流行と価値と、審眼。



■朝廷の尊厳は軽んじられ、幕府や将軍の権威はことごとく軽視され、わずかな食糧や銭と引き換えに民衆が命を落とし、そして戦国武将が胸に秘めた大義や野望のために乱世を駆け抜けていった戦国時代。

 それまで室町幕府が辛うじて維持していた平和が応仁の乱で崩壊すると、あらゆる価値観が暴落し、信義はおろか人の命すら紙の様に薄くなってしまった戦国乱世ですが、実は価値がバブル経済期の地価もかくやといわんばかりに大暴騰したものもありました。


 茶の湯に用いる茶器…茶碗や茶入れ、茶杓に茶釜といった茶道具です。


 仕掛け人は織田信長と千利休です。

信長は天下布武を目指すにあたって、領地や俸禄以外に、武将達にとって恩賞となるものが必要であることを良くわかっていました。

 戦乱が続くうちは敵から国をぶんどって家臣に分け与えればそれで事足りますが、天下が平穏になってしまえばこの手は使えなくなるからです。そこで眼をつけたのが、当時静かな流行となっていた茶の湯に権威を与え価値を吊り上げることでした。


 信長は織田家においては『茶会を開くこと』を認証制にし、自分の許しなくしては勝手に茶の湯を楽しむことを禁じました。かわりに、武勲をあげた家臣だけに茶の湯開催を許可し、その席で用いる茶器の価値を千利休と結託して故意に価値観を暴騰させたのです。


 効果は抜群でした。滝川一益は武田家討伐戦の恩賞に土地ではなく『珠光小茄子』という茶入れの拝領を熱望し、羽柴秀吉は信長より茶会開催権を認められた時には涙を流して喜んだといいます。


 そして、茶器の価値もまたとんでもない暴騰を見せました。信長の所持していた『三日月』という茶壷は戦国時代当初は三千貫(二億四千万円)でしたが、ある不注意で六つに割れてしまい千利休が修繕したのですが、それでも価値が上がり続け、最終的には一万貫(八億円)という凄まじい値段がつきましたし…


 現在、東京国立博物館が所蔵している重要文化財である青磁の茶碗『馬蝗絆』(ばこうはん)は、割れてしまったため青磁の本場・中国に『この茶碗を超えるもの』を作って欲しいと送ったところ、『これを超える青磁茶碗はつくれません!!』と、鉄の鎹(かすがい)で補強されて戻ってきたそうです。

    

 いわばキズモノになって戻ってきたわけですが、これがかえって趣があると茶の湯愛好家たちに大絶賛を受けることなり、戦国時代には途方も無い値段がつき『本当にいいものは割れようが傷がつこうが価値が色あせない』という、超高額茶器の走りとなりました。


 当時の茶の湯愛好家も、きっとこんな故事を聞いて、欠け茶碗や割れ茶碗を補修しては『もとより良くなってないかなぁ』と夢想したことでしょうね…。
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