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なんだか『織田信長らしくない織田信長』だと批評様々な豊川悦史の信長像ですが…さいきん買った資料によると、あれは脚本家と豊川さんが狙って演じている信長像なのだそうです。
確かに、大河ドラマでは今まで様々な俳優さんが織田信長を好演して来ましたが…誰も彼もどこか一風変わった信長像を演じていましたが…こんなに女の人に優しい織田信長というのは例がありません。
戦国歴史痛としては、どうもしっくりこない信長像なのですが…さぁ、織田信長役の俳優さんにとって晴れ舞台であり、その演技力の真価が試される『本能寺の変』はもう間も無くです。
個人的には、『神か…神が死ぬか!!』
とつぶやきながら頚動脈を掻っ切った渡哲也さんの織田信長が最高なのですが…はてさて、豊川さんの優しい織田信長はどんな戦国の覇者を演じてくれるのでしょうか?
それでは、皆様の御時間を少々拝借…。
。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!
■大河『江』第三話 【信長の秘密】
Q1. 織田信長の娘・徳姫はなんで夫・信康の謀反なんて物騒な情報を密告したの?それをなんで信長が真に受けて、信康と築山殿を殺せなんて命じたの?
あの織田信長が、娘に言われたからって…こんな恐ろしいことをどうして…?
A1. このことは、とても難しい徳川家の事情や織田信長の思惑が複雑に絡み合っているため、話し出すと長くなりますが…
これは、織田信長側から見れば『同盟関係の大名に対するけん制と、将来有望な徳川信康を排除するための合理的な外交策』、徳川家康側から見れば『家臣達の派閥勢力争い、そして家康と信康との親子相克。』が原因です。
織田信長が嫡子・勘九郎信忠の器量に疑問を感じていた様子は、以前にもお話したことですが…逆に、徳川家康の嫡子・信康は勇猛果敢で有能な実線指揮官として、早くから武勲の知られた若武者でした。
源平合戦の時代…来年には大河となる平清盛の時代を見れば判りますが、いくら親の代で栄華の明暗がはっきりしていても、子の代で器量の違いが響いて御家の命運がひっくり返った、というのはよくある話です。
信長は数多くの子供達に恵まれましたが、安心して後継者に指名できた子は誰一人居なかったと言いますから、それを不安に思っての処断とも考えられます。
また、これは余談になりますが…織田信長は息子には冷淡でしたが娘には大変子煩悩な父親で、長女の徳姫以外で織田家の外へ嫁に出した娘は、誰一人いません。
織田信長が誰よりも恐れた武田信玄に対してですら、養女で婚姻関係を結んでいます。…戦国の覇者、第六天魔王と恐れられた信長も、わりあい人間くさいところがあったのでしょうね。
逆に徳川家康の視点から言うと…家康と信康の親子関係はあまり上手くいってなかったようです。
信康は血気盛んで豪快、剛毅果断な家康の遺伝子をもっとも良く受け継いだ若き獅子でしたが、それは同時に『間違っていると感じたらたとえ親であってもどうどうと物を言う』という性格を意味していました。
しかも、この頃の家康は浜松城に本拠を置いており、武勲に優れては居るけど政治には向かない三河武士より、内治に優れた手腕を持っていた遠江・駿河の武将を重用していました。
当然、三河武士は不満を溜め込み…それをなだめていた信康はいつのまにか、三河派閥の大将格になっていました。
このままでは、徳川家は三河派閥と遠江・駿河派閥に分裂する。
…ちょうどその時、信長から信康謀反疑惑・その母親である築山殿の甲斐武田家密通疑惑が掛かり…家康はさまざまな葛藤のすえ、嫡男と正室を討つ決断をしたのです。織田信長との同盟関係を維持するためにも、それは絶対に避けられない道でした。
ですが…家康にとってこの事件は後々まで心に傷痕を残したようです。
家康はその後、苦しい戦いがあるたびに『信康が生きていれば…。』とつぶやき悲嘆にくれたといいますし、気位が高く同い年、今川家出身だった築山殿を思い出したくなかったのか…晩年はそれまでの年増好みをやめ、若く美貌のある少女ばかりを側室に迎えるようになりました。
Q2.え、織田信長ってポルトガル語が喋れるの?!
