タカヤジョウ より島1000丁を輸送、迎撃の末これを討ち破った。

これを以て顕如の目論みは破綻し、雑賀城も十河隊の猛攻の前に失陥。
命からがら城内から逃げ延びた顕如は、敗残兵と門徒衆を引き連れ
雑賀城の東、紀伊の支城である紀伊根来城に向けて遁走する。

しかし、十河隊の勢いは止まらない。一存は根来城の備えが手薄と見るや
讃岐衆を引き連れ休む間も無く出陣、これを陥落させた。

 神に会うては神を斬り、仏に会ては仏を斬るッ!!!
     征くぞ野郎共ッ。あれに見える似非生き仏どもに、今の世が
     仏の慈悲では救えぬ戦国乱世であるコトを思い知らせてやれやーッ!!!
 【本願寺顕如】ホンガンジケンニョ
     ・・・おのれ口惜しや。かような事で、一揆持ちの国が・・・。
     現世の極楽浄土が灰燼に帰するとはッ。。・・・覚えておれよ十河一存、
     貴様は仏敵じゃ、死した後は無間地獄に堕ちる者と思うがいいッ!!!
 はン!其の言葉は、儂ら讃岐衆には脅しにならぬッ。
     儂らを誰だと思っておるッ!?数多の首供養を経て、合戦場に命を賭するいくさ人ぞッ。
     今さら、冥土で九品蓮台に達しようなどと云う浅ましい欲は持っておらぬわ。
     その儂等に向かって「仏敵」じゃと?何を今さら!4半世紀ほど言うのが遅いわッ!!
     野郎共、笑い飛ばしてやれや!(゜∀゜)
 合点!片腹痛くて正露丸トーイAたぁこの事でさぁ!

顕如は雑賀城・根来城の門徒衆を纏め上げると、元居た手取城に向けて撤退。
かくして、本願寺家の紀伊支配は瞬く間に瓦解に至ったのであった。



<<1563年10月 三好家の戦略です。>>

一方この頃、諸領内を視察していた長慶は8月に阿波淡路、10月には讃岐の守護職を自称。
他国の諸侯に三好家の威光を強く見せ付けていた。
また、叔父の笑岩(三好康長ミヨシヤスナガ)や嫡男の義興ヨシオキ、娘の真琴マコトらに朝廷工作を指示し
同月に従四位下・左近衛中将ジュヨンミノゲ サコノエチュウジョウ の官位を拝命。
三好家の【威信】は四海に広まり、周辺大名を圧迫させ始めていた。

鬼十河の勇武も紀伊の本願寺勢を圧倒し、紀伊国切り取りも目前と迫った10月。
古くから三好家に反抗する大大名で、南近江国守護職を務める名門・六角家に異変が起きた。

血気盛んな若き六角家総領・六角ロッカクヨシハル が
六角家筆頭家老職として家臣団の信頼を集め、『六角の両藤』と謳われた名将である
重臣・後藤ゴトウカタトヨ を『ウザいから。(゜Д゜)という理由だけで、してしまったのである。
これに反発した家臣団は賢豊の遺児・高治タカハル を旗頭として一斉に蜂起し、
六角家家中は大混乱に陥った。(イベント『観音寺騒動』)
     


家臣団の予想以上の猛反発に驚愕し、身の危険を感じた義治は
北近江の浅井家を滅ぼす大功を挙げ、小谷城オダニジョウ の城主となっていた
老臣・蒲生定秀ガモウサダヒデ (高名な蒲生氏郷ガモウウジサト の祖父)に泣きついて事の収拾を依頼。
定秀の説得により騒動はようやく治まりはしたものの
六角家の、家臣団に対する求心力は急速に失われてしまう。(イベント終了後、六角家家臣団の忠誠度低下。)

