堺・大阪戦国歴史案内 前編

2011年春、梅の花が咲く頃に赤髭は千利休の拠点だった大阪府は堺市に出向。戦国時代随一の自治交易都市だった『堺』の痕跡を求める旅に出かけたことがありました。

 11年大河『江』の初期から登場し、江姫が敬慕した戦国の覇者・織田信長に認められ、太閤秀吉の筆頭茶道、政治顧問にまで出世栄達した千利休とはどんな人物だったのか。また、彼らと縁が深く、戦国時代には日本屈指の繁栄振りを誇った一代交易都市・堺の町とはどんな町だったのか。


 大阪府堺市に今も残る千利休や織田信長・秀吉達の歴史史跡を辿っていきたいと思います。

 それでは、ご一緒して頂ける皆様のお時間を少々拝借。。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!

 

■さて、大河ドラマ『江』の初期に豊川悦司さんが好演、視聴者の皆様に強い印象を残した武将と言えば…もはや説明するまでも無いでしょう、戦国の覇者・織田信長。

 これまで赤髭も京都府・本能寺や滋賀県の安土城などを訪ね歩き、その智略や夢に描いた天下布武を想い追憶に浸ったものでしたが…豊臣秀吉のお膝元とおもわれがちな大阪にも、織田信長ゆかりの歴史史跡は数多く遺されていたことに気づきました。

 まずは、そのうちの一つである堺市・妙国寺へ御案内しましょう。

 堺市における日蓮宗の本山・妙国寺。

 戦国時代に数多くの武将達からの崇敬を集めた法華教の大寺院で、その起源は1562年(永禄五年)、近畿周辺九カ国に覇を唱えた戦国大名・三好家の実力者だった三好義賢が日b上人を開山として建立したことに始まります。


 

 今井家の納屋・津田家の天王寺屋といった当時を代表する豪商達の自治都市であり、日本最大の貿易都市だった堺の町を訪れた戦国武将は織田信長や徳川家康をはじめとして数多いのですが、彼らが好んで宿泊所として使ったのがこの妙国寺。

 


 明智光秀による本能寺の変が勃発し、織田信長が紅蓮の業火に消えた頃…徳川家康はこの堺・妙国寺に宿泊していました。

 同盟者であり義兄弟の関係に近い信頼と忠誠を誓っていた信長の死に絶望した家康は、この寺で後追い自殺を図りますが…時の住職・日b上人の機転によって本拠地・遠江国への脱出作戦に方針転換。無事撤退をすることができました。

 大河ドラマ『江』でも語られた伝説奇跡の逃避行「神君伊賀越え」は、この妙国寺から始まったのです。

 

 

