三好長治 阿波三好家焉記   - 後編 -

 さて、前回は中途半端な場所で終わっていた歴史散歩『阿波三好家終焉記』。
 今回は宿泊もなく、徳島県県境を越えることも無いため散歩と銘打ったわけですが、愛着があれば郷土史だって立派に歴史探訪の旅となるはずです。

 えぇ、そりゃあ花もなければ絵にもなりません。歌もありませんし飾る言葉もありません。洒落もありません。なんだか寂れた居酒屋みたいですが、それでも歴史的背景と事情を重ね合わせれば、ちゃんと歴史情緒に酔うことは出来るんです。


それでは『阿波三好家終焉記』後編の再開です。
まずは徳島県阿波市吉野町西条からの御案内っ。
 ( ・(,,ェ)・)ノ





■三好長治の母親・小少将(しょうしょうしょう)が生まれたとされる西条東城があったとされる場所。小少将は西条東城主・岡本清宗の娘として生誕。


十八歳のとき阿波守護職・細川持隆(ほそかわもちたか)の側室として嫁ぎ、持隆との間に嫡男の真之(さねゆき)を儲けました。
 
 小少将は肉感的な美女で器量も良かったとされるが浮気性な性格だったらしく、三好義賢に一目惚れすると周囲の目もはばからずに急接近して熱愛関係となります。



 やがて、細川持隆と三好義賢は阿波公方・足利義冬を室町幕府将軍に推戴するか否かで確執を起こし、主従関係は決裂。持隆が義賢の暗殺を画策しますが、これは持隆の家臣・四宮与吉兵衛の密告により失敗。

 これを受けて義賢は叛逆に転じ、讃岐から”鬼十河”の綽名で鳴る弟・十河一存(そごうかずまさ)を呼び寄せ、見性寺(当時は龍音寺)へ避暑で訪れていた持隆を襲撃、自殺に追いやります。

 

 この事件を受けて小少将は晴れて三好義賢の正室となり、名前も"大形殿"(おおかたどの)と変わった。

 それから十月十日の時を待たずして生まれたのが、三好家最後の総領・三好長治殿だったりするんです。


 つまり、小少将は夫の持隆が生存していた頃から義賢とよろしくヤっていた計算になる。



■戦国時代末期の阿波三好家に一大騒動を巻き起こした悪女・小少将が生まれたとされる西条東城跡に到着。


 Bですが、びっくりするほど荒れ果てています。

 私は車の車種などにはあまり詳しくないのですが、石碑のすぐ隣に放置されている自動車は有識者の話では『軽く二十年以上前の車』らしく。



 どんだけ野放し管理なんですか、仮にも戦国時代の史跡なのに(汗。










 阿波市は何をやってるんだ、と思わず地方自治体に唾棄したい気分でしたが、どうもよくよく周囲を見渡してみれば。

…どうやらこの石碑がある場所、個人の所有地のようです。
 つまり、石碑の隣にある自動車は違法放置じゃなくて合法放置。









B筆者の膝まで届く深い草むらに囲まれた西条東城跡碑。小さな祠らしきものと、石製の井戸があります。
これは後に西条東城主となった森監物(もり-けんもつ)という武将を祀ったものだそうです。
 森一族は鳴門市土佐泊を本拠とした鳴門水軍の一族で、頭領の森村春(もり-むらはる)は三好長治に忠義を尽くし、後に豊臣秀吉に仕えて朝鮮出兵で戦死しています。


B色んな角度から写真を撮っていたら、近くの民家から白髪頭、五十路くらいの男性が登場。

 『城跡巡りですか?――…なぁんにも無いとこでしょ、ここ。』と、包み隠さず飾らない御言葉を頂きました。

 この寸評には返す言葉も月並みなものしか思い浮かばず、苦笑い&会釈するより他に無く。せつない。



                 

 けれど、この草深くて何も無い跡地にも五百年前は戦国浪漫が…――阿波一国を揺るがすような稀代の美女が居たのかと思えば、感慨深く。



【住所】  徳島県阿波市吉野町西条町口

【アクセス】神戸淡路鳴門道 鳴門IC→国道11号→県道14号線→県道41号線
【駐車場】なし/道を挟んだ向かい側に廃ガソリンスタンドがあるので、自己責任でそちらにでもどうぞ。
【入場料】無料。ただし、城跡の石碑があるのは明らかに個人の所有地。変なことはしないように。