 六角の青二才奴、馬脚を現しおったな。・・・これで、次の目標は決まりじゃな。
 御意。十河軍は紀伊戦線において無敵の快進撃を続けておりますれば、
     紀伊における本願寺軍を掃討するのは時間の問題でござりましょう。
     早々に紀伊平定を実現させ、軍を返して六角家討伐軍を編成いたしましょうぞ。
 うむ。冬康の言いや良し。
     政康よ、紀伊雑賀城に駐屯する一存に早馬を出せ。
     『いそぎ、紀伊国を攻略し河内高屋城カワチ タカヤジョウ に帰還せよ』とな。
 へい、御館様ッ。(´・ω・`)ノ



<<1564年1月 三好家の戦略です。>>

明けて正月。長慶の下に、一報の朗報が届いた。 伊賀上野城イガ ウエノジョウ (註・『烈風伝』では伊勢志摩)
独立勢力で、伊賀忍軍の頭領であった三太夫 モモチサンダユウ が
三好家宿老・三好康長の説得に応じ同城を明け渡し、三好家に臣下の礼を取ったとの事だった。

三太夫は戦闘90智謀90足軽適正、職業【者】という畿内随一の名将であり、
長慶は彼が高屋城に登城するや否や、駆け寄ってその手を取り、
其の帰参を事の他喜んだのであった。

 【百地三太夫】モモチサンダユウ
     『忍びが主持ちになるとは牙抜かれた証左』、と巷では
     我ら伊賀衆を蔑む声があるようでござるが、我ら伊賀衆一同、三好殿こそが
     室町殿を継ぐ次の天下人であると確信し、馳せ参じた次第にござりまする。
     以後、お引き回しのほどを・・・。


翌月になると、伊勢亀山城イセ カメヤマジョウ の独立勢力である関盛信セキモリノブ が
伊賀衆の三好家帰参に動揺し、真琴の【取込】要求をあっさりと受諾。
同城を三好家に明け渡し、三好家の傘下に入る旨の誓詞を差し出した。

同月には、長慶の下知を受けた讃岐衆率いる十河一存隊が
紀伊国内に残る本願寺家最後の拠点・紀伊手取城キイテドリジョウを攻略。
本願寺門跡・本願寺顕如は加賀御山御坊カガオヤマゴボウに退去させ、これを以て
畿内における一向一揆勢力を全て駆逐せしめた。

 【本願寺顕如】ホンガンジケンニョ
     ウヌヌ・・・おのれ三好長慶め、仏罰を恐れぬ其の所業、許しがたし!!
 【一向宗門徒衆】イッコウシュウ モントシュウ
     法主様、十河隊の追撃が迫っておりまする!この場は我らが持ちこたえる故
     早う加賀国の御山御坊に退去なされませ!最早、紀伊国は持ちませぬッ!!!
  【十河存保】ソゴウマサヤス
     おお、あれに見えるは破戒坊主共の頭領・本願寺顕如じゃ!!
     皆の者ッ。彼奴を取り逃がしては、三好家の畿内統治に大きな障害となろうッ。
     この場で絡め捕って、讃岐衆の武名を天下に鳴り響かせるのじゃぁぁあッ!
 開山親鸞聖人より続く浄土真宗の法燈を、今ここで絶やしてはならん!!
     門徒衆は身命を省みず忠節を果たせッ!・・・進む者は極楽、退く者は堕地獄ぞッ!!!

 南無阿弥陀 南無阿弥陀 南無阿弥陀ッ!!!


