2007年大河『風林山』   - 第二十六回 苦い勝利 -


秀吉に対して無双だった傍若無人の主人公・江(上野樹里)が嫁に?…なんて流れで、大河『江』の方もなかなか面白い展開になってきましたが、同時に感想・解説している07年大河『風林火山』もいよいよ中盤の山場・武田晴信vs村上義清の展開が熱を帯び始めてきました。

 既にネタ割れしている『風林火山』ではありますが、四年を経て再び視聴してみても物語の熱さや戦国武将達が繰り広げる水面下の戦いは、思わず手に汗握る上質の歴史大河に仕上がっています。
 興味の湧いた方は、完全版DVDの購入・レンタルなどで御覧い下さいませ。( ・(,,ェ)・)voO(江がヌルイと思う戦国硬派さんにはオススメ!!)



 それでは、今宵もやや遅れてはしまいましたが、第二十六話『苦い勝利』の感想・解説をお届けいたします。


■村上義清(永島敏行)&笠原清繁(ダンカン)

 『内応者か…。

 略というのは、好かん!!  自ら左様な事すれば、我が家臣もうて生きねばなるまいて!!   

…それも、辛いことじゃ…ッ!!




 …んー…そうなんですよね。

 戦場で槍を振り回して敵を討ち滅ぼすのは、一見しても何ら疑いの余地は無い話。

 強いから勝った、と誰にでもわかります。純粋な力と力のぶつかり合い、意地と胆力の勝負の結果ですから。

 戦乱の機運が去った今の世に生きる我々も、命を遣り取りしない真剣勝負…スポーツや陸上競技に白熱出来るのはそこに明確なルールがあり、えこひいきや狡猾さ・ズルさがないからです。


 でも、謀略というのは違います。


 智略を張り巡らし、情報を集め、人の心を読み、その弱さを突いて用意周到な策を練り、いつの間にか敵を絶体絶命の窮地に追い込んで絶望をもたらすもの。

 
それが『計略』です。


 勘助や雪斎の神算鬼謀…鮮やかな手簡は、第三者から見てみれば"見事である!!"と思うと同時に、

こいつが敵に廻ったら…この敵と同じ境遇に自分が陥ったら…あるいは、この者が…この底知れぬ智略が、当家に弓引いて、叛などしたら…。

 とその智略を必要以上に恐れるのは、自明の理。


 だって、はたからみたら何でそうなったかは判りにくいですし、理由がわからないけどいつのまにか窮地に陥る、その不透明さやズルさはあまり正々堂々とは思えません。


 得体の知れない者への恐怖は…たとえ、それがただの"枯れ尾花"であっても"幽霊"に見えさせるもの。


 戦国史においても、智謀を駆使する武将は多くの場合、畏怖と警戒の対象となり…時には悲劇を迎えることも珍しくありませんでした。


 例えば…。

 羽柴は『本能寺の変』で主君織田信長が横死した事を聞いて呆然としますが、軍師の黒田(くろだじょすい 通称官兵衛、孝高。1546〜1604 大河『江』では柴俊夫さんが好演中。)


『…が開けてきましたな。今こそ殿が天下に号令を掛ける好機です。』

 と囁きかけました。(大河『江』では鮮やかにスルーされましたが。)


 その言葉に我を取り戻した秀吉は中国山陽道を大返しに疾走し、ついには謀反人の明智光秀を討ち滅ぼしましたが…以後は、如水の底知れぬ智略と狡猾さを警戒。

 大活躍を続けた黒田如水には少なすぎる所領しか与えず、『…次に天下を取るのは黒田如水にいない』と、その才を評価しつつも…終生、警戒を解こうとはしませんでした。

 そしてその警戒は徳川家康にも受け継がれ…結局、如水が才能に見合う出世をすることはなかったのです。


 いや、如水は命があっただけマシだったのかも。

 古代中国史に燦然と輝く名軍師であり、前漢王朝の高祖・劉邦(りゅうほう)を助けて中国統一を補佐した名軍師・元帥だった(かんしん ???〜B.C.196)や、野盗の頭領から身を興して武将と成り、劉邦を助けて漢楚戦争に武勲を挙げた(ほうえつ ???〜B.C.196)も、劉邦の宿敵であった楚の覇王・項羽(こうう)が死んだ後には、その智略を恐れた劉邦によって次々と粛清されていきました。

