■さて、既に2011年は華々しく幕を開いたわけですが…いきなりながら、旧年である2010年を思い起こせば…周防長門にとって一番印象深かったのは、何をおいても『民主党政治の混迷振り』でした。
小泉純一郎元総理のころとはまた違った形で政治や政局がマスコミのやりだまに上がり、鳩山前首相の疲れきった顔や管首相のケゲンな仏頂面、足並みが揃っているようで間違っている内閣のゴタゴタばかりがテレビ画面を賑わせていたような気がします…。
そして、そんななかでもひときわ大きな話題と存在感を持ち、良い意味でも悪い意味でも人々を惹きつけた人物が、ひとり居ましたよね。
そう、
小沢一郎
前代表。
豪腕、政局の達人、選挙勝利術の練達者と複数の顔を持つ小沢さんでしたが、この人はある意味では非常にタイミングがまずかったような気がします。
総理大臣まであと一歩というところまで行きながら(本人が望んでいるか居ないかは別として)その席に座ることが出来ない。
政治資金問題やそれにともなう起訴、マスコミに悪評を煽られては、掌中に八割がた収めた総理の座を逃してしまう。
そんな小沢さんの『TOPの座に対する貪欲なまでの行動力・欲望』と、『それを実現するまでに至れない悪運や不運、タイミングのまずさ』。
私の郷里・徳島県の歴史を紐解いていくと、彼と本当にそっくりな過去を辿った歴史上のある人物が思い当たり…そして、彼らと非常に良く似た印象を受けました。
その名も、
阿波(平島)公方家。
ひとりの人物ではなく、とある官職…今で言う『総理大臣』に匹敵する、絶対的な(はずの)権力…『征夷大将軍』職を追い求め、悪運や不運、ズレた間の悪さでそれを逃していった誇り高き血統の一族です。
まぁ、今日の知名度という点においては
小沢前代表とは雲泥の差ですが…
新年最初の企画は、そんな阿波平島公方家が辿った歴史の軌跡を追いかけていく歴史散歩です。
今回の旅では宿泊も無ければ県境を越えることもありませんが、以前の企画であった三好家や長宗我部家に関する歴史背景知識を補足するもの。
この企画を通じれば、あまり万人受けする愛着を抱き難い一族である三好家や長宗我部家にさらなる興味を持って戴けるのではないかと考えております。
■それでは、2011年最初の企画『阿波から天下へ〜 征夷大将軍になりたかった男達』のスタートです。
■室町幕府第十代将軍・足利義稙(あしかが-よしたね)。
阿波平島公方という一族の系譜は、この男が阿波鳴門は撫養(むや)の地に流れ着いたことに端を発する。
その肩書きが示すとおり、義稙は誇り高き源氏の血脈である足利一族であり、まごうことなき室町幕府の征夷大将軍、つまりは武家社会の頂点に君臨するはずの男だ。
しかし、彼の人生は波乱に満ちたものだった。
応仁の乱を引き起こす原因となった室町幕府八代将軍・足利義政の弟である足利義視(あしかが-よしみ)の子として生を受けた義稙だったが、おじである足利義政や室町幕府九代将軍・義尚(よしひさ)らの相次ぐ死により、彼に征夷大将軍の継承権が転がり込んでくる。
■足利義教x(六代将軍)┳■義勝x(七代将軍)
┣■ 義政x(八代将軍)━義尚x(九代将軍)
┣■ 義視x━━━━━━義稙o
┗■政知x━━━━━━清晃o(お坊さん)
(名前のあとに x があるのは故人)
本来なら、後を継げるはずのない義稙に継承権が。
そんな、ありえない僥倖を得て征夷大将軍になった義稙だったが、少々専横的な気質があることが彼に災いした。
管領の細川政元(ほそかわ-まさもと)の反対を押し切り、反逆者を討伐するため京都から出陣しているうちに家臣たちによって征夷大将軍をクビにされてしまったのだ。
前代未聞のことである。
仮にも征夷大将軍は武家の頂点、一度受けたからには自分の意思か死を迎えるまではずっとずっと将軍様のはずなのに、まさか家来からクビを宣告されるなんて。
足利義稙は憤慨した。
