郷土徳島が生んだ傑 三好家と阿波公方リベンジ【後編】


■前回は徳島県の城跡でも屈指の良物件・徳島市一宮城を御紹介しましたが…今回は三好家の歴史に深い関係のある武将達や彼らが戦国時代に織り成した熱戦譜をたどるため、一気に徳島県西部を目指します。

 まずは徳島自動車道に乗り、一路を西へ…脇町Icへ。そこからは県道12号線、通称『撫養街道』と呼ばれたかつての主要大路を走ります。

 最初の目的地は『岩倉城址』です。徳島県美馬市脇町、かつて戦国時代、阿波徳島の西部区域を押さえる要衝であり三好家統治の拠点だった城です。

 県道12号線から『こっちが岩倉城です』という看板がこと細かに出て居ましたが…道は四国の山間部らしく細い入り組んだ道。ステップワゴンでは辿り着けないのでは、とか考えて居ましたが…。














 ようやくそれらしき場所に到着。ここからは徒歩、とあるので車を降りて移動を開始…。

















 桜の花の季節、やや見頃を過ぎた間もありますが…これも城巡りによる自然景観見物の醍醐味です。

















 前回の一宮城は麓から本丸へ辿り着くまでに結構な距離を歩きましたが、岩倉城も山城、かなりのものだろうと覚悟してましたが…こちらはあっさりと本丸跡に到着しました。






 岩倉城本丸跡。かつてはここに戦国大名三好家が阿波西部を抑えるための重要拠点と位置づけていた堅城・岩倉城が存在していました。城主は三好長慶の叔父にして三好家一門の最長老・三好康長(みよし-やすなが)。


 三好康長は『阿波三好家終焉記』ではこてんぱんな扱いだった三好長治の大叔父にあたり、彼の死後は事実上の三好家筆頭として長宗我部元親と激闘を演じました。

 康長は織田信長・羽柴秀吉といった実力者とも交友があり、彼が上洛して留守の時には、嫡子である三好康俊(みよし-やすとし)が城主を務めましたが…。


 後に長宗我部家による阿波侵攻が始まると、康俊は一度は長宗我部家に膝を屈したものの…1582年、織田信長や父康長による四国討伐が始まると康俊はこれに呼応。


『あの織田信長が四国征伐に動くのなら、今こそ三好家の意地を見せる好機!!もう一度兵を挙げて、長宗我部の田舎侍を討つのだ!!』


 と、三好家の意地を示そうと岩倉城で挙兵したのですが…運悪く本能寺の変が起こり、織田信長が死去!!…だなんていう、超弩級のアクシデント発生。


 四国征伐は当然、お流れとなり…三好康俊は長宗我部家に岩倉城を攻め落とされ、切腹して果てました。( -(,,ェ)-)運悪い…。


 この画像の隅にある古い墓石こそが、その康俊の墓だとされています。


















 そして、康俊の死から三年後。1585年、豊臣秀吉による長宗我部家討伐軍が四国を攻撃した際には、この岩倉城には秀吉の甥で三好康長の養子となっていた羽柴秀次の軍が到来。康長は間接的に息子のリベンジに成功しています。






 長宗我部家と三好家が誇りを掛けて激突、齢七十を過ぎていた不屈の老将軍・三好康長の意地と戦国武将としての浪漫が名残を残す岩倉城址でした。





■岩倉城跡
【住所】
徳島県美馬市脇町田上


【地図】http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?x=482881.051&y=122652.051&scl=500&memo=1&
tab=cz_07sta&lk=&msz=&svp=&ex=482881.051&ey=122652.051


【交通アクセス】
車でのアクセス
徳島自動車道 脇町IC → 国道193号 →徳島県道12号 → 日本フネン前右折(看板が出てます)



【駐車場/料金】なし/案内看板が「ここからは徒歩で」となっているものを発見できたら、その附近の路肩にスペースはあり。


【私見/城跡としてのランク】ランク☆☆★★★。(5つ白星満点)
 説明看板がひとつありますが、城跡の遺構は見た感じ把握できません。周辺が既に開発され、本丸があったと推測される場所のみが残っています。