 処刑台の露に消える前に韓信が呟いた有名な言葉が、身を処し損なった策略家の末路がどういうものか、今の世に伝わっています。


 『すばしっこい兎が死ねば猟犬は煮られる。高い空を飛ぶ鳥が尽きれば良弓は蔵に仕舞われる。…敵が滅んで居なくなれば、智謀の臣は滅ぶのか。…あぁ、天下が定まったばっかりに、私は煮られて死んでいくのか。




 策を弄するものは策に滅びる。必要以上に敵味方から恐怖され、身内からすらも信頼されなくなる。

 生き馬の眼を抜くと比喩される戦国乱世であってもやはり智謀を張り巡らす者は畏怖され、余計な警戒心を背負い込む。…義清は、濫りに策を弄して家臣達にそんな疑いを持たれたく無かったのでしょう。

 家老の須田新左衛門尉(鹿内孝)が策略を用いて甲斐武田家の力を削ぐべきだという至極真っ当な意見にも、侠気ある味わい深い面構えを崩さぬまま、頑として首を振ろうとしません。渋いよ村上義清。( ;・`ω・´)b

 あと、PRIDEの前説であんだけ言葉に詰まってた高田総統があんな渋い演技が出来るなんてちょっと驚きでしt(ry


 この単純明快で剛毅な義清。"信濃の総大将"と呼ばれた名武門の頭領たる矜持を誇る、実に親分肌で人情味のある良い大将ぶりです。

 思えば、信濃布引城で初登場したときも…落ち延びてきた望月源三郎(伊沢弘)の不甲斐無さに怒り、胸倉を掴んで突き飛ばしつつも『…しかしィ…よぅき残ったッ!!』と、無駄死にせずに、諦めず落ち延びてきた事を高く評価していた武将でした。

 そんな男気のある硬骨漢だからこそ、相木市兵衛(近藤芳正)が『同じ信濃衆同士でを流したくない。』と熱く語れば、もっともだと深く頷いてしまったのでしょう。この策略により、義清は志賀城に援軍を出すことを取りやめてしまいます。

 主君の単純明快さを心配した須田新左衛門尉が平蔵(佐藤隆太)を内応者に仕立てますが、役者が違うといったところでしょうか。


 なお、志賀城攻防戦で村上義清が援軍を出さなかったのは事実のようですが、居城であった信濃葛尾城の北、奥信濃の諸豪族達と村上家が敵対関係にあって容易に兵が動かせなかったことや…

 義清自身が病の床にあって、出陣できる余裕が無かった事(志賀城の陥落した1548年の時点で義清は実に46歳を数えていました。人生50年と言われた時代でしたので、実は立派に老人だったりします。…しかし、義清は71歳という当代では稀有の長寿を保ったと伝わっています。)が主たる要因とされています。

 永島さんが演じる義清は若く見えますが、長尾景虎(Gackt)とは親子ほど、晴信とは十歳以上歳の離れた老将でした。



 勇猛な騎馬軍団を率いる甲斐武田家を迎え撃つ最大の強敵、村上義清。

 策略に疎いという複線を早くも引かれてしまったという感も否めませんが、その侠気頼もしい気骨と合戦場における老獪さは、今まで晴信が信濃小豪族とは一味も二味も違います。

 『負けを知らず挫折を知らない青二才』武田晴信は、見事、この村上義清を撃ち破ることが出来るのでしょうか。

 …頑張れ、義清。( ;・`ω・´)b




 さて、勝利に奢り、敗北を恐れて獰猛になっている晴信の牙に引き裂かれる結果になった、哀れな笠原清繁(ダンカン)


 頼みにしていた村上義清は動かず、当てにしていた関東管領上杉家の援軍は首だけになり下がって城壁の外に並べられるという哀れな結果。

 この惨状を目の当たりにしては、清繁も初登場時の不敵な笑みは凍りつき…その顔にはまるで死神に憑かれたかのような、戦慄と恐怖の色が浮かんでいます。


 大河『風林火山』は"顔芸"と揶揄される、俳優さん達の気合じゅうぶん過ぎておかしい表情がよく話題にあがりましたが…それも真剣だからこそ。大河ドラマ馴れしているダンカンさん、おかしいと笑える以上にその恐怖の表情が見事でした。城のなかの恐慌状態が、その顔だけで充分に伝わってきます。



 …史実だと、彼の恐怖に凍てついた瞳には『まるで物干し竿に干された洗濯物の様に、横木に引っ掛けられた…無念と苦痛の形相に彩られた、雑兵約3000の生』という壮絶な光景が展開されていた筈ですが、さすがに大河ではそれは出来なかったのか、母衣に包まれた大将首が幾つかぶら下がっているのが見える程度でした。



