■疑問というか嫌な予感と言うか…早くも話の筋が怪しくなってきた『江』
去年一年間、幕末・明治歴史浪漫ブームにその座を明け渡していた歴史大河ですが…今年はやっと、戦国時代にその座が戻って来ました。
しかし…やっぱりというか仕方がないと言うか、今年の『江』には、07年大河『風林火山』の様な新鮮かつ本格派、本格にして重厚な歴史大河とはならないようです。…ラブストーリーくさい雰囲気がはやくもしてます、はい。
まぁ、風林火山のような歴史本格路線は、低視聴率だった戦歴のおかげもあってNHKが二度とやらないだろう、とは重々気がついているのですが…それでも、期待を捨てられないのが歴史痛というもの。
それでは、今宵はほぼ一週間遅れでの大河『江』第二話、「父の仇」のストーリー背景にある歴史痛的知識の解説・感想をしていきたいと思います。
それでは、皆様の御時間を少々拝借…。
。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!
■大河『江』第二話 【父の仇】
Q0. やっと戦国三姉妹である茶々・初・江姫が揃いましたが…彼女達、いま何歳なんですか?
A0. 既に三姉妹はそれぞれ茶々が宮沢りえさん、初を水川あさみさん、江を上野樹里さんが担当していますが…長女の茶々が13歳、次女の初が9歳、上野樹里さん演じる主人公の江が7歳です。
…たぶん、重要な意味のある複線が既に今回から仕掛けられているせいもあるのでしょうが…普通の大河なら、まだ子役俳優が担当している頃ですよね。
まぁ、この手の年齢設定に対する疑問というのは…歴史大河じゃ禁句なわけですが。
Q1.三姉妹の従兄・信長嫡男の織田信忠(谷田歩)ってどんな人?
A2.戦国の覇者・織田信長の嫡男にあたる人で、通称が勘九郎。九郎とありますが、正真正銘の長男(次男という説もある)です。
信長が最も愛したとされる側室・生駒吉乃(いこま-きつの)との間に生まれ、赤ちゃんの頃の顔があまりに変わって居た為、信長から
『よし、この子の幼名は奇妙丸(きみょうまる)じゃ!!』
と、橋にも棒にもならないような超絶命名を受けました。しかし、織田信長の子供達のなかではもっとも才覚が高く、江姫たちの父である浅井長政との戦いの折には既に指揮官として活躍していました。
性格はどうかという…どうも能にかなり凝って居たらしく、あまりに度が過ぎたために『武士稼業なめてのか!!』とぶち切れた信長から能道具一式を没収されてしまったり、家臣達のご機嫌を取るためにその者が欲しがってるものを簡単にあげちゃったりとか、どうも御曹司らしい気の良い性質だったようです。
信長は後継者として早くから英才教育をしていましたが、その器量には少々疑問視していたようです。
Q2.三姉妹の従兄・信長次男の織田信雄(山崎裕太)と信長三男・織田信孝(金井勇太)ってどんな人?
A2.織田信雄は信長の次男で、この当時は伊勢北畠家へ養子に出ていたため、厳密には北畠信雄という名前です。
織田信長最愛の側室・生駒吉乃との間に生まれましたが…髪の毛が茶筅(ちゃせん、茶道で茶碗のなかの抹茶を溶かすときにつかう、泡だて器みたいなやつですね)の様にピンピンしていたため、信長から
『んー、じゃあこの子の幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)。』
と、どうフォローしていいのか判らないこれまた常識アウトオブ眼中な命名を受けました。
こんな名前のおかげかどうかは、わかりませんが…この後の彼の人生はそれこそ大河ドラマに出来るような波乱万丈な生涯となりました。その詳細については、また今後の織田信雄に関する与太話で( ・(,,ェ)・)。
織田信孝は信長の三男。この当時は伊勢神戸家へ養子に出ていたので、厳密には神戸信孝と言います。
長兄の信忠や次兄の信雄とは生母が違ったせいか、二人の兄とは待遇がずいぶん違ったそうですが、軍略や性格は
もっとも織田信長のそれを受け継いだ子だと、評判は上々だったようです。
ちなみに、生まれた日が三月七日だったため
『今日は三月七日か。じゃあ、この子の幼名は三七(さんしち)だな。』
と、織田信長のネーミングセンスが疑われるような命名を受けました。
なお、余談ですが三男の信孝は次兄信雄とあまり仲がよくなかったようです。この不仲が、のちのちこの兄弟に悲劇をもたらすことになります…。
Q3. 柴田勝家(大地康雄)って、どんな人なの?
