2011年大河 -姫たちの戦国-』   - 第十六回 関白秀吉 -

 大河『江』と同じ日曜日の夜、時間帯は重なって居ませんが同じ歴史時代劇である『日曜劇場 仁- JIN-』は依然、高視聴率を維持し続けているようです。
 坂本龍馬役で、07年大河『風林火山』では主演として山本勘助役を好演した内野聖陽さんは最近、一路真輝さんとの離婚報道などで色々話題を集めていますが、それを差し引いたとしても好調な数値。
■その後本当に離婚されました。

■内野聖陽、一路真輝夫妻が離婚か。『子供が生まれてからは、内野さんは自宅にほとんど戻っていない』


 いよいよ物語の中心人物となり始めた江や三姉妹、狡猾な秀吉の黒い笑顔と見所が増えてきた大河『江』もEXILE投入とかそれ以外でも、話題や内容で頑張って欲しいところです。


 ■ さて、それでは気をとりなおして…今回も一週間遅れで大河『江』の第十六話『関白秀吉』、感想と歴史痛的補説の開始です。

 前回は無理やり親子の関係を結ばされた秀吉を非難、詰問していくうち…かつて敬慕した叔父・織田信長を同じく尊敬していた秀吉の心模様に気づき、怨敵の関係ながら秀吉に感化していった江。二人の父を殺した憎い仇であるはずの猿面冠者に相談を持ちかけられ、ぶっきらぼうに答えたつもりがナイスアシストだったりと凸凹親娘な関係を診せてくれたぎこちないハーウォーミングな展開でしたが…今回はその秀吉が人臣として位を極めるため、さらなる立身出世の坂道を駆け上っていきます。

 羽柴筑前守秀吉、日輪の申し子、古今無双の出世人。果たして、彼がたどりつく栄光の座席に輝くものとは何なのか…。(;-(,,ェ)-)


■羽柴秀吉(岸谷五朗)with羽柴家の人々
 今回は冒頭から秀吉の感情色豊かな表情と跳躍で始まりましたが…――えと、その、何といいますか。( -(,,ェ)-)



 仮にも日本最強最大の財閥企業・織田家の一支社長まで勤めた秀吉の、国持ち大名になってから優に十年は過ぎている秀吉の『家族』があの時点でああいう格好というのは、どう考えても時代考証が合わない。


 大河『秀吉』の時には市原悦子さんが好演したなかがあまりに印象深かった為、貴族然とした格好で出てくるのは雰囲気が憚られる、秀吉は農民出身ということを分かりやすくするため、ets...今回では重要な演出ってのはわかるんですが…。



 あと、妹・旭(広岡由里子)の夫・副田甚兵衛(住田隆)は1577年(天正五年)の時点で但馬国(現兵庫県北部)多伊城城主、1582年(天正十年)十月に京都大徳寺で秀吉が主催した信長葬儀の奉行を務めたほどの戦国武将。

 
あの時点で夫婦揃って農民同然というのは、脚色であるとはいえちょっと違い過ぎてませんかファンタジー大河。
( =(,,ェ)=)




 …――っと、こういう重箱の隅は置くとして。前回十五話ではちょっと元気がなかった秀吉がまた調子を取り戻しています。


 悪役と見間違うような(実際限りなく近いけど)生き生きとした黒い表情を浮かべる岸谷秀吉の表情や仕草は見ていて楽しい。前回は『このまま秀吉が丸くおさまるんじゃないだろうな』とか一抹の不安を覚えましたが、その溜飲を下げてくれる展開。ここまでやったんなら秀吉にはどこまでも戦国の闇を体現して欲しいです。
'`,、('∀`)'`,、

 今回の秀吉は、ちょうど歴史上でも猿面冠者のあくなき出世欲が暴発した時代でもあり、藤原氏長者でも『この速度はないわ^^;』っていうくらいの超絶スピードで官職が上昇していった時期。

