長宗我部 四国覇者追跡記編】







 『長宗我部元親』の生涯、その魅力に迫るべく彼と歴史の縁が深い名跡を巡礼していく旅を企画『長宗我部元親 四国覇者追跡記』、今週はついにその後編、最終話をお届けいたします。



 そして、並立企画である『一泊二日を予算一万円で乗り切れるか?』も今回で最終結果報告。

 果たして、周防長門は本当に二日間を一万円で乗り切り、長宗我部元親ゆかりの地を全部巡礼し、予算残額で無事に徳島県へ戻って来られるのでしょうか?


 それでは企画『長宗我部元親-四国覇者追跡記』後編・最終話のスタートです。






□豊臣秀吉軍の前に完全敗北した長宗我部元親。四国の覇者たらん矜持を見せるべく奮闘するものの、上方と四国では戦事情が十年は時代遅れ。最新武装で大軍勢、新進気鋭の豊臣軍の前に土佐侍は総敗北し、結局は阿波・讃岐・伊予を豊臣家に没収されて降伏。








十年かけて築いた四国覇者の地位を、あっけなく手離すことになる。




 その後の長宗我部元親は豊臣家の一員として行動するが、もはや四国覇者の面影はない。




1586年12月、豊臣秀吉が大友宗麟の救援要請を受け九州の島津義久征伐を決定すると、元親はかつての好敵手だった十河存保と一緒に先発隊として豊後国に上陸。

 言ってしまえば、豊臣秀吉軍の露払いである。その軍勢も僅か二千足らずで、かつては四万の軍勢を指揮した四国の覇者としては寂しい限り。



 しかも、総大将でもない。今回は秀吉の側近・仙石秀久の指揮下という扱いだ。秀久は秀吉が信長家臣だった頃からの古参だが、実は以前に彼が率いる豊臣軍を讃岐引田でコテンパンにやっつけたことがあるのが長宗我部元親。
 一度は負かした相手が上司となった元親の心中、穏やかなはずはないが…そこは降伏した身の悲しさ。




 島津軍の攻撃を受けていた大友家の鶴岡城と利光城救援に向かうが…その途中にある戸次川で島津軍と対峙。



 しかし、軍鑑だった仙石秀久が無謀な渡河作戦を立案。





 規模も戦力も把握していない敵軍を前に河を渡るという、自殺行為以外の何者でもない作戦に長宗我部元親と十河存保は苦言を呈するが、仙石秀久は言葉を容れない。



『そんなに命が惜しければ、俺の後ろで震えてろ。』



 ここまで侮辱されては黙っては居られない。長宗我部元親と十河存保は戸次川を渡るが、やはりというかイヤな予感的中というか、島津軍の伏兵に襲われて先発隊は壊滅。



 仙石秀久はまっさきに逃げてしまったため、戦場に取り残された長宗我部元親軍・十河存保軍は壊滅の危機に立たされる。



 



 『父上、ここは信親が引き受けます。退却して下さいッ!!』



 鎧兜に身を包んだ二十二歳の若武者が叫ぶ。元親が寵愛していた嫡男・弥三郎信親だった。すでに先刻、十河存保が討死したとの報が入り、周囲には敵しかいない。



 信親は自ら捨石になるつもりで島津軍に突っ込んでいった。



 かくして、元親は命からがら戦場を脱出するが…次の時代を背負って立つ後継者・長宗我部信親は島津軍を相手に阿修羅のごとく奮戦、着用していた鎧兜や刀がぼろぼろになるまで死闘を続けた末、討死を遂げた。




