2011年大河 -姫たちの戦国-』   - 第五回 本能寺の変 -

■さて大河『江』ではついに序盤最大の見せ場・戦国時代の覇者・織田信長が歴史の表舞台より消え去る一大事件『本能寺の変』が起きたわけですが…。

07年大河『風林火山』をリスペクトし過ぎて色眼鏡で見てしまっているのでしょうか…
『意表を突いた展開を想定していたんだろうけど、これは何だかなぁ…』というのが素直な感想です。

 それとも、大河『江』が求めているものを読み違えているだけなんでしょうか?( =(,,ェ)=)
まぁ、愚痴りを続けても仕方ないので…なんと一週間遅れでの第四話『本能寺の変』感想です。

 それでは、皆様の御時間を少々拝借…。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!


■織田信長(豊川悦司)with森蘭丸(瀬戸康史)
確かに、お姫様の激動の生涯の物語なんだから…わずか十歳の時の思い出でである信長が主役を喰ってはいけないってのは
わかるんですよ、確かに。


 でも…――もう日本も朝廷も、天皇も神すらも凌駕しようとしている男が最後の最後に家臣の謀反でつまづいて、紅蓮の炎に包まれる最後を迎えたとき、はたして幻想に見るのは『姪』で良いんでしょうか。

 今風に言い換えれば、信長は『もう自民○も民○党も雑魚同然、総理大臣と陸海空自衛隊の幕僚長も目前という所まで上り詰めた未曾有の独裁者、けど部下に反逆されて家を襲撃されて火を付けられた』ってことですよ?

 普通なら天下を逃したことが第一に来るはずなんですよ。なんでそこで当時十歳の姪が瞼に浮かびますか。



 信長の最後は潔いのが形式美なので天下を逃して悔しがるってのはなしにしても、あそこで江の幻想が見えたのはいただけない気がします。

あと、信長が最後の襖を開けた瞬間、向こうが光り輝いてそこに消えていく場面。『武将としての最後をぼかす』描写。

 確か05年大河『義経』の最後でも、似たようなことをやったと思うんですが…――。



いや、信長が最期を迎える瞬間って…残酷だ何だ以前に、最高の場面なのに…――( ;・`ω・´)

本能寺の変の描写が割と悪くなかっただけに、ちょっと不満が残るところです…。



 森蘭丸と弟達、良い雰囲気は出てたんですが…明智光秀との絡みも乏しい感がありましたし、本能寺の変のキャストとしては外せない人なんですが…――蘭丸はともかく他の二人は必要だったのでしょうか。

とりあえず、視聴率稼ぎに男前投入しとけ感が否めません。

あと、最後…『ここから先は何人たりとも通すな!』。

私が見た感じ、最終的には蘭丸の周囲には信長麾下は誰も居なかったようですが…――誰に言ったんでしょう?
一歩も通さん!』で良かった気がするのですが(汗。


うーん…。
次週以降、豊川さんも出てこなくなるし…どうなるんでしょう、絵面的にも…(遠い目。

□歴史痛のこぼれ話

@本能寺の変に遭って最後を迎えた織田信長。『誰かの謀反です!』と言われた時、最初に信長が疑ったのは長男の織田信忠でした。

才能に恵まれていない、器量の悪い嫡男と感じていたとされる信長ですが、どこか彼を認めていたのでしょうか…?


A森蘭丸・坊丸・力丸の父親は森可成(もりよしなり)という武将なのですが、武将としての軍略はもちろん性格人柄とも優れており、信長や他の武将達に深く信頼された武将でした。

 作中でも語られた通り、1570年に北近江宇佐山城で浅井長政(江の父親)・朝倉義景連合軍に破れて討ち死にしたのですが…――その彼が最後に所領としていたのが、明智光秀の本拠地だった坂本城。

