■風林火山は五年過ぎた今でも色褪せない歴史硬派な物語。
ホームドラマ仕立てだった11年大河『江』とのあまりの温度差で、同時に視聴していると『…──これって、同じ"大河ドラマ"ってジャンルにして良いのかな(汗』とか思ったりしますが、まぁ…視聴率と一般受けって意味ではたぶん大敗の『風林火山』、今週もひっそりと参りましょう。(
・(,,ェ)・)
越後の龍・長尾景虎(Gackt)も噂が高くなり、主要Castの面々が顔をそろえ始めた物語中盤、第二十五回ですが…勘助が『天下人となられる器を持つ御方』と仰ぐ甲斐武田家の総領・武田晴信(市川亀治郎)も奢りが著しくなり、かつて家臣達が『甲斐を滅ぼす』と嘆いた暴君であった先代・武田信虎(仲代達矢)の面影を強く現す様になりました。
…後に乱世へ終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康に壊滅的な大敗北を喫しさせた名将・武田信玄も、まだ26歳。戦国の世を酸いも甘いも知り尽くし、武田の戦を知り尽くした家老達の進言にも耳を貸さなくなり、慢心を極める晴信。
この若き甲斐の若虎を阻む敵はまだ多く信濃にひしめいています。晴信の奢りを、その隙を狙うのは北信濃の雄・村上義清(永島敏行)か、はたまた信濃守護・小笠原長時(今井朋彦)か。
それでは、遅い遅い第25話『非情の掟』感想前編をお送りします。暫し皆様の時間を、拝借つかまつるッ。
m9っ ;・`ω・´)
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諏訪寅王丸(澁谷武尊
)&武田四郎(本川嵐翔)
『
…主君たるものは、この世で最も小賢しくなければならぬ事を、儂は知った。…なれど、儂はいまさら生き長らえたとしても、寅王丸に「小賢しくあれ。」とは教えてやれぬ。…教えたくも無いッ!!…その事を、そちから寅王丸に教えてやって欲しい。…。』
『…儂のような目には遭わせたく無いのじゃ…。…頼む…寅王丸のこと、くれぐれも…頼む…ッ。』
勘助にそういい残し、諏訪頼重(小日向文世)が甲斐東光寺にて壮絶な切腹を遂げたのは…1542年の7月の事でした(第16話 運命の出会い) 。
勘助に寅王丸の行く末を頼み、禰々を残して死んでいった頼重の言葉を勘助は忘れてしまったのでしょうか。…いえ、忘れてはいないでしょう。
…忘れてはいないのでしょうが、故意に見捨てたのでしょう。
勘助は甲斐武田家の、御館様の為にならないと判れば、馬場信春(高橋和也)ですら斬って捨てようとした勘助です。
由布姫が勘助をして『
行いに情けというものが無い。おのれの志のみに動いている。』と評価したとおりの、無情極まりない見切りを発動しました。寅王丸が居ては御館様と由布姫のわこ様が諏訪家の総領になれない。
それどころか、放置しては諏訪家の為にも武田家の為にもならない。
勘助は、あっさりと寅王丸を僧籍に送り込む事を決定します。
…いや、これは考え方に拠っては、勘助は頼重の頼みを律儀に守りきったのかもしれません。
…戦国武将という、信義など紙の様に薄い乱世に生きねばならない職業に就いては、諏訪家の総領という地位にあっては…寅王丸は厭でも小賢しく生きていかなければならないでしょう。
寅王丸の母で、夫頼重の後を追うように死んでいった禰々(桜井幸子)も『兄上の様になって欲しくない』と言い残してこの世を去っていきました。
小賢しく、姑息なまでに神算鬼謀を張り巡らしていかなければ生きていけない世界…戦国時代は無情の時代です。
頼重から託された寅王丸を、そんな血塗られた戦国武将としての運命から逃れさせるには、仏門に入り御仏の教えにすがる事が最も適切であると判断したのでしょう。
戦国武将の兄弟には必ず一人か二人、僧籍に身を置き俗世から離れた暮らしをしている男児が居るのは、二つの理由があります。