十河隊の猛追は惜しくも顕如捕縛までには届かなかったが、筒井順慶ツツイジュンケイ ら
本願寺家家臣3名を捕縛せしめ、三好家に降らせる事に成功。
此れを以て、三好家の紀伊国切り取りは見事成功裏に終わることとなった。



<<1564年4月 三好家の戦略です。>>

三好家に、ある人物の訃報がもたらされた。
その男の名は、細川 右京大夫  ホソカワ ウキョウダイフ ハルモト と云った。

 【細川晴元】ホソカワハルモト

長慶にとって、父・元長モトナガを討った仇敵であり、かつ最大の好敵手であった男。
長慶の半生は、彼に抗う勢力を築き上げ、彼を討つ為に費やされたと
言っても、過言では無かった。

晴元は1561年暮れに長慶の上洛を阻んで敗北し、居城・高槻城タカツキジョウ を失陥。
同じ旧・室町幕府の重鎮で「四職」シシキ に列せられた播磨国の名門・松家を頼って
落ち延び、三好家への反撃を伺っていたが、赤松家総領・赤松義祐アカマツヨシスケ に
その気概は無く、所領の美作国・播磨国を維持するだけで精一杯と云った状況であった。

晴元の姻戚である六角義治は御家騒動で瓦解し、女婿の朝倉義景は上洛の志無し。
三好家に反撃する力の無い境遇を嘆きながら、彼は静かに
美作津山城ミマサカ ツヤマジョウ で息を引き取ったのだった──。享年51歳。

 ・・・そうか、晴元奴が逝きよったか・・・。

     若年の頃より、何時の日か彼奴の首に縄打って亡き父の墓前に引っ立ててやらんと
     今日の日まで幾つもの戦場を駆け抜けてきたが・・・最早、それも叶わぬ夢となったか・・・。
 ・・・長慶兄ぃ、そう気を落すなヨ。(;´・ω・`)ノシ
     管領細川家の総領は、彼奴の嫡男・細川ホソカワアキモト が継いだという話だが
     あれは父に似ぬ暗愚の器との評判だぞ。赤松家攻略の折には、
     かの者をひっ捕らえて縄打ち、京洛中を引き回してやろうじゃないカ。
 義賢兄者の言う通りじゃ!父御が討たれた時、俺はまだほんの子供であったが
     血を吐く様な想いで細川家に臣従することを決断した長慶兄者の瞳(め)を、
     父を失う事で送った不遇を、長々しき堪忍の日々を昨日の事の様に覚えておるぞッ。
     彼奴の子や孫に、同様の仕打ちをせん限り我等の復讐はおわらぬぞ!
     違うか、冬康兄者!!
 一存の言いや良しッ。御館様、今は落胆している場合ではござりませぬぞ!
     畿内はほぼ掌握したとは言え、東海道では織田オダノブナガ が勢力を拡大し
     東山道では甲州騎馬軍団を率いる甲斐の虎・武田タケダシンゲンが、
     関東以北では管領上杉家が諸豪族を討ち従え、大勢力を築いておりまするッ。

     ・・・未だ日ノ本は戦乱の最中にござりますれば、
     晴元死した程度で、我等の戦は終わらぬのでござりまするッ!!

 ・・・うむ、そうだな。・・・よくぞ言ってくれた。我が、兄弟達よ。
     かような信頼の置ける、強き弟達を持った長慶は果報者じゃ。・゚・(ノ(,,ェ)`)・゚・。
 御意に、ござりまする。うっわ臭ッ。めっちゃ臭ッッ!!!兄弟愛ごっこ臭ぇぇーッ!!!付き合ってらんねぇぇぇッ!!!!
   40過ぎたオサーンどもが揃いも揃って、家臣団の前でよくもマァ臆面も無くそんな台詞吐けるな。勲章モノだぞ。
(;゚д゚)y-~~)


 よしッ。ならば儂は、三好家を更なる戦場に打ち投じようぞ。

     紀伊国攻略が成った今、当家の本拠地たる摂津・河内を脅かす者は無くなった。
     これで、安心して畿内以東を攻められると言うものだ。・・・さしあたっては、
     観音寺騒動で家内が混乱している六角家・・・近江国の攻略を目標にしたいと思う。
     存念の在る者は、遠慮なく申すがよい。
 観音寺騒動以来、六角家の家臣団に対する求心力は急激に衰えております。
     家臣の多くは忠誠度が30〜40と非常に低く、此れを篭絡しない手はございません。
     特に、南近江宇佐山城ミナミオウミ ウサヤマジョウ を守る城将・磯野員昌イソノカズマサ は
     戦闘74 采配70を誇る猛将で、尚且つ忠誠度が29という状態です。
     六角家攻略前に、何とぞ彼の者の【調略】を御下知下さいませ。