 そして、その徳川家康や豊臣秀吉から畏敬の念で信奉されていた織田信長もまた、この妙国寺に面白いエピソードを残しています。


 その物語に登場するのが、妙国寺の境内に威容を誇る国の天然記念物
妙国寺の大ソテツ』です。



 
前右府、第六天魔王こと織田信長である。

 何、なんの用向きがあって来ただと?良かろう、わしは鬱陶しい前置きは大嫌いであるゆえ主題に入ろう。


 さっそくであるが…この記事を読んでおる者どもにくえすちょんじゃ。

 この妙国寺の大ソテツは樹齢千百年を誇る霊樹でな、戦国時代も健在であった。

 ゆえにこの信長も見物させて貰ったが…――見れば見るほど惚れ惚れするような巨大な蘇鉄であるゆえ、わしはある行動に出た。

 この織田信長が、妙国寺の大ソテツにいったい何をやったと思うか…次の三択から答えよ。


 ヒントは…――『織田信長は、常識外れな時代の風雲児』だったことかのう。


@妙国寺の大ソテツに敬意を表し、朝廷に奏上してソテツに官職を叙任させた。

Aソテツの幹に『織田弾正忠信長』と署名を刻み、「信長もこれにあやかりたいもの」と褒めちぎった。

Bあんまり立派なソテツだったから気に入って、無理やり引っこ抜いて安土城に持って帰った。






 …―――どれも信長がやりそうな行動ですが、正解は…。


…信長公、Hint出しすぎですね。正解はBです。



 あまりに見事な大ソテツに絶賛の言葉を表した織田信長、なんとこのソテツを根っこから引っこ抜かせて、遠く離れた滋賀県安土城まで持って帰ってしまったのです。


 しかし、その直後から安土城で怪奇現象が発生。

 夜になると、城内のどこからともなく


妙国寺へ帰ろう、妙国寺へ帰ろう…。』


 という囁き声が響くようになり、調査の結果それはこの大ソテツが夜な夜な嘆いている声であることがわかりました。

 気の短いことにかけては戦国随一な織田信長、『ごちゃごちゃ文句を言うな!!』と言わんばかりにこの大ソテツを切り倒してしまえと厳命、おっかなびっくりな庭職人が鉈を打ち込んだところ…―――次の瞬間、まるで動脈が切れたかの様にソテツの幹から大量の鮮血が噴出!!



 …あっという間に安土城の庭園は血だらけになり、さしもの織田信長もこれには顔面蒼白。


 

 こうして、妙国寺の大ソテツは堺の町に戻って来れた、というエピソードが今に伝わっています。





 他にも、妙国寺には1868年に土佐藩士とフランス人が衝突、多数の死傷者を出した『堺事件』の責任を取った十一人の土佐藩士が切腹した寺でもあります。



 寺内での観光案内を受けるとその事件の緻密な説明、そして彼らが切腹の際に大量の血を流した三宝や遺髪のほか、妙国寺が所蔵する伊達政宗や徳川家康・三好義賢にまつわる国宝級の歴史資料が展示された宝物蔵を見学可能。





 ここは当然ながら撮影禁止だったため写真は残っていませんが、戦国歴史の威厳を代弁するような素晴らしい品物ばかりでした。

 戦国武将や戦国歴史のFanなら、堺の町に来たなら絶対に見逃せない必見観光スポットのひとつと言ってよいでしょう。

(*-(,,ェ)-)oO( 有名な三好義賢像を生で見れた、三好Fan至福のひと時…♪ )

 


■さて、お次は大河『江』で名優・石坂浩二さんがひょうひょうとしたつかみ所の無い人格を好演している茶人・千利休にまつわる歴史史跡を御案内。

 千利休といえば侘び寂びの茶道を大成し、織田信長や豊臣秀吉の茶頭を勤めた茶人として知られる人物ですが、元はこの堺の町で海産物を商いする豪商『魚屋』(ととや)千利兵衛の長男として誕生、その家督を受け継いだ商売人でした。

 今となっては大阪府でも屈指の工業都市となってしまった堺ですが、こうして道すがらを訪ね歩けば、千利休が確かにこの町で暮らしていた名残、茶道の奥義をみきわめようと日々鍛錬修行に明け暮れていた痕跡を見ることが出来ます。





 そのうちのひとつがこの『千利休屋敷跡』。

 


 周囲は多種多様の店舗が軒を並べた商店街、その片隅にぽっかりと…――千利休が産湯を使ったという『椿の井』と、彼の屋敷後があったことを示す石碑がたたずむ領域が広がっています。








 今となってはこの通り、どこか侘び寂びを感じさせる空き地でしかありませんが…利休が居宅と侘びた茶室を設けたという伝承に惹かれ、その後も数多くの風流人や知識人がここに居宅をおき、彼の愛した茶室を何度も再現・建築したそうです。

 
 そして、この千利休屋敷跡から少し離れた路地に小さく石碑を残すのが、『武野紹鴎屋敷跡』。


 武野紹鴎(たけのじょうおう)とは、千利休が師事した茶道の先人で、利休が侘び茶のドンとして君臨する前の時代では彼が茶頭の筆頭格。



 利休が最初に師事した茶人・北向道陳(きたむきどうちん)と並び、その所作は千利休に大きな影響を与えたとされています。
 






 彼と同席することは茶数寄や風流人にとって最高の栄誉とされていましたが、千利休は少年時代からこの茶人筆頭のもとで侘び茶の鍛錬に明け暮れていたんだとか。

 


 お初にお目にかかります、手前は千与四郎…
茶道名を宗易、正親町帝から『利休居士』の勅号を拝命したものですわ。
以後、よろしゅうに。

 さて、わてが唐突に顔を出したのは他でもありまへん。
 信長公の二番煎じ、香りも味も薄うなったモンを客人にお点てするんは恐縮やけれども、ここでくえすちょんをするためにまかり越しましたんや。

