■平成23年9月1日 加筆修正・画像を追加。
■さて、今宵は久々に大河『風林火山』の感想と解説を掲載。
好い加減長く放置され過ぎて、このブログがそもそも07年大河『風林火山』の感想およびコラムの復刻を中心に連載されていたことを忘れかけていた筆者ですが…――大河『江』の話題感想に沸き返る現状を鑑みずに今夜は暴走、需要と話の流れを読まずにブログ方針を源流回帰させていきたいと思います。
■あんまり前のこと過ぎるので、お話のおさらいを兼ねてこれまで紹介・解説した07年大河『風林火山』のエピソードやその物語展開を一覧表としてみました。
百戦錬磨とうたいながらも実は書物の上だけの兵法達者だった主人公・山本勘助。恩讐関係が急展開していく戦国乱世に揉まれて徐々にその頭角を現し才覚器量を開花させていきます。
最初こそは愛する人の仇敵となった甲斐武田家を追い落とすべく様々な策略を張り巡らしますが、最終的にはその復讐の的だった武田信虎をクーデターで追放させた若き英傑・武田晴信の人格に傾倒していき、きづけば甲斐武田のために働く足軽大将、ついで軍師へと成長を遂げます。
しかし、好事魔多し。順調に勢力を拡大していく若き英雄・武田晴信にいくつもの難関が立ちはだかります。
北信濃の雄・村上義清、そして越後の龍・長尾景虎…─―そして、彼自身の心に巣食った『敗北することへの恐怖』、『勝ち続きで負けを知らない青二才特有の慢心』。
いったい山本勘助はこの数多の敵にどう立ち向かうのか。一度負ければいろいろと心の整理もつくだろうという考えに達したものの、その考えはかつて家中で対立した甘利虎泰に面前で論破され、板垣信方は晴信に直談判するもその心の闇を振り払うことが出来ない。
最後の手段をとることを決めた甘利虎泰と板垣信方。甲斐武田の虎・武田信玄を育んだ二台巨頭はついに、その腹をくくり決戦の場・上田原で強敵・村上義清を迎え撃つ…──。
という按配で、当ブログではこれまで07年大河『風林火山』の感想・解説を第二十七話まで掲載していましたが…今夜は復活第一弾にしていきなり中盤のクライマックス、第二十八話『両雄死す』の感想・解説の前篇を復刻致します。
それでは、赤髭と一緒に時計の針を2007年まで巻き戻して頂ける皆様の御時間を少々拝借。。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!
■板垣信方(千葉真一)
…見るものを感動させずには居られない、武勲と忠義に満ちた老練の戦国武将らしい壮絶な最期でした。
■画像がぼけているのは画像処理を施したためです。ご了承下さい。
大河ドラマを見て目頭が熱くなったというのは本当に久し振りです。配役俳優の千葉真一さんが引退を仄めかしている為、文字通り最後かもしれない切っ先鋭い剣舞も見事でしたが、額から血を流しつつも長槍を木の葉の様に振り回して雑兵を翻弄する雄姿や、騎馬の上で叉金砕棒を豪腕を以って鎧武者を撃ち砕く様は、見ていて血が沸く様な躍動感。
しかし、板垣信方は元より、勝ちを得ずしては…生きてこの合戦場から還る積りは無かった様です。…麾下の部隊に…合戦に置いては愚の骨頂である、後方に位置する味方の後詰備との連携を待たずして、敵陣深くまで突出し過ぎるという不可思議な采配を振るいます。
無敵の武田騎馬軍団を歴年に渡って指揮した戦国武将らしからぬ、失策。…しかしそれは、この戦に掛ける不退転の決意の現れでした。
『良いか、この戦…何ッとしてでも、我らが先鋒のみで
終わらせねばならん…決するのじゃ。
敵が本陣へ迫るのを、何としても我らが食い止めねばならぬ。
…さすれば、多くの味方を失わずにすむ。
しかも、我が本陣では今一度、村上と戦う術を慎重に、
組み立てることも出来よう。
…後は、勘助が上手くやってくれる筈じゃあ。…フフ…。』
『わしは最早、生きて甲斐には戻らぬ。
…武士の、誉れじゃ…。』
不退転、不惜身命の覚悟で敵陣間近に留まり続ける板垣信方。幾多の合戦場に勇躍し百戦錬磨の兵法の将・村上義清(永島敏行)の麾下の元に襲撃してきた室賀・清野ら率いる夜襲軍をも跳ね返して、疲弊してもなお突出したまま、兵を退こうとしません。…まさしく、本陣を守る為に不屈不撓の盾の如し。
本陣で勘助が板垣信方、そして甘利虎泰(竜雷太)の決死の覚悟を漸くに悟れば、居ても立っても居られなくなった武田晴信(市川亀治郎)が己へを呪う様な悲壮の表情を浮かべ、勘助の声を振り切って絶叫します。…この余りにも強く滲み出る、信方を救援けようと憤り、逸る晴信の顔にはさしもの勘助も、己と信方に掛けられている信頼の度の厚さ、深さの度合いの差に言葉を失います。
『この儂に…板垣を見殺しにせよと 申すかぁあああぁ!!!』
『甲山の猛虎』飯富虎昌(金田明夫)の誇る甲斐の赤備、主の怜悧冷徹さを鏡の様に反映する小山田信有(田辺誠一)の陣内軍、三途の川の渡し銭『六連銭』の軍旗を翻らせる真田幸隆(佐々木蔵之介)の軍勢ら甲斐軍が総勢で押し出し、板垣信方を救おうと躍起になって軍を押し出しますが…
