2011年大河 -姫たちの戦国-』   - 第四回 本能寺へ -

>■さて、大河ドラマ『江』もいよいよ序盤のクライマックス。戦国の覇者が野望に描いた天下布武を、信長もろとも滅ぼしてしまった歴史の一大事件『本能寺の変』がいよいよ迫りつつあります。


 序盤は夢見る少女ちっく一直線な江姫(上野樹里)、まだ父親の顔を知らない彼女にとって理想の男性であり父親でもある織田信長との関係。果たして、江の願いや敬慕は信長の胸に届くのか。



 そして、大河『江』初期の主人公と言っても過言ではない織田信長の最晩年、諸説入り乱れる本能寺の変の真相はどう描かれていくのでしょうか?


 それでは、今宵はほぼ一週間遅れでの大河『江』第四話、「本能寺へ」のストーリー背景にある歴史痛的知識の解説・感想をしていきたいと思います。


 それでは、皆様の御時間を少々拝借…。 
。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!


■大河『江』第四話 【本能寺へ】


Q0. お馬揃えに出られない!と子供みたいに駄々こねて不満そうな羽柴秀吉ですが…いったい、今は何をしてるんですか?



A0. 浅井長政滅亡後、その旧領である北近江を知行とした羽柴秀吉ですが、この頃は織田信長麾下の中国遠征軍総大将として播磨・姫路城に出向いています。

 秀吉の軍勢は一時期、近畿との経路だった播磨三木城の別所長治や摂津有岡城の荒木村重謀反によって窮地に立たされていましたが、三木城を20ヶ月かけての兵糧攻めで攻略、有岡城も織田信長の軍勢によって攻め落とされたため、やっと中国地方遠征に本腰を上げることが出来ています。

 

Q1.秀吉のことを『兄上』と呼んでいる羽柴秀長って、どんな人?



A1.羽柴秀吉の異父弟(最近は同父弟なんじゃないかという説もあります)です。

 通称は小一郎で、秀吉が織田信長の草履取りをしていた頃は尾張中村で百姓をしていました。

 秀吉が出世するにつれて股肱の家臣が必要となったことから武士になるよう請われ、『あんちゃん、俺には武士なんて出来ないよ』と最初こそは断りましたが、秀吉の熱烈な説得に折れてその家臣となりました。



 性格は…とても人柄の良い人だったようで、秀吉が出世するにつれて雪ダルマ式に増えていった人間関係の整理や家臣管理問題を担当していました。また、どちらかといえば気前が良く散財家だった秀吉に比べて随分と財布の紐が硬い人で、羽柴家の財務も併せて担当していた様です。


 特に人間関係については、秀吉が『自分が才幹器量だけで出世街道を駆け抜けていった』せいか他者に遠慮がない性格であり、他の織田家家臣達と折り合いが悪かったために、そういう方面の調整役としてはとても優れて居たようです。
 今風に言えば、人間関係でぎしぎゃくとする部下達を『まぁまぁ。』となだめつつも飲み会や有給休暇を与えたり、取引先へ平身低頭に挨拶回りをする部長さん、と言った感じでしょうか。

 初期の羽柴家中で表舞台の立役者と言えば秀吉本人や竹中半兵衛、蜂須賀正勝ですが…縁の下の力持ち、といえばのことでした。


 赤髭的には、『彼がもし、秀吉よりも長く生きていれば…ひょっとしたら江戸幕府は誕生そのものが無くなったか、もしくはずいぶん遅れていたかも知れない。』というほどの超重要人物です。

 今後はおそらく、ドラマでの露出も多くなるものと期待していますが…はたしてどうなることやら。


Q2.羽柴秀吉の傍らで、変な帽子を被ってた黒田官兵衛って、どんな人?



A2.黒田官兵衛は播磨出身の豪族・黒田職隆の嫡子で、名を孝高(よしたか)といいます。


 官兵衛はこの頃の秀吉の参謀格として、名を知られた武将でした。

 秀吉の参謀といえば竹中半兵衛
が有名ですが、秀吉が三木城攻めを始める頃に死去していおり(1579年・病死)、播磨国に顔が利く官兵衛がその後釜に座ったという経歴があります。



 この黒田官兵衛という人、実は秀吉と良く似た性格をしていて…。

 自分の器量や才覚が人並みはずれて優れている、っということを自覚しており、己の知略を信じてどんどん策謀や計略を張り巡らせていくタイプ。『神算鬼謀の野心家』を、絵に描いた様な人でした。


 秀吉が『織田信長の家臣』から『天下を統一した太閤殿下』へと飛翔する重要な歴史のターンニングポイントでは、彼が秀吉に囁いた『ある言葉』がとても重要な意味を持つことになり…同時に、それが彼自身の運命を決定付けることにもなります…。

 
Q3. 今回最大の見所だった『織田信長の馬揃え』、実際にあったことなの?