 信長は蘭丸にも森可成と同様深い信頼と寵愛を寄せましたが、そろそろ元服だなと思った頃合いに蘭丸が求めたのが

父の遺領だった近江坂本が欲しい。

 信長が光秀の領土だった丹波や近江坂本を没収したのは、ひょっとしてこのためだったのかも知れません…。


B森蘭丸、という名前は信頼できる資料には出てこない名前で、実際は 乱丸 が正しかったようです。

 一文字違うとえらい雰囲気が変わりますが…織田信長はこの 乱丸 という名前がお気に入りだったようで、複数人数の小姓にこの名前を与えています。


C本能寺の変で森蘭丸を討ち取ったのは明智軍の安田国継という武将でした。

 
彼は槍の名手で、本能寺内でも一番に信長を発見し一番槍をつけるという名誉を得ました。
 が、明智光秀没後は一転『あの謀反人の家臣』として逃げ回るハメに。

 名前を天野源右衛門と改め、立花宗茂など複数の戦国武将に仕えたのですが…――晩年になって腫れ物を病むようになり、何度も腫れ物をつぶしたり治療しても治らない。

 あまりの痛さに耐えかね、とうとう国継は切腹して死んでしまった。その日はなんと織田信長の命日。

この話を聞いた周囲の者は『きっと信長公とその愛小姓・森蘭丸の祟りに違いない』と噂しあったとか…。

( ・(,,ェ)・)ただし国継が死んだのは本能寺の変の15年後なんですけども。

■明智光秀(市村正親)
 信長は光秀に期待を寄せている風な描写がありましたが、結局光秀は信長の非道と無法に耐えかねて暴発。


 数々ある本能寺の変説でも一番スタンダードな、怨恨説と野望説を足して2で割ったような理由での本能寺になりました。

 実際、本能寺の変後の光秀の行動というのは前々から入念に計画を練り、すべて段取り通りに実行したという雰囲気じゃないんですよね。

 気がついてみたら信長を倒せる絶好の機会、絶好の位置条件に自分が居た。このままでは自分の将来も危ういし、今しかない。

 手指震顫が来るほど精神的に参ってたようですし、それをもたらした信長がこの世から居なくなれば気分が晴れる。

 そう思って単に暴発しただけ…――だとしたら、信長も家臣のメンタルケアまで考えてなかったとも考えれますよね。

案外歴史って、真相を追究していくとそういう単純な心理にたどり着くケースが多いわけで…。




 さて、次回予告では必死こいて信長の遺骸を捜していましたが…はてさて、大義名分の証明書である信長の首級は見つかるんでしょうか。

謀反を起こした場合、討った相手の首をどこかに晒して宣言しないかぎり、自身の正義を証明できないわけですから必死にもなります。ですが明智光秀の段取りの不味さは、ここからが本番です(苦笑。次回展開はどうなることやら。


□歴史痛のこぼれ話


@明智光秀、実は本能寺の変を自分一人で決断したわけではなかったりします。

 明智秀満・斉藤利三・藤田行政・溝尾庄兵衛といった信頼の置ける重臣達に『織田信長に謀反したい』と相談しているんです。

 斉藤利三はそれむちゃな暴挙であるとを諫めて、光秀も一度は納得し諦めかけたそうです。が、明智秀満は猛反発。

 『誰にも話していないなら、それでもよかった。

 けれど、今は我らが知ってしまった以上、必ずこの噂は漏れて信長公に伝わる。そうなったら明智家は御家断絶間違いないから、もうやるしかない。』


 と強く説得、光秀はついに決心を決めたのだとか。


ということは、本能寺の変の銃爪を引いたのは光秀じゃなくて明智秀満ってことになりますね…。

A山陽道を通って秀吉を討つのに京都を通った明智光秀、本心を知らない家臣たちには『信長様に軍勢を見て貰う』と説明していたそうですが、もっと信憑性のある説明をしなければ疑われる可能性があるため、それらしい言い訳も用意してありました。

『徳川家康を討つ為だ。あいつが生きていれば織田家の為にならない。』

家康、危機一髪でした。( ;・`ω・´)


B大河『江』では神仏も天皇朝廷も重んじず、無法な暴力を振るう信長に耐えかねた苦労人という感じの光秀でしたが、宣教師ルイス=フロイスが書き残した光秀の人柄は

『ずる賢く、自らの保身に長けた謀略家。策略に秀で、敵を騙すことに何ら罪悪感を持たない人。』

 おまけに、明智光秀もこんな言葉を残しています。

『武将の嘘は策略と言い、仏僧の嘘は方便だと言って誤魔化せる。農民や一般大衆の嘘なんて可愛いもんだ。』

…――普通に、信長の天下が欲しかっただけなのかも知れませんねこの人。

 策略家にしては、やったあとがいきあたりバッタリですが。

■江(上野樹理)&■徳川家康(北大路欣也)

 くどいようですがまだ江は十歳です。



そしてその十歳の影響力に振り回される織田信長と明智光秀。話に無茶があるのは重々承知ですが、まぁそれは置くとして。

 …――堺から本拠地浜松へ必死の逃避行『神君伊賀越え』をする徳川家康ですが、これが何とも危機感を感じない!(苦笑。


 野武士が襲って来て、家康麾下でも武勇名高い本多忠勝を呼んで何を頼むのかと思えば『銭をばらまく』。

 時代考証があの小和田哲男さんなので、襲ってきた野武士の衣装が素晴らしくリアルなのに感嘆した直後…肝心の展開がリアルじゃない!ってどんな落とし穴ですか。

 あそこは嘘でも本多忠勝が槍を振り回したり、蹴散らしながら強行突破しなきゃダメでしょう。

 明智光秀は当然、周辺の諸豪族や悪党達に徳川家康捕縛か殺害を指示していたはずですから、あんなはした金に釣られるより眼前の徳川家康を殺したほうが断然実入りがあるはずなんです。