■さて、岩倉城址が終ったら…再び県道12号線に戻り西進、重清(しげきよ)城址を目指します。


 阿波国西部の重要拠点として岩倉城とは双璧を成した重清城跡は、今の重清西小学校をやや北に上った田園風景の中にぽつねん、と佇んでいます。







 一見すると、また城跡石碑と立て看板だけ…に見えますが、実はこの重清城址。


 前回御紹介した一宮城の石垣級に保存度が良い、全国的に見ても珍しい遺構を見ることが出来ます。

 そのうちの一つが、この空堀(からぼり)

 空堀とは水を張っていない溝だけの堀ですが、これがあることによって城を攻撃する側は雑兵が足を取られ、籠城軍はそのスキを狙って弓矢や槍で攻撃できる、山城ではお馴染みの仕掛けなのですが…。


 この重清城、周囲は田園や民家が多いのに、その空堀二重が奇跡的にも現代に残されているのです。


 写真の赤い部分が、二重に掘られた空堀の溝。

 四百年間、既に城の本丸や櫓はなくなりましたが、戦国時代の気風を残す堀が風化せずに残っているというのは本当にありえないこと。





 空堀は過去に御紹介した高知県の岡豊城や一宮城にもありましたが、既に自然侵食による風化が始まっていました。



 重清城は周囲を民家に囲まれている位置条件、よくこんな空堀が平成まで残ったものです…。


■長宗我部家の阿波侵攻が始まった際、この重清城を守っていたのは小笠原長政(おがさわら-ながまさ)


 ここより西にある白地城が長宗我部元親に攻め落とされると、この重清城が敵軍の攻撃の矢面に立つことになったのですが…長政は家来達と共に奮闘し、長宗我部家を寄せ付けませんでした。


 力攻めに失敗した長宗我部家は、長政に和議を結ぶべく使者を立てたのですが…はなから降伏することは考えていない小笠原軍、話し合いは平行線が続きます。


 長宗我部軍側の使者は、かつて白地城主で三好家一門衆だった大西覚養(おおにし-かくよう)。早く手柄を立てて元親の覚えをめでたくしたい覚養、幾ら話し合っても一向に城を明け渡そうとしない小笠原長政を疎ましく思い始めます。




 『えーい、手段は選んじゃ居られねーやな。重清城は長政のカリスマだけで持ってる。あいつさえ居なきゃ…――よし、伝家の宝刀抜くか!!(゚∀゚)』



 長宗我部家の伝家の宝刀…――またか!!と視聴者の皆様もお思いでしょうが、実際やっちゃったんだから仕方ない。



 次の和議交渉の際、密かに短刀を隠し持っていた大西覚養は長政が首を振らないと見るや、舎弟に命じていきなり、グッサリと脇差の一撃をお見舞い。
 
長政の子も時を同じくして覚養の討手に倒れ…重清城は長宗我部家の軍に攻め落とされてしまいました。



 今回は大西覚養の暴走みたいですが、流石に三回も起こると長宗我部家からの話し合いのお便りには返事したくなくなって来ますね…。( =(,,ェ)=)


 


 さて、重清城址が他にない保存度を誇るもの…もう一つがこの『井戸』です。




 井戸 跡 じゃないのはなぜかと言えば…実はまだ、水が枯れていないんです。


 外側は近世になってコンクリートで補強していますが、井戸の内部に積み上げられた石垣は四百年以上前、重清城が築かれた当初のもの。

 底を上から覗き込むと、澄んだ水面がしっかり光ってるのが見えます。深さ7.8m、城が無くなってしまった今でも水深2mを誇る堂々とした井戸です。








 小笠原長政も、この井戸で汲まれた水を城兵達に振舞って、長宗我部家の攻撃を耐え抜いたのでしょうか…。



 彼の不屈不当の武名と悲壮な最後は、今も重清城址内の小笠原神社で祀られています。



■なお、余談になりますが…小笠原長政の死後、重清城主には大西覚養がなりましたが、後に三好宗家の総領となった十河存保(そごう-まさやす)が怒って重清城を攻撃、覚養は逃げ出す途中に雑兵たちによって斬殺されました。


