2011年大河 -姫たちの戦国-』   
- 勝手に江紀行 with 大河『江』第十九回 初の縁談 -


【勝手に大河『江』紀行 〜大阪城 vol.2 】
■新春の穏やかな気候を感じることすら出来なかった波乱含みの2011年も、気づけばもう間もなく梅雨入り。気の早い台風の到来で日本列島には早くもジメジメ感が広がっていますが…当ブログをご贔屓にして頂いている皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 新聞やニュースを見ていても景気の悪そうな話や福島原発の事故問題と、はっきり言って頭の痛いことしか耳目に入らず、憂鬱な気分になってしまっている方々も多いのではないでしょうか。

 世間様が暗いおかげで観光・行楽需要も随分と磨り減っているらしいとのお話ですが…赤髭が思うに、こういう時こそ颯爽とした気持ちに心を切り替えて、新たな充実感と希望を胸に点すために心機一転、知らない場所や行って見たかった史跡などに赴き、新発見や新事実を知識として吸収する、心の洗濯をするべきなんじゃなかろうかと考えるわけです。( ・(,,ェ)・)

 おりしも今年の大河は『江』、つまりは戦国歴史ブームに到来した戦国大河物語。某国営放送はもちろん、民法でも戦国時代の歴史にまつわる観光史跡の紹介には例年以上に力が入ってます。

 ただの観光には無い、美しい国・日本の二千年以上の時間を感じられる歴史物語は、鬱屈した気分をお洗濯するには丁度良い趣向ですよね。(*-(,,ェ)-)

□そこで、今回も【勝手に大河『江』紀行】の登場です。赤髭もミーハーなもので、『大河の舞台になるのならば話のタネ拾いにひとつ、出向いてみよう』と大阪城にはけっこうな時間をかけて巡ってたりしてたわけです。

 今週第二回では、前回に引き続いて豊臣秀吉自慢の大居城・大坂城(大阪城)をご案内。

 規模が縮小したとはいえ、かつての天下人の城だけあって見所は一度では紹介出来ません。今回は大坂城内に残る築城当時の名残や雰囲気の香る場所を散策していきます。



 
□大阪城の大手口。戦国時代築城の城は簡単に落ちないように門は基本、狭く入り組んだ通路の奥などに、急角度であるものですが…。



 


攻め落とせるものなら落としてみろ』という豊臣秀吉の気概を示すかのように、大坂城の城門や通路はこの通り広く、巨大なものです。



 しかし、前回もお話したように今の大阪城は豊臣秀吉建築当時のものではなく、幾時代を掛けて再建されたもの。特にその規模や区画は、1620年(元和六年)の江戸幕府が行った縄張りによるものです。




 1620年と言えば、豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣から既に五年も過ぎていて、世の中すっかり天下泰平。それを実現した徳川家康もすでに亡く、ときの支配者は二代将軍・徳川秀忠の世となっていました。



 誰とも戦う必要がないのに、なぜ秀忠は豊臣時代の栄華の象徴である大阪城を再建したのか?


 
それは、大阪城を蘇らせることが一石で複数の鳥を落とす妙案であり、徳川幕府百年の国家戦略に関わる重大な意味を示しているからです。

 まず最初に、家来にお金を使わせるという意味。


 大阪城を再建するのは幕府ではなく家来の大名達。建築資材や現場の人足を雇うための人件費を彼らに負担させることで、まだ出来たてほやほやな江戸幕府に逆らう余地を与えないように莫大な出費を強要したのです。


 これは、外様大名の忠誠心をはかることや、築城費用を天下に流通させる…今で言う『公共事業で景気を良くしよう!!』という狙いも含まれています。

 次に、『天下が豊臣氏から徳川幕府の世になったことを知らしめる』という一大宣伝の意味。実は豊臣氏は京都や大坂では庶民に根強い人気がある政権でした。



 徳川家康は1611年(慶長十六年)に京都二条城で弱冠十八歳の豊臣秀頼と謁見していますが、この時に彼が思ったより聡明な名君であると同時に、京都大坂といった上方の一般庶民から絶大な支持と人気を集めていることに危険を覚えたといいます。


『このままでは、単純に豊臣氏を滅ぼしただけでは徳川幕府は悪者あつかい、秀吉・秀頼が"伝説"になってしまうかも知れない…』


 豊臣氏が滅んでもなお人気が萎えない情勢に、徳川政権が考えたことは『かつての豊臣時代の栄華の象徴である大坂城を徳川幕府の手によって盛大に再建することで、天下の支配者が徳川家にうつったことを大々的にアピールする。』という策戦。






 そのために、江戸幕府は大坂城再建のために一度豊臣氏時代の石垣や城郭を土に埋め、〜10メートルという高い盛り土を積み上げた上に新たな石垣を積むという手間をかけています。