なぜ、歴代征夷大将軍のうちで自分だけがこんな理不尽な辱めを受けなければいけないのか。
越中、近江、加賀、はては中国地方最西端・周防国まで。
北島三郎の『風雪流れ旅』そのままに、義稙は日本各地をさすらっては有力守護大名の援けを借り、征夷大将軍職復権を狙う。
そして一度は征夷大将軍返り咲きを達成し、日本史上唯一『一度クビになったけどその後に復活再当選した征夷大将軍』となった、が…。
その後ふたたび権力闘争に敗れて京都を逃げ出し、淡路へ。
そして捲土重来を誓った最後の決戦に破れ、彼は阿波徳島は鳴門に流れ着く。
『もう一度、京都の街に戻りたい。出来れば征夷大将軍となって帰り咲きたい。
自分を追った不届き者達を見返してやりたい。』
なおも復権を試みる義稙だったが…1523年4月9日、ついに力尽き、阿波国・撫養で死去した。
享年五十八。彼の死去した地は、今日に『将軍塚』と呼ばれ語り継がれている。
しかし、彼は亡くなる前に足利義維(あしかが-よしつな)という名の養子を迎えていた。
養父の無念を晴らすべく、義維は阿波平島の地で地元豪族の支援を受け、亡命政権樹立を宣言する。
これが、阿波(平島)公方家のはじまりであった…。
■と、いうわけで…。
阿波徳島が迎えた将軍様・足利義稙公ゆかりの地・徳島県鳴門市は岡崎を目指します。
といっても、筆者にとってこのあたりは土地勘がありまくる場所。
以前にこの周辺で一人暮らしをしている独居老人や生活保護者の話し相手・カウンセリングをしており、その頃に何度もめぐった地。
しかもこの撫養城址は、その業務における休憩地点だったのです。
といっても、当時はここにそんな歴史的ゆかりがあろうとは露知らず。
まさか征夷大将軍がココで亡くなっただなんて聞いてません。ダチョウ倶楽部じゃないですが。
そして数年振りにその思い出の地へ。
阿波徳島に根拠を置いたという阿波平島公方家の歴史を追いかけていく歴史散歩の出発地点に認定しました。
地元民には桜の花見の名所、異名である『岡崎城』で親しまれる撫養城です。
『流れ公方』こと足利義稙はここで無念の最後を迎えました。
撫養城。これは当然、近世になって建築されたお城で、戦国時代当時には撫養城に天守閣なんかありませんでした。
そして、このお城が何故建設されたかと言えば、それは…。
このお城が、鳴門市が生んだ人類学者・考古学者・民俗学者でくある鳥居龍蔵博士を記念する博物館として建設されたからです。
しかし、その鳥居龍蔵博士の博物館は昨年十一月に別の場所へ移転となり、撫養城はその役目を終了。今は、次の利用手段が見つかるまで閉鎖の憂き目を見ることになりました。
おかげで、周囲がさびしいこと寂しいこと。
今回の目的である、『将軍塚』の位置を探ろうにも手がかりが見つからず、誰かに聞こうにも人の気配がありません。
こまったときは他人に聞く。という伝家の宝刀が使えません。
…――しかし、今回は奥の手があるんです。今日は12月27日、暮れも押し詰まってはいますが、平日は平日。
そう、市役所が開いてるんです。
早速、鳴門市役所に電話をかけて…観光課に聞いてみました。
『岡崎は撫養城址付近にあるはずの、足利義稙公ゆかりの"将軍塚"という場所を探してるんですが、どこにあるか教えて貰えませんか。』
折り返し電話で御案内いたします、とのお返事を戴き、待つこと十数分…。
(
・(,,ェ)・) 市役所から電話が掛かって来ました!!
しかし、そこはやはり徳島県のこと。
予想の斜め上を錐揉み回転するような、意表をついた返答が待っていたのです!!。
観光課職員>>『はい、確かに以前、岡崎城址に”将軍塚"とよばれる歴史史跡がございましたが…。
今となっては荒れ放題になってしまって、どこが将軍塚なのか、誰にもわかんなくなってしまったんです…。』
(
・(,,ェ)・)
( ・(,,ェ)・ )
はいぃいいいぃいい??