 裏切り者の末路かくの如しで、当時の人達も『大西覚養は裏切りの末にあの最後だ、まさに"恥を覚養(はじをかくよう)"ってやつだな。』と彼の最期をあざ笑ったそうです。



 三好一族が弓矢では土佐長宗我部家の勇者達に引けを取らなかった激戦地、四百年の時を超えてなお戦国時代の城砦風景を遺す重清城でした。





■重清城跡
【住所】徳島県美馬市美馬町


【地図】http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34.04629863&lon=134.01595493&sc=3&mode=aero&pointer=on&home=on&
hlat=34.01151389&hlon=134.13016194

【交通アクセス】
車でのアクセス
徳島自動車道 脇町IC → 国道193号 →徳島県道12号 → 重清西小学校を過ぎて二つ目の信号を右折し、すぐ右側の急勾配な坂を上がり、あとは道なりに北へ。



【駐車場/料金】なし/城跡付近の道路は路側帯に駐停車可能。


【私見/城跡としてのランク】ランク☆☆☆★★。(5つ白星満点)
 今は閑静な田園+疎らな宅地があるのみですが、二重の空堀や当時の井戸といった遺構がそのまま残されているのは奇跡的。敷地内の桜は○。
 ただし、歴代城主小笠原家を祀った神社は傷みがひどく、崩壊も時間の問題級…。






 さて、重清城址が終ったらお次はいよいよ"三好"の名を冠する三好市へ。今まで話題になりそーでなれなかった三好家の巨頭・三好長慶ゆかりの寺院へと向かうのですが…せっかくですから、彼が生誕したとされる場所に寄っておきましょう。


 三野町芝生(しぼう)交差点、眼前に橋が見えてきたら…その直前を右折。あとは道なりに進めば、戦国大名三好家の本拠地だった芝生城址が見えてきます。







 もっとも、今は江戸時代の開墾・治水事業で芝生城の遺構はほぼ壊滅してしまってます。かつて、このあたりが本丸だったとされる近辺の道の路肩に大きな看板がたたずむのみ。

















 しかし、この場所にかつて徳島県西部でも最強の土豪・阿波三好家の拠点があり…この近くにあったのだろうお屋敷で、後に室町幕府をあやつり人形にして覇権を握った戦国大名・三好長慶が生まれたと思えば。

 郷土の英雄を讃える名残を探す旅ならば是非、その場に立って…過去の栄華を思うのも悪くない趣向じゃないでしょうか。













■芝生城跡
【住所】徳島県三好市三野町芝生


【地図】http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?x=482881.051&y=122652.051&scl=500&memo=
1&tab=cz_07sta&lk=&msz=&svp=&ex=482881.051&ey=122652.051



【交通アクセス】
車でのアクセス
徳島自動車道 脇町IC → 国道193号 →徳島県道12号 → 三野町芝生交差点右折(看板が出てますので要観察)


【駐車場/料金】なし/説明書き看板のある道は駐停車可能区域。


【私見/城跡としてのランク】ランク☆☆★★★。(5つ白星満点)
 江戸時代の開拓事業の結果、遺構は完全になくなっています。ただ、結構大きな看板に郷土愛と三好家を誇る説明文があるので贔屓目に☆二つ。眺めは山紫水明、○。



 さて、郷土の英雄・三好長慶生誕地を見たのなら…せっかくの三好巡りの旅、お墓参りも是非やっておきましょう。長慶の墓は大阪府の真観寺や京都の大徳寺など数箇所ありますが、この徳島県にも分骨墓として五輪塔が残されています。


 かつて阿波守護小笠原家・その末裔である三好家の崇敬を集め、あの弘法大師が開基と伝わる古刹・瀧寺(たきじ)へと御案内。芝生城から県道12号線を逆戻りすれば、運転席から見て左手側に案内表示看板が見えてきます。