一つは…今回の寅王丸の例の様に、体の良い厄介払い。…兄弟がたくさん居ては、御家騒動の火種となる為事前に仏門に置くか、さも無くば他家への養子として送り込む事でした。寺に入ると俗世とのかかわりを絶ち、僧侶として修行に励まねばならない為、御家騒動などで家督相続権があっても僧籍のままではそこに参加は出来なかったからです。
…もっとも、戦国武将の場合…花蔵の乱の様に緊急事態の場合などの様にいやでも俗世に戻り実家を救わなければならない場合も多く、その場合はちゃんと仏様に暇乞いをして僧籍を抜け、俗世に戻る儀式を行いました。これを『
還俗』(げんぞく)と言います。
□ただし、仏門に入り僧籍に入っても『
入道』と言って、出家はするけど俗世の事にも関わる事が出来る制度もありました。こういった『入道』となった武将には『〜軒』『〜庵』という号名・通称で呼ばれる事が多かったようです。
風林火山では"
高遠のばか兄弟の弟"・
高遠蓮蓬軒(木津誠之)や武田信玄の影武者で知られる
武田逍遥軒(たけだしょうようけん 大河には武田孫六信廉(伊藤瑞稀)で登場済み)などが入道武将です。
ちなみに
武田信玄は徳栄軒、
上杉謙信は不識庵という号名です。
もう一つの理由は、『血槍を振るい人の命を奪い続ける
戦国武将の様なけがれた魂でも、一門に僧籍の者が居ればその者が死後も正しい道へと導いてくれ、極楽に行ける。』と信じられていたからでした。
信濃国のお隣、美濃国の守護土岐家に仕え、下克上につぐ下克上で戦国大名に成りあがった『
美濃の蝮』、織田信長の舅としても知られる
斎藤道三(さいとうどうさん
1494?〜1556)も、謀叛を起こした嫡子・義龍との最後の戦い(長良川の合戦)の前に、末子に向けて遺言書を書き残し『仏門に入るように』と指示しています。
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武田晴信(市川亀治郎)
With三条夫人(池脇千鶴)
久々の三条夫人の登場です。相変わらず柔らかな物腰と良く澄んだ声、強風美人かくあるべしな麗姿ですが…勘助の登場によりその立場がどんどん悪くなっていくのが解ります(泣。
勘助の武田家仕官前には御館様の寵愛が厚くて閨にも良く呼ばれ、夜の生活(コラもなか睦まじい処を見せてくれたのですが、勘助が来てからは次男龍芳が疱瘡による高熱の末に失明するわ側室にかつて滅亡せしめた諏訪頼重(小日向文世)の娘・由布姫(柴本幸)を紹介されるわ、挙句に御館様の寵愛は由布姫に移るわで散々なコトばかりです。
ここで史実通りの厭なタイプの三条夫人なら、眉間に皺を寄せてがなりたてる処ですが、決してそういった部分を出さずにじぃっと我慢しているのが奥ゆかしくも可愛らしいトコです。
そこに惚れたんですよ赤髭は。
由布姫は芯が強すぎて凛々しすぎてどうも、ね。(黙れ(ぉ
…しかし、その理知的で聡明な三条夫人も…さすがに恋敵の由布姫が男児を出産し、諏訪家を継ぐ筈であった寅王丸(澁谷武尊)が晴信の指示で諏訪家家督相続を反故にされ駿河善徳寺の太原雪斎(伊武雅刀)の元へ追放同然に出家させられると聞いては、黙っていられませんでした。
…幾ら連戦につぐ連戦で甲斐武田家の梶を取る総領として多忙を極めているとは言え、わが子で嫡男の太郎(小林廉)には余り関心を示さない御館様が、由布姫の生んだ赤子の進退に関しては自ら進んで信義を反故にし、諏訪家の総領たる道へと導いてやっている。同じ御館様の子なのに、この差は何なのだろう。
頭の良い三条夫人の事ですから、いくら正室として他の奥方衆を束ねる地位と矜持があり無闇な嫉妬は慎んでいるとは言え、御館様の寵愛が既に自分の元から離れつつあるという焦燥感は強く感じている筈です。
太郎の傳役には甲斐源氏の一族であり、甲斐武田家家中における発言力・影響力の強い(飯富虎昌)が任命されていることからも太郎の家督相続は間違いのないところなのですが、御館様の寵愛を失いつつある焦燥からか太郎の母親としての矜持からか、『