[評価] 
見どころ☆★★本来であればぶっちぎりで☆ナシなのですが、『田舎の城跡って、こんなにぞんざいな扱いになってるんですよ?』という実像を知る意味で☆ひとつ。隣に置かれた放置自動車と蜘蛛の巣が痛々しい。

期待度 ☆★★くどいようですが石碑一本です。
スリル  ★★★…特筆事項なし。
バリアフリー度☆★★…
屋外なので期待出来ないですが、車椅子での見学は可能だと思います。

総合評価 小少将の伝説にロマンと興味があるならば。そうでない人には、ただの草深く寂れた土地でしかない。歴史の匂いは皆無。


■さて、そんな複雑な事情の家庭に育った三好長治殿。
1561年に父・義賢が戦国史上初となる火縄銃による狙撃で討死すると、まだ幼いながらも阿波三好家の家督を相続します。

 けれど、これがまるでからっきしに才能が無いから困った話。

出来ることと言えば、おべっかやお世辞しか言わない馬鹿家臣達にもてはやされ、おだてられて毎日の様に大宴会、朝寝朝酒朝湯の自堕落生活。
 心配した家臣・三好康俊(みよし-やすとし)が諫言しても聞くどころか、謹慎閉門を言いつけ遠ざける始末。

 



 たまに国内の政治に口を挟んだと思ったら『阿波国に住む者全員を法華宗の門徒にする!!』とか言って宗論を引き起こしたり、鷹狩りに出れば鷹を打ち落とした子供に腹を立て、牛裂きの刑にして惨たらしく殺したりと、本当にロクなことをやらなかった。



 そんな若き馬鹿殿様に忠誠を尽くしていたのが、上桜城城主で三好義賢の側近だった篠原長房(しのはらながふさ)。


 政治を省みない長治に変わって民政に心を砕き、足並みが乱れていた阿波・讃岐の諸豪族に睨みを利かせ三好家の名家老として活躍。

 四国や淡路の兵を率いて大阪に出撃、時には織田信長とも剣戟を交えるなど、当時でも有名な戦国武将でした。


 当時のイエズス会宣教師も『最近じゃあ、京の都では三好三人衆や松永久秀殿が幅をきかせてるけど、本当の実力者は篠原長房殿だ』と書き記しているほどの名将でした。



 そして、そんな器量良しな篠原長房に目をつけたのが、未亡人となっていた小少将こと大形殿。


 最近では夜の一人寝にも飽きてきた。
 長房に『今夜、寝室にいらっしゃあぁい♪』と声を掛けますが、長房は

                

大概にして下さい。細川持隆殿・三好義賢殿と二人の夫に先立たれて居ながら何を仰るのですか。出家して夫の菩提をとむらうのが普通でしょうに。
 
 とつれない返事。そりゃそうだ。



 大形殿は長房の弟で鳴門木津城城主だった篠原自遁斎に色目を使いますが、これも長房が『いい加減にしろ自遁斎、こういう場合は名を惜しめ!!』とシャットアウト。御意見ごもっとも。


 
 けど、『誰にでも声を掛ける淫乱な乱恥気女』だと阿波国内でも噂になってしまい、逆恨みしたのが大形殿。


 我が子である三好長治に篠原長房の悪口をあることないこと言いふらす作戦に出ます。長治は長治で、口うるさく小言をいう篠原長房を疎ましく思って居たため、母親の讒言にあっけなく乗せられ討伐を決意。


 かくして1573年、阿波三好家に尽くしてきた篠原長房は主君であるはずの三好長治に上桜城を攻撃される。

 長治は同腹の弟・十河存保(そごう-まさやす)を呼び寄せた他、国内の豪族に号令を掛け…紀伊から雑賀の鉄炮衆を招き入れ、上桜城に鉛弾の雨あられをご馳走する念の入れ様。本気で篠原長房を屠る心算。


 戦場に火縄銃の咆哮が音高く響き渡るなか、天を仰いだのは篠原長房。


                