 瀧寺へと続く道の途中にある三好長慶を敬慕する看板。『織田信長が頭を下げた!』とありますが…。

 織田信長は1559年、桶狭間の合戦の一年前に上洛していて…時の将軍・足利義輝に拝謁。ついで堺の町を訪問していますが、この時に将軍や堺の会合衆(えごうしゅう。堺の町を支配する会議の議員さん)と信長を引き会わせるため仲介役となったのが三好長慶。


 たぶんこの時、信長も『将軍や堺のお偉いさんと会いたいからアポ取って。』と長慶に頭を下げてるはずですから、言いすぎってわけでもなかったりします。( =(,,ェ)=)数少ない長慶と信長の接点。

 瀧寺に到着しました。駐車場は桜の花咲き乱れる山麓にありますが、本堂まではかなり急勾配な道を歩かないといけないので、足腰に自信がないなら山頂まで自動車で。

 ただし、びっくりするよな急傾斜&エアロ泣かせの道ですので、車が大事な人は要注意。




















 本堂に到着。

 真言宗の名刹として普段は参拝客で賑わい、国宝(と言ってますが実際には国の重要文化財)・聖観音立像…通称『目引き観音』が開帳される1月29日にはたくさんの人が集まるのですが…あいにくの空模様、境内に人気はありません。


 そんな人気の無い寂しい境内のまだ奥…本堂の後方側面の僅かなスペースに、信長を震撼させた天下人・三好長慶の墓がたたずんでいます。



 隣の供養塔は子孫の方が建てられた様子。苔むした五輪塔には長慶の名前や戒名を読み取ることは出来ませんでしたが…――今も三好長慶の末裔達は連綿とその血を受け継ぎ、徳島の地にかつての覇者の名を伝えているみたいです。






  瀧寺の由来となった、二つの滝。そのうちの一つが、この龍頭(りゅうず)の滝で…ここから少し遊歩道を登った先にあるもう一つの滝が、金剛の滝です。
 















 



 20mの落差から流れ落ちる迫力ある瀑布。十二歳を最後に徳島へ戻らなかったという長慶も、少年の頃にはこの滝を見上げて……三代続けて切腹した三好家累代の総領たち…非業の最期を遂げた父や祖父、曽祖父達のことを思っていたのでしょうか──…。



 この阿波徳島を十二歳で出て、天下の覇者たる席を得るも晩年に恵まれなかった三好長慶と、長慶死後の三好家を支えきれなかった一族・家臣達…そして阿波で復活の牙を研ぎ続け、ついに将軍位を射止めた阿波公方家。


 歴史の勝者となり、そして敗者となっていった郷土の戦国武将たち。


  しかし、徳島の各地に残された過去の跡を延々と辿っていけば…そこには負けて消えていった敗者の無様だけではなく、敢闘し…智略を張り巡らせ、忠誠と信念を貫いて生きてきた三好家の信念を見ることが出来ました。


 その思いは郷土の人達が連綿と受け継ぎ、今の世へ確かに伝えていました。











 流れ続ける…この、滝のように。




 後に九カ国の太守となり、室町幕府の将軍すら操り人形とした稀代の梟雄・三好長慶の霊を弔い、過去の三好家の栄光を滝の流れ落ちる水音に乗せ響かせる真言宗の古刹・瀧寺でした。





■萬念山 瀧寺


【住所】徳島県三好市三野町大字加茂宮1796
【пz0883-77-2486
【交通アクセス】徳島自動車道 美馬IC → 徳島県道12号 → 運転席から右側の路肩に案内看板あり。そこを右折後あとは道なりに北上。


【駐車場/料金】あり/無料


【施設営業時間】
 寺院ですが、宿坊があるようですので深夜の参拝は控えて下さい。


【開館時間/料金】
年中無休/無料。1月29日の目引き観音像開帳の日は大混雑が予想されます。要注意。





 さて、これで『郷土密着型歴史Fanが愛する、地方歴史観光案内』シリーズVol.1、通称『阿波三好家・阿波公方家リベンジ』は終了です。以前のままではリスペクトも郷土愛も、歴史情緒も充填出来るものとなったと思っておりますが…。