 あの人数ならそのほうが絶対得ですからそもそも迷わないはず。

戦国武将の武力が恐ろしいのは数百〜数千人の鎧武者を麾下に置く軍団が恐ろしいのであって、個人は普通の人間。

 戦国武将が我が身一つなみの少人数になったときこそ、ああいった野武士集団や落ち武者狩りの功名心が歴史を動かしてきたのです。



 なのに、家康が襲われる場面も江が襲われる場面もびっくりするほどその危機感が伝わってこない。江に至っては信長の幻想とか見てますし。


 07年大河『風林火山』では危機を逃れ平蔵(佐藤隆太)を探し求めていたヒサ(水川あさみ)が同じ様に野武士に囲まれた描写がありますが、真相はぼかしてあったもののその結果は悲しい現実を露わに描写してくれていました。

このリアルや危機感描写の差は何なんでしょう…。( =(,,ェ)=)

 次回予告では、江が明智光秀軍に捕まったかのような描写がありましたが…果たしてどうなることやら。 



□歴史痛のこぼれ話

@本能寺の変勃発時に堺で逗留していた徳川家康、明智光秀の謀反・信長横死を聞いて最初に考えたことが『信長公への後追い自』でした。

 なにせ自慢の三河武士団は本拠地に置いたままですし、正面切って明智光秀と戦っても勝ち目はありません。潔く腹を切って殉死しよう。

 本多忠勝もそれに賛成して、みんなで腹を切ろうとしたのですが…徳川家参謀・本多正信が鶴の一声。

『そんなことしてもどうにもならない。なんとか大和・伊賀を突っ切って伊勢湾に出て、本拠地に帰ろう』

と提案し、ここに奇跡の大脱出『神君伊賀越え』が始まりました。


 ちなみに本多正は鷹匠出身という身分の低い家臣ながら、
優れた智謀と策略で活躍し、家康とは水魚の交わりともよべる信頼関係で、腕っ節や忠節が第一の三河武士とは一線を隔す存在でした。

 ただし、本多忠勝や榊原康政といった三河武士からは徹底的に嫌われ、『腸の腐れ者』とまで呼ばれる始末。

いつの時代も、知恵が回る参謀役は前線で働く人には嫌われます。言ってみれば、正信は徳川家の石田三成といったところでしょうか。


A家康が堺から浜松に生還した『神君伊賀越え』の時に大活躍したのが伊賀出身の忍者・服部半蔵。

 土地勘を生かして伊賀忍者や伊賀豪族を召喚し、家康の脱出経路を突破した彼の武勲は大きいものですが…――。

 実は"このときの"服部半蔵本人は伊賀出身でも無ければ忍者でもありません。

 服部家が徳川家の家臣となったのは家康の祖父・松平清康の頃で、"先代の"服部半蔵保長(はっとりはんぞう-やすなが)が最初です。

彼は間違いなく伊賀出身なのですが、この時家康に従っていた服部半蔵はその保長の子・服部半蔵正成。(はっとりはんぞう-まさなり)。

 正成は正真正銘、三河出身。ですので伊賀の土地勘に詳しいわけでもなければ忍者でもなく、歴とした武士として徳川家に仕えていました

じゃあ、誰が徳川家康の道案内をしたんでしょう。道路標識でも出てたんでしょうか? ( ・(,,ェ)・)っ【浜松 255q】?


B実際には伊賀じゃなくて甲賀の豪族達、京都の豪商・茶屋四郎次郎らの援護を受けて伊賀越えを敢行した徳川家康でしたが…。

よく考えてみるとこの本能寺の変前後の明智光秀・羽柴秀吉・徳川家康の行動というのは『あまりにもうまく行き過ぎています。』

 光秀は恨みつらなる信長を奇襲で殺し、秀吉はそれを見透かしたかのように迅速果断の行動を取り、家康は不可能同然と思われた明智軍勢力範囲を強行突破。

 はたしてこんな偶然が一度にみっつもおきるでしょうか?最近では、これを理由に本能寺の変を『秀吉・家康・光秀による共』だなんていう説を上げるかたもいらっしゃるようです…。


2011年大河『江』第六回 光秀の天下 感想と解説





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