 戦国時代の合戦で討ち取られた首というのは、首実検の時には丁重慎重に扱われましたが、それまでは勘助の志賀城への降伏勧告の際に画面の縁に映っていた様な、様々な種類の木で組んだ木竿に無造作に引っ掛けられているものでした。


『向かって右側の支柱にはの木、左の支柱にはの木製のものを使う。この支柱にねむの木製の竿を横掛けに引っ掛ける。


 その竿に、合戦の年月日、討ち取られた武将の地位・名前、討ち取った者の名、使用した武器などが正確に記録された「杉原紙」と呼ばれる儀式用の厚手の紙が添付してある首を引っ掛けていく。


雑兵は左綯いの縄で髻(もとどり、髷の縛り口)を縛って引っ掛ける『拾い掛け』と呼ばれる方法で無造作に引っ掛けて』


いたようです。よーく見ると、それらしき『首を引っ掛けるための木製の台』が、劇中の画面にも映っています。



 また、討ち取った首の中でも大将首、兜首と呼ばれる位の高い大将の場合は『仏掛け』といって、白い母衣(ほろ)に包んで竿に引っ掛けて』いました。
 今回の大河『風林火山』でチラと見えた白い包みが、小田井原の合戦で板垣・甘利軍の討ち取った大将首・十五なのでしょう。



 …こんな具合の事を合戦の度にやっていたのですから、戦国武将ならばこんなものを見せられてもいちいち臆する事はないでしょうが…。

 自分達の命の綱を握っている援軍の首をそんな風に見せ付けられれば、笠原清繁でなくても恐怖で絶叫したくもなるでしょう。





 そして、この第26回でもっとも印象的かつ衝撃的なのが、落城後捕えられた女子供が甲府に連行され、人買い達の手によって売り捌かれるという恐怖の光景。


 大河『江』のようなファンタジー路線ではまず語ってくれない戦国時代の暗い真実で、真田幸隆が『恐ろしい方じゃ…。』と絶句するシーンがありましたが…実のところ。( ・(,,ェ)・)


 合戦で『(らんどり。掠奪のこと)』によって掠奪されてきた女子供や雑人(奴隷)が売り捌かれるということは、それほど珍しい事ではありませんでした。


 とくに甲斐武田家の場合はこの乱取りによる人身売買が甚だしく、合戦が終ると『人』と呼ばれる捕虜売買の市がたびたび開かれていました。



 …大井夫人(風吹ジュン)は『領土では飢饉が起きているのに、戦などと…』と嘆いていましたが、そんな時だからこそ晴信は敵国に攻め込んで行って雑兵達に乱取りを行わせ、その売り上げで糊口を凌がせる必要があったのです。


 合戦に出ても実入りが少ない雑兵・農兵達にとって、この『乱取り』は自分たちの命を繋ぐ為にも必要でした。西日本と比較して痩せた土地の多かった中部・関東では特にこの乱取りによる略奪は激しく、正義や名誉を重んじた上杉謙信すらも、部下が乱取りや人身売買に勤しむのを黙認していたほど。



 牛馬や食料はもちろんの事、女子供まで掻っさらっていくこの甲斐武田家の『乱取り』『人取り』の苛烈さは、そんな戦国時代においても恐怖の的とされ…周辺諸国はこの甲斐武田家の略奪による恐怖に震え上がったと言います。



 …一応、この掠奪の対象となることを免除される証明書で『』(せいさつ)と呼ばれるものが発行されてはいましたが、それ相応のお金が払えなければ発行されず、一般大衆には滅多な事では手に入れられないものだったそうです。

 信濃北部で武田家が合戦を起こすと、上野国(現群馬県)にある寺院の僧侶が怯えて、武田家へ制札を買いに来たという記録が残されています。



 この志賀城攻略戦の後開かれた人市で、小山田信有(田辺誠一)は笠原清繁夫人を銭20貫文(現在の貨幣価値で約300万円)で購入したとも言われており、甲斐武田家の歴史の中の闇を見られるエピソードの一つとして今に伝えられています(『妙法寺記』では"賜った"とされる。大河『風林火山』ではこちらを採用した模様。)


 …そんなこんなで、今の世にも語り続けられる事になる戦慄の事件である『志賀城攻防戦』は終わりましたが、その恐怖は生き残った領民達や落ち武者達に甲斐武田家への深い恨みと恐れを持って現代まで語り継がれています。

 武田信玄と山本勘助を描いた井上靖原作『風林火山』の大河ドラマ化が決定したことを知った地方自治体…山梨県や長野県でも『観光の振興に繋がる』と喜び、両県の信玄ゆかりの土地は『風林火山ブーム』で沸き返ったとのことでしたが…上記の様な悲劇の歴史を語り継ぐ地域の末裔たちは、必ずしも良い事であるとは喜ばなかったんだとか。