 享年二十二歳は、皮肉なことに父元親が初陣を遂げた記念的な年齢でもあった。
また、信親の最後の突撃に従って冥土を逝った家臣達は数知れず。



 桑名親光、福留儀重、依岡左京…いずれもまだ若く、次の長宗我部家を背負って立つ期待の若手ばかり。



 長宗我部元親に信親戦死の報を伝えたのは、谷忠澄。
 元親はその報を聞くや、即座にその場で自害しかけたというほどの悲憤ぶり。



 長宗我部家はこのとき、既に半分滅亡したと言っていいほどの大損害を受けた。



 世に言う『戸次川の合戦』である…。






■豊臣秀吉に屈服した長宗我部元親を襲った悲劇、戸次川の合戦で討死を遂げた嫡男・長宗我部信親の墓がある雪蹊寺です。

 
雪蹊寺は長宗我部家の菩提寺で、元親の法名である雪渓恕三大禅門定に寺名の由来を持つ古刹です。

 四国八十八箇所の第三十三番札所のため、境内はお遍路さんの姿が。





 
境内には厳かな信仰の雰囲気、四国八十八箇所霊場では珍しい禅宗(臨済宗)のお寺である雪蹊寺。






 巡礼のお遍路さんが唱える真言が、静かな秋の空気に響いてきます。




 以前少しだけ巡った八十八箇所参り、そのさなかに何度か見かけた小僧さんともここで再会。








 『良い笑顔なんだけど目が死んでる』というこのひそかなギャップがたまりません。(*-(,,ェ)-)






 
こちらに立ち寄ったのは、長宗我部元親最愛の嫡男・信親のお墓があるからなのですが…周囲を一見したかぎりでは、それらしきものが見当たりません。








 
『はて、長宗我部信親殿の墓はどこなんだろう…』と、きょろきょろしていたらこんな案内看板が。

 どうやら彼のお墓は人目につかない寺の裏手にあるようです。









 長宗我部信親公の墓を発見。静かで涼しげな場所に、彼は冥っています。



 傍らには、戸次川合戦で討死した者の供養塔が。


 元親の信頼を受け、未来の長宗我部家を背負っていくはずだった若き俊英たち…。

 そして長宗我部元親の好敵手だった十河存保も、ここで慰霊を受けています。



  戸次川での信親の奮戦はすさまじかったらしく、愛刀の左文字を一振りすれば島津軍の足軽を八人薙ぎ払ったというから、まさしく『リアル戦国無双』。





 薩摩隼人達をもしり込みさせる阿修羅のような太刀周りは最後の最後まで、命が尽きる瞬間まで敵を寄せ付けなかったそうです。



 それもすべては、父・長宗我部元親を逃がすため。



 元親の家臣・谷忠澄は島津軍と交渉し、信親の遺体を受け取ったそうですが…その姿を見るや、そのひどさに涙を流して悲嘆。信親のからだは、一端の戦国武将が泣きたくなるほどボロボロになっていたそうです。






 忠澄は信親の骸を火葬にして荼毘に付すと、形見の品として左文字の刀と具足だけを持ち帰り、元親に見せたとか…。






 長宗我部元親の寵愛と長宗我部家の未来を背負っていた若き大将・長宗我部信親の眠る雪蹊寺でした。






【名称】  高福山雪蹊寺 (こうふくざん-せっけいじ)
【住所】  高知県高知市長浜857-3 【пz088-837-2233
【アクセス】南はりまや橋から高知県交通「長浜」行き乗車、「長浜出張所」下車後、徒歩約3分
   
http://drive.yahoo.co.jp/route/preview?sid=SS5tcnbITnPcpIQr8PP18MKM91_H9n5s6vyApl2exq (JR高知駅から)
【駐車場】あり/無料。
【入場料】無料。



[評価] 
見どころ☆☆★…長宗我部家の菩提寺にして、元親最愛の息子・信親の冥る寺。長宗我部Fanなら是非、お参りしておきたい場所です。
期待度 ☆☆★…八十八箇所のお寺の中では規模は狭いほうですが、静かで落ち着ける雰囲気。
スリル  ☆★★…特筆事項なし。お寺なので夜の怖さは当然ありますが。
バリアフリー度☆★★…屋外なので期待出来ないですが、車椅子での境内見学は可能だと思います。信親公のお墓を参るのは、ちょっと難しいかもですが。



総合評価 前々回にご紹介した秦神社の隣ですので、二箇所を同時に参拝するならば一挙両得。見る価値はあると思います。






□結局、豊臣秀吉の九州征伐は自身を総大将・豊臣秀長を副将とした総勢二十万というすさまじい物量作戦の前に島津義久が白旗を振って降伏、これまたあっけない終幕となった。







 長宗我部元親は失意のまま土佐に戻るが、岡豊城には嫡男・信親との思い出が多すぎて居たたまれない。ちょうど時代は豊臣政権の安定期になり、岡豊城のような山城はあまり必要とされない時代だった。