 その衝動の理由が『お茶々様をモノにしたいから』という下世話な理由なのが、ある意味正直過ぎて心地よいです。

 歴史上でも病的な女好きで信長血縁の女性を抱くことに固執した秀吉のこと、『実際そういう理由で暴走しそうだよなぁ』と歴史痛でも納得の展開。

 終盤になるとあれだけ秀吉を毛嫌いしていた茶々も、ちょっと秀吉の熱意というか行動力を評価するようになっていました。


 秀吉もズルそうな顔してズルそうな作戦をズルいタイミングで言ってくれます。

 
今風に言えばあれ、好きだった女性の前にSP付きの車で乗り付けて『僕、総理大臣になったんだ。』と言ったようなモンですから。あれで惚れないというか心揺れない女性はなかなかいないと思います、それがたとえ実父と義父の敵でも。

 もっとも、姉を好色な猿親父から守るために×@になった江からすれば、『私の涙と努力はなんだったの』的な心模様になるかとも思いますが…―――まあ、これだけ歴史上類を見ない大出世、平家の栄達に匹敵する我が世の春を見せつければ、お姫様の激動すぎる生涯もその苦難の道も、ちっぽけなものになっても仕方ないか…。( ・(,,ェ)・)


 ( -(,,ェ)-)oO( しかし、秀吉の周囲を囲む武将や官僚が少ないですね…。この時点でまだ羽柴一門衆と黒田官兵衛、そいでもって石田三成と千宗易だけですよ。関ヶ原の合戦あたりで重要な銃爪を引く猛将や名将達は何をやってるんでしょう。まさか『江』、関ヶ原の合戦をお市の方のナレーションだけで終わらす気じゃないだろうなぁ…。ありえそうだから怖い。 )


■江(上野樹里)with茶々(宮沢りえ)+初(水川あさみ)

 冒頭しょっぱなから、大坂城の廊下を立ち食いしながら散策する初(水川あさみ)の天然振りと歴史大河雰囲気クラッシャー振りは健在。ここまでやってくれたら逆に貫き通して欲しいと思ってしまうのは、赤髭が脚本家の罠に嵌まってる証拠なんでしょうか。( ・(,,ェ)・)


 江は、今回は養父の常識外れな度胸と行動力の前に振り回されっぱなしに思えたのですが…少し見方を変えれば、無茶な猿親父とやんちゃな信長憑きの小娘のはっちゃけた関係はなかなかの魅力だったように感じました。

 彼女自身は秀吉のすっとんきょうな立身出世欲に『なに夢みたいなこと言ってるんだこのバカは』的に呆れつつ、適当なアドバイスをしているつもりが…―――それを真に受けた秀吉がその言葉通りに暴走していくという物語の流れ。

  秀吉が猿なら江は猿回しの狂言師といったところでしょうか。

 そして、今週ついに重要な伏線がひとつ張られました。茶々の秀吉を見る目が絶対的な嫌悪から好感度を上げてきていることです。

 この姉を猿から守るために婚姻外交の犠牲となり、ローティーンにして×@になった江の悲哀と怒りの雪玉連投、あれほんの先週〜先々週くらいの話だぞ?とか思いたくなる急展開ですが…赤髭には『茶々は最後の最後まで秀吉を嫌いながら大坂夏の陣まで行くんだろうなあ』と予想していただけに、この描写にはちょっと驚きました。

 いよいよ三姉妹の波乱続きだった生涯に、将来を予感させるような伏線がけっこう浮かび上がるようになってきました。戦国一のヤンデレ夫婦・細川忠興&たま夫婦や次回予告にちらっと登場した豊臣秀勝(AKIRA)などが今後どういうふうに絡んでいくのか、秀吉と茶々の関係はどうなっていくのか。歴史考証のちゃらんぽらん具合(+悪意)も含めて、次週以降が今から気にかかるところ。

 ( -(,,ェ)-)oO( 歴史通りの展開のどこが面白いの?とは、どっかの脚本家さんの名思想ですが…――なんだかんだで最近惹きつけられてる気がしなくもないなぁ…。非難されるのを見越した設計図、だとしたら私はどんだけ『そんな餌に俺が釣られクマー!!!』なんだろう。(不安になってきてる) )

【大河『江』歴史物語 〜物語に隠された裏事情〜】
■室町幕府最後の残照、足利義昭が見せた源氏嫡流の意地と誇り、その結末
 第一回で登場し、顔面蒼白でよろめきながら京都を追放された姿が哀れを誘った足利義昭(和泉元禰)。