 
A3. 資料製の高い『信長公記』にも記録されている事実です。

 馬揃えは皇居東門前で盛大に執り行われ、五畿内諸国の大名や御家人を集結させた一大軍事パレードで、時の帝・正親町天皇(おおぎまちてんのう)もこれを観覧したと伝わっています。


 
 ドラマでは柴田勝家・明智光秀・織田信包らが参加していましたが、他にも信長の子供達である織田信忠・信雄・信孝らや重臣・丹羽長秀、信長と比較的関係の深い公卿達も参加し、その行列はいつまでたっても終らないほどに長く豪華絢爛なもの。



 これを見た京都や周辺諸国の民衆達は間違いなく、信長の天下布武がどれほどの権勢があるかを思い知った格好になりますし…既に信長の威光が時の天皇を超えていると充分に理解出来たことでしょう。



 そして、この馬揃えの印象が冷めやらぬ直後に、織田信長は正親町天皇に退位を迫り、先に正親町天皇に『猶子』(ゆうし・家督相続権のない養子のこと)として望んでいた誠仁親王(さねひとしんのう)への譲位を要請します。


 これは、織田信長が猶子に望んだ誠仁親王が新たな天皇となることで織田信長が天皇の義父となり、日本のあらゆる権力をすべて織田家に集中させるという崇高壮大な計画の第一歩なのではないか、と考えられています。




 しかし、結局のところ正親町天皇は譲位を拒否し、お祭り騒ぎが大好きな織田信長が主催した馬揃えは莫大な費用だけを算出することになります。


 信長の大それた期待が失敗に終ったことを一般大衆は知ってか知らずか…こんな狂歌が残されています。



 金銀を  使い捨てたる  馬揃え

         将棋に似たる  王の見物


Q4. 江が織田信長に貰った『東大寺』、ランジャタイってどういうもの?



A4. 劇中や江紀行でも紹介されていた通り、東大寺正倉院に治められている正倉院御物と呼ばれる宝物のひとつです。伽羅の香木で、奈良時代に時の帝・聖武天皇が愛用したと伝わる沈香(水に入れると沈んでしまうほど密度の濃い香木)です。



 ランジャタイとは『蘭奢待』と書きますが、これを信長が『東大寺』と言ったのは『蘭奢待』という三文字の中にそれぞれ東・大・寺の三文字が隠されているという言葉遊びの意味合いがあります。





 この香木を所持していることが何故すごいのかという理由、聖武帝が愛用した正倉院御物であるという他にも、武士としては重要な意味がありました。



 実はこの『蘭奢待』、過去に…

 平家の総領であり来年大河の主人公である平清盛と、源氏の棟梁である源頼朝がそれぞれ権力絶頂期に天皇家へ拝領を要請し、それぞれされているという歴史があるのです。



 後に室町幕府八代将軍・足利義政が拝領を許されましたが、それも東大寺の敷地内で切り取られたものが下賜されただけ(江紀行でも『足利義政にあげた』という切り紙が画面に映ります)です。





 
 しかし、織田信長は違います。


 蘭奢待拝領が許可された時には、何と東大寺の寺領内へ軍勢を引き連れて押し込み、蘭奢待を安土城まで持って帰って自らが小刀で切り取ったといいますから…これが出来た時点で、織田信長は平清盛や源頼朝以上の権力者であり、征夷大将軍と同格以上の地位があるということを天下に喧伝したことになります。



 しかも織田信長蘭奢待をありがたがったのかといえば全然違って…


 堺の商人や仲の良い公家とかに造作も無くあげてしまい、自分の手元には一片も残さなかったといいますから…本当にこの頃、信長は天皇家を超える権力を目指していたのかも知れません。
■なら何で江は蘭奢待を手に入れられたんでしょう?

 

Q5. 織田信長はになろうとしている、という描写があるけど…実際、織田信長はあんな凄まじい妄想をしていたの?