A3. 織田信長がもっとも信頼を置く、といっても過言ではないだろう筆頭宿老職の猛将です。
"甕割り柴田"(かめわりしばた)"鬼柴田"の異名を取り、当時の戦線のうち最も苦しい部署であろう、北陸戦線を担当する軍団長でした。大河『利家とまつ』では松平健さんが好演したのは記憶に新しいところ。
この当時は、北陸戦線最大の敵だった上杉謙信が没し、加賀国(現石川県南部)にはびこっていた加賀一向一揆をほぼ殲滅した後で…後は織田家の圧倒的な戦力と物量作戦で能登(現石川県能登半島)・越中国(現富山県)で連戦連勝を繰り返していました。本拠地は越前北ノ庄城。
のちに、この越前が本拠地と言う立地条件が彼に不幸をもたらすことになります…。
Q4. 徳川家康(北大路欣也)って、信長と同盟関係なはずのに何であんなに態度と腰が低いの?
A4. 確かに、同盟関係を結んだ当初の織田家・徳川家はおたがいに背中を守りあう格好の、良い攻守同盟でしたが…もうこの頃には、織田信長と徳川家康の力関係が完全に織田信長軍優位になっていましたから、家康の方が下風に立っているのも致し方ないことでした。
この少し前、1575年の長篠合戦の頃までは、家康も
『援軍送ってくれなきゃ、織田家と手ぇ切るぞ!!』
と啖呵を切れていたのですが…武田信玄も上杉謙信も死んだとあっては、信長の覇道は確実。今後なにごとも無ければ、徳川家康は織田信長麾下の一軍団長として終わっていたでしょう。
Q5. 羽柴秀吉(はしばひでよし)が、小谷城を攻め落とすときに最前線に立って浅井軍と戦ったっていうのは本当なの?
A5. 本当です。
小谷城が陥落したのは、盟友だった越前朝倉家が滅亡して孤立無援になったことも原因ですが、この秀吉が小谷城の重要拠点である京極丸(きょうごくまる)を奇襲で攻め落とし、浅井久政(寺田農・江たちの父方の祖父)を切腹に追い込んだことが決定打になったのは間違いありません。
また、劇中では端折られていますが…浅井長政の嫡男・万福丸(まんぷくまる)を捕縛し、美濃関ヶ原で田楽刺しの刑に処したのも、誰であろうこの羽柴秀吉です。
田楽刺しの刑とは、槍串刺し刑の一種で…肛門から喉まで真ッ縦に槍で貫く処刑法です。
万福丸は生母が誰か不明ですが、もし市が生母ならば…三姉妹にとっては憎んでも憎みきれない兄の仇、ということになります。
Q6. なんで織田信長(豊川悦司)は、何もしてない羽柴秀吉を脇差で殴ったり、江を槍でおどかしたりするの?
A6. そういう性格の人だからです。
織田信長の規律に厳格で短気な性格を示すエピソードは、話し出したらそれこそ本が一冊書けるほどに多種多彩ですので、おいおいお話していきますが… 織田信長という人は、
たった一文の永楽通宝を盗んだり、
部屋に落ちていた果物の皮を処分して居なかったり、
市女笠をかぶっている女性の顔を覗き込んだだけだったり、
城の表で詐欺師がちょっと大きな顔をしてホラ話を吹聴していただけだったり、
といったとても些細な微罪であっても、容赦なくその相手を殺せちゃう人ですので。
この短気で酷薄、熾烈な性格は当時からも有名だったようで…諸国に武芸の達人として名が売れていた鹿島源五(かしまげんご)という武将が、織田信長に仕官を命じられたとき…こんな言葉を残しています。
『たとえ何万石積まれようが、
信長公だけはゴメンだ!!! (
;・`ω・´)』
Q7. ささいなことなんだけど…織田信長、なんでロン毛だったのかな。髷はどこにいったの?
