明智 - 最後の十一日間 -  





■さて、第六天魔王に弓を引いた男・本能寺の変で天下を握った男こと明智十兵衛の足跡を追いかける『明智光秀最後の十一日間』もいよいよ後編のお届けです。

 実用性・勉強になる・ためになるかは疑問ですが、当ブログの目標は『あまり注目されない歴史史跡に実際行ってみてお得度・骨折り損度を調査してお届けする』こと。この際気にしちゃいけません。

 さぁ、いたれりつくせりな筈の京都観光旅行。その裏通りへご案内いたしましょう。明智光秀最後の十一日間、追跡再開です。




1582年6月13日の午後四時頃に始まったらしい山崎の合戦。

天王山を羽柴軍に占領された明智光秀軍、
家臣・斎藤利三らの活躍で奮闘するも、最終的には数で押し負けて敗北。


山崎を命からがら逃げ落ちた光秀は、勝龍寺城に逃げ込むが…敗残兵はほとんど逃亡してしまった後。

主君殺しの上に弔い合戦をはねかえせなかった不運な大将には、足軽達も三行半。
時間が過ぎるたびに兵士はどんどん居なくなり、光秀は涙目。

 

これじゃあ勝負にならないと、明智光秀は勝龍寺城を捨て、
かつての居城・坂本城を目指して逃げ延びる決断をする。

    織田信長を本能寺に滅ぼして、わずか11日目。

 明智光秀はとうとう、落ち武者に身をやつすまでに落ちぶれたのです。


■Dということで、次の目的地は勝龍寺城跡です。

JR山崎駅からJR京都線に乗り、今度はJR長岡京駅へ。駅から南へ徒歩十分の場所が、勝龍寺公園。
今回の旅で訪れた他の城跡と違い、今度の勝龍寺城にはちゃんと白壁もあればお城もあります。

といっても、それはあくまで公園として整備された勝龍寺城。今となっては、明智光秀の威徳を偲ぶものはなにもありません。

お堀の外から勝龍寺城をパシャリ。天気が良いと写真写りも良い。















城の前にある木製の看板。明智光秀の説明はそこそこで、文面を大きく裂いているのが

『明智光秀の娘・ガラシャが細川忠興に嫁入りしてきた城』

という内容。


どうやら、長岡京市としては光秀の城で売るより細川ガラシャで売ったほうがよいと判断したらしい。

 
『嫁さんの顔を見た』という理由だけで下人の首をはねとばしたヤンデレ細川忠興の偏執ぶりで売ったら面白かったのに。

女の子には受ける人物だと思うんだけどなぁ…細川忠興。









 城内にある細川忠興・細川ガラシャ像。


仲むつまじさをアピールしているように見えるが、史実では…。










 嫁さんが好きすぎる偏執狂のヤンデレ夫と、旦那が目の前で殺人を犯しても平気で飯を食ってる冷血キリスト教徒嫁。

 










…だなんて言ったら、長岡京市から苦情がくるだろうか。



あながち間違いじゃないのに。



 きれいに整備された庭園。細川忠興が、そして明智光秀が風流人だった過去をしのばせる。


歴史の匂い、明智光秀の雰囲気はさっぱりだったけど…まぁ、穏やかな昼下がりには丁度良かったか。









勝龍寺城公園

住所・京都府長岡京市勝竜寺13-1
駐車場・あり/無料
入場料・無料

[評価] 
見どころ☆☆★ 
期待度☆★★
スリル☆★★ 
バリアフリー度☆☆★

総合評価 地元の人が休日の午後を楽しむにはいいかもだけど、わざわざ観光で立ち寄るほどでもないと思う。


1582年6月13日夜。

 明智光秀一党はとうとう十三騎にまで減っていた。

とても数日前まで天下人だったとは思えない落ちぶれよう。

 

雨が降る夜の闇をおびえながら進み、一向は小栗栖の竹やぶに差し掛かる。

 