A5. そう思える節や、実際に自分が神であると言ったという資料もあります。



■まず最初に、『天正』という年号。
 これは織田信長が室町幕府を滅亡させた1573年に朝廷へ奏上し、それまでの『元亀』という年号を改元して始まったものですが…   

 この天正という年号、『俺がしてやる!』という意味が隠されているのではないかという説があります。



■次に、1578年に上杉謙信が北陸道を快進撃し、織田家の領土へ迫った際に突如として脳溢血に倒れ、亡くなった際。

 もう一人の宿敵・武田信玄が病死した際にはそれほど反応を示さなかった織田信長でしたが、謙信の死にはこんな言葉を残しています。



 『謙信が死んだのは天の定めである。であるこの信長に逆らった神罰に他ならない。



■六層七階建て、金銀をちりばめた豪奢絢爛な安土城を築いた織田信長。お城の一番高い場所といえば『天守閣』ですが、安土城はこの最頂上を『(てんしゅかく)と書いたそうです。

 天を
る閣じゃなくって、天のの閣。…――意味深、ですよね。



■信長は安土城の敷地内にハ見寺(そうけんじ)というお寺を開基しますが…その功徳とご利益は次の通り。


『金持ちはハ見寺を参ればもっと金が儲かる。
貧乏人が参れば金持ちになれる。
子宝に恵まれない者が参ればたちまち子孫を得る。
健康を願じれば寿命は八十歳になる。
疾病平癒を願えば病はたちまち治る。

 ただし、参拝して願いをしたのなら毎月、信長の誕生日を聖日として必ずおまいりに来い。

 信じる者は願いがかない救われるだろうが、信じない者は現世どころか来世でも滅ぼしてやる。

だから、みんな一生懸命崇敬しろ。』




 ここまで来ると、自分が神様であると信じてなければ言えませんよね。( ・(,,ェ)・)





まだありますよ?当時のキリスト教宣教師の、ハ見寺に関する記録。


『普通、日本の神社仏閣にはXintay(御神体)というものがあり、それが神仏の本質またはその神の心であるのだが…安土山のハ見寺にはこの御神体がない。

 織田信長は【安土山ハ見寺の神体こそが我である。信長こそが神体であり生き仏である。
 世界の他に、この信長以外に神は居ない。信長の上には万物の創造主もデウスも居ない】
と言い、現世で崇敬されることを望んだ。』




 今まで信長にキリスト教の布教を許可され、教会やセミナリオ建築を援助されていた宣教師達はこの言葉を聞いて、どんな顔をしたんでしょうね…。




 もはや天皇どころか神様、しかも全世界の神様だと言い出した織田信長。


 これが驕慢なのか狂気なのか、真偽のほどは今となっては知る由もありませんが…――戦国の者は、その人生の後半部で醜態とも言える妄想に蝕まれていたことになります…。

 

Q6. 明智光秀って、四国の戦国武将と織田家の橋渡し役だったの?



A6. はい、明智光秀が四国の武将が織田家と交誼するための案内役でした。


 といっても、四国地方四カ国すべての武将が親織田家だったわけではなく…実際に交流を求めていたのは土佐の長宗我部元親くらいでした。

 長宗我部家の所領は四国土佐という、当時からすれば辺鄙な土地柄でしたが…歴代当主は管領細川家などの中央の権力者達と早くから交流していました。

 元親も織田信長の台頭にはいち早く敏感な反応を示し、嫡男信親の烏帽子親を依頼したり、『四国を長宗我部家の切り取り次第』=長宗我部家が占領しても良いという許可を願い出ています。



 織田信長は『長宗我部元親なんぞ所詮、鳥がいない島のコウモリみたいなものだ』と軽く見ていたようですが、交渉役を担当していた明智光秀は大真面目に長宗我部家と織田家の和を重要視していたらしく、腹心だった斎藤利三(さいとうとしみつ。あの春日局の父親)の妹を元親の正室に嫁がせるなどして平和交流に勤めていました。



 しかし、後年になって信長は『長宗我部家の四国占領を認めない』と言い出し、阿波・讃岐両国まで及んでいた長宗我部家の領土を阿波西半分以外、織田家にすべて引き渡すようにと元親を脅迫。これをつっぱねた長宗我部家を許さず、征伐を考えるようになります。


 ここに来て、四国と織田家の親和外交に勤めていた明智光秀の面目は丸つぶれになってしまいました。同時に、四国統一を目指す長宗我部家にとっては最大のピンチです。



 しかし。…この明智光秀の屈辱と長宗我部元親の危機を両方いっぺんに解決することになる、歴史の一大事件が発生します。その火蓋は、既に今回第四話の終盤で切って落とされています。


あとは、誰かが火縄をともして、銃爪を引くだけ…。

 

 ■さて。…――こうして見返してみると、本能寺の変の原因である諸説のうち『江』では今のところ、『朝廷陰謀説』『明智光秀怨恨説』『長宗我部元親説』と、三つほどの伏線が張り巡らされているようです。

 見た感じ、明智光秀の怨恨が強く描写されているようですが…果たして、戦国大河ドラマの晴れ舞台『本能寺の変』…今年はいったいどうなるのでしょうか。

2011年大河『江』第五回 本能寺の変 感想と解説




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