さて、そんな赤髭の愚にもつかない与太話は置くとして…久々に今週は『
勝手に江紀行』を御案内。
赤髭は今年新春
(もう半年近く前になるんですね(
;=`ω=´))、梅の花が咲く頃に大阪市・堺市に出向き、戦国時代随一の自治交易都市だった『堺』の痕跡を求める旅に出かけたことがありました。
旅の目玉は、大河『江』の初期から登場し、江姫が敬慕した戦国の覇者・織田信長に認められ、太閤豊臣秀吉の筆頭茶道・千利休。
一回の茶人ながら政治顧問にまで出世栄達した、豊臣政権の心理的指導者・茶聖千利休の生涯を追うことこそ、大阪府・堺をたずねる旅の第一目的でしたが…そこは太閤豊臣秀吉のお膝元であり、数多くの天下人級の実力者に愛された一大交易都市だった堺のこと。
その歴史の奥深さは当然、たった一回や二回の『勝手に江紀行』でご紹介し切ることが出来ません。
前回は『
堺・大坂戦国歴史案内』と題し、大阪府は堺市を舞台に戦国武将達の残した歴史夢舞台の痕跡を追いかける旅を御案内致しましたが…
今回はその中編、堺の町に今も残る織田信長や豊臣秀吉、そして徳川家康達の歴史史跡を辿っていきたいと思います。
それでは、ご一緒して頂ける方々のお時間を少々拝借。
。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !! ■さて、天下制覇を達成し唯一無二の権力者となった豊臣秀吉(岸谷五朗)も劇中ではいよいよ五十路後半に差し掛かり、信頼していた数多くの親類縁者に先立たれ完全に憔悴してしまいましたが…そんな中でも勢いを失わないのが徳川家康(北大路欣也)。
前回では大河ドラマ『江』でも語られた本能寺の変、その際に逗留していて『神君伊賀越え』の出発拠点となった堺・妙國寺をご案内したのですが…まだまだ堺には家康にまつわる不思議な名所が残っています。
後に武士政権の第三期、二百五十年余にもわたる天下泰平をもたらした江戸幕府を開いた東照大権現・徳川家康の立身出世はこの堺・妙国寺から始まったと説明致しましたが、実はその家康が波乱万丈の生涯を閉じたとされている、いわば終焉の地もまた、この堺に存在するのです。
『え、徳川家康は1616年…江戸徳川幕府の安寧を見届けて、駿府城で死んだんじゃなかったのか?確かほら、天ぷらの食い過ぎで。』ですって?(
;・`ω・´)
はい、いちいちごもっともなご意見ですが…。そこはそれ、事実は小説より奇なりと申しまして…なぜか、その定説に疑問の一石を投じたくなるような伝承がこの堺には残されているのです。
それが、この龍興山-南宗寺(りゅうこうざん-なんしゅうじ)。
前回ご紹介した妙國寺同様、法華宗の古刹として堺でも古い歴史を誇る寺院です。
南宗寺は1557年(弘治三年)、時の幕府管領代(現副総理大臣)で戦国時代きっての実力者だった三好長慶が、亡き父・三好元長の無念を弔い畿内における三好家の菩提寺として建立しました。
妙國寺を開基した三好義賢は長慶の弟であるため、兄弟そろって仏法への信仰が厚かったことが判ります。
なお、この三好長慶の姉の最初の婿が千利休。のちに南宗寺は千利休とも深い関係を持つことになります。
さて、そんな歴代戦国武将に縁故ゆかしい南宗寺の山門をくぐると、まずお出迎えしてくれるのがこの国指定重要文化財・甘露門です。
さすがは堺屈指の古刹、いきなり重文がお出迎えです。以前訪れた和歌山県・根来寺の山門も立派でしたが、こちらも負けていません。
その隣に位置する徳泉院。
こちらは臨済宗の寺院で京都大徳寺の関係にあたるお寺ですが、なぜか南宗寺とは立地関係が似たところとなっているようです。
見事に整備が行き届いた南宗寺の庭園。その隣には千利休の弟子・山上宗二の墓と菩提を弔う『一会塚』が今も残されています。
『御成額札』が掲げられた小さな御堂、『坐雲亭』(ざうんてい)。
この御成額札には、江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠と三代将軍の家光がこの南宗寺を訪れ、参拝したことが記録されています。なぜ天下の公方様がここを訪れたかは後の段で。
──────────────────────────────
戦国乱世百年の混沌に終止符を打った偉大なる征夷大将軍、東照大権現こと徳川家康でござる。