A7. 戦国武将の髷は普通、眠る前にはほどくものだからです。
なお、織田信長の様に頭のてっぺんを剃らない髪型を総髪と言いますが、歴史上の肖像画を見た限りでは…織田信長の頭髪はしっかり月代(さかやき、前額部から頭頂部にかけて)を剃っていたようです。
なお、この頃の戦国武将は劇中で茶々・初・江が敷いていたような、敷布団+枕と掛け布団 で眠る習慣がありませんでした。
掻巻(かいまき)という、大量の綿が入ったドテラのようなものをたくさん着て眠って居たようです。
三姉妹達が使っていた寝具は、どちらかというと江戸時代頃のものに近いです。これも、前に言っていた『意図的に無視された歴史公証』ですね。
Q7. えッ!!? あの悪趣味なドクロの杯は、敗者に対する礼儀だったの??!
A7. はい、そうですよ。( ・(,,ェ)・)
…というか、あれは杯ではなく薄濃(はくだみ)と言い、金銀箔を溶かした泥…金銀泥などで彩色して、その上から厚く漆を塗り固めたものです。
今の常識でいうとあまりにも残虐なことなので、いつのまにか信長の反逆者を許さない偏執的性格を示すエピソードになっていますが…
あれは自分達が生死を賭けて戦い、そして勝利した相手の敢闘を讃える…という意味で正月の宴席に持ってこられたものです。
織田信長の資料として第一級であり、信頼度も極めて高いとされる太田牛一(おおた-ごいち)の『信長公記』第七巻にもこう書かれています。
巻七太田和泉守これを綴る。
天正二年甲戌朝倉義最・浅井下野・浅井備前三人が首、御肴の事。
正月朔日、京都隣国の面々等、在岐阜にて、御出仕あり。
(1574年正月元旦、朝倉義景・浅井久政・浅井長政の首が酒の肴となる出来事があった。もともとは、京都近辺の武将たちが岐阜に出仕して正月祝いの宴会の話なのだが…)
各三献にて、召し出だしの御酒あり。
他国衆退出の已後、御馬廻ばかりにて、古今に承り及ぱざる珍奇の御肴出で侯て、
又、御酒あり。去る年北国にて討ちとらせられ侯一、朝倉左京大夫義景首。一、浅井下野、首。一、浅井備前、首。
(宴会に集まった者達には、各人三献の御酒が信長から振舞われた。
他国の人達との宴会が終わり、信長直家臣たちだけが呼ばれる宴会があったけど…そこで珍しい酒の肴が出た。)
(それが何と、去年に京都の北であった合戦で討ち取られた朝倉義景・浅井長政・浅井久政の首だ。)
已上三ツ、薄濃にして、公卿に居置き、御肴に出だされ侯て、御酒宴。
(以上の首が、三方(鏡餅を飾ってるような、あの木製の台のこと)に乗せられて出てきた。これを酒の肴にして、宴会がはじまった。)
各御謡・御遊興。千々万々、目出たく、御存分に任せられ、御悦びなり。
(みんな酒を飲んだり、遊興にふけったり…それぞれ自由に正月の宴席を楽しんだ。)
これが髑髏の杯になってしまったのは、この記述が『織田信長が こ れ で 酒を飲んだ。』と読み取れることから来る誤解です。
+
織田信長達は、この三人の薄濃を『御肴』にして…つまり、酒のアテとして眺めながら、酒を飲んだのです。
よくこのときの事が歴史漫画などにも取り沙汰され、三人の髑髏を杯にして酒を飲む半狂人・織田信長のような絵が見られて…その狂気についていけない秀吉や明智光秀たちが青い顔をする…。
という定番のシーンがありますが、
各御謡・御遊興。千々万々、目出たく、御存分に任せられ、御悦びなり。
(みんな酒を飲んだり、遊興にふけったり…それぞれ自由に正月の宴席を楽しんだ。)
とあるように、別に長政達の首を見て恐れおののく様子はありません。つか、楽しんでます。
実際には、信長の残虐悪趣味ではなかったんですね。
■…――って。あ、あれ。『江』って、なかなか深い歴史痛的エピソードを拾ってる気が…。 (
・(,,ェ)・) !?
えぇ、まぁ…この調子で、明日も歴史痛的に面白いエピソードをやってくれれば良いのですが…。
2011年大河『江』第三回 信長の秘密 感想と解説