 あーあ、何考えてるんだ長治様は。

  わしが死んでも、二〜三年は大丈夫だろうが…
   五年もたてば。阿波三好家も、おしまいだな…。



 篠原長房とその嫡男・長重は奮闘するも劣勢を跳ね返すことは出来ず、やがて戦場の露と消えていった。阿波三好家のために頑張っただけだったのに、と無念の想いを抱いて。


 世の中、無駄な努力なんてありません、と言いたいけど…報われない努力なら、幾らでもあるわけで…。






Cというわけで、 あんぽんたん。の一言に尽きる事跡しか残っていない三好長治殿を一生懸命に支えた悲劇の名家老・篠原長房の居城だった上桜城跡です。

 秋の気配が近づく季節、ほんのりと紅葉が始まった山の裾へと車を進めていくと、左手に『上桜城跡』の看板が。

 徒歩十分とありますが、自動車での接近も可能です。ただし、道路状態はかなり劣悪。


車高を下げた車では、おそらく途中か帰り道でリップが悲鳴をあげることうけあいです。








C看板に従い、急傾斜の山道にステップワゴンを走らせること数分。道路右手側に駐車出来そうな余裕と上桜城跡の説明看板が。

篠原長房が討たれた原因は『ざん言』とあります。


 一人寝の寂しさに耐えかねたお姫様のワガママと、親離れできないバカ殿様の逆切れで滅ぼされた戦国武将なんて、長房くらいのものでしょうね。合掌…。

















 C説明看板の脇にある小道を進んでいく。見ての通り、ぜんぜん整備されていません。草を刈ったような跡はありますが、季節に気をつけなければ、

 普通に危険な生物とか居そうです。人間含めて。












C本丸跡展望台に到着。


 この日はお天気も快晴で、秋の空気が心地良く。
















C篠原長房が滅んだ上桜合戦は、篠原軍が戦国史上でも異例と言ってよい『全軍玉砕』を遂げた稀有な激戦でした。

 上桜城に篭っていてはじり貧だと判断した長房は家臣たちや嫡男の篠原長重とともに決死の覚悟で三好軍の包囲を突破。

 現在の川島町から10キロほど離れた阿波市阿波町まで、逃れたと伝承にはあります。




 時の天皇が名づけたという名馬『楓林』に跨り、血と埃にまみれた具足と槍を引っさげた篠原長房が進んだであろう、吉野川南岸の闘争経路、国道192号線を西進して…


 篠原長房父子・最期の地を目指します。













 Cそして、辿り着いた阿波市阿波町・伊沢神社の境内にある篠原長房親子の首塚。

























 残念ながら、見ての通りなぁんの歴史も感じられない無骨な石碑一本で片付けられちゃってます。








C裏面。元亀三年は武田信玄病没・室町幕府が滅亡する一年前です。
篠原長房の没年は天正元年(1573年)、と手元の資料にあります。20〜30年くらい前の三好関連史料は揃って1572年としてますが、どっちが正解なんでしょうね。

 …ちなみにこの石碑、伊沢神社の片隅にある『伊沢老人憩いの家』の敷地、その端っこにあります。


 当初、これがどこにあるのかわからなくってかなり苦労しました。












『悪い博士の研究所、そのてっぺんに立ってるアンテナみたいなの』がついてる黒塗りのステップワゴンに乗った不審な三十路のおっさん、再び。


 なんて冗談は置いといて、です。




 実はこの石碑…敷地の北東部端から、東側面を走る県道三号線の方に向いて立ってるんです。なんだこりゃ…。


 調べてみたら、元は違う場所にあった首塚が道路整備で動かす必要が出来たため、急遽ここに移設したのだとの事。
 たぶん、こんな狭苦しい場所にしか受け入れてくれる先が無かったんでしょうね…。



 かつては阿波三好家の屋台骨を背負って立ち、ルイス=フロイスに『京都最強の実力者』と呼ばれ、あの織田信長と真っ向切って戦った篠原長房。

 そんな彼も主君に疎まれ、濡れ衣と言いがかりで謀反人扱いされたあげく、死んだあとの首塚まで勝手に動かされて、しかも立派に作り直して貰えない。

 というか、徳島県人の大半にも知られていない。



 同じ志半ばで倒れた明智光秀や坂本龍馬とは、えらい扱いの違いです…。 




【住所】  徳島県吉野川市川島町桑村(上桜城) 