太郎の家督が安泰であるという御墨付き』をくれる様に晴信に問い詰めてしまいました。…。
普段の理知的な三条夫人であるならば、晴信が酒に酔っているとは言え自分の器量に過剰な自信を持っていること(『
国内の仕置きの事は、誰よりもこの儂が知っておる、ヒック』とか)や、表情の端々、重臣達へ接するに当っての尊大な態度に見られる奢りの予兆を見抜けていた筈です。
そして、その予兆に気づけば聡明な三条夫人の事、太郎の家督問題についての決断の是非を問う機会を別の日に行った事でしょう。しかし、運命の轍は悪いほう、悪いほうへと急展開していくようです。
『
誰が、家督は安泰と言うた。』
『…誰が家督を継ぐかなど…まだ決まっておらぬ。』
『家督を譲るも譲らぬも…。
この儂の胸三寸じゃぁッッ!!!』
晴信の怒気はらむ顔が、かつての独裁者・武田信虎と二重写しに映ります。…確たる後継者が定まらぬは、亡国の兆し。
三国志の世界でも、河北(黄河以北、中国華北地方)を治め四代に渡って三公
(さんこう。司徒・司空・大尉。当時の中国漢王朝家臣でも筆頭格の重鎮)を輩出した名門・袁家の当主であった
袁紹本初(えんしょうほんしょ
???〜202)も長男と三男どちらを後継者と定めるか決めかねたまま没し、死後数年のうちに袁家は滅亡してしまいましたし…。
そもそも日本に戦国時代という血で血を洗う壮絶な闘争の時代をもたらしてしまったのも、
室町幕府の頂点たる足利将軍家が後継ぎをしっかりと決めれなかったからでした。
そうでなくても、甲斐武田家というのは後継者問題が再三起きていた家系です。
勘助をして『天下人になる御方』と激賞された晴信ですが、今やその武将としての天賦の才も総領としての器も、その過信と慢心により…先祖の、そして父信虎が直走った同じ過ちの轍を踏んでいる事に気づかぬほど、正邪を見抜けぬ様になっているのでしょうか…。
それでも、戦国時代でも有名な分国法である『
甲州法度次第』を編纂した駒井政武(高橋一生)の思い切った進言には膝を打って納得するあたりはさすが『甲斐の虎』と後世に讃えられるだけある、度量の広い、壮大な器であることが伺えます。
しかし、次回はいよいよ若き晴信の一世一代の大事件と数える事も出来る『
志賀城攻防戦』です。
晴信Fanと小山田fanの皆さん、覚悟は宜しいかな?ナレーション通り、まさしく鬼の一面であること間違いありません。
m9っ ;・`ω・´)
お か
あ
■
今川義元(谷原章介)feat.寿桂尼(藤村志保)さんといっしょ
『…あまり、かの者を信用なさいまするな。
…心底、人の為に良かれと思って働くものなどおりません。 皆、おのれの為にして居るに過ぎないのです。
…なにゆえ、儂がそちを好かぬか教えてやろう。 そちは、その『おのれ』が、その欲が強過ぎるのじゃ…。
主への忠節を隠れ蓑にして、それを他人に悟られまいとしておる。 …それを隠す、小賢しさを身につけておる。
…それが、そちの醜さじゃ。』
…相変わらず、冷た過ぎて肌が裂け斬れそうな程に怜悧な、研ぎ澄まされた切れ味の冴えを見せる『
海道一の弓取り』こと今川義元。
勘助の武将としての才能を高く買っており、その如才を評価している、母にして『女戦国大名』・寿桂尼の諫言にも素直に従おうとはしません。その視線は冷やかに、有象無象の区別無く人の心の奥底を見抜いているのではないかと錯覚するような、寒気が走る程の冷たさを見せます。
以前も、『
いつか自分の力で、海の見える城砦を切り取って見せる…ッ!!』と自信を漲らせ、力強く言い放って見せた武田晴信(市川亀治郎)の横顔を、視線だけは全然笑ってない笑顔で『
…この、駿河の海ではあるまいな…?』と、晴信の心の奥底に潜む野望を透ッ破抜いたのも義元でした。