 1629年(寛永六年)、こうして豊臣氏時代の四分の一の城郭規模…けれど、かつてよりも高く、総床面積も広い荘厳な天守閣を備えた新生大坂城が誕生したのです。


□もっとも、残念ながら新生大阪城も平成の世に入るまでに幾度も災害に遭い、徳川幕府が威信をかけた天守閣も1665年(寛文五年)、再建から半世紀を待たずに落雷で消失。

 その後も昭和期再建まで天守閣は再建されることがありませんでした。天守閣以外の貴重な建造物も明治維新での戦火や太平洋戦争の空襲で殆ど残らずといってよいほどに消失してしまいます。
 現代、私達が見る大阪城はほぼ全域が戦後の再建によるものです。

 幾度もの年月を過ごし、それでも築城当時のまま平成の世にあった姫路城が世界遺産に登録されたのも、よくよく考えればこの国に訪れた数多の戦火を潜り抜けて生き残ったからこそなんだということを再確認できる歴史。( ・(,,ェ)・)


 これを踏まえたうえで…今回の『勝手に江紀行』は、大阪城の『過去』を偲ぶことが出来るスポットを重点的に紹介していきます。

 
豊臣時代の遺構も江戸幕府再建の痕跡も、昭和期の近代築城の影にうずもれてしまった大阪城。その威容の中から、歴史の確かな匂いを辿っていきましょう…。


□大手口枡形の巨石。これは1620年(元和六年)、徳川時代に再建された当時よりあるもので、加藤熊本藩二代目当主で築城の達人と呼ばれた加藤清正の忘れ形見・加藤忠広が瀬戸内海の小豆島から運んできたとされるもの。

 秀吉時代を超える巨石を引っ張り出した徳川秀忠や配下大名のの自己顕示欲を物語る確かな歴史の証拠です。


 残念ながらこの頃には江姫も大坂城には居なく、最後の伴侶となる彼と一緒に江戸城住まいの真っ最中でしたが…。


□けれど、この超がつく巨石(それでも大阪城以内の巨石ランキングは四位!!)が大坂城内に運ばれていく様は、平和になった天下泰平を感受しつつも、昔を懐かしんで…ひょっとしたら、徳川秀忠も眺めていたことがあるのかもしれません。


□大手門を通過途中に、ふと上を見上げてみると…昭和期再建ながら、戦国の遺風を漂わせる立派な屋根裏の梁組みが見えました。




 豊臣秀吉築城当初には黒塗りに金箔を押した瓦が太陽の光を浴びて輝いていたといいますが、きっとその煌びやかさを支えたのも、こんな重厚な屋根組みだったのでしょう。




 大阪城大手口を抜けたすぐ先にある、千貫櫓(せんがんやぐら)です。

 この櫓も残念ながら秀吉時代のものではありませんが、『千貫櫓』という名前は大坂城の歴史に受け継がれた名前。


 秀吉時代の大坂城にももちろん千貫櫓はありましたし…その大坂城が建つ前、浄土真宗・石山本願寺の伽藍があったころから、千貫櫓の名はこの地に存在していました。


 名前の由来は、浄土真宗の一向一揆と戦っていた織田信長が石山本願寺を攻めあぐね、なかでもこの千貫櫓から打ち込まれる弓矢に悩まされたとき『千貫文(役八千万円)払ってでも奪い取りたい櫓だ』と織田軍に言わしめたからというもの。
 その歴史は、秀吉の大坂城より五年も十年も古いものです。


 □大坂城西外堀から城内を眺めると、その一番端に据わっている小さな櫓が『乾櫓(いぬいやぐら)

 この櫓も、大阪城の前身・石山本願寺時代から名を残す防御拠点のひとつで、十年に渡って続いた織田信長vs本願寺の激戦の舞台となりました。


 大河『江』でも抜群のインパクトを残した戦国の覇者、幼い江姫が敬慕した織田信長が、この乾櫓と千貫櫓を突破出来ずに苦しみ…にらみ付けたときに瞳に映ったのも、きっとこんな風景だったのかと思えば感慨も深くなるもの。




□そして…大坂城の建っているこの地が、かつては織田信長と一向一揆との激戦の舞台だったことを物語る確かな記憶が、この『蓮如上人袈裟懸けの松。

 蓮如上人(れんにょしょうにん)とは、浄土真宗第八代門主のことです。かの有名な一休さんのお友達だったと言いますから、大阪城よりも更に百年近く古い歴史の人物ということになり…そのぶん、またこの大阪城にまつわる歴史の厚みが増します。


 この地が大坂城ではなく『石山本願寺』だった頃は、阿弥陀仏の教えと救いを願った真宗門徒が大勢、この土地で修行していたのでしょう。


 蓮如上人が袈裟をかけたという松がそれを偲ばせてくれ……―――ん、ってどこよ。( ・(,,ェ)・)


 …いまや、切り株だけしか残っていないようです。

 いったいいつの頃から切り株だけになってしまったのかは説明書きにもありませんでしたが、形はどうであれ…――いまや豊臣時代の記憶がわずかしかない大阪城でも、数少ない歴史の証言者です。