  竹やぶの道は細くみとおしが悪かった。

 並んで進むことが出来ない。光秀たちは縦一列にならんでやぶを通り越そうとする、が…。




光秀『ぐあ!?』


前から六番目を進んでいた明智光秀のわき腹に、一本の竹槍が深々と突き刺さった。

羽柴秀吉の命令で落ち武者狩りをしていた農民達による襲撃だった。

 


一行は最後の力を振り絞って農民を追い散らす。

だが、明智光秀が受けた槍は内蔵を突き抜け、致命傷。
出血もひどく、もうとても歩けそうにない。

 

光秀は最後を悟り、無念の言葉と共にまぶたをとじた……。

 


それが、明智光秀最後の十一日間が終わった瞬間だった。



■Eさて、明智光秀がついに命を落とした場所・明智に向かいます。


 向かったんですが…実はこれが今回の旅で一番のピンチになろうとは夢にも思いませんでした。


まずは経路から。
JR京都駅から国道一号線を南進、八条油小路交差点右折・九条油小路交差点左折と
道路標識をみながら、一号線沿いに南下。大手筋交差点を過ぎて、
びっくりドンキー・コジマ・オートバックス前を過ぎたら、次の横大路交差点を左折。
京都府道188号線をみちなりに東進、観月橋交差点から京都府道七号線、いわゆる外環状線を道なりに進む。

小栗栖団地、道を挟んで向かい合う小栗栖小学校・中学校を通り、次にある信号・小栗栖森本交差点を過ぎたら…

次の交差点を左折。あとはその道を道なりに進んでいけば、路肩にこんな看板があるはずです。

これが目印。この看板にしたがい本経寺を目指します。


明智薮、で探すより 本経寺 を探したほうがてっとり早いんですよ。

カーナビがある方は、京都府伏見区にあるほうの本経寺を入力すればOK。

 

私も、カーナビに言われるまま上記の道を進み
本経寺敷地内の明智藪付近まで来るには来たのですが、ええと、その。


古い住宅街の隙間を走るうちに、ですね…

 


ステップワゴンが出られなくなったのです。

 

はい、ここで笑わないともう面白いとこ、ないですよー?

このネタ、三丁目の角のタバコ屋のおばちゃんにはウケたんですけどねぇ。

 

いや、い事じゃなく本当に。

 

明智藪に続く道の幅はほぼ5ナンバー車一台分。
ステップワゴンは普段乗っているキャパと車幅こそ同じですが後ろがむいきに…

失礼、とちりすぎて方言が出ました。 


後ろが非常に長いので不慣れ。

バックして切り替えそうにも、狭い路地にそびえたつ塀が凄いプレッシャーをかけてきます。

 

  想像してみてくださいよ皆様方。


 ステップワゴンは黒、リアガラスと後部座席の窓には黒いカーフィルムが張ってあり、外から中は見えない。


アンテナは『ダイバーシティアンテナ』という種類のもので、広範囲から電波が拾えるすぐれものらしいのだけれど、ぱっと見が『なんか悪い博士の研究所のてっぺんにあるアンテナみたい』。

 

 そんなワゴンが、伏見区の住宅街奥深くで人様の庭まで尻を突っ込んで、かれこれ一時間近く切り返しをくりかえしている。

 

 これが不審車じゃなくて何だというのでしょう(苦笑。

 

ぶっちゃけあたしゃあ、通されやしないか本気で心配しました。えぇもう。

 