思えば義元は『花蔵の乱』において、人の…家臣達の我欲我執が兄・今川氏輝(五宝孝一)・彦五郎を死に追いやったのを目の当たりとし、庶兄
(側室から生まれた兄弟)の玄広恵探(井川哲也)との血塗られた後継者争いに勝利して、今川家の家督を襲封している屈折したという過去があります。他人の野望の炎、その予感には人一倍敏感に出来ているのでしょう。
…そんな彼には、過去には『最愛の人の仇である武田信虎への復讐』で、今は『思慕の人・御館様と由布姫の子である四郎様を天下人の後継者として育てたい』という我欲に満ち溢れている性根が見え隠れしている勘助など、まさしく『隻眼の悪鬼』としか見えず、信頼するに値しなかったのでしょう。
政治的な奇麗事での二の句が継げずに居る勘助の眼帯を扇子の柄で弄りながらも、恐ろしいまでに的を得た評価を下す冷徹な義元の横顔は、『甲斐の虎』や『相模の獅子』と渡り合った『
海道一の弓取り』の面目躍如の格好良さ。
かつて、今川家家臣にと熱望する勘助を『
余にその顔を見て過ごせと申すか!!』と一喝した義元。
…今この言葉を聞けば、単に勘助の醜悪な疵だらけの顔と隻眼を忌み嫌ったのではなく、その眼帯の下、疱瘡で失った隻眼の奥底に潜む強過ぎるまでの我欲を見て取っての嫌悪であったのが、良くわかります。
…しかし、この勘助の醜さを見抜いてはいても重用するかしないかについては、寿桂尼の政治的判断に凱歌が上がります。
前にも色々な面でお話ししましたが、敵国を侵掠・占領・統治するにあたっての『
大義名分』という点では、信濃諏訪地区を占拠するに当って『諏訪家先代総領の子である寅王丸を擁する』というのは
限りなく正統性の高い大義名分なのです。
この『寅王丸を庇護出来る』というのは正しく『奇貨置くべし』の故事に通じる政治的手札です。
ここは勘助への嫌悪など隠しておいて、したり顔をして預かるのが正解でしょう。
先代であった夫・今川氏親の晩年からその嫡子・氏輝の若年期に渡って政治の梶を取り、数多の文書を発信して辣腕を振るっていた寿桂尼の政治手腕が、並み大抵のものでは無い事がうかがえる場面。義元もまだまだ尻が青い。
義元の怜悧さや太原雪斎(伊武雅刀)の得体の知れない神算鬼謀に隠れがちですが、この温厚そうな顔をした『女戦国大名』の政治判断も、今後の大河『風林火山』における今川家の趨勢を読む上では重要だと、赤髭は考えてます。
さて。寿桂尼や雪斎と比べられてはまだまだ若いと思える面も否めない今川義元ですが、『人を見る、人の心を読む』と言う点では刮目すべき描写がありました。
…実は、史実に於いてもこの今川義元という戦国武将の『
人を見る目』という点は、『戦国の覇者』織田信長や豊臣秀吉、信玄や謙信といった有能な戦国武将達と見比べてみても、勝らずとも劣らない点が実は多くあったりします。
例えば、太原雪斎を重用した事です。
雪斎が優秀な僧であり高度な政治判断力を持つ事は、既に花蔵の乱前後から駿河今川家では判明していた事ですが、その雪斎の才能が政治的折衝役だけでなく軍事活動や外交手腕にも秀でたものがある事を見抜き、
今川家の『軍師』『執権』とも言われる大役を与えてそれらの面でも活躍出来る場を与えたのは、誰でもない今川義元です。
言わば、義元は
『"これだ"と思った人物を重用し、大きな権限や重役を任せる事の出来る、旦那気質的で寛大な器量を持った大将』であったとも呼べるのです。
この器量が持てる戦国武将というのがそうそう居ません。
信玄にしても謙信にしても、御家の勢力がかなり広くなった後の時代になっても自分自身が戦場に立って采配を振るう事が多くありました。
お互いに家臣達の謀叛に悩まされた身ですし、常に大規模な策戦で総大将自ら務めなければいけなかったのは、真の全幅の信頼の置ける家臣、また信頼を置く器量が無かったともとれます。
謙信や信玄ですらこうなのです。