か、仮にも征夷大将軍ゆかりの史跡であるはずの場所が、地方自治体の関係者ですら場所がわかんなくなるほどの放置プレイだったなんて…―――(っ=(,,ェ)=)っ
一度は室町幕府公方、武士の頂点である征夷大将軍職にまで達しながらも二度の挫折を経験し、阿波徳島で力尽きた悲哀の人・足利義稙ゆかりの地(だったはずの)・撫養城址でした。
【名称】 撫養城址 (むやじょう-し)
【住所】 徳島県鳴門市撫養町林崎 【пz
【アクセス】http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34.17454580&lon=134.62158076&sc=4&
amp;mode=aero&pointer=on&home=on&hlat=34.18206111&hlon=134.54257611
【駐車場】あり/無料。
【入場料】無料。
[評価]
見どころ☆★★…以前は鳥居龍蔵記念博物館もあり、撫養城内に入ることも出来ましたが…今は、外から眺めるだけです。
期待度 ☆★★…築城当時の石垣積みが残っていますが、義稙公ゆかりの史跡である将軍塚は上記の通り見学不可能…。
スリル ☆☆☆…実は、妙見山を上る山道の途中から岡崎海岸へ抜ける細い道があるのですが、そちらは知る人ぞ知る地元の心霊スポットのひとつ。昔、源平合戦の頃にココで敗れ去った平家の怨念が夜中の闇をさまよってるのだとか・・・。
ちなみに筆者が当時勤めていた会社の先輩が、冗談抜きで怪奇現象に遭遇したとか。霊感とかぜんぜん信じてない人だったので、たぶん本当に起きたんじゃないのかなと…。
バリアフリー度☆★★…屋外なので期待出来ないですが、車椅子での境内見学は可能だと思います。
総合評価 足利義稙公や阿波公方ゆかりの史跡、という意味では訪れる必要性はかなり低い。
額に冷や汗、顔に苦笑をうかべつつも…ここでてをこまねいているわけにもいきません。
鳥居龍蔵博士の記念館に移転され、足利義稙の史跡を忘れ去られてしまった寂寞の撫養城址を後にした周防長門は、阿波平島公方ゆかりの地巡礼を再開、次の目的地へと向かいます。
…――が、その前に。(
・(,,ェ)・)
腕時計の時間を確認すると、既に時刻はお昼の十二時を過ぎています。将軍塚探索でやや時間をとってしまったようです。
武士は食わねど高楊枝、けれど腹が減ってはいくさも出来ません。
それでは、地元徳島県のならではのグルメへ御案内。
土佐に豪快な高知料理あれば、徳島県にも日本全国に誇るご当地料理あり。そんなことをうすぼんやりと考えつつ、周防は一軒のラーメン屋の暖簾をくぐることにしました。
【平成22年12月27日・PM13:15
徳島県鳴門市】
■撫養城址見学からの帰り道、ひさびさにお邪魔したのは『中華そば
いのたに鳴門店』。
徳島ラーメンの名前を日本全国に鳴らした古豪店の鳴門支店です。
店内の雰囲気は人気ラーメン店らしからぬ、質素で落ち着いた雰囲気。
店員さんも店長さんも名物的なオーラは出さず、驕らず、黙々と御仕事中に勤しんでいます…。
笑福亭鶴瓶さんやブラックマヨネーズさんなど、芸能界に疎い向きのある筆者でも知っているような有名芸能人や俳優のサインが所狭しと並んでいます。
日付を見ると…ここ最近では、ザ・たっちのお二人が来ていたようです。
( ・(,,ェ)・)サインにまで『ちょっとちょっと!!』って書かなくても。
横浜のラーメン博物館にも支店を出し、徳島ラーメンでは一番の実績と知名度を誇る『いのたに』の肉入りラーメン。
写真を見た感じでは濃いそうな出汁ですが、醤油味の鶏がらスープは実際に味わってみると、思ったより意外にあっさりしています。
そして、そのスープと豚ばら肉がよく合う。