 結局は

『ハンドルを切る、バックする』[>『運転席から降りる』[>『後ろや右側を見て、あと何cm下がれる!!とか確認する』[>『また乗って切り返す』

という行程をえんえん一時間半繰り返して、やっと脱出することが出来ました…。


 頭つっこむのは簡単なのに、出るのはめちゃくちゃ至難の業でしたよ…。




さて、そんなバカ話は脇に置くとして…車を降り、徒歩で細い路地を歩くこと数分。

 やっとのことで、明智藪にたどり着きました、が…。


なんというか、すぐ近くまで民家の庭が迫っているため、風情もへったくれもありません。









苦労したのに。

 私の運転がヘタだからという因果応報はこのさい置くとしても。



 ただし、竹薮と細い裏路地は見ての通り今も健在。

明智光秀が再起を誓って、この細い道を歩いていったのかと思うと感慨深いものがあります。











石碑を発見。

なぜライオンズクラブが明智光秀の藪を顕彰しているのかは謎ですが。

碑文を読むと、明智光秀一行を襲撃したのは農民じゃなくって『信長の近臣・小栗栖館の飯田一党』とあります。




てことは、竹槍なんかじゃなくってれっきとした武士に襲われたことになります。

 どこでどう話がくいちがって、光秀は農民に殺されたことになったんでしょう。









やっぱり、謀反人だからって低く評価されちゃったんでしょうか…。




明智藪

住所・
京都府京都市伏見区小栗栖小坂町
駐車場・無し/というか車で行くのはちょっと難しい
入場料・無料だけど、民家の敷地内に入り込むので挙動不審に注意。

なお、近辺道路の路肩はほとんど駐車禁止。無断駐車したら罰金貰うよとまで書いてあった。

[評価] 
見どころ☆★★ 
期待度☆★★ 
スリル☆☆★ 
バリアフリー度☆☆★

なお、明智藪は心霊スポット。
藪道部分は六月の夜には絶対通っちゃいけないらしい。

総合評価 
たどりつくための苦労に見合わない場所
明智光秀観光なら重要な場所なのだけど…。


1582年6月14日未明。

溝尾庄兵衛は、ひとり闇のなかを走っていた。


小脇に抱えているのは、つい先刻に息絶えた主君・明智光秀の首級。

これだけは、羽柴秀吉の手に渡してはならない。
恩がある主君を、裏切り者として天下のさらしものにするわけにはいかない。

 

けれど、逃亡劇もここまででした。
夜が明け始めると、京都は秀吉軍で埋め尽くされていたからだ。

もう逃げることはできない。
目もかすんできた。

 

庄兵衛は光秀の首を地中深くに埋め、静かに手を合わせる。


明智光秀の歴史は、そこで完全に幕を閉じた。

不運と詰めの悪さが響いた天下人は、
最後まで謀反人の汚名を返上できないまま生涯を終えたのだった…。



■Fというわけで、明智光秀最後の十一日間の終点・光秀です。

小栗栖小坂町から京都駅まで戻ったら、京都駅から京都府道115号線を南進、
大石橋交差点を左折し京都府道143号線に。

そのまま143号を道なりに進みし、八坂神社の前を通り過ぎて…
左手側に知恩院前郵便局が見えたら、次の東山三条交差点を右折。

曲がってすぐの交差点を直進すれば、三条白川橋。

その白川橋を渡ってすぐを右折すれば、白川沿いの細い細い一方通行の道に入る。

あとはその小道を進めば、『餅寅』という屋号の和菓子屋さんが見えるはず。


『光秀饅頭』という文字が見えたら、それが目印です。
餅寅さんはたった一台、駐車場を有してますので…

あくまで 餅寅さんで買い物をすること を条件にとめてください。

 


いえ、別に餅寅さんの回し者とかじゃなく。
明智光秀首塚の管理をされてる一族なんですよ、餅寅さん。


店主の御婦人は首塚に関する生き字引でもありますし、
餅寅自慢の光秀饅頭は薄皮とたっぷりあんの詰まった美味。
小腹がすいていた私はお土産として光秀饅頭を、
つまみぐい用にわらびもちを購入。

なんで写真に撮らなかったかが、今思えば強烈に阿呆ですが(何それ。

 