 『本拠地を変えよう…。』



 嫡男の死後、すこし無気力になっていた元親。1588年、居城を大高坂山城(現在の高知城周辺)に移すが、大高坂山は川が多く水害も激しいという本拠地には向かない土地柄。1591年には桂浜の浦戸城へとふたたび居城を替えた。



 この浦戸城が、長宗我部家最後の本拠地となる…。






■長宗我部家最後の居城となった桂浜は浦戸城ですが…これがなかなかに辿り着けません。



 明確な場所を知らなかったですし、地元の観光地図もびっくりするほどアバウトだったため、頼るものもなくうろうろと迷い続けて居たのですが…。



 こういうときこそ『地元の人にこう・第二弾』。
 …ということで、近所の御夫人に声を掛けたところ…。



 『桂浜の坂本龍馬記念館、そこの前にある国民宿舎『桂浜荘』の駐車場にあるの。』

と、丁寧なご指導を頂きました。




 …――国民宿舎の、駐車場?





 あ、いやな予感。( =(,,ェ)=)



 はい…行ってみたら判りましたが、どうやら浦戸城も、後から建った坂本龍馬記念館と国民宿舎によって遺構が損なわれてしまってました。

 所詮、滅亡した大名家の居城なんてこんなものなんでしょうか…。










 大盛況な坂本龍馬記念館。
 じっと見てましたが、本当に引き手も切らぬほどの観光客。出入り口に人の影が絶えません。



 話のタネに立ち寄ろうかとも考えましたが…えぇ、今回の旅とも直接関係なければ予算もありません。

予想通りの展開。( =(,,ェ)=)





 そして、出入り口っていうか看板が国民宿舎の駐車場という悲しい立地条件…人が来るどころか、人の影さえあたらないのが浦戸城跡の碑。





 石碑の左手、枝葉の木陰で薄暗い石段を上がって、山の上へと踏み込んでいくと…はい、浦戸城天守閣跡に到着しました。





 浦戸城天守閣跡の説明書き看板。
 前に御覧になった方のホームページ画像によれば破損がひどかったようですが、どうやら修復されたようです。





 天守閣跡周辺は整備が行き届いて居ませんので、足を踏み外すと傾斜のきつい山肌をすべりおちることになるのですが…その崖付近に水道を発見。

 写真に撮り損ねたのですが、どうもこの天守閣跡には以前、何か小さな建物が建っていたようです。コンクリートの基礎が残ってましたので。



 昔はここに誰かが居て、水を引いていたのでしょうか…。




 坂本竜馬隆盛の影でひっそりと時の流れを刻む長宗我部家最後の拠点・浦戸城跡でした。





【名称】  浦戸城址 (うらとじょうし)
【住所】  高知県高知市浦戸城山830-25 
【アクセス】南はりまや橋から高知県交通「桂浜」行き乗車、「龍馬記念館前」下車後、徒歩すぐ
   
http://drive.yahoo.co.jp/route/preview?sid=SS5tcnbITnPcpIQr8PP18MKM91_H9n5s6vyApl2exq (JR高知駅から)
【駐車場】なし/連絡先がなぜか坂本竜馬記念館となっていましたので、そちらを使っても良いかもしれません。確認はしてませんが。
【入場料】無料。



[評価] 
見どころ☆★★…坂本龍馬記念館の賑わいがうその様にひっそり、そして寂しく。説明書き看板を読んでしまえば、それ以上の見所はちょっと…。
期待度 ☆★★…久々の説明書き看板Only。過度な期待は出来ません。
スリル  ☆★★…特筆事項なし。
バリアフリー度★★★…屋外なので期待出来ないです。



総合評価 長宗我部家の匂いも微かですし、これだけを見るために訪れるのは考え物かもしれません。すぐ近くに長宗我部元親公墓所がありますので、そのついでならまぁ寄ってもいいかも、です。






□1598年、太閤豊臣秀吉が逝去。長年豊臣家の家臣として働いてきた長宗我部元親に再び時代の波が吹き付けてきた。









 大坂城の豊臣秀頼はわずか六歳、とても後継者としてひとり立ちは出来ない。

 次の時代は誰の時代か。豊臣政権を動かしていた石田三成ら五奉行たち官僚派、加藤清正や福島正則ら槍一本で戦ってきた武断派、そして加賀百万石で五大老の前田利家、同じく五大老で安芸広島百二十万石という大領土を誇る毛利輝元。誰もが時代を握る一大勢力だ。



