―――永禄七年(1564年)七月四日、三好長慶(修理大夫)は四十三歳でこの世を去った。
”理世安民”――『道理を以って世を治め、民を安んじた』一代の梟雄は、畿内・中四国地方十カ国の広範囲に渡り約六十四万石の所領、最大六万とも号した大軍勢―――三階菱と釘抜の軍旗を残して、幽冥境を異にしたのだった。
長慶亡き後の三好家長老・三好長逸は、家中の実力者達―――大和国は多聞山城主・松永久秀(弾正少弼)、本国・阿波は上桜城主・篠原長房らと合議し、長慶が没する数日前に家督を相続した僅か十三歳の養嗣子・義継が成長するまでの間、長慶を”病気のため隠居”と偽り、二年間は喪を公表しない事とした。
かくして永禄九年(1566年)六月二十四日、三好長慶の葬儀は河内国・真観寺で盛大に採り行われた。
三好家の本拠地・飯盛城で保存されていた長慶の亡骸は棺に納められ、義継・長逸は勿論のこと参列した畿内各地の古老達も涙で袖を濡らさぬ者は誰一人無く、その長逝を惜しんだという―――。
(細川両家記・足利季世記・鹿苑日録・続応仁後記)
《平成27年10月22日》
■郷土徳島県が生んだ稀代の英雄・
三好長慶の葬儀が行われたという河内真観寺。
三好長慶Fanを自認する周防長戸としては、いつかお参りしたいと思っていましたが…遂にその機会を得ることが出来ました。
かつては広い寺領を誇る大寺院だったそうですが、今は御覧の通り。大都会・大阪は忙しなく、歴史の風化も進んだらしく―――往時を偲ぶような威光は、あまり残されていないようです。
■応永元年(1394年)、時の室町幕府管領・
畠山満家(はたけやまみついえ)が開山に関ったようです。
畠山満家は室町幕府で重要な地位を締める『三管領家』の一角・畠山家の総領で、六代将軍・足利義教の政治顧問。
後に戦国乱世となる銃爪となった応仁の乱で争った畠山義就・政長の祖父。
三好長慶と激しく争い、その弟・実休(三好義賢)を討ち取った河内高屋城主・畠山高政(はたけやまたかまさ)の御先祖様にあたります。
■約450年前、ここで長慶の葬儀が盛大に執り行われました。
一時は主君である足利将軍家・管領細川家を京洛から追い落として”天下人”に君臨した
一代の梟雄、その一方で茶の湯や詩歌文学、禅宗に傾倒した
文化風流人でもあった三好長慶の死を悼む者は数多く、その葬儀には参列者が大勢詰め掛けました。
死後二年間も塩漬けされていた長慶の骸は損壊が痛ましく、それが尚更に威徳を偲ばせ、参列者の涙を誘ったのだとか。(足利季世記)
そして、時は流れて天正元年(1573年)。
長慶の後継者となった
三好義継は歴史に翻弄され、畿内の支配者たる地位から凋落。
松永久秀と共に
”戦国の覇者”織田信長の上洛に協力し、風下に甘んじることとなりました。
織田信長の媒酌により室町幕府十五代将軍・
足利義昭の妹を娶った義継は河内若江城を本拠として活躍するも、後に信長と義昭が仲違いすると義兄である後者に味方する。
激怒した信長は重臣・佐久間信盛に若江城を攻めさせます。
義継が頼みとする腹心・若江三人衆は主君を見捨てて織田家に寝返り、滅亡を悟った義継は妻子を刺し殺した後、自分も十文字腹を切る凄惨な最後を迎え―――。
そして、
養父・長慶が冥る真観寺に葬られたのです。
■さて、三好長慶と義継の墓はどこにあるのでしょう?
真観寺を参拝した先達がインターネットに載せている画像を見た感じ、随分と古めかしい模様。
何せ、
昭和初期まで境内に”埋まっていた”らしく…掘り起こして並べてみたのは良いですが、砂岩で出来た墓石は風化も激しく、遂には
”傾き出した”とか聞いてましたが…?
■見つけました。
今年、平成27年4月に吉日を選んで、狭い塀際にあった二人の墓を改葬し、立派にしたようです。
没後四百数十年目での御弔い、これには泉下の長慶・義継両公も大喜びでしょう。これも近年の戦国時代ブームの賜物、有り難い限りです…。
ありがたい、限りなのですが―――――。
ここで周防長門、小首を傾げました。
立派な御影石の焼香台、供花台…両者の名を刻んだ石碑。
すぐ隣にも、立派な説明碑が立っているのですが…
何 か 変 で す。 ( ・(,,ェ)・)?
■ん、何か見えましたね。
What ( ・(,,ェ)・)?
■危うく、仁和寺の法師になるところでした。違和感の正体は
二 人 の 墓 石 が 無 い
ことだったんです。
――――…ここで周防長門、
厭な予感に思い当たりました。
実を言うとここ数年、
戦国武将の墓や銅像というのは悪戯や盗難の対象になっているのです。
墓石なんて誰が、あるいはバチ当たりなと御思いでしょうが…――古い話しだと、
蒲生氏郷の墓にペンキが塗られた、蜂須賀正勝の墓が突き倒された、蜂須賀正勝の奥さんの墓が盗まれた…等等、割と事例もあることなんです。
直ぐに
真観寺さんに問い合わせのр入れましたが、生憎と留守の模様。
次いで顕彰碑を建立した
八尾市教育委員会にрオてみましたが、こちらもお留守。
最後に
八尾市観光協会に問い合わせたところ、真観寺に長慶・義継の墓があることは知ってましたが、今は存在しないことは初耳だったらしく
『すぐに協会からも真観寺に問い合わせ、判り次第連絡します』という回答を得ました。
( ・(,,ェ)・) 観光協会さんグッジョブ
■折り返し連絡を待つ間、こちらも調べてみたところ
この様な公式文書を発見。
なるほど、もともと二人のお墓は
宝篋印塔(ほうきょういんとう)であって
五輪塔(ごりんとう)ではないとの事。
長い年月を経て、いつしか宝篋印塔の土台部分だけが残り、違う五輪塔の上部分が乗せられてしまってたわけです。
そして真観寺さんも、二人の墓は元あった姿に戻したいとの要望。
ということは、八尾市観光協会が得てくる返答は…。
『お墓は修理に出ているそうです。
三重県の方に修復が出来る技術者がいらっしゃって、そちらに預けてあるとのことで…―――今年の十一月に帰って来る予定だとか。』
―――…はい、推察通りの結果でした。
今回は旅行を計画したのに空振り、という冴えない結果に終わりましたが…もっと立派になって帰って来るようですので、また機会を見て三好長慶・義継公の御墓を参拝したいと思っています。
真観寺、あいるびーばっく。( ・(,,ェ)・)v
【名称】 臨済宗南禅寺派 真観寺 (りんざいしゅうなんぜんじは しんかんじ)
【住所】 大阪府八尾市北亀井町2-2-7 【пz 072-994-1685
【地図】http://loco.yahoo.co.jp/place/g-mEaclI3W2a2/map/
【アクセス】 JR「久宝寺」駅から徒歩約15分
【駐車場】あり/2台分 真観寺の東、細い路地にある。拝観者に限り利用可能。
【入場料】無料。
※詳細は八尾市観光データベースを御参考下さい。
■三好長慶・義継公の墓が帰って来たらリベンジ予定ですので、採点は保留。