【アクセス】JR四国徳島線 阿波川島駅 から徒歩約40分
徳島自動車道土成IC→国道318号→国道192号→徳島県道43号。上桜温泉を左手に通り過ぎた山麓の道、左手の案内看板が目印。

【駐車場】 なし/上桜城跡の看板がある路肩に、大型車でなければ駐車出来る余裕はある。自己責任でどうぞ。
【入場料】無料。


[評価] 
見どころ☆☆★晴れた日に展望出来る吉野川河畔の眺めは最高に良い。ひょっとしなくても、吉野川が徳島県でいちばん綺麗に見える場所かも知れない。
ただし、歴史的な匂いはかなり希薄。

期待度 ☆★★上桜城合戦の死者を弔う社と篠原長房を顕彰する石碑、そして荒れ果てたベンチ数基。眺めが良いだけの場所と言えなくもない。
スリル  ☆☆★上桜城の本丸跡まで続く山道はお世辞にも整備されているとは言えない。おそらく、普通にマムシやムカデといった危険なものもガチで居ると思われる。周囲は普通に山奥、人気や民家は皆無。

 歴女のお姉様方、間違ってもスカートとかで来ないように。こんな山奥、何か洒落にならない事件が起きても徳島県警じゃきっと迷宮入りですよ?
ん、誰ですかこんな夜中に。

バリアフリー度★★★
屋外なので期待出来ない。城跡の看板までなら車椅子でも行けるが、本丸跡は無理。


総合評価 篠原長房の無念を想ってくださる歴史Fanなら。綺麗な眺めが見たい、というだけならまぁ、行ってみて損は無いかな。




【住所】 徳島県阿波市阿波町野神3−1伊沢神社内(首塚)

【アクセス】神戸淡路鳴門道 鳴門IC→国道11号→国道192号線→県道3号線
【駐車場】 なし/伊沢神社におまいりするなら、敷地内にとめても良いかも。同じ敷地内に伊沢老人会の憩いの家があるため、お年寄りには注意。
【入場料】無料。篠原長房首塚は先述した老人憩いの家の庭の一番隅っこにある。神社手前から枝分かれした反対側の道から見るとわかりやすい。


[評価] 
見どころ☆★★…石碑一本でおわり。篠原長房首塚に関しての歴史は、伊沢神社の管理者さんが詳しいらしいけど遭遇できず。

期待度 ☆★★くどいようですが石碑一本です。そろそろ言ってて悲しくなってきた。
スリル  ★★★…まぁ、神社&近くにお墓いっぱいですが、どうってことはないです。
バリアフリー度☆★★
屋外なので期待出来ないですが、車椅子での見学は可能だと思います。

総合評価 わざわざ見に行くこともない。篠原長房っていう苦労人な戦国武将が居たことを偲んで貰える歴史Fanの方なら。



■さて、自分達の勝手な都合&欲望にまかせて忠臣・篠原長房を滅ぼしてしまった三好長治とその母親・大形殿。

 そのツケは、滅んでいった長房が無念のうちにこぼした言葉どおり、約五年後…1577年に阿波へやってきました。


 篠原長房が生きているうちは公正に取り扱われていた裁判や民政も、彼亡きあとは政治音痴の長治殿や大形殿の寵愛を得ていたバカ家臣達が適当にひっかきまわしていたため、間も無くグダグダになり…法律や掟約はあってないようなものなり、国内は衰退。


 自然、阿波国は荒れ果て野盗や犯罪が横行し、民衆の心は三好家から離れていきます。


 それでも、三好長治と大形殿は国を省みることはありませんでした。

 大形殿は昼日中から篠原自遁斎を呼び出して色事に励み、長治は長治で篠原長房の遺領を寵臣の川島惟忠(かわしまこれただ)にポンと渡してしまったほか、家臣たちにおだてられるまま三好家の領土を切り取り、お気に入りの家臣達へご褒美にばら撒きまくる始末。