 何を悠長な事を!もはや六角家は家臣団に背反され死に体も同然だ。
     小手先の策など無用!我等讃岐衆に先陣を仰せ頂ければ、たちどころに
     義治の青二才めを虜にして御覧に見せようぞ!!
 一存様、六角家をあんまり甘う見たらあかんじぇ。
     確かに六角家の総領・六角義治は血気に逸るばかりのすかぽんたんやけども、
     彼奴が篭もる居城・南近江観音寺城ミナミオウミ カンノンジジョウ は、何と城塞値160
     六角家の先代・承偵(ジョウテイ。六角義賢。)や先々代・六角定頼サダヨリ が増改築を重ねた
     堅牢振りは、摂津石本願寺セッツ イシヤマホンガンジ や小田原城サガミ オダワラジョウ に並ぶ
     屈指の堅城と評判じゃけん、力攻め一本で落ちる城やと思わんほがええで。(´・ω・`)
 しかしながら、あまり時間は掛けては居られませぬ。
     六角家の弱体化を狙って、若狭武田家美濃斎藤家が近江国への
     侵略を企てることは火を見るより明らか。彼らに先んじて近江を攻略せねば
     近江は泥田の如く、抜き差し為らない戦場になることは必定かと。
 御意。今のところ西部戦線には大きな変動はありませぬが
     長宗我部家や赤松家が動けば、東ばかりにも眼は向けて居れませぬ。

     また、今回当家が新たに得た伊勢亀山城は
     北に一向宗の長島願ナガシマガンショウジ(長島城ナガシマジョウ)
     南からは伊勢の国司大名・北畠キタバタケトモノリが、
     更に伊勢湾を挟んで東には織田が目を光らせておりまする。
     城の周りは平野が広がり敵を遮る物も無い、正しく千里一望の草刈り場。
     遅かれ早かれ、戦火が降りかかることは免れぬかと。

 ・・・ふむ・・・。もはや六角家は我等の敵では無いが、時間は掛けられぬ、か・・・。
     ・・・兵法は神速を尊ぶという。良かろう、今より各将に下知を出すッ。心して聞くがよい。

     弾正、真琴。その方等は六角家に入り込み、出来るだけ多くの敵将を【調略】せよ。
     双方どちらが三好家一の策士か、この長慶しかと見届けようぞ。
 承知仕りました。・・・この松永弾正少忠の手際、とくと御覧あれ。
     ・・・あの程度の如き小娘が儂を出し抜こうなどと、十年と四十九日早いわ。ククク・・・。 ( ゚д゚)y-~~)
 弾正殿、次は後れはとりませんからねッ。(;`・ω・´)シャキーン

 義賢・冬康には将兵6500余を預ける故、南近江・宇佐山城を陥としめよ。
     然る後に北畠家が領する南近江水口城ミナミオウミ ミズグチジョウを攻め、観音寺城を孤立させよ。

     其の間、一存ら讃岐衆は伊勢亀山城に入り城の防禦を固めよ。
     義賢らの軍が水口城を攻め落とせば【街道】が繋がり、
     後方支援が可能となる。其れまで、何としてでも亀山城を死守せよ!

     他の諸将は各自所属城の内政・軍備活動に着手し、前線で戦う義賢・一存軍を支援せよ。
     万が一持久戦になった場合、後方戦力・支援物資輸送が滞る事の無い様に。

     では、今日の評定はこれまでとする。各自、忠勤に励むように。



     
・・・今宵は、ここまでにいたしとうございます。





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