 …そんな情勢の中、元親が選んだのは徳川家康だった。

 家康とさかんに交誼をし、波乱の展開に備える日々。長宗我部家を指揮する元親の目には久々に英気の輝きが宿っていた。

 一度は四国覇者の賞賛を捨て天下を諦めたが、太閤亡き後の天下はきな臭い。石田三成ら五奉行たちと徳川家康は一触即発の雰囲気であるし、ひょっとしたら再び戦国乱世が戻ってくるかもしれない。



 しかし…。



 1599年4月、上洛した元親は病に倒れる。その後一ヶ月間、京都伏見屋敷で療養していたが…5月19日、ついに四国の覇者は永遠の冥りについた。享年六十一歳。




 『天下分け目の関ヶ原まであと一年半』という非常にまずいタイミングでの死は、その後の長宗我部家に暗い影を落とすことになる…。





 
■長宗我部元親が葬られたとされる天甫寺山麓に到着。周囲は閑静な住宅街で、近くの民家からは楽しそうな子供の声が聞こえてきます。

 長宗我部元親公の墓へと続く石段。
 手すりはありますが、割と足元は不安定で危なっかしいです。あと、異様に蚊が多かったです。
もう十一月だったんですがね…(*=(,,ェ)=)





 石段の途中にある兵士の塚。
 『浦戸一揆』と呼ばれる武装蜂起・御家復興運動に立ち上がった長宗我部家家臣達を祀る慰霊碑です。


浦戸一揆については、また後の段で。

 ただ言えることは、彼らは元親の眠る地で共に枕を並べる資格のある、確かな忠臣たちです…合掌。





 長宗我部元親公の墓です。京都の伏見で亡くなった為、遺体は火葬され荼毘に臥し、この天甫寺山に葬られました。

 今でこそ何も無い山際にぽつんと宝篋院塔(ほうきょういんとう)の墓があるだけですが、実は当時、ここには天甫寺というお寺があり、そこには最愛の嫡男・長宗我部信親が冥っていました。


 きっとここなら元親が一番喜ぶだろう、家臣達の思いやりが感じられます。



 しかし、後に天甫寺は廃寺となり長宗我部信親の墓が雪蹊寺に移設。

 悲しいことに、元親の墓だけがここに取り残されることになりました。
( =(,,ェ)=)



 一緒に移してあげれば良かったのに…。




 今でも供養のお花が絶えないようです。

 実は、私が訪れた同じタイミングで元親公を慕う女性Fanの方がタクシーで訪れ、お花を供えに向かった御様子。

( =(,,ェ)=)黒いミニスカとニーハイソックスの脚がまぶしかった(何見てたお前。





  『高知市南地急傾斜崩壊危険区域』とあります。

 どうもこのあたり、崖崩れの恐れがある地域に指定されているようです。



すぐ近くまで、住宅地が迫ってるんですが…。




 確かに、元親公のお墓があるすぐ後ろは整備が行き届いていない自然むき出しの崖でした。悪いたとえですが、これ…。





 高知県に大型台風とかが直撃して大雨になったら、元親公のお墓は土砂崩れに襲われて一巻の終わり、なんてことになりかねない状態なんじゃないでしょうか(汗。






 そうなる前に、早く雪蹊寺あたりに移築したほうが良いのではないかと思います。最愛の嫡男・信親とまた一緒に冥れるわけですし…。






 四国の覇者、羽柴土佐侍従こと長宗我部元親公のお墓でした。





【名称】  長宗我部元親公の墓 (ちょうそかべもとちかこうのはか)
【住所】  高知県高知市長浜 天甫寺山 
【アクセス】南はりまや橋から高知県交通「桂浜」行き乗車、「元親公史蹟前」下車後、徒歩約3分
   
http://drive.yahoo.co.jp/route/preview?sid=SSXuc1ihznPcr6WhPeokoT4v5GbMAVuTHT_PfY9tyY (JR高知駅から)
【駐車場】あり/無料。
【入場料】無料。