 気づけば、阿波三好家の領土は家臣達の所領と大差ないほど激減してしまいました。



 こうなってくると、阿波三好家の凋落は誰の目にも明らかになってきます。

 長年三好家の傀儡として操られてきた阿波守護職・細川真之(ほそかわさねゆき)はこれを好機と判断、監禁されていた勝瑞館から脱出。阿波南部の茨岡城…元家臣達のもとへと逃走。


 やがて家臣達に阿波守護職細川家の旗頭に祭り上げられ、三好長治へ叛旗を翻しました。


 真之は大形殿が前の阿波守護職・細川持隆との間に生んだ子、三好長治とは同じ母の腹から生まれてきた異父兄弟です。


 


 実の子供二人が阿波国を二つに割ってのいがみ合いを始めたのを見て、さすがに大形殿も母親の情が心に沸いたのでしょう。

 二人の説得を開始します。まずは阿波南部・茨岡城で反三好家の軍勢を挙げていた長男・細川真之の元へ説得に赴きました。


                


『お前達はこの母が腹を痛めて産んだ可愛い子供達だ。どうして、二人して仲違いをして争わねばならぬ…。』



 長いことほったらかしにされていたとは言え、実の母には違いない大形殿の説得に細川真之は心を傾きかけますが…彼をかついで御輿としていた元細川家の家臣達は納得がいきません。


 何言ってやがんでい。あの尻軽女のせいで細川家は没落して、三好家の飼い犬みたいな有様になってたんじゃないか。


 今ごろ母親面して説得だなんて、聞いて呆れらあ。



 次は勝瑞城に篭っていた三好長治の説得に向かおうと茨岡城を後にした大形殿、その途中…加茂谷という那賀川と山に囲まれた狭い土地で、元細川家の家臣達に襲われてしまい…雑兵たちに駕籠から引きずりだされた大形殿は命乞いもむなしく、惨殺されてしまいました。


             

 阿波一国を傾けた稀代の悪女は、こうしてあっけなく戦国の表舞台から散っていきました。 …――あれ、なぜか可哀想と思えないんですけども。


 


 さて、実母を虐殺された三好長治。まだ親離れが出来てなかった二十五歳は、頭に火がついたかのように激怒しました。

                

     『あの青びょうたん、親殺しの腐れ兄貴を成敗してやる!!』


 自分が主君殺しの子であることなど忘却の彼方。長治は異父兄である細川真之を討伐するため、荒田野(徳島県阿南市新野町)まで軍を率いて攻め込みますが…ここで、思いもよらない事態が発生します。



 長治の叔母婿で、義理の叔父である一宮成助(いちのみやなりすけ)と、家臣である伊沢頼俊(いざわよりとし)が細川真之とよしみを通じて挙兵、反三好家に鞍替えし…三好長治軍の背後を襲ってきたのです。



 前には細川真之、背後には一宮成助と伊沢頼俊。反乱軍に進路と退路をふさがれた三好軍の士気は急速に落ちていきます…。 


■いよいよ尻に火がついてきた三好長治殿。次の舞台は、その長治が軽々しく家臣に下げ渡してしまった川島城です。




D川島城天守閣を地上からパシャリ。現在の川島城は昭和56年に勤労者野外施設として建築されたもので、戦国時代当時の川島城には天守閣は無かった模様。ただし、本丸・二の丸・三の丸を擁する本格的な山城だったらしい。


 D川島城碑。戦国時代の遺構はなく、往時をしのぶことが出来るものは見られない。

現在は八畳〜十八畳の和室やテニスコートを設備し、それを有料で貸し出すなどの業務を行っている模様。戦国時代の史跡というより、城の形をした社会福祉施設のようなものに近い。








D川島城説明看板。城の縁起が説明されているが…吉野川市、これが『史跡』で本当にいいのか?



 D城内見学は無料。こういう門構えのお城で、内部見学無料って案外珍しい気がする。

城内は2F〜5Fまで散策が可能、3F以上のあちこちに展示物が飾られているが、多くは戦後以降に個人が作成したもので歴史的価値はあまりない様子。 












D屋上天守閣より遠望。あぁ、やっぱり吉野の川のせせらぎは綺麗です。




 この眺めを見たであろう川島惟忠、長治の味方をしたということは…うーん、ひょっとして先を見る目が無い武将だったのでしょうか?