今や我が居城・江戸城はやんごとなき方の居館となり、駿府城は観光名所になり下がったようじゃが…日光東照宮や、この堺の町はまだまだ歴史情緒が残っておるようじゃな、結構結構。
さぁて、さっそくであるが…この記事を読んでおる皆皆にこの家康がひとつ禅問答じゃ。
この南宗寺…三好長慶殿が建立後、十年たたずに松永久秀によって焼亡、再建後も大坂夏の陣の戦火で焼けるなどして散々な目に会っておるが、1617年にも後押しするものがあって再建されておる。都合、二度燃えて三度蘇っておるわけじゃが…。
実はこの寺、本来はここにあるべきではない不思議なものがあるのじゃ。
…んー。まだ問題の途中じゃというにもう判った様な顔をした諸兄姉が居るようじゃの。先に答えを叫ぶなどの野暮はせんようにな。
さて、その『ここにあるべきではない不思議なもの』とは一体何か、以下の三択より答えるが良い。
なに、太閤より選択肢が少ないとな。
…――わしには、筒井康隆が何十年も前に使ったネタを堂々とぱくって我が物顔に扱う(山陽新幹線ネタ)などという厚顔無恥なことは出来んぞ(苦笑。
ヒントは…――そうじゃのう。『おまえはもう、死んでいる。』かの。
@南宗寺は禅寺なのに、なぜか織田信長vs本願寺一向一揆衆の石山合戦で死んだ者の供養塔がある。
A江戸幕府を開き、豊臣家を滅ぼして天下静謐を達成後に駿府で大往生したはずの徳川家康の墓がある。
B大坂夏の陣でほろんだはずの豊臣秀頼の肖像画が保管されている。
──────────────────────────────
…―――家康公も派手なヒントの大判振る舞いやりますね。正解は…。
…『おまえはもう、死んでいる。』といえば北斗の拳、北斗の拳と言えば原哲夫先生、原哲夫先生といえば『影武者徳川家康』。
正解はA、『江戸幕府を開き、豊臣家を滅ぼして天下静謐を達成後に駿府で大往生したはずの家康の墓がある。』です。
なぜか堺・南宗寺には徳川家康の墓とされる無銘の無縁仏が伝承され、今に伝わっているのです。
その縁起は大坂夏の陣のこと。
真田幸村の捨て身の突撃で徳川軍の本陣は崩壊。三方が原合戦以来の窮地におののいた家康は死地を逃れようと遁走し、戦場に落ちていた棺桶に身を潜めたのですが…。
…――人の生き死にが掛った戦場を、足軽に担がれて右往左往する棺桶に疑問を抱いた西軍の後藤又兵衛がそれを見とがめ、棺桶めがけて槍の一撃を御見舞い!!
家康は槍に刺されても息を殺し、そこは難を逃れたのですが…残念ながら槍は致命傷となり、この南宗寺で力尽きて死亡。
家康死去を知られまいとした東軍上層部によって家康の死は隠され、その後は影武者を立てて江戸幕府の成立に尽力した…そんな伝説が残されているのです。
実際、このなんでもない法華宗の寺には先ほども言ったように徳川秀忠・家光ら家康の子と孫がわざわざ上洛途中に立ち寄って参拝しており、それが家康の墓があることのへのなによりの裏付けとされているのですが…―――。
□大坂夏の陣の真田幸村隊突撃は、皆さまご存知の通り最終決戦でも〆中の〆、戦国最後の大舞台最後の大フィナーレ。
後藤又兵衛はその前日に戦死していますから家康を突き殺せるはずがないですし、南宗寺もそのときには戦火で焼けおちて灰燼の黒こげ炭、家康を弔おうにも葬儀が出来ない状況。
なぜ家康討ち死に、影武者説などという荒唐無稽な話が出回ったのかは…昔から敗北した側のヒーローにも同情しやすい気質な日本人のこと、豊臣贔屓の大坂人達が生んだ『ひいきのひきたおし伝説』と見るのが自然でしょう。
実際、大阪城の少し南には、大阪城陥落の際に真田幸村が豊臣秀頼を引き連れて薩摩(現鹿児島県西部)に逃れる際に使ったという秘密の抜け道跡、なんてものまで残されているのです。
さて、話の主題を再び南宗寺に戻しましょう。『御成額礼』が飾られている坐雲亭を少し過ぎた先に見えてくる小さな墓石群。
これこそが、先日に大河『江』でも切腹して表舞台から去って行った侘び寂び茶道の祖・千利休とその子供達の供養塔(お墓)です。
向かって正面が千利休本人の供養塔、右手側が表千家一門、左手側に裏千家一門、そして手前にはこの堺で千利休の作法を連綿と伝えた武者小路千家の一門が眠っています。