いのたにの豚ばら肉はチャーシューのように油っ気もなく、蕩みもありませんが…適度な歯ごたえとスープとの絡み具合が絶妙です。
"ラーメン"という単語より、"中華そば”というワードがしっくりくる味わい。
トッピングで生卵を乗せることも出来ますので、もう一味楽しみたい方は先に注文して置くと吉です。
徳島ラーメンの王道でしっかり腹ごしらえをして…撫養城址でのいきなりのつまづきでくじけていた覇気も十分に回復。師走の寒さを感じさせる冬の風を感じながら、次の目的地へと向かうことに。
ご当地ラーメンブームの際、郷土徳島の名前を世に喧伝した名店・中華そば『いのたに
鳴門店』さんでした。
【名称】 いのたに 鳴門店 (いのたに-なるとてん)
【住所】 徳島県鳴門市撫養町南浜字東浜34-24 【пz088-685-6057
【アクセス】http://gourmet.goo.ne.jp/restaurant/shopID_tabelog-36000075/ を参照のこと
【駐車場】あり/無料。
【評価】神奈川県横浜市のラーメン博物館にも店を出している、徳島ラーメンの先駆け。徳島県人にもおなじみの味です。
徳島ラーメンの正統派を味わうことが出来るが、食べ歩いている人に言わせると『ちょっと本店より味が薄いかな。』とのことですが…鳴門市にある他の有名ラーメン店がかったぱしから濃い味ばかりですので…この辺は個人差と言ったところでしょうか。
鳴門市役所のすぐ近くにあるので、鳴門市観光に立ち寄った際の帰りにはちょうど良いかも。
■室町幕府の最高権力者である征夷大将軍職。
武家社会の頂点に君臨するこの官職を目指した男達は日本の歴史上でも数知れない。
しかし…。
その地位にありながら二度も京都を追われ、阿波鳴門は撫養城で無念の最後を迎えた者も居る。
"放浪の流れ公方"こと、室町幕府第十代将軍・足利義稙その人である。
『もう一度京都に舞い戻って、征夷大将軍職に返り咲きたい…。』
義稙の後継者となった足利義維(あしかが-よしつな)は亡父の意思と執念を継承し、阿波平島の地に亡命政権『平島公方』を樹立。
京都の室町御所で第十二代征夷大将軍となっていた実兄の足利義晴(あしかが-よしはる)と対向する道を選び、その将軍位を虎視眈々と狙いはじめる。
すべては、征夷大将軍になるために。
そんな義維の後ろ盾となったのは、阿波国を代表する二人の権力者…阿波守護職であった細川之持(ほそかわ-ゆきもち)と、その右腕・三好元長(みよし-もとなが)だ。
特に、三好元長の実力と器量は阿波公方家にとっては重要な頼みの綱となった。
勇敢な阿波の槍兵を指揮し、政敵たちをつぎつぎに撃ち滅ぼしていく三好元長やその弟・康長の武名は天下に鳴り響き、三好一族は名実ともに阿波公方家の守護神へと栄達。
やがて、阿波公方家の武勲に恐れをなした足利義晴は京都を捨てて近江朽木谷へと逃げ出し、京都室町政権は瓦解する。
『ついに、長年の夢が実現する時が来た!!』
彼らに奉じられた足利義維はついに阿波を出立することを決意、紀伊水道を越えて泉州は堺に上陸する。
狙うはもちろん、征夷大将軍の官職。
武家政権の頂点に立ち、日ノ本六十余州の武人・侍たちから忠誠を誓われ、新たな時代の旗手となる栄光への切符。
朝廷より従五位下左馬頭…大将軍になる者が事前に命じられる官職も拝命。今まさに、義維の掌に将軍位がつかまれようとしていた。
ところがどっこい。(
・(,,ェ)・)
あとは朝廷からの勅使を迎え、征夷大将軍の宣下を待つのみという土壇場になって、事態は急展開を迎える。
足利義維が頼りにしていた三好元長が幕僚同士の勢力争いに敗れ、死んでしまったのである。
残された三好一族もみな四国へと逃げ帰ってしまい、堺には足利義維と無力な側近だけが取り残されることに。
当然、こうなっては将軍職任官など儚い夢と散ってしまう。