A2.たぶん、カタコトなら理解出来たんじゃないでしょうか。何せ織田信長は革新的な頭脳を誇り、西欧に対する好奇心が旺盛な人でした。
あんなに奇抜な西欧衣装に身を包んだかどうかは赤髭も知るところではないですが、信長が「黒き南蛮笠」と呼ばれたビロード製のつばつき帽子を所持していたことが判っていますし、『うつけ』と呼ばれた若い頃から、海外交易でなければ手に入らない豹皮や虎皮の袴を所蔵していたことが記録に残っています。
ほかにも、キリスト教の宣教師から地球儀を献上され、『地球は丸いのです。私たちは日本の裏側、ポルトガルから来ました』と説明されると…数秒後には『理にかなう』と即座に理解したという逸話や、
初めて黒人を見たときには『墨を塗っているに違いない!!』と自分が率先して風呂に入れ、磨いてみた、など…ともかく好奇心旺盛で先進的な思考だった挿話が残されています。
Q3.信長が『異国人との関係を上手くやらねば、日本は異国に乗っ取られる。だから儂は天下統一を急ぐ』って言ってたけど…実際、そんなことありえたの?
A3.充分考えられました。
当時、世界最強の帝国だったイスパニア(現スペイン王国)は、すでに世界の半分をその掌中に納めていて…その侵略の尖兵はすでにフィリピンまでを占領、日本は目前という位置に達していました。
日本へ最初にやってきた西欧人はポルトガルで、インドや東南アジアに占領地を持っていたポルトガルはイスパニアの良い好敵手でしたが…ちょうど信長と宣教師が話し合っていた1580年、イスパニアはこの長年のライバル・ポルトガルを併合しています。
この併合によって、イスパニアの領土は現在のドイツ・スペイン・ポルトガル・イタリアの南半分・シチリア島・中南米のカリブ海沿岸・カリブ海の諸島・チュニジア・アルジェリアの北岸・アフリカの沿岸・南インドの沿岸・マラッカ半島・オセアニアの諸島群・フィリピンという広大なものになりました。
お手元に地図帳があるなら、赤鉛筆で塗ってみて下さい。
イスパニアの権勢がどれだけ恐ろしいものか、それを信長が知っていれば戦国時代を統一しなければいけないと急いだ理由がわかるのではないでしょうか。
後に豊臣秀吉や徳川家康がイスパニア・ポルトガルとの関係を絶とうとしたのも、その侵略軍を恐れたからでした。
Q4.織田信長が江に秀吉の妻・ねねを引き合わせていたけど…実際、信長とねねの関係ってどうだったの?
あと秀吉って、ああいう軽い人だったの?
A4.織田信長が、ねねから送られた手紙に対しての返書が今に残されていますが…そこには、浮気性が直らない秀吉に対して腹を立てているねねに対し、信長が掛けた温情の言葉がつづられています。
『ねねと会うのはこれが始めてではないが、会うたびにそなたは美しくなっている。
あのハゲネズミ(秀吉)には出来すぎた女房だ。あいつにはお前が居なければいかん。
だから、もっと落ち着いて、正室らしく沈着に振舞わなければだめだぞ?』
あの激烈過剰の織田信長が、一家臣の妻から送られた手紙…しかも、たかが浮気ひとつという他愛もない(戦国史観では)事情に対し、ここまで暖かい態度を示しています。
これは、信長がねねと仲が良かったのかを示すエピソードでしょう。
ちなみに、秀吉のことを『ハゲネズミ』と綽名で信長が書き残した数少ない書状でもあります。
なお、秀吉の浮気性は筋金入りだったらしく…この書状がかわされたあとも、ねねは家臣たちの前で、夫秀吉の浮気をなじる夫婦喧嘩(名古屋弁)を複数回繰り広げています。
2011年大河『江』第四回 本能寺へ 感想と解説