[評価] 
見どころ☆☆★…長宗我部元親が冥る地。元親Fanの方ならば、巡礼の旅の最後にお参りしてあげるべきかと。
期待度 ☆★★…四国を制覇した英雄の墓。説明書き看板はわりとありますので、それを読みながら元親の威光を偲びましょう。
スリル  ☆★★…この周囲、崩落の危険性がある区域に指定されています。長い石階段の状態も良くありません。足元に注意。
バリアフリー度★★★…屋外、しかも長い石階段を上りきった場所にありますのでそれはちょっと…。



総合評価 長宗我部元親巡礼の旅の最終地点です。最後の〆にどうぞ。

【平成22年12/25追記】
■先日、長宗我部友親さんの著書『長宗我部』を拝読させて戴いたさいに『
元親の法号でもある雪蹊寺に嫡男信親の墓があって、元親の墓が天甫山にぽつんと取り残されているのは何かおかしい。
 ひょっとして、なにかの間違いで二人の墓が入れ替わって誤解されてるんじゃないか?
』という説があるとのことを確認。

確かに、そういわれてみると妙ですね…。





□長宗我部家後日談

 長宗我部家の死後、家督を相続したのは四男の盛親。三男である兄の津野親忠が健在なこともあって家督相続は円満とは言えず、長宗我部家は不安定経営を余儀なくされる。





 父の死後二年足らずでかの関ヶ原合戦が起きるが…ここで長宗我部家の運命は暗転する。当初盛親は東軍、徳川家康につくつもりでいたが、家康は関東に居る。

 密書を届けようにも、大坂や京都は西軍で埋まっていてとても無理。

 仕方なく盛親は西軍所属となった。



 

 さて、関ヶ原の合戦が始まったが…長宗我部軍はまったく戦いに参加出来なかった。






 盛親のすぐ前に布陣していた毛利秀元・吉川広家軍が邪魔で動けなかったからだ。



 実は吉川広家、徳川家康に『戦後の毛利家安泰』を条件に内通していて、所属こそ西軍だが石田三成に協力する気なんかサラサラ無い。

 盛親や石田三成が『邪魔だからどいて!!』と頼んでも『飯食ってるからイヤだ。』と吉川広家は動かない。

 世にいう『宰相殿の空弁当』事件である。








 やがて小早川秀秋が西軍を裏切り、戦局は一気に東軍有利…そしてたった一日で、勝利の凱歌は徳川家康に。長宗我部家はまったく戦うことが出来ずに関ヶ原合戦で敗北した。



 盛親は浦戸城に戻り徳川家康と交渉するが、待っていたのは『長宗我部家は改易、盛親は追放。土佐一国は山内一豊の所領とする。』という最悪の結果だった。






 徹底抗戦を主張する家臣達を前に盛親は『無益な血を流すことになる』と拒否、自身は京都へと立ち去っていったが…先代・長宗我部元親の恩義を忘れられない桑名吉成・蜷川親長ら元家臣達は浦戸城に篭城し、城を受け取りにきた山内一豊を追っ払うという暴挙に出る。

 この事件が、後に『浦戸一揆』と呼ばれる、一領具足(旧長宗我部家家臣)の武装蜂起事件である。






『土佐一国なんて贅沢は言わん、一郡だけでも良い…長宗我部家を存続させて欲しい。』



 しかし、そんな無理な要求が通るはずもなく…徳川家康は家中でも気が短いことで有名な重臣・井伊直政を土佐に派遣。

 直政は単刀直入、『おとなしく城を明け渡さなければ盛親の命がないぞ!!』と篭城軍を脅迫。



 桑名吉成らはこの脅しに屈服し浦戸城を開放、強硬派だった273名は全員死罪となった。






 土佐侍からの思わぬ反逆を受けた新領主・山内一豊はこの事件に憤慨し、長宗我部家の威光を完全に排除する方策を決定。

 手始めに元親が築いた浦戸城を破却廃城とすると、高知城築城を開始する。



 また、山内一豊は前々からの山内家臣達や比較的早くに恭順した土佐侍を『上士』という武士の上流階級としたが、山内家に抵抗した元長宗我部家の家臣達は『郷士』または『下士』として低い階級とし、同じ武士であっても明確に区別した。




 郷士はいちおう山内家の家臣として迎えられたが高知城に入ることは許されず、当然山内家の殿様にお目見えする資格もなかった。上士に会えば道端で膝を屈して道を譲らねばならず、絶対服従を誓わされた。