千利休は京都の屋敷(現在の清明神社)で切腹し、京都大徳寺に葬られましたが…故郷である堺にも、ゆかりのある南宗寺に供養塔が建てられています。
高名な戦国武将や著名人ともなると、こうしてゆかりの地のあちこちに墓ないし供養塔が建てられ、戦国歴史Fanのお墓参り行脚をたびたび困惑させてくれます。利休の墓として格式が一番高いのは大徳寺聚光院のものですが、こちらは一般非公開になっています。
綺麗に手入れが行き届いた利休とその一門の墓。
茶頭でありながら豊臣秀吉の政治顧問として政治に関与した結果、武人として切腹し生涯の露を散らす数奇な運命を遂げた利休の面影を見るようです。
利休が残した茶室『実相庵』。
その実相庵を取り囲むように配置されているのが涼やかな音色を響かせる水琴窟や利休が愛した袈裟型手水鉢、利休の師・武野紹鴎が残した六地蔵灯篭。いずれも、五百年の時を超えて今も侘び寂びの精神を平成の世に伝えています。
南宗寺には他にも千利休の高弟・古田織部が好んだ枯山水の庭園や、国指定重要文化財に指定されている唐門、釈迦如来を本尊とし天井壁に八方睨みの龍が描かれている仏殿など、多数の見所がある優良な観光スポットです。
妙国寺で寺宝の見学を済ませたら、散歩がてらに寄るのも一興。
■さて、お次は大河『江』で織田信長(豊川悦史)も手にしていた戦国時代の最新兵器・火縄銃を間近に見物できる穴場スポットを御案内しましょう。今でも、堺の職人さん…といえば鍛冶師のこと、街のあちこちには往年の賑わいをしのばせる鍛冶屋敷がいくつかありますが・・・。
そんななかでも特に貴重な思い出を提供してくれるのがこの『堺鉄砲館』。堺市が発行している観光マップでも所在場所くらいしか表示されていませんが、戦国歴史Fanにとっては穴場中の穴場といえる隠れスポット。何せ…。
この平成の御時世となっては、戦国武将や戦国時代に関する町おこしイベントや好事家達の催し物でしか見ることが出来ない火縄銃をまぢかに、しかも手にとって眺めることが出来るんです。
しかも入場料が100円、当然予約や事前申し込みは必要ありません。
もともと火縄銃に限らず各種鍛冶屋の多かった堺の近辺でもその歴史の名残を残す堺町でも、『火縄銃の歴史をもっと色んな人に知ってもらいたい』という館主が個人的に公開を決断。
江戸時代製で、やや織田信長や秀吉時代の火縄銃とは種類が別になりますが、実際に火縄銃をその手に持つことができるというのはある意味貴重な体験です。
持ってみると判りますが、火縄銃は結構重たいです。
実際にこんな重量感のある鉄砲をかついで戦場を駆け回り、いざとなれば敵を殺すつもりで玉込めをして射撃するとなると、かなりの筋力や技術、そして度胸が必要だったろうことは想像に難くありません。
□実際、越後上杉家や大河『江』で初(水川あさみ)が嫁いでいる京極家では『火縄銃を持つ足軽は余計な武器やよろいを持つ必要はない』と軍事掟書に残されています。これは火縄銃の操作に神経を集中させるためだとされています。
阿鼻叫喚響き渡る戦場で、この火縄銃一本を頼りに駆け抜けて行った男達の汗と武勲の匂いが、古式蒼然とした鍛冶屋敷と火縄銃から伝わってくるかのようです。
戦国の覇者・織田信長がその特異性にいち早く着目し支配権を確立、関白太政大臣・豊臣秀吉の権威のもと遠くヨーロッパにまでその富と名誉を知らしめた歴史由緒古き街・堺。
皆さんもぜひ、堺の町を吹き抜ける歴史の風を感じる旅に出かけてみてください。
■と、いうわけで…大河『江
~姫たちの戦国~』に関連する人物やそれにまつわる史跡を大阪府に訪ねる『勝手に江紀行』、いかがだったでしょうか。
織田信長や徳川家康に関する戦国歴史の痕跡は、名古屋や静岡、そして東京に集中していると思われがちですが…こうやって大阪府をよーく観察してみると、思いのほか結構な数が命脈を受け継いでいます。東海まで足を延ばせない信長・秀吉Fanには歴史観光も出来て大阪見物まで出来るというプランは魅力的なのではないでしょうか。
■さて、次回『勝手に江紀行』では、いよいよその死期が近づきつつある金色の覇者、尾張の貧農から我が身一代で関白太政大臣になりあがった奇跡の天下人・豊臣秀吉の栄華と誇りの象徴である『大坂城』を御案内する予定です。
次回のブログ更新に御期待ください。