 久々の再登場では備後国(現広島県東部)・鞆(とも)に居たことになっていますが、なぜ前の征夷大将軍が瀬戸内の静かな波打ち際で暮らして居たのでしょう。



 実は足利義昭も室町幕府も、1573年(元亀四年)に滅んでなどいなかったのです。

 歴史の教科書などの年表では『1573年、織田信長が足利義昭を京都から追放、室町幕府が滅亡する。』と書いていますが、あれは便宜上室町時代をどこかで終らせる必要があったための区切りに過ぎず、足利義昭は征夷大将軍をめていませんし、幕府を御仕舞いにしたこともありません。


 1573年(元亀四年)七月、足利義昭は織田信長に京都槙島城で敗れて捕縛され、京都を追放されました。

 室町幕府の直轄領、義昭の御領所はすべて織田家に奪い取られ、ここで事実上義昭は京都の支配者ではなくなりました。
 しかしその後も諦めることは考えない義昭、まずはかつて近畿の支配者であった三好家の総領で妹婿にあたる三好義継(みよしよしつぐ)を河内飯盛城に頼ります。


 しかし、織田信長がこの三好義継を攻めるという噂が立つと今度は急いで西に走り、中国地方の覇者となりつつあった毛利輝元を頼ります。


 義昭は毛利一族の本拠地・安芸国(現広島県西部)へ行きたかったようですが、輝元ら毛利一族は『ここで安芸国に将軍をお迎えしてしまうと、意地でも信長と戦わなきゃならん羽目になる。こっちは北九州や山陰地方で忙しいんだ。』と判断、義昭は入国を寸前になって拒否され、備後国の鞆に屋敷を構えました。

 備後国鞆、平成の世になり再開発問題で注目を集めた広島県の鞆の浦です。


 備後鞆に落ち着いた義昭は早速、打倒信長をスローガンに活動を開始。

 御内書(ごないしょ)と呼ばれた直筆の手紙を日本全国の戦国大名にばら巻くお手紙外交を駆使し、足利将軍ここにありとその権威を振りかざしました。

 犬猿の仲だった上杉謙信と武田勝頼を仲直りさせて打倒信長を促したり、九州でにらみ合ってる豊後大友家や薩摩島津家を和睦させて織田信長と敵対するよう斡旋してみたり、毛利輝元や上杉謙信に自分を奉じて上洛させてくれるように頼み込んだり…―――えぇ、もうびっくりするくらいの他力本願寺。


 そうそう、本願寺の指導者・顕如や一向一揆が織田信長と戦った石山戦争でも遠巻きに信長へイヤガラセを繰り返していたようです。毛利家と本願寺家が同盟関係となったのも義昭の存在が大きく関係しています。

 この足利義昭の一連の政治活動や、義昭本人がまだ征夷大将軍を辞職していないことから、歴史家によっては『室町幕府は京都から備後の鞆に本拠を移して"鞆幕府"になっただけで、滅亡はしていない。』と論じる人もあるようです。


 この足利義昭の活動、短気な信長はさぞかし忌々しく思ったのだろうなぁ…――とは誰しも考えることでしょうが、信長の反応は意外なものでした。実は信長、備後の鞆に何度も手紙を出し、足利義昭に『変な意地を張らずに京都へ戻って来い。養ってやるから』と温情にも似た勧誘をしていたようなのです。

 どうやら織田信長、『征夷大将軍を追放した』という謀反人に等しい称号を気にしていた模様。



 しかし、幕府を壊滅状態にされた怨念深い宿敵である信長に対し足利義昭は意固地でした。『戻ってやっても良いが、信長側から誰か人質を貰わなければ絶対に戻らない!!』と、ある意味無理難題をふっかけて拒絶し続けていたようです。



 そんな堂々巡りが続いた後に訪れた1582年(天正十年)、義昭に春が訪れます。…――そう、『本能寺の変』です。


 憎き織田信長が謀反の炎に倒れ、その宿敵を滅ぼしたのがかつての家来・明智光秀と知るや義昭は喜色満面、大喜びしたのですが…――乱世の時代は過去の栄光にすがる義昭ではなく、羽柴秀吉に微笑みます。