1579年、長宗我部家との戦いで討死しています。






 ――…裏切っていないだけ、まだ律儀なのかも。今度は、三好長治をあっさり裏切ってしまった伊沢頼俊の居城・伊沢城跡です。

 D伊沢城跡碑。青空は澄み渡っていて綺麗の一言でしたが、歴史情緒はどこにもございません、ええ…。






 ちなみに、石碑の裏側は空白でつるんつるん。

 この手合いの石碑は、正面だけでなく裏面も確認するのがポイント。

 ひそかーに、簡単な説明が書かれている場合がありますので…。



Dヒルタ(蛭田)池。伊沢城の堀の名残だと地元に伝承されています。

伊沢頼俊は三好長治に叛旗を翻したのちに土佐の長宗我部元親と通じています。


戦国時代の習いとは言え、節操が無いこと。







 しかし、そんな裏切りも長くは続かず。伊沢頼俊は1577年、矢野国村ら阿波三好家の家臣達に裏切り者として襲撃され、炎の中で腹を切って自害しました。


 長治に弓を引いて僅か二十日ほど後のことで、世の人は
三日明智に二十日伊沢
(主君を裏切った明智光秀は三日天下、伊沢頼俊は二十日だったなw)
と、その無様な最後を後々の世まで嘲笑ったそうです。

            

 …――魂の底が浪花節な日本人、ただたんに裏切った武将についてはどこまでも手厳しいです。





















 Dヒルタ池で遊んでいた鴨と、いつのもの・誰のものか判らない古いお墓。

 周囲の墓石には享保とか書いてあったんですが、そのなかでもひと際古いお墓がこれでした。ひょっとして、戦国時代のものかも。
 



 さて、秋風に戦国時代の情緒を思い浮かべて巡っていく阿波三好家終焉記、次がいよいよ最終ポイントです。








川島城

【住所】  徳島県吉野川市川島町大字川島字城山136-1
【アクセス】JR四国徳島線 阿波川島駅 から徒歩約10分
徳島自動車道土成IC→国道318号→国道192号。道からお城が見えるので判りやすいはず。入り口は大きな石鳥居が目印。
【駐車場】 あり/無料。川島城に隣接した川島神社の前あたり。ただし、前が断崖なのが怖い。駐車要注意。
【入場料】天守閣展望台まで上っていっても無料。田舎なのになかなかリーズナブル。


[評価] 
見どころ☆☆★…
上桜城跡にはかなわないけど、吉野川河畔が綺麗に眺められる展望台。あと、戦国の匂いがする展示物数点。
期待度 ☆★★…タダより安いものはない。過度の期待はしないほうが良い。
スリル ★★★…いや、普通のお城ですから。
バリアフリー度☆☆★…川島城入り口まではスロープがあるので、車椅子でも一階までなら大丈夫。ただし4F展望台は階段のみの模様。


総合評価 うーん、どうなんだろう?

 今回の散歩道はかなり地味なラインナップなので、ちゃんとした天守閣や展示物が楽しめるお城って意味では有意義なのかも。ただし歴史臭はかなり薄い。




【住所】 徳島県阿波市阿波町岡地ヒルタ池(伊沢城跡)

【アクセス】神戸淡路鳴門道 鳴門IC→国道11号→国道192号線→県道3号線
【駐車場】 なし/伊沢神社におまいりするなら、敷地内にとめても良いかも。同じ敷地内に伊沢老人会の憩いの家があるため、お年寄りには注意。
【入場料】無料。ていうか、写真で見るとおりただの路傍に立つ石碑なので。


[評価] 
見どころ☆★★…
石碑一本でおわり。近くに広がるヒルタ池が寒々しさを強調してます。
期待度 ☆★★…看板も何もありゃしません。風情もへったくれもない。
スリル  ★★★…まぁ、近くにお墓いっぱいですが、どうってことはないです。
バリアフリー度☆★★…屋外なので期待出来ないですが、車椅子での見学は可能だと思います。


総合評価 わざわざ見に行くこともない。伊沢頼俊という戦国武将も超ローカルですし。知ってる人、居るんでしょうか。徳島県人含めて。



■母・大形殿の惨殺を受けぶちきれた三好長治、いざ弔い合戦と勝瑞城を出たまでは良かったのですが…前方を同腹の異父兄・細川真之に、後背を義叔父の一宮成助に襲われるやいなや、その軍勢はあっというまに壊滅。