…戦国時代には、『戦国武将の懐刀・軍師』と呼ばれる武将は数多くいますが、実際に戦場にまで出て軍兵を指揮し、主君に全幅の信頼を置かれた軍師というのはそれほど多くいなかったりします。
また、そんな智恵と器量のある戦国武将を麾下に迎え、才能を見抜き、全幅の信頼を置き、兵権まで与えて重用出来る大将としての器を持った戦国大名というのも実は稀有な例だと言えます。
…ちょっとした比較として、他の戦国大名と軍師の関係を見てみると…。
【
豊臣秀吉と黒田如水】
秀吉の軍師として活躍したとされる黒田如水ですが、その切れすぎる智謀は秀吉の信頼を得るどころか返って警戒され続け、秀吉存命中はその功績に鑑みても少なすぎる所領でしか報われませんでした。
黒田如水は1600年、秀吉の死後に起きた天下分け目の大合戦である『関ヶ原の合戦』で、息子の留守を預かっていた豊前中津城において突如軍勢を整え、野望の牙を剥き九州全土を占領することになります。
…もっとも、その野望も…『
実の息子の大活躍で、関ヶ原の合戦が一日で終わった』という思いもよらないアクシデントに止めを刺されましたが…おかげで徳川家康にまで『腹の底が知れない奴』と警戒される羽目になりました。軍師は軍師かもしれませんが、信頼を置くのはちょっと危険ですね…。
【
豊臣秀吉と竹中半兵衛】
竹中半兵衛も同様に、軍師という割には一軍を率いて大活躍したという信用の置ける記録はそれほど多くありません。
よく、『
物静かで、兵法を張り巡らして秀吉を補佐する名軍師』みたいに書かれている文書がありますが、多くの場合は『甫庵太閤記』など物語性の強い文書による創作であり、実際の半兵衛は『自身の才能を鼻に掛け、言いたいことは言うタイプの典型的な秀才肌の人物』であったらしく、秀吉も信長も重用はしても信頼はしていなかったと伝えられています。
半兵衛の活躍の多くは、合戦場での兵略よりも…勘助の言うところの『
兵は詭道なり』の面、すなわち戦わずして勝つ…敵将調略などが主でした。
【
武田信玄と山本勘助】
…これを言うと元も子も無いですが、勘助の活躍が大々的に記された唯一の歴史的文書である『甲陽軍鑑』にすら
『勘助が武田信玄の軍師であった』だなんて一ッ言も書かれちゃいやしません。歴史的には存在も活躍も否定され気味です。
もっとも、勘助が戦国の表舞台から退場した後、信玄が真田幸隆に見せた重用振り、信頼の置き方は上野国攻略での総大将職。義元と雪斎の関係に迫るものであり、信玄もそれが出来る器量のある大将であったという点は補説しておくべきでしょうけど。
【
上杉謙信と宇佐美定満】
上杉謙信の軍師と呼ばれる宇佐美駿河守定満。この人物、実は江戸時代になって急遽『上杉家の軍師』として登場した人物で、その活躍の多くが謎のベールに包まれています。
…ぶっちゃけた話、宇佐美定満は勘助並みに伝説に片足突っ込んだ戦国武将と言えます。
また、上杉謙信は宇佐美定満以外にもこれといった参謀を持っていたという記録はありません。たいてい、合戦をはじめるときも一方的に家臣へ下知を布告するだけで…いわゆる『ワンマン経営者』だったようです。
こうして比較してみると、駿河今川家以外の大名家では主君の権限がまず絶大で、かなり離れて家老や参謀が次点、という主従関係ばかりが目立ちます。
今川義元のように、主君としての代行に匹敵するような権限を家臣に与えた例がいかに稀有であるかが、皆さんにもおわかり戴けるのではないでしょうか。
さて、次回…26回の予告編では慢心に猛る晴信の怒声、そして二度目の登場となる長尾景虎(Gackt)の鎧姿がチラと見られましたが…晴信が憤怒の一喝、鬼の一面を出した志賀城の攻防戦の壮絶さ、もちろん『風林火山』では完全再現されています。
DVDで視聴されているであろうFanの皆様も一見の皆さんも、どうか刮目して御覧あれ。
2007年大河『風林火山』第二十六回 苦い勝利 感想と解説