 義昭が鞆の浦と瀬戸内の海を眺めている間に電光石火、秀吉はとんとん拍子に出世。明智光秀や柴田勝家を討ち、ついには征夷大将軍の位も射程距離になってきました。

 大河『江』の物語にもあったとおり、ここで秀吉は足利義昭の
(ゆうし)になろうと考えます。


 劇中でも羽柴秀長がその言葉の意味を説明しかけましたが、要するに猶子とは『相続権のない養子関係』のことです。この関係が成立すれば秀吉は足利義昭と義理の親子関係となり、どこの馬の骨かわからなかった猿面冠者は一躍、誇り高い源氏の嫡流になることが出来るのです。


 けれどどっこい、足利義昭は誇りと自尊心は失っていません。


 未だ現役の征夷大将軍である義昭、ここで秀吉の申し出を受ければ自分が自動的に『前の征夷大将軍』になってしまうことを彼はよく判っていたのです。おそらくは大河『江』の描写同様に秀吉への嫌悪感を隠さず、その浅ましい申し出を侮蔑感たっぷりに蹴っ飛ばしたことでしょう。

 ( ・(,,ェ)・)oO( もっとも、『源氏で無ければ武家の棟梁、征夷大将軍になれない』というのはちょっとした後世のこじつけで、実際には平家であるはずの織田信長にも征夷大将軍任官の宣下は出ていました。

 秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、彼が征夷大将軍が持っているべき支配地である『今で言う中部〜関東地方』を領土に持ってなかったのが原因ではないかと考えられています。

 だから、秀吉がわざわざ義昭に頭を下げたこの話の信憑性は薄いと見るべきでしょうけど。)



 まぁ、秀吉の申し出を自信満々に蹴っ飛ばした義昭が秀吉の『関白職就任』に顔面蒼白、唖然呆然となったのは物語にもあった通りでしょう。

 1587年(天正十五年)、秀吉は自分の意に逆らう島津義久を討つべく九州征伐戦を開始、京都から西を目指し山陽道をきらびやかな軍勢で練り歩きます。

 関白の威光が煌く秀吉の軍団はその途中で備後鞆に立ち寄り、義昭は秀吉に拝謁。

 『よう義昭。まだ毛利の居候扱いやってんのかぁ?…――もういいだろ。京都の槙島に一万石くれてやるから戻って来いや。』

 足利義昭も関白となった秀吉の言葉に諦めがついたのか、この申し出を受諾。征夷大将軍としては捨扶持に等しい一万石を隠居領とし、実に十四年振りに京へと戻りました。

 そして翌1588年(天正十六年)、ついに征夷大将軍を辞職

 京都槙島一万石の大名格ではありましたが、義昭の晩年は非常に困窮した貧乏暮らしだったようで、ついたあだ名が『貧乏公方』。


 一万石といえばざっと計算しても年収八億〜十億円の領土、税率が六公四民だったとしても年収六億くらいはあるはずなのですが、おそらくは前征夷大将軍、室町幕府主催の誇りがあるため余計な出費や人件費があり、それがかさんでいたのでしょう。

 後に秀吉が朝鮮出兵を敢行した際もその軍事パレードに『徒歩で』参加。武将格なら普通、馬に乗れるはずなのに。

 かつての征夷大将軍がとぼとぼと徒歩武者として秀吉軍の行列に参加している姿を見た公卿達は、そのあまりの斜陽振りを笑うことも出来ず涙をこぼしたといいます。



 1597年(慶長二年)八月二十六日、六十一歳でこの世を去った際には、前征夷大将軍にふさわしいような葬儀を挙げることも出来ず、それどころか棺桶ひとつ作ることすら出来ないほど。

 喪主を引き受けてくれる人も居らず、これはかつての家臣・細川幽斎がなんとか引き受けてくれましたが…葬儀費用は別問題。

 義昭の側近だった柳澤元政(やなぎさわもとまさ)が何とか銀子二貫ばかり(現代の貨幣価値で五千万円ほど)をかき集め、やっとこさ葬儀をすることが出来ましたが…―――葬儀を引き受けた僧侶の残した記録が『なんだこのシケた葬儀は。本当に前の征夷大将軍だったのかこの人は。ケチ臭い…。』という散々な評価。