『あぁあああちくしょう、あとちょっとで征夷大将軍に推認されて…阿波公方家長年の夢が、実現するはずだったのにいいい!!!』
嘆いてみたが、いくら悲哀をかみ締めても事態は変わらない。まるでそれは、政権を奪取していながら民主党代表選挙に敗れ去った豪腕・小沢一郎のごとし。
足利義維は堺を捨て、阿波国に逃げ帰った。
それは再起を図るため、一度は掌中につかんだはずの征夷大将軍職を取り戻すためなのだが…このことで、足利義維には養父・義稙と同様に、あまりありがたくない称号が輝くこととなる。
『従五位下左馬頭(じゅごいのげ-さまのかみ)…歴代足利将軍が拝命された官職を受けていながら、唯一征夷大将軍になれなかった人。』
しかし、当然ながら足利義維は諦めたわけではない。
その後も平島公方家として阿波国に君臨し、ふたたび室町幕府の頂点に立つため雌伏の時を迎えることとなる。彼の無聊を慰め、その後ろ盾になったのは阿波守護・細川家。
後に内閣総理大臣・細川護煕を輩出することになる、阿波公方家の側近に相応しい名家である…。
■と、いうことで…
征夷大将軍職を寸でのところで逃してしまった悲運の人・足利義維。
その彼を支援し、阿波公方家最大の庇護者となった細川家の菩提寺・丈六寺に到着です。
■丈六寺は『阿波の法隆寺』の異名を取る古刹で、開基されたのは実に西暦650年。
あの『大化の改新』の五年後といいますから、その歴史は優に千年を超えることになります。
■足利義維を庇護した阿波細川家は、応仁の乱で東軍の副総大将・細川成之を輩出。
阿波公方家が阿波に逃れてきた際には、その後ろ盾となって権力奪還作戦の中軸となって政敵と戦いました。
■丈六寺の境内。さすがに歴史が古いせいもあり、あっちこっちに国指定の重要文化財が残されています。
寺の裏手、山すそに開かれた古墓地には阿波細川家の当主だった細川成之、細川持隆、細川真之の墓をはじめ、阿波徳島の歴史を動かした偉人達の墓標が散在しています。
しかし、そんな彼らの墓標がかすんでしまうようないわくつきの物件が、この丈六寺境内には存在します。
それがこの、徳雲院。
以前は小学校や老人保健施設として使われていたため、
古刹らしからぬガラス張りの窓や引き戸といった、近代的な備えが
いやおうなしに視線を惹く建物なんですが…。
実は、この丈六寺徳雲院…前回企画の主役だった土佐高知の英雄・長宗我部元親に関する醜聞の舞台となった場所なのです。
ところ変われば英雄も愚物姦人となる。そんな物語は、次の通り。
■天正の頃…阿波公方家や阿波細川家も衰退し、三好家の阿波国支配も凋落した戦国時代後期のこと。
阿波国侵略を決意した長宗我部元親は阿波西部・南部の二箇所からの攻撃を敢行。
長宗我部家へ臣従を誓うものには寛容に、長宗我部家に徹底抗戦するものには策略を用いて非情な処断を下していた。
阿波西部の大西覚養(おおにし-かくよう)は白旗を揚げて降参、長宗我部家に忠誠を誓ったが…
阿波南部は牟岐城の城主だった新開道善(しんかい-どうぜん)が長宗我部元親に従わず、その優れた器量をもって抵抗戦を続けていた。
新開家のあまりに頑強さな抵抗に手を焼いた長宗我部元親は新開道善に対し、こんな手紙を書き送る。
『OKOK、おまいらの男気にはこの元親、感服した。
痛みに耐えてよくがんばった。感動した!!。
ついてはこの元親、丈六寺で和睦の酒宴を開き、
新開家をもてなしたいと思う。』
頑なに白旗を拒み、戦い続けた甲斐があった。
そう思い込んだ新開道善、わずかな手勢のみを引き連れて丈六寺を訪れ、長宗我部家の歓待を受ける。
しかし、これが長宗我部元親の罠だった。
宴もたけなわとなり、酒に酔いはじめた新開道善一向を突如、鬨の声が取り囲み…槍と鎧兜で武装した一領具足達が襲い掛かる!!