餅寅さんに『ちょっとおまいりをしてきます。』と駐車場利用のお願いをしたところ、快く了承を頂けました。




 餅寅さん店舗のすぐ横にある狭い路地を進んでいけば、
その左手に明智光秀首塚が祭られています。

  実は筆者、ここに来るのはこれで三度目。最初は九年前、二度目は五年前。

今回の旅では久しぶりのご対面です。

首塚の全景。案外にこじんまりとまとまってます。

傍らにある立て看板。

 以前来た時は日本語・英語・ハングルでしたが、今回見てみたら中国語が追加されてました。











中国からの観光客は年々増えているとかで、京都も時流にのったのでしょうか。


 首塚のすぐそばに張られている古い写真。

餅寅さんが、昔の明智光秀首塚の雰囲気を今に伝えてくれてます。











この当時は、祠がなくて雨ざらしだったんですね、光秀。


正面からパシャリ。

この格子戸の向こうに明智光秀の位牌が安置。


ちなみに、この首塚に参拝すると『首から上に関する』病気が良くなるという御利益があるそうです。


ある意味、パワースポット。




かっこで囲んである場所にはこう書いてあります。



防犯カメラ作動中   東山警察署巡回中 



…はて、五年前にご対面したときはこんな張り紙、無かったような。

 

最近の戦国ブームで明智光秀のお参りをする人も増えて、
なかには心無いアホウをする輩が居るんでしょうか。


明智光秀首塚のことなら餅寅さんに聞こう、ということで
お話を伺ったところ…。

 

あれは観光客のマナーとかじゃなく、さいせん泥棒が急激に増えたためだそうです。


  うん。戦国ブーム以前に世の中、不景気ですもんね。
  不景気でも窃盗はやっちゃダメですが。


 餅寅さんのお話では、ここ最近とくにひどいようで…

木の格子戸をぶっこわしてこじ開けて、賽銭箱の中身をがさっと
かっさらっていくという方法を選ばない手口が、何度も横行したそうです。


いくら明智光秀が信長殺しの大罪人だからって、そりゃあひどいんじゃないでしょうか。



まぁ、逆に言えば…

何度も狙われるほどお賽銭が入っている [> 今も明智光秀をおまいりする人が多い

ということなんでしょうけれども、ね…。

明智光秀首塚

住所・京都府京都市東山区白川通三条下ル

駐車場・無し/ただし、近所に首塚の管理をしている餅寅さんが一台分だけ駐車場を所有。無断駐車はだめ。
入場料・無料だけど、民家の隙間を縫うように走る路地裏にあるため騒がないように。

[評価] 
見どころ☆☆★
期待度☆★★ 
スリル☆★★ 
バリアフリー度☆☆★

総合評価 

京都市の中心部からほど近い場所なので、ちょっと見に行くならまぁ良いかも。




 

さて、これで光秀の足跡…三日天下のはじまりと終わりを見回ってきたわけですが…私がやはり印象的に思ったのは、

にぎわう歴史観光のなかで、明智光秀がぽつりと一人、時代に取り残されているような感覚でした。


やはり、反逆のあとに正統性を主張できる時間がなかったことが響いてるんでしょうか。



終わりよければ、すべてよし!なんて言いますけど
やっぱり、終わりがまずかったらどんな理由があっても意味ないんでしょうかね…。

 


謀反人の代名詞、裏切り者の筆頭のように嫌われる光秀。

ゆかりの地なのに、ぜんぜん整備も宣伝もしてもらえない光秀。


自分の目の前で、どこかのあほんだらに賽銭を盗まれ続ける光秀。

 

いったい彼は、どんな思いで今の世情をみつめてるんでしょう。

 

…だなんて、あぁ。


そんなこと、考えるまでもありませんでした。

 


明智光秀本人が、ちゃぁんとそのところを辞世の句に残していましたから…最後にそれを御紹介して、今回の旅を締めくくりたいと思います。




さて。
京都南Icから西宮Icまで、眠い眼こすりながら帰るとしますかぁ…。






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