 笠原清繁の首塚は志賀城に近い田園風景の中に、今も静かに佇んでいますが…400年以上の時を過ぎた今でも、甲斐武田家の恨みを忘れていないのでしょうか、『触れる者すべてに祟りを為す』という言い伝えがあり、場所を動かそうとすると良くないことが起きたと言われています…。




■武田晴信(市川亀治郎)&山本勘助(内野聖陽)with甲斐武田家臣団ズ



…なぁにぉ得意気に申しておる。
…それゆえに、武田に刃向こう者が後をたんのじゃッ!!!



 戦わずして勝つは最善の策、と何時もの様に仏頂面で語る勘助が、今は兎に角に癪に障る、そんな風な暗い憤りが見え隠れする晴信(市川亀治郎)の顔が陣幕の暗闇の中に浮かび上がります。


 この光と影のコントラストが、以前の寛容で懐の広い大将の器を持っていた時の、驕慢を知らない頃の晴信とは違うことをくっきりと示しています。


 『…勘助が居なければ、御館様は早くにけていたかもしれません。』

…由布姫が何を考えてこの様な事を口走ったとのかは赤髭には推し量れませんが、その言葉の意味するものは何であったにしろ…この言葉を耳にした時を境に、甲斐武田家に叛旗を翻し、敵対する者達を見る晴信の眼に『自分は見くびられている』という暗く激しい憤りと、『自分の大将たるは、勘助の助けや板垣・甘利らのお傳が必要なほど小さくは無い。』という驕りが激しくなっていきます。


 そして、今までは意識していなかった『敗北』への恐怖が晴信の胸に喰らいつく。

 内山城を力攻めで陥落させたあたりから、その傾向は加速度的に伸びている様子が伺えます。

 近隣諸国との戦は、外交戦でも合戦でも連戦連勝。

 この勢いが勘助の献策や板垣・甘利ら年寄り衆の奮戦の賜物だなどとは言わせない。自分は甲斐源氏の嫡流たる甲斐武田家の総領だ。自分を甘く見て叛旗を翻す者達へは、その行動の代償が如何に高くつくか思い知らしめねばならない。

 今までの晴信には無かったその表情が、いつも胡桃を片手に家中を恐怖と戦慄で支配していた先代・武田信虎(仲代達矢)と見事にオーバーラップします。


 …やはり血は争えないのでしょうか、喋る間の置き方から寒気を覚えるような目線の動かし方までソックリの好演です。
 (内山城の城攻めで水の手を絶った馬場民部信春を褒めた時の『よぉーした、教来石ぃー。』とかは無茶苦茶意識してやってたと想いますが(ぉ)



『…よいか勘助。
 
如何にで敵を下しても、敵は"此度は己に油断があった"と
    自らを戒め、また機を見て立ち上がるものじゃ…。
  
 逆ろうともてぬ相手であると、
    力を以って見せつけることも肝要なのじゃ』



 甲斐武田家を侮り、関東管領上杉家や信濃守護小笠原家、北信濃の雄・村上義清を頼みとして甲斐武田家に叛旗を翻した者は長窪城の大井、内山城の大井貞、福与城の藤沢頼親、志賀城の笠原清と…実際、枚挙に暇がありません。



 それもこれも、甲斐武田家の力を見せつけずに引ん捻り倒さなかったからだ。勘助が今まで散々熱く語ってきた『兵者詭道也』『戦わずして勝つは最善の策』、そして若殿時代に読みふけったはずの孫子の兵法も、驕慢で曇りきった心にはご利益が無いようです。



 …しかし『甲斐武田家に刃向かう者が二度と叛逆出来ない様にするには、武田騎馬軍団の圧倒的な武力で完膚無きまでに討ちぼし、"叛旗を翻せば待って居るのは犬だ"という事を見せつける』という手段はある意味、諸刃の剣です。

 戦国時代の雑兵達の大半は、武将達の治める領地から徴発されてきた農兵が多数を占めていたからです。


 武将達も常時軍役を課す職業軍人を抱え込みすぎると、俸禄が重んで領地経営が苦しくなります。

 そのため、半農半武士の生活をしている土豪達を抱える様な形で少々の軍事力を持っていた他は、軍勢の多くを農民から徴発していました。

 ですから、手向かう者を皆殺しにしていては、せっかく敵を討ち滅ぼして新たな領地を得ても、その土地から利益を生み出す領民が著しく減少しているという悪影響が残ってしまいます。