抗うにも、わずかな守衛のほか誰もいない新開道善。しかも既に酔いつぶれていてまともな抵抗も出来ない。
一向の流した血が、丈六寺の床板へ赤い絨毯となって広がっていく。
『おのれ長宗我部元親、酒宴とたばかって我らを騙し討ちにしおったな!!』
家来たちを討たれ、怒り心頭の新開道善は白刃を振るって抵抗するも…とうとう長宗我部家の刺客によって全滅してしまった。
さて、長宗我部家にとってみれば…うまいこと騙して、邪魔な敵対勢力をかたづけた上出来の暗殺劇。
丈六寺の住職に『ごめんねゴメンネー!!!'`,、('∀`)'`,、』とか
いいながら床板の掃除を始めたところ…
なぜか…いくら拭いても、床板に染み付いた血糊が落ちない。
というか、拭いても赤い斑になって浮き上がってくる。
これが新開道善の恨みだろうか。
恐れをなした長宗我部元親は丈六寺の床板をはがすと、徳雲院の天井板へ貼り付けるよう命じたという。
これが、丈六寺の血天井伝説である…。
という伝承が残されているのが、この丈六寺の血天井なのですが…。
五百年近い時の流れが災いしたか、血天井は相当な疲弊ぶり。
確かに悲劇のあとは見て取れますが、保存状態はあんまりよくありません…。
このぶんだと、あと二十年もすれば血天井からは完全に血糊がみえなくなるんじゃないでしょうか…。(
・(,,ェ)・)
ちなみに、長宗我部元親よりの資料には『新開道善は長宗我部家に降伏したけど、敵に寝返ろうとしたから切腹させられた』ということになっています。どちらが真実なのかはわかりませんが、いずれにせよ…。
四国霊場をいくつも焼き討ちしたり、敵を騙し討ちにしたり…。
阿波での長宗我部元親は、
ともかく評判が悪い…。
丈六寺の近くを流れる勝浦川、その畔にひっそりと立てられている新開道善の廟所です。
■長宗我部家に酒宴と騙されて討ち取られた道善、いまわのきわにこんなことを言ったそうです。
『無念、酒好きのせいで不覚を取ってしまったわ。
俺の墓を参る者は、きっと酒嫌いになるだろう!!』
この言葉のおかげで、新開道善のお墓に参るものはどんな酒好きでも禁酒できるというご利益があるそうです。
酒に関する悪癖が直らない人は、お参りしてはいかがでしょう。
さて、境内に視線を戻すと…阿波細川家に関するさまざまな建築物が目を惹きます。この経蔵も、阿波守護細川家の当主・細川真之(ほそかわ-さねゆき)が寄進したもの。
細川真之が誰なのかは、阿波三好家衰退記をご参照のこと。
国の指定重要文化財・観音堂。
阿波細川家が敬虔な仏法徒であることを示すものですが、この観音堂がある周囲の雰囲気もたいへん良い。
阿波公方・足利義維もきっと、これを見上げたんでしょう…。
観音堂の奥に安置された、聖観音坐像。
一度は国宝に指定されましたが、あとになってなぜか重要文化財にランクダウンしてしまったという妙な経歴を持つ仏像です。
かなり緻密に、きれいに出来てる観音様なんですが…いったいなんで国宝じゃなくなっちゃったんでしょう。残念無念。
千年の時を越えて阿波民人の崇敬を集める古刹、阿波公方の庇護者となった阿波守護細川家の菩提寺・丈六寺でした。
【名称】 瑞麟山 丈六寺 (ずいりんさん-じょうろくじ)
【住所】 徳島県徳島市丈六町丈領32 【пz088-645-0334
【アクセス】JR徳島駅より徳島市営バス『五滝』行きで約30分・丈六北バス停下車、徒歩5分。
http://maps.google.co.jp/maps?q=徳島市丈六町丈領32
も参照のこと。
【駐車場】あり/無料。
【入場料】無料。
[評価]
見どころ☆☆★…『阿波の法隆寺』の異名を取る、県内でも随一の名刹にして古刹。ここは京都や奈良かと勘違いするような厳かで静かな雰囲気、美しい境内の景色や重要文化財の数々は必見。徳雲院の血天井は必見。
期待度 ☆☆★…長い長い歴史に裏打ちされた徳島県屈指の古刹。お寺参りが嫌いでなければ良い雰囲気を楽しめます。
団体客には宝物庫見学が許可(拝観料300円)されるので、そちらも事前に申し込んでおけば吉。
スリル ☆★★…お寺ですので、当然檀家さんのお墓があります。…が、夜間は境内立ち入り禁止ですので肝試しは他所でどうぞ。
バリアフリー度☆★★…屋外なので期待出来ないです。
総合評価 阿波公方ゆかりの史跡としては関連性は薄いものの、阿波の歴史をよりよく知るには格好の観光スポットだと思います。
■阿波公方家が征夷大将軍職を得るべく奮戦した阿波守護・細川家。その支援を得て再び京都へ戻ろうとする足利義維に、再び悪夢と悲劇が襲い掛かる。
しかし、義維はへこたれない。あの手この手を駆使して、何とか念願の将軍位を奪還すべく東奔西走します。
ですが、戦国時代も気づけばのこりあとわずか。織田信長の台頭に、果たして阿波公方家は栄冠を手にいれることが出来るのか!?