 和泉元禰さんの哀れな表情が印象的だった足利義昭ですが、あの顔で今後はこんな悲惨な人生を送るのかと思うと、ちーっとばかり同情を禁じえないものがあります。

 
まぁ、これが戦国の無常というやつなのでしょうけれども、ねぇ…。( -(,,ェ)-)


■関白殿下も楽じゃない。太閤・近衛龍山、波瀾万丈の生涯
 さて、今回の重要なキーパーソンである近衛龍山(江良潤)。

 
尾張中村の百姓出身に過ぎなかった羽柴秀吉が藤原秀吉となり、武家初の関白となるために藤原氏の血流を売り渡した低俗な貴族として登場した彼ですが…実は近衛龍山、この時代の上位公家としてはかなり波瀾万丈な生涯を過ごしてきた人物でした。



 近衛龍山は1536年(天文五年)、時の太閤で藤原氏長者だった近衛稙家(このえたねいえ)の嫡男・として誕生しました。

 "太閤"といえば今となっては豊臣秀吉の尊称・代名詞の様に思われていますが、実は『誰かに跡目を譲って引退した関白』への敬称であり、龍山も父・稙家も共に関白経験者であるため、太閤様で間違いありません。

 また、龍山とは出家した法号で実名は前久(さきひさ)、その前は前嗣(さきつぐ)と名乗っていました。

 御堂関白・藤原道長の末裔であることを誇りとし、古今伝授を受けた和歌の名人にして青蓮院流の書の達人、馬術や鷹狩り・天文暦学にまで通じた、今で言うマルチタレントのような才能豊かな人だったようです。



 
しかし、藤原氏の頂点である藤原氏長者、天皇の政治顧問である関白であっても御時世が戦国時代…貴族達の暮らしはとても苦しいものでした。


 
そこで龍山は時の実力派戦国大名を丸め込み、その権威を利用して藤原家に再び栄華を取り戻そうと考えます。

 龍山が最初に目をつけたのが勤皇の志に厚い『越後の龍』、上杉謙信

 龍山は彼に近づこうとするため、現役の関白でありながら越後国まで下向し上杉謙信の歓待を受けます。
 その後も公卿なのに謙信の関東出兵に同席し、あの小田原城包囲戦も高みの見物。謙信とはひんぱんに手紙を交し合う懇意な関係となりました。

 しかし、上杉謙信は宿敵・武田信玄や関東の凶賊・北条氏康と戦い続けることで精一杯、とても京都の公卿を支援する余裕がありません。


 失望した龍山は再び京都へ戻りますが、その頃にはあの織田信長が台頭して勢力を拡大、足利将軍家を奉じて上洛を達成していました。


『よし、じゃあ次はこの織田信長とやらを利用しよう。尾張から上洛してきた田舎者、ちょっと威光を見せれば平伏すに違いない。』


 しかし、近衛龍山は相手を見間違えていました。信長は天皇や朝廷を一応支援してはいますが、それは古くから続く帝の権威を織田家の戦略に利用するため。

 古臭いカビの生えた過去の栄光に過ぎない藤原家なんて眼中にありません。そうとも知らない龍山、拝謁した織田信長に対し

『足利将軍家を奉じるのは結構だが、もっと朝廷を尊敬しろ。』

 と頭ごなしに言いつけます。



 …――えぇ、次の瞬間に信長がぶちれたのは言うまでもありません。( =(,,ェ)=)



 もの凄い剣幕で一喝された龍山、『これは殺される…!!』と思ったのか、京都から逃亡。摂津国や丹波国にあった反信長派閥を渡り歩く亡命生活を始めます。

 所詮、信長は尾張からぱっと出たにわか大名、そのうち周辺の諸大名に滅ぼされるだろうと高をくくり、ほとぼりが冷めるのを待っていたようです。

 …―――まぁ、そんな龍山の目論見が期待はずれだったことはその後の信長の歴史を見れば一目瞭然ですよね。当時の反信長派閥最強勢力だった武田勝頼が長篠の合戦で織田・徳川家連合軍に惨敗すると、龍山は落胆。