 …ま、どうかお相伴のほどを。

 手前が少年時代に師事した武野紹鴎様がある日のこと、綺麗さっぱり、ちり芥ひとつとしてない庭園を指差して…手前に『庭の掃除をしておくように。』と仰りはったことがありましたんや。



 茶道の師匠が弟子に言うからには、これは聞き逃せんのやけれど…片付けようにも庭にはなぁんにもごみがあらへん。

 庭には手入れが行き届いたイチョウやモミジが紅葉しとってお見事さんやし、見たところ汚れたとこはみあたりまへん。

 さて、手前はこのあと…どないしたと思います?次の三択からそれっぽいのを選んでみなはれ。



@あぁ、これから師匠は『野点』(屋外で茶を点てる)をしようとしていると判断。茣蓙(ゴザ)や茶道具が汚れなくするため、細かな砂や土が舞い上がらないように庭へ水をまいて『掃除』した。

Aこれはごみ芥の掃除でなく、『野暮・無粋』の掃除。そう思い、わざと紅葉した木々をゆすって落ち葉を落とし、綺麗過ぎて面白みがない庭に風流をそえた。

B織田信長公も、小姓に向かって閉まってる障子を『閉めてこい』と言ったことがあるのを思い出して…――掃除をするふりだけをして、紹鴎に『掃除をした。』と報告した。




 …―――信長の質問で意地悪をし過ぎて、こっちは簡単になってしまいましたか。正解は…。


…高度な風流人同士の会話って俗物のそれとちがって小粋ですよね、Aです。


 この機転に感心した武野紹鴎、千利休の正式な弟子入りを承認したそうです。


 紹鴎は1555年に亡くなりましたが、その後も利休は侘び寂びの茶道に研鑽を重ね、のちに『侘び茶』の奥義を極め、茶聖と後世にその名を讃えられるようになります。


 後に秀吉の筆頭茶道に迎えられてからは茶の湯の指導者という枠だけになく、秀吉の政治顧問…ブレーンの様な存在となり、その発言力は豊臣政権下で大きな影響力を持つに至りました。


 

■さぁ、せっかく堺の町…茶聖・千利休の歴史と生涯を誇る町に来たのですから、ここは煎茶を頂かないと来た甲斐も無ければ風情もないというもの。


 かといって、本格嗜好の立ち居振る舞いを一から勉強して茶道の席に…なんていうのもこれまた、歴史観光ではちょっと難しい話ですよね。
( ・(,,ェ)・)



 そこで、皆様に御案内するのが堺市博物館です。



 堺市が誇る世界最大敷地面積の墳墓・仁徳天皇領をはじめとする古墳群や堺の歴史に関する展示物があり、常設・臨設展の面積も豊富なこの博物館、そちらを見学するのもまた歴史観光としては面白そうなのですが…。


 
 実はこちらの敷地内には、明治〜昭和期に建造された立派な茶室『伸庵』があり、立礼席(洋式のテーブル+椅子、畳の茶室ではない茶会)でお抹茶と茶菓子が頂けるんです。



 300¥と大変財布に優しい価格で侘び茶の風情を楽しめるこの茶室のほか、利休らと同時代の茶人・今井宗久の茶室をその発祥とする茶室『黄梅庵』。



 そして堺市が輩出した偉大な茶人・千利休と武野紹鴎の銅像をこの堺市博物館前で眺めれば、かつて信長や秀吉が愛した戦国時代の侘び寂び茶道、その歴史の匂いを感じられるかも。




 さて…大阪堺まで繰り出して、織田信長、徳川家康、千利休ゆかりの地を紹介しておきながら、難波大阪の顔たる太閤殿下・豊臣秀吉に関する史跡を御案内しない、となればそれは不敬というもの。



 長らく堺の町を練り歩きましたし、小腹も空いているでしょうから…
鎌倉時代から暖簾を受け継ぐ老舗で、豊臣秀吉がその屋号を授けたという甘味処
かん袋』に御案内いたしましょう。