 『なんで四国の覇者たる長宗我部家の勇士が、あんな嫁さんの七光りで出世したような昼行灯に馬鹿にされんとならんのだ。…今に見てろ…。』



 その長い長い苦渋の年月は、幕末まで実に二百六十年間も続く…。




【名称】  一領具足供養の碑/石丸神社 (いちりょうぐそくくようのひ/いしまるじんじゃ)
【住所】  高知県高知市浦戸830 
【アクセス】南はりまや橋から高知県交通「桂浜」行き乗車、「地蔵前」下車後、徒歩約3分



http://drive.yahoo.co.jp/route/preview?sid=SS5tcnbITnPcpIQr8PP18MKM91_H9n5s6vyApl2exq (JR高知駅から)
【駐車場】あり/無料。
【入場料】無料。



[評価] 
見どころ☆★★…長宗我部家滅亡後の悲劇、浦戸一揆を今の世に伝える場所です。
期待度 ☆★★…古式そうぜん、閑静な墓地の片隅にある場所です。過度な期待は出来ません。
スリル  ☆★★…周囲は普通の墓地です。夜に来ると怖いでしょうけども。
バリアフリー度★★★…屋外ですので期待は出来ません。



総合評価 元親や盛親の遺徳を慕い、長宗我部家存続に命を張った家臣達の心意気を讃えるべきだと思うならばお参りしてあげて下さい。








□長宗我部元親から坂本龍馬へ



 さて、そんな悲運のてんこ盛りで滅亡を遂げた長宗我部家でしたが…元親が四国の覇者たらんが為に戦った家臣達の子孫は『郷士』として土佐国に連綿と血脈を伝え、それは江戸幕府末期まで続いていきます。




 その間、ずーっと長宗我部家の末裔達は苦難を耐え、忍びがたきを忍んで新しい時代を待ち続けていました。徳川の世が、徳川家の時代が続く限り『郷士』という差別は終わらない。誰かがこの時代を変えなければ、維新を行わなければ。






 そんな声にならない想いが、二百年間も続いた堪忍の記憶が『郷士』と呼ばれる身分の中から、日本史上燦然と輝く英雄を輩出させました。




 その人こそが、あの『坂本龍馬』。










 明治維新の旗手として薩長同盟を締結させ、閉塞していた江戸時代末期を新たな時代へと導いた救世主であり、大河ドラマ『龍馬伝』で一世風靡。









 高知県の顔として今年の話題をさらい続けた不世出の熱血漢は、実は長宗我部元親の想いを受け継いだ者でもあったのです。



 長宗我部元親が今も高知県で慕われ、坂本龍馬と同様に『郷土の英雄』として讃えられるのはなぜなのか。



 そんな素朴な疑問から始まった企画『長宗我部元親 四国覇者追跡記』ですが…すべての歴史的名所を回り終えた今なら、判るような気がします。




 …長宗我部元親と坂本龍馬。



 二人は時代こそ違えど、高知県のため…もしくはすべて万民のために『いま』を変えようと奮闘し、『未来』を切り開こうと努力した時代のフロンティアであり、熱い魂と強固な意志を持った愛すべき『いごっそう』、『土佐の出来人』だったから…では、ないでしょうか。






 
■というわけで『長宗我部元親 四国覇者追跡記』、いかがだったでしょうか。筆者としては企画としても歴史探求の旅としての満足度も、上出来の手ごたえを感じましたが…( ・(,,ェ)・)



 そして、並立企画であった併立企画『一泊二日を予算一万円で乗り切れるか?』の最終結果報告をここで発表しましょう。




【結






定】





 …――えぇ、本ッ当にギリギリでした。( =(,,ェ)=)計算表に偽りナシ。


 食費は切り詰めるとどうにかなるんですが、切り詰めようにも難しかったのがガソリン代。
 特に雲辺寺への道のりでは帰路途中で燃料補充ランプが点滅したほどで、一歩間違えると助けてJAFえもん級のクライシスでした。


 次回企画でも同じような低予算旅行企画を考えていますが…ただ使用金額が少ないのではなく、特殊なルールを併設するなどもう一工夫必要だと痛感致しました( ・(,,ェ)・)





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