 『はではでしくていやな城』だったとされる大坂城で人質同然に暮らしていた江たち三姉妹も、きっとこの松に過去の歴史を思い、叔父・織田信長に敗れるまでは浄土真宗の総本山だった栄華の夢のあとを、この松に見たのでしょうね…。



 □青屋門。大阪城二の丸の北出口にあたる場所です。


□現在の青屋門は昭和期に再建築されたもので、その姿も当時とは大きく違っていたであろうと考えられていますが…青屋門自体が出来上がったのは、徳川幕府による大坂城再建築の頃。



 時はすでに江戸時代、もう徳川家康も豊臣秀吉も亡くなっていましたが…江姫はこの大坂城が蘇るという一大プロジェクトを耳にすることが出来たはず。


 ひょっとしたら、修繕の完了した大坂城をひそかに、この青屋門から眺めていたやもしれません。




 だとしたら、こんな感じでしょうか。大河ではおてんば姫ッ気の抜けない江姫ですが、あの調子ならきっと世の中、平和になっても…―――こうやって、徳川幕府謹製の大阪城を眺めていたに違いありません。






 大阪府の誇る、近代的な一大観光スポットとなってしまった感のある大阪城ですが…外堀や内堀、本丸建築位置は多少とはいえおおむねでは変わらないはず。

 今日もこうして、城郭内部のあちこちにひっそりと、けれど確実に…過去の偉大な戦国武将や歴史の面影を平成の今に現しています…。


 二週に渡って紹介させて頂きました『勝手に江紀行』でしたが…いかがだったでしょうか。連載記事から大河『江』からは伝わり方の乏しい歴史的な建築の雰囲気やたたずまいを感じられたなら、赤髭も幸いに思います。

 次回は、さらに趣向を変えてもう一幕。
【大河『江』と戦国歴史を楽しく学べるシリーズ】と号して、戦国時代を舞台とした漫画や文庫本などを介したいと思います。



 歴史痛を自負する(すんな)赤髭が目を通してきた無駄に多い資料書籍のなかから、判りやすくて面白いものを幾つかピックアップし内容の紹介や見所読みどころ、面白い箇所などを解説していければと考えております。

 次週の当ブログ更新に御期待下さい。( ・(,,ェ)・)b


 ■ それでは、今回も毎度一週間遅れで大河『江』の第十九話『初の縁談』、感想と歴史痛的補説の開始です…が。

 今回は歴史痛的においしいと思ったポイントは見当たらず、初の天然で痛さの感じられるおてんばぶりや我侭模様、それにふりまわされる茶々や江の心模様に重点が置かれた回だったように思います。

 特に初の描写方法はちょっと見ていてしっくり来ない。あの状況で姉に京極高次と一緒になりたい!!とか頼んだら姉の立場がどうなるのか判らないほど痛い子なら、それは可愛らしい痛さではなく我侭すぎて引く痛さではないのかなと(汗)


 まぁ、今回も相変わらず豊臣秀吉演じる岸谷さんの陰陽がくっきりした味のある表情や、そんな彼の横顔に少しづつ惹かれていく茶々(宮沢りえ)といった見所があったお陰でなんとか視聴出来ましたが。

 いやぁあ、前回の予告では絶対に初の縁談を交換条件に側室入りを迫るんだろうなと思っていた秀吉があんなオットコマエになるとは。…――毎回毎回、次回の展開を予想立てている赤髭ではありますが、あの展開には思わず惚れかけた(何。

 …――もっとも、そこまで視聴者を惹かせておいて最後で思いっきり引っ叩かれる展開で、しっかり笑いどころを抑えているというのも面白いところですが。

 好感が持てない黒い秀吉も良いですが、愛しい彼女に嫌悪されて上の空になったり、そうかと思えば『強引にモノにするつもりはない』だなんて、一大の傑物らしい気概を見せてくれたり…今回のようないい意味でも悪い意味でも人間くさい、英雄化されていない秀吉もまた魅力的でした。

 当初は『斬新な切り口で豊臣秀吉を切ったな』と思いましたが、なんだかんだで最近はこのファンタジー戦国大河の『良い部分』にも感化されているのやもしれません、赤髭。(優柔不断だなオイ



 さて、次回予告ではいよいよ、あれだけ距離の開いていた秀吉と茶々が急接近!!…一瞬ではありましたが、二人が月夜の闇に抱き合うシーンまでありました。

 実父と養父、二人の父を死に追いやった不倶戴天の仇である猿面冠者と、絶世の美女の忘れ形見である見目麗しい戦国の姫君との恋の行方。その結末が二人の純愛に落ち着くまでに、次回いったいどんな急展開が待ち受けているのか。

次回はどうなることやら。

2011年大河『江』【大河『江』と戦国歴史を楽しく学べるシリーズ】Vol.1 with 大河『江』第二十回 茶々の恋 感想と解説





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