■郷土・徳島県に歴史の息吹を残し、源氏嫡流の誇りを忘れなかった阿波平島公方家の歴史を追いかける企画『阿波平島公方 征夷大将軍になりたかった男達』。
初代義稙・次代義維と続いた平島公方家の夢と希望を背負い、いよいよ三代目・足利義栄の登場です。
はたして足利義維は再び室町幕府の表舞台に返り咲けるのか。亡き養父・足利義稙の残した心残りの雲を拭い去ることが出来るのか。
そして、一族の念願である『征夷大将軍職』の行方は!!?
■亡父・足利義稙の無念と宿願を果たすべく阿波を出撃、泉州堺で政権を築いた阿波公方・足利義維(あしかが-よしつな)。
政敵でありライバルだった足利義晴を京都から逃げ出させ、義維の権威は日に日に赤丸急上昇。この調子なら、念願だった征夷大将軍推認も間違いない。
足利義教6×┳義勝7x
┣義政8x━義尚9x
┣義視x━義稙10x=義維o
┗政知x━義澄11x┳義晴12o(京都から逃亡中)
┗義維(義稙の養子に)
しかし。 (
;・`ω・´)そ
その夢と野望は、後ろ盾であった三好元長のあっけない死によって灰燼に帰し、義晴派閥の反撃を食った義維は涙を飲んで阿波へと逃げ帰るはめになってしまう。
阿波での亡命生活を後押ししてくれたのは、阿波守護職を歴任する阿波細川家の総領・細川持隆(ほそかわ-もちたか)と、三好元長の忘れ形見・三好長慶(みよしながよし)。
義維は気分転換に名を義冬(よしふゆ)と改め、細川持隆や三好長慶の援助を頼み、夢よ再びと室町幕府将軍位を狙った、が…。
足利義維あらため義冬の奮闘努力は、フーテンの寅さん以上に甲斐がなく、報われないものだった。
時の関白・九条稙通卿に支援をお願いに出向けば
『義冬殿、あなたも空気の読めない人でおじゃるな。』
とけんもほろろに断られたり、
浄土真宗の最高指導者・本願寺証如に上洛の支援をお願いしに赴けば
『そういうことは家臣に頼めば良いでしょう。ぶっちゃけ、迷惑です。』
とバッサリ断られたり、
それじゃあ息子の義栄(よしひで)を征夷大将軍に!!という運動を起こそうと思ったら、頼みの細川持隆と三好長慶に元服のための出費捻出を拒絶され、あっさり断られたり。
そうこうしているうちに、京都は再び義晴派閥の手に。
そして、義晴は征夷大将軍職を嫡男の義輝(よしてる)に引き継がせてしまった。
『やばい!!
阿波公方家の将軍職奪還作戦がこのままじゃ水の泡だッ…!!』
足利義教6×┳義勝7x
┣義政8x━義尚9x
┣義視x━義稙10x=義冬o━義栄o
┗政知x━義澄11x┳義晴12o━義輝13o
┗義維(義稙の養子に)
足利義冬は焦った。
阿波守護細川家や三好長慶をたきつけ、ふたたび上洛と将軍位奪還作戦を検討するが…支援者達の動きは芳しいものではない。
阿波守護細川家は実のところ、すでに三好長慶にクビ根っこをつかまれており実力が形骸化していたし、三好長慶は長慶で足利義輝に何度も命を狙われているというのに、彼の追い落としを図ろうとしない。
そう、この三好長慶という人、下克上の代名詞のように評される梟雄であるが…実はずいぶんと律儀で温厚な人柄だったのである。