 かん袋は1329年(元徳元年)に和泉屋徳兵衛が御餅司(餅屋)として創業したと言いますから、余裕綽々で創業六百年超え、あと二十年弱で創業七百年という歴史の古いお店。



 その名物である甘味『くるみ餅』は室町時代中頃(1420年頃)に日明貿易で堺の町に輸入された中国の農産物を塩挽きにして餅をくるみ、茶菓子としたのがはじまりとされています。のちに砂糖の製造がさかんになるとこれが加わって、現在のような甘味となったようです。

 




 『かん袋』という屋号の由来は戦国時代、豊臣秀吉の御世のこと。



 豪華絢爛な大坂城を建築するにあたり秀吉は堺の会合衆に献金を要求したのですが、1593年になって桃山御殿(伏見城)を築いた際、御殿が出来上がった際に『かつて献金してくれた御礼』と、堺の会合衆を招いたことがありました。



 この時に一緒に招かれたのが、時のかん袋主人・和泉屋徳左衛門


 見れば伏見城の天守閣はまだ建築途中、暑い太陽が照りつけるなか職人達は一枚一枚、屋根瓦をかついで昇降を繰り返しています。


  汗だくになって瓦を運んでいますが、重さと暑さのせいであまりはかどっていない模様。


『あー、こりゃあ終るに終らないぞ…。』

 そう思った徳左衛門、商人の身でありながら築城の手伝いを申し出ます。




 もし彼が、算盤はじいてるだけの貧弱なあきんどならどうってことはなかったのですが…何せこの時点で創業二百五十年な餅屋の主、日に日に練り上げる餅製造業のおかげでその筋力はただごとではありません。


 徳左衛門は屋根の上にいる職人めがけて、屋根瓦を一枚一枚放り上げはじめました。



 時の天下人・豊臣秀吉が住む城ですから、屋根瓦だって重厚。


  職人が一枚持つのがやっとという屋根瓦を、徳左衛門は得意の怪力でぽんぽんと投げ続けたのです。



 風にあおられ、青空を飛翔する屋根瓦はまるで風に吹かれた紙袋のよう。


 この荒業に度肝を抜かれた秀吉、和泉屋徳左衛門の豪腕を大いに絶賛しました。




『春風に散るかん袋(紙袋)のようである。以後、その方の屋号を"かん袋"と名乗るが良し』。




 それ以降、店の屋号は太閤命名による『かん袋』となり、現代に伝わっているのだとか。
 



 …――さて、その太閤秀吉が絶賛し舌鼓もうっただろう『くるみ餅』なのですが、名前からして胡桃(クルミ)なんだろうと思いきや、見た目は鮮やかな緑色のあんが掛かった白い小餅といった風。


 …おーらい、あんにくるまれているから『くるみ餅』。





 ぱっと見は『ずんだ餅』と良く似ています。


 和泉屋が利用した中国の農産物とは枝豆だったのでしょうか?
 ( =(,,ェ)=)oO( ミスター生き地獄。)



 かん袋さんは知る人ぞ知る大阪でも名物の甘味だそうで、昼の二時過ぎに来たというのに、店前までお客さんの列がはみ出るほどの大盛況。


 店内は幾つかのテーブル席が設けられていましたが、くるみ餅を食べに来たお客さんで商売繁盛、超満員でした。





 『くるみ餅』は持ち帰り可能なのですが、店内だけでしか食べられない『氷くるみ餅(くるみ餅にカキ氷が乗ったもの)を求めて、たくさんのスィーツ好きが集まって来たせいのようです。



 お味の方はといえば…――見た目の強烈に甘そうな雰囲気とは裏腹に、豆系のあんの甘みはあっさりとしています。


  そして、餅の方も元が餅屋だった和泉屋さんだけに上品。


 つるつるしていて、噛んでも絡まないし飲んでも喉越しが良く、それでいて丁度良い柔らかさが魅力。



 なるほど、これなら舌の越えた平成の甘党も納得でしょうし、太閤秀吉も手離しで絶賛すること間違いなし。さすがは創業六百年の歴史と伝統が保障するスイーツです。



 堺歴史観光に休憩を入れて一休み、とするなら丁度良いかも知れません…。


堺・大阪戦国歴史案内 後編





トップへ戻る