 せっかく徳島県の西部山間まで来たんですし、この地区でも一番の観光名所を素通りするっていうのも何ですよね。( ・(,,ェ)・)


 そこで瀧寺から県道12号線を逆戻りし、美馬市脇町まで戻ったら…あの有名な言葉の語源となった観光名所を御紹介し、駆け足気味だった足利-三好リスペクトの旅の最後に華を添えたいと思います。



 まずは、駐車場の確保からですが…――その観光地、実は自前の駐車場を持っていないんです。こういうときに役に立つのが、御存知『道の駅』。前回に『公方の郷なかがわ』を御紹介しましたが、今回は脇町にある『道の駅・藍ランドうだつ』へ御案内。



 もっとも、徳島県西部でも著名な観光名所から100mと離れていない立地条件。『藍ランドうだつ』には他の観光名所で見られるような郷土特産品や生鮮野菜などの直売などは行われていません。



 ですが、藍の町・脇町の風景に溶け込んだ土産物兼レストラン『藍蔵』など、歴史巡礼の旅の帰りに立ち寄るには丁度良い物件もありますし…ただ駐車場に止めるよりも見所や買い物ポイントはありますので、御参考までに。




■道の駅 藍ランドうだつ
【ホームページ】
http://kanko.travel.rakuten.co.jp/tokushima/spot/S36010259.html?s_kwcid=TC|16677|%E9%81%93%E3%81%AE%E9%A7%85%20%E8%97%8D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%86%E3%81%A0%E3%81%A4||S|e|6557244845(楽天トラベル)
【住所】徳島県美馬市脇町脇町55
【пz0883-53-2333
【交通アクセス】JR徳島線穴吹駅から徳島西部バス西村行きで7分、脇町道の駅下車、徒歩5分
上記ホームページまたは 
http://map.gnavi.co.jp/search_ss.php?scl=25000&pg=10&nl=34.063313&el=134.150255&lk=36 を参照のこと


【駐車場/料金】あり.45台/無料


【施設営業時間】
レストラン:午前11時〜午後2時
土産物店:午前9時〜午後6時
(駐車場・トイレは24時間)


【開館時間/料金】
年中無休
●有機栽培コーヒー300円/●阿波尾鶏のせいろセット970円


【バリアフリー施設】
身障者用トイレ○ 館内エレベーター(平屋) 車椅子に乗ったまま入場可能。
障害者用駐車場○


 道の駅『藍ランドうだつ』から徒歩で100mも行かない距離に広がっているのが…徳島県の観光地としてもお馴染み『うだつの町並み』。


 『卯建(うだつ)と呼ばれる、白亜の塀壁がずらり並んだ南通りはかつて阿波徳島藩でも繁栄を極めた藍商人達が軒を連ねていた場所です。

 




 これが、うだつ


 藍商人達は本来は隣家の火事から家を守るための防火壁でしかなかったうだつに勇壮な美観を加え高く掲げることを誇りとし、競い合うようにして綺麗なうだつを増設していきました。




 いつまでたっても儲からずに、うだつを造ることが出来ない様を『うだつが上がらない』と表現した慣用句、その語源となったのがこの脇町・うだつの町並みなのです。



 藍商人のお膝元として栄えたこの脇町、もとは吉野川沿いの商業拠点、川湊(かわみなと)と呼ばれた港町の一つ。元々は三好長慶の時代に、街の基礎が出来上がりましたが…。



 戦国時代終盤、三好家と長宗我部家との争いで戦火に焼け、川湊だった脇町はほぼ壊滅状態となりました。( ・(,,ェ)・)いよいよ疫病神でしかない長宗我部家の皆さん。



 しかし、後に徳島を治める大名として入封した蜂須賀藩が脇城を阿波九城の一つ、阿波統治の要衝と定めると、脇城城主となった稲田稙元(いなだ-たねもと)のもと、藍商人達が街を徐々に復興させていきます。


