 覚悟をきめて織田信長に平伏すことにしました。


 その後の龍山の努力は、太閤という称号が悲しくなるほどの零落ぶり。

 信長の機嫌を取るため嫡子・近衛信基(大河『江』の頃には信尹(のぶただ)と改名しています。)烏帽子親を頼んだり(つまり、信尹の『信』とは織田信長の偏諱)、信長の天下布武を支援しようと九州は薩摩まで下向し、島津家に信長への降伏を促したり

 そうそう、甲斐武田家を滅ぼした戦にも同行し、必死懸命にヨイショしていたようですが…織田信長の開催した富士山見物にはお呼びが掛からず、すごすごと京都に戻ったりもしたようです。


 けれど、ここでその時歴史が動きました。そう、『本能寺の変』の勃発。

 あの小憎たらしい織田信長、仏を敬わす神すら恐れず、天皇すら凌駕する権力を得ようとしていた第六天魔王が死んだ。


 龍山が喜んだのは言うまでもありません。明智光秀の謀反軍に屋敷を占領されても苦情の一つも言わず、明智軍が屋敷の屋根から織田信長の嫡男・信忠が篭る二条城に鉄炮を撃ち込んでも知らん顔。


 …世の中、どこまでも運が悪いっていうか…――タイミングの良くない人は居るんですねえ。(;-(,,ェ)-)



 皆さんもご存知の通り、明智光秀はたった十一日間で滅亡。

 羽柴秀吉が天下の主導権を握ると、近衛龍山は窮地に立たされます。

 信長の三男・織田信孝も『公卿のなかに明智光秀を支援した者が居る!!』と怒り狂って藤原一族の罪を糾弾しはじめ、秀吉も『本当に光秀軍に加担したの?』と龍山を責め立てます。


 これにたまらなくなった龍山、出家剃髪して反省の意を示しつつも、今度は徳川家康の下に亡命。その徳川家康の取り成しによって京都に戻ることが出来たのですが…。


 …――はい。そうでしたよねぇ…。

 徳川家康、そのあと秀吉に屈服したんですよね。次男・秀康を人質同然の養子に差し出して。

 
(;-(,,ェ)-)oO( 不運(ハードラック)と踊(ダンス)ってるなこの人。 )


 近衛龍山、羽柴秀吉が家康と衝突したのにびっくり仰天。身の危険を感じたのか、奈良に出奔しますが…――秀吉は大して気にして居なかったらしく、追っ手の一人も追撃してこなかったようです。(il-(,,ェ)-)


 安心した近衛龍山は京都嵯峨野に戻り、静かな隠遁生活を始めましたが…――ここに来て嫡男の信尹が時の関白・二条昭実と対立。この騒乱の隙に乗じた秀吉が関白の位を射止めたのは、大河『江』の物語にもあったとおり。



 こんな大河ドラマもかくやという激動の人生を送っていたにも関わらず、努力に見合った地位や財産も残っていなかった龍山にとって、家領千石(現代の貨幣価値で換算して八千万〜一億円くらいの身入りがある領土)と山吹色のお菓子(笑)の誘惑に勝てるはずがなかったのは言うまでもないことでした。


 なお、後年になって龍山はさらに馬鹿息子・近衛信尹と所領問題で揉め事を起こして仲が悪くなり、京都東山の慈照寺東求堂(銀閣寺)に隠棲。

 1612年(慶長十七年)、失意のうちの世を去りました。この頃にはすっかり関白の地位や藤原家の権威は凋落し、徳川幕府による武家政権が産声を上げようとしていました。


 北は関東、南は九州鹿児島まで走りまわった太閤殿下・近衛龍山がもたらした数少ない功績は、流寓先で京都の華やかな文化を伝達したこと。

 本来の目的は達成できませんでしたが、近衛龍山の落とした涙は今も各地に京風文化の薫りとして残されています。



■ さて、今回もリベラルを装った歴史痛視点(蹴)での感想でしたが…いかがだったでしょうか。

 次回予告では、髭が増えてますます悪党振りに磨きがかかり始めた秀吉が高笑いをしたり涙を流したり忙しい百面相、同じく髭を蓄えた徳川家康の神妙な言葉と意味深な微笑み。

 親兄弟、家族すら犠牲にして天下人を目指す秀吉の覇道に怒る江。果たして妹・旭にした『もっとひどいこと』とは何なのか。次回を御期待ください。

2011年大河『江』第十七回 家康の花嫁 感想と解説





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