 …志賀城に篭っている笠原軍の兵士達は、志賀城が陥落した戦後には甲斐武田家の兵士となり、新たに占領した土地の田畑を耕す生産者となった筈でした。




 逆するのは大将達『戦国武将』であって、領民から徴発されてきた雑達ではありません。


  上野国から攻め込んできた関東管領軍は侵掠軍なのでまだ良いとしても、戦後には甲斐武田家の味方ともなる敵軍の雑兵まで撫で斬ってしまっては、占領後の領地経営は困難となりますし、何より占領後に領民からの怨嗟がとんでもないことになるのは必定です。


 現に、笠原清繁と志賀城の悲劇は400年以上の時が過ぎた今でも語り継がれていますし。

 そうでなくても、前述したように甲斐武田家の乱取りは凄まじいのですから、敵兵を皆殺しにしてしまっては、その掠奪の爪痕から復興していくのは至難だったでしょう。


 そういう意味でも、勘助の調略術…孫子が言うところの『戦わずして勝つ』とは、当に最善なのです。

 武田に叛旗を翻すのは佐久の領民ではなく領主である戦国武将達の胸先三寸なのですから、従う雑兵に罪は有りません。
 前回の内山城攻めや今回の志賀城攻めの様に篭城戦になったのなら、圧倒的優位を確保した後に降伏勧告を行い、大将達を城外退去なり追放なり詰め腹を切らせるなりして排除出来れば、戦後に治めるべき民も戦う雑兵も確保出来るし、領地経営は簡単に進むわけです。

 晴信にこんな簡単な事が判らない筈もありません。…いや、平静を保っている甲斐の若虎たる、平素の晴信なら鑑みれて当然の描写です。

 …しかし、勘助が『天下人になられるお方』であると賞賛し、天下を取らせてみたいと熱望した大将の器・・・晴信の心に満たされているのは、大将たる者としての理想的な思想でも無ければ、敵を知り己を知り尽くした後の『甲斐の虎』たる矜持でもなく。


 …勝利への奢りと敗北への恐怖で心を縛られた、挫折を知らない青二才状態。…敵兵に慈悲を掛ける様な状況ではありません。


 そんな晴信の急変を見、怒声一喝を受けた挙句残虐な方法で降伏勧告を行う事を命じられた勘助はただただ動揺しつつも、懸命に城兵を救おうと笠原清繁(ダンカン)に呼び掛けます。

 城外に数珠成りに並べられた援軍の生首、怨念と怨嗟に満ち満ちた虚ろな眼差しを目の当たりにすれば、死の恐怖に凍りついた様な悲鳴しか上がりません。
…結局、志賀城はこれまでの甲斐武田家の城攻めに無かった様な壮絶な悲劇を以って終りを告げました。
 



 破滅から志賀城の城兵、女子供を救えなかった勘助。


…甲府に連行される女達の中にかつて旧恩のあった平賀源心の娘・美瑠姫(真木よう子)の姿を見つけますが、ゆるしを乞う為に差し出した木椀は痛烈な抗議の視線、振り払うような平手に阻まれてしまいます。

 (…小山田信有じゃなくても掠奪したくなるような綺な面影には、赤髭もちょっとびっくりしたよ?)・ω・`)・∵:. 

 いや、四年前だけどイメージ的には真木さんの方がぜったいお市の方様なんですけれど。

)


 …小山田信有(田辺誠一)の哄笑を背に受けて、痛心の色濃い表情を浮かべた勘助の顔が『何故…こんな事になったのか…』と心中を訴えかけるようで、印象深いワンシーンとなりました。



 そして、最後の最後に由布姫だけに心情を吐露する晴信。…負ければ、志賀城の悲劇はそっくりそのまま自分に返ってくる。

 甲斐の領民や、愛する妻子が売りに出される。…驕慢に満ち足りた様に思えた心の隅に宿っていたのは北』への恐怖でした。

 驚きの表情で変わり果てた晴信を迎える由布姫。…果たして、このシーンはいったいどんな複線となって後に影響するのでしょうか…。


 さて、次回第27話『最強の敵』ではいよいよ、晴信と義清の激突の火花が甲斐・信濃を震撼させます。甘利虎泰がまた何か企んでる模様で…しかも、その内容が穏やかじゃありません。

 果たして、勝つのは驕りと恐怖の茨に縛られた虎か、それとも血気盛んな信濃の総大将か。次回も乞うご期待。m9っ ;・`ω・´)

2007年大河『風林火山』第二十七回 最強の敵 感想と解説





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