 藍産業は蜂須賀藩の財政を担うほどの一大産業となり、脇町の賑わいは阿波国随一とまで讃えられるようになりましたが…それも明治維新を迎える頃には衰退し、今のような閑静なうだつの街並みだけが残ることとなりました。



 かつての藍商・佐直の屋敷跡。内部では藍製品を販売しているほか、藍商人の仕事振りや繁栄した資料を展示する小博物館となっています。


 


 さて…徳島県西部を代表する観光地に来たのなら、せっかくですし徳島県西部由来の郷土料理をご紹介しておきましょう。

 うだつの町並みで郷土料理・甘味処の看板を上げている『茶里庵(さりあん)さんにお邪魔してみます。



 …――って、暖簾を潜ろうと思ったら…テレビカメラと撮影班に鉢合わせ。

 どうやら、大阪のローカル番組が『徳島県観光特集』みたいなコーナーを撮影していたとのこと。



 サインを貰った!!と喜んでいる店主と思しきお姉さんに聞いたところ『ますだおかだ』のますださんが来ていたとか。
( ・(,,ェ)・)歌が上手な、ちっさい方の人ですね。



 この店の名物・うだつの上がるお煎餅を食べていったそうです。

( ・(,,ェ)・)M-1で優勝歴もあるますだおかださんならもう、うだつが上がってそうですが…。



 うだつの上がるお煎餅、知名度は高く…今までにチュートリアルさんやブラックマヨネーズさんも番組企画で来店し、この煎餅を味わったのだとか。ちなみに彼らがM-1で栄華を獲得したのはその後のことだそうで…。


 
ひょっとしたら、『うだつの上がるご利益』は充分に備わっているのかも知れません。


 とりあえずひとつお土産に購入して…茶里庵さん自慢の郷土料理を頂いていくことに。













 徳島県の郷土料理・蕎麦米汁(そばごめじる)です。

 …普通に全国区で給食の献立になるそば米汁ですが、実は徳島県西部の特産品・蕎麦を使った郷土料理だったんですよ。





 徳島県西部、山深い地域では水田による稲作が難しかったため、昔から蕎麦の栽培が盛んでした。


 きっと三好一族や長慶も、この地域の蕎麦を使った料理に舌鼓を打ったはず。



 B級グルメにも名乗を上げていた蕎麦米汁ですが、茶里庵さんの蕎麦米汁はあっさりしたかつおだしベースの汁に、多種の野菜やお餅を加えたボリューム感満点の一品。




 写真だとサイズがいまいち伝わりませんが、女性やお子様には完食は難しいのではないかというくらいのたっぷりサイズですので…


 これで食後にあたたかな珈琲か、甘味と酸味が丁度良い爽快感のすだちジュースがついて1000¥というなら、物足りなさ感が強い郷土料理ジャンルでは満足感も納得です。

(ただし、蕎麦米汁)という以上、『そば』が使われていますので…当然ですが、そばアレルギーのある方は重々ご注意を。)




■脇町 うだつの町並み


【ホームページ】http://www.city.mima.lg.jp/4/64/000251.html
【住所】徳島県美馬市脇町
【пz-
【交通アクセス】上記ホームページを参照のこと


【駐車場/料金】うだつの町並み自体は駐車場を有していませんが、前掲の『道の駅 藍ランドうだつ』から徒歩一分です。


【施設営業時間】
町並み自体を眺めるだけなら年中無休ですが、町並みに軒を連ねる各店舗にはそれぞれ営業時間・休業日あり。


【開館時間/料金】
年中無休(うだつの町並み自体)/無料


【バリアフリー施設】
町自体は今も何世帯かが生活をしている区画ですので、バリアフリー等は施されていません。




■茶里庵
【ホームページ】
http://e4.yapy.jp/shop/452410/ (ヤッピーグルメナビ)
【住所】徳島県美馬市脇町大字脇町132-5 脇町うだつ通り
【пz0883-53-8065
【交通アクセス】上記ホームページを参照のこと


【駐車場/料金】なし/うだつの町並みは駐停車禁止区域。道の駅からどうぞ。


【施設営業時間/定休日】
10時 〜17時(LO16時30分)/不定休の模様。






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