 長治のもとに残ったのはわずかに五百ばかりの兵でした。かつては畿内五カ国に加え播磨・讃岐・阿波・淡路・伊予東部を治めた大戦国大名である三好家の総領も、兵に見捨てられるほどに落ちぶれていました。


いかん、これでは戦にならぬ…ここは悔しいが、一度淡路に逃れて再起を図るほかあるまい…。


 そう考えた三好長治、鳴門は土佐泊浦の水軍大将だった森村春(もり-むらはる)に救援を依頼。

 忠実な家臣だった村春は主君長治を迎えに船を出しました、が…吉野川の支流は数多く、三好長治は助任川で救援を待って居たのに対し、森村春が主君を探していたのは佐古川という運命の皮肉がそこに待ち受けていました。

 淡路へ逃げる頼みの綱だった鳴門水軍はとうとう、迷子の主君を見つけることが出来なかったのです。



 くたびれ果てた三好長治一党は敵軍の追撃を逃れながら別宮長原まで逃げました。

 長治は憔悴しきった一族郎党を休ませるため、地元の村の村長に救援を求めますが…かつては無類のバカ殿様として阿波国に君臨していた三好長治のこと、当然ながら村長は三好長治をよく思っておらず…。

 それどころか恨みまで抱いているほど、憎んで居ました。協力してくれるわきゃあありません。



 結果、村長は三好長治の救援依頼を蹴り、逆に一宮成助・伊沢頼俊軍にその存在を通報。



 海岸沿いの砂浜、不意に沸き起こる兵達の咆哮。
 1577年3月28日午前四時頃…ここに、三好長治の命運は尽きました。


                 

三芳野の 梢の雪と 散る花を
     長き春とや 人の言ふらむ



 静かに瞑目した後に辞世の句を詠じ終えた長治は脇差を抜き、その切っ先で真一文字に割腹。

 三好阿波守長治、別宮長原にて自刃。享年二十五歳――…。



 家臣の姫田佐渡守が介錯し、同行していた五人の家臣が後を追って切腹。ここに阿波三好家の嫡流は滅亡を遂げました。

 三好家の家督は長治の弟であった讃岐の十河存保(そごうまさやす)に受け継がれ、存保は三好家総領として、半壊状態になった御家の復興に心血を注ぎます。



 しかし、既に凋落の坂を転げ落ちるようだった阿波三好家の衰退はとどまることを知らず…ちょうど同時期に土佐を統一した長宗我部元親が新たな四国の覇者として一躍、時代の寵児となっていきます…。




 
■自業自得とはいえ、最後の最後まで悪い流れを払拭できなかった三好長治。

 その生涯にあっけなく到来した最期の地が、徳島県松茂町にある豊岡招魂社です。



E招魂社の狭い境内、その片隅に高くそびえている松の木のたもとで三好長治は自刃したと伝わっていますが…看板の説明書きによれば戦国時代当時の松は昭和十五年に惜しくも落雷で枯死、現在の松は二代目だとの事。



 三好家に関する史跡って、ホントにとことんツキがない。


E看板説明書き。いったい、戦国武将マニア以外の何人が三好長治の名前を知っていることだろう。


 個人的には辞世の句まで書いてあることはポイントが高い。

 長治の辞世は、三好という姓と『ながはる』という名前をうまく編み込んでいて、二十五年の生涯だったのに『長き春とは…。』だなんて自嘲しつつ、けれど無念の思いがにじみ出た傑作です。これを読まずに、彼の不幸な生涯は語れない。


 そして、さらにポイントが高いのは長治と一緒に死んでいった姫田佐渡守たちの名前も載せてあること。


 特に原弥助(はら-やすけ)は、たまたま遭遇した敵軍武将が旧知の仲、主君の後を追って自害しようとしていたところを押し止められ『我らはそなたに恨みはない。今は生きて時節を待て!!』と説得されますが

              

『日頃から恩寵を賜った主君が冥途へ往ったというのに、最後になって逃げる?
 逃げられるものか!
 だからこそ殿の後を追おうとしていたのに、お前達にはそれが判らないのか!!』


と、牛が鳴くような大声で泣いて『死なせてくれ』と言ったのだとか。

 哀れに思った敵武将が手を離したところ、弥助は既に死んでいる長治の横で十文字に腹をかっさばき、そのうえ咽喉を突いて自分を介錯し見事に果てたと伝えられています。



E神社境内。


















 三好家の家督は長治の弟(つまり、あの大形殿の子供ですね)である十河存保が継ぎますが…長治死後のわずか五日後、土佐の長宗我部元親が本格的な阿波侵攻を開始。

 十河存保は軍を整える暇も無く勝瑞城で長宗我部軍と対峙し、阿波・讃岐の覇権をかけて争うこととなります。その経緯は、次回企画で御紹介する予定です。


 さて、これで企画『阿波三好家終焉記』の歴史散歩は全行程を終了致しました。
結局、今はやりの坂本龍馬や明治維新の時代の様に胸躍る展開もエピソードも皆無のまま、おわっちゃいましたが・・・ちょと待って下さい。


 稀代の大馬鹿殿だった三好長治と、その彼を支えていた篠原長房らの報われない死。

 この二人の努力は明治維新の激動期に命を掛けた坂本龍馬たちの活躍とは裏腹に、何の平和も革新ももたらしませんでした。が…それがまったく無駄では無かったことだけは、確かです。



 彼らが流した血と涙、そして骸が十河存保・長宗我部元親らといった次世代の英傑達が基盤とし、そこからまた新たな、洗練された英雄と時代を求めての戦いが火蓋を切って落としていく。

 後の時代、長宗我部家は四国を制覇しながら秀吉に降り、さらに後には土佐すら失います。


彼らが戦国時代の終焉と共に倒れていった上を、滔々と続く吉野川のせせらぎのように、時の流れは歴史を織り成して来ました。そして、二百年の時を経て、四国は土佐に英雄が再び登場します。その人物こそが、坂本龍馬。

 龍馬の家系は系図をたどれば長宗我部家の家臣、さらにルーツをたどれば明智光秀が居城としていた坂本城までさかのぼれると言いますから…まさに歴史は流れる川の如し、です。


 今、私達が立っている大地と時代が、坂本龍馬や明智光秀、長宗我部元親や三好長治が生きたという確かな痕跡の元に成り立っているのは、間違いないんですよ。


 その足跡を追い、再確認することが歴史を巡る旅の醍醐味だと私は考えています。



【住所】  徳島県阿波市松茂町豊岡山ノ手

【アクセス】神戸淡路鳴門道 鳴門IC→国道11号→県道14号線→県道187号線→『キリストが世界を救う』とかいう看板のあるT字路を左折→後は道なり。カーナビがあるなら、徳島県松茂町の長原小学校を検索すればわかりやすい。
【駐車場】なし/近隣の道路は狭いが、一応駐停車禁止区域にはなっていないので駐車は可能。ただし自己責任でどうぞ。
【入場料】無料。境内の隅っこにある松の木が目印。


[評価] 
見どころ☆★★…
松の木と看板がひとつ、ぽつんとあるだけ。ちなみに松茂町は徳島県下の市町村ではかなりお金持ちの部類。もっと気張れ。

期待度 ☆★★…田舎の歴史巡りは貧相な整備振りを淡々と眺めるものです。過度な期待はしちゃだめです。
スリル  ★★★…ふつーの神社&周囲は閑静な住宅街なので、どうってことはないです。
バリアフリー度☆★★…車椅子での見学は可能だと思います。


総合評価 わざわざ見に行くこともないこれも阿波三好家、しかも三好長治というドマイナーな馬鹿殿様に興味が無ければ立ち寄る意味は希薄。


 



■さて、企画『阿波三好家終焉記』、いかがだったでしょうか。


 次回更新は更新日未定ながら、テーマは『長宗我部元親』。

 三好長治殿の死後、混乱する阿波の歴史に新たな1ページを記した土佐の英雄、四国に蓋をした才幹抜群な戦国武将が満を持して、世の中が坂本龍馬だ福山雅治だで盛り上がってるのをぶっちぎって登場いたします。女性歴史Fanのあいだで人気急騰中である長宗我部元親の生涯を巡る旅、御期待ください。






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