晴信の悲痛な想い、家臣達の修羅もかくやと云う奮闘振りも虚しく…鋭い槍撃に鎧鉢巻を朱に染めてなおも斃れなかった板垣駿河守信方も、甘利虎泰に続き…村上勢の放つ矢の閃光に命を落としましす。
…見事な最期でした。…時に1548年2月、享年不詳。
『飽かなくも なお木のもとの 夕映えに…。
月影やどせ 花も色そふ…。』
─夕映えと重なるように飽きる事無く月の光が差し込めば、
花も一際美しく咲き誇る事であろう。
─勘助、そなたが月となれ…甲斐の、誠の軍師になるのじゃ…。─
■当時は気合が入りすぎて『顔芸』と呼ばれた市川亀治郎さん迫真の演技。
■さて、2007年当時解説していた文章、一度に掲載するには長すぎるため今回は板垣信方の最後に焦点をあて、前編としてご紹介致しました。
次回は後編、やはり第二十八回『両雄の死』で最期を遂げた武田の猛牛・甘利虎泰について解説していきます。
それでは、引き続いて…──赤髭が無駄に蓄積した戦国歴史知識を文法も見所も抑えず徒然と解説していく『戦国与太噺』コーナー。あんまり前のインターフェース過ぎてこれもすっかり忘れられていましたね。'`,、('∀`)'`,、
今回は、やはりこの人でしょう。07年大河『風林火山』序盤〜中盤に視聴者へ強すぎるほどの印象を残した名将・板垣駿河守信方についてです。
それでは、またまたご一緒して戴ける方の御時間を少々拝借。。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!
□板垣信方(いたがきのぶかた ????〜1548 信形、駿河守)
07年当時、本格派戦国歴史大河の画面を引き締める名俳優・千葉真一さんを配し、井上靖原作『風林火山』、そして大河『風林火山』において前半部における重要人物であった板垣信方。
全五十話の折り返し地点をやや過ぎた第二十八話で、惜しまれながらも歴史の表舞台から退場となりました。
歴戦のアクション映画俳優でもあった千葉さんの殺陣は、大河ドラマの殺陣を長年担当してきた林邦史朗さんのそれとは明らかに違ったもので、長い槍を木の葉の様に振り回したり二刀流を駆使したりの大活躍は勿論、その存在感は抜群なものでした。
88年大河『武田信玄』でも、あの菅原文太さんが千葉真一さんに負けず劣らずの重厚な演技と存在感で好演、長い白髪を振り乱しての奮闘の末に討死を遂げたシーンは視聴者に強烈な印象を残しました。思い起こせば見事にオーバーラップする千葉板垣と菅原板垣、今思えば大河『風林火山』…意外と88年大河『武田信玄』を意識した造りだったのかも知れませんね。( ;・`ω・´)
さて、今夜の戦国与太話はそんな板垣駿河守信方のお話です。
■甲斐の虎の師父にして傅役、板垣信方の実像
江戸時代初期から『甲陽軍鑑』が大流行し、盛んに浮世絵や屏風絵の題材となった武田家臣団ですが、信方は『甲斐の虎』として成長していく晴信の傳役、人格形成を主導した二人目の父親として江戸庶民にも高い知名度と人気を誇った反面…――甲斐武田家武将の花形ともいうべき『武田二十四将』の中には、含まれていない武将だったりします。
(ただし、武田二十四将は江戸時代の人気や選者によって参加武将がまちまちであり、ノミネートされた戦国武将を全部足すと30人以上になり、あまり有力で無い選出では含まれる場合もあります。また、人数も二十五将・二十六将の物もあり、中には『…へ?なんでこんなドマイナーな武将が選ばれたの?』と言う様な武将も多くいます。)
まぁ、板垣信方と甘利虎泰は祖先を辿れば武田家と同じ新羅三郎義光という鉄板の源氏、甲斐武田家家臣団でもトップクラスの重鎮。
歴年の重鎮達である譜代家老衆の中でも双璧を成す二大巨頭、家老達の頂点に立つ『職』と云う地位にあった筆頭重臣であり、武田の『両職』と謳われた老練の戦国武将。
どちらかといえば、晴信世代になって頭角を現した武将達の活躍の物語である『甲陽軍鑑』で人気となった『武田二十四将』達とは別格扱いになっていると言っても過言ではなかった事でしょう。
しかし…そんな板垣信方も、晩年…つまり今回の『上田原の合戦』前後頃から晴信の信頼を失い、徐々に疎んじられていた向きもあるようです。
信方はもともとが晴信の傳役であった事、また1541年の武田信虎追放劇の中心人物でもあった事から家中での権勢も強い上、さらに家中屈指の戦上手であった事から専横めいた行動も多く見られた居丈高な武将。また、その性格も大変な頑固者であったとも伝わっています。
(甲斐武田家の歴史書であり、概ね武将達には好意的に書かれていた『甲陽軍鑑』でも、"合戦上手の良い大将だが、玉に瑕なのは部下の諫言をちっとも聞かない事だ。"とまで書かれてしまっています。
戦場で手柄を立てた者には祝勝の祝いの席で赤椀一膳を自ら手渡してその勲を労い、戦功を得られなかった者には黒椀に精進料理を盛って次の戦に捲土重来を掛けよと激励したという話が残っていますから、部下思いな良い親父さんだったのでしょうけれど。)
死の前年にあたる1547年(天文16年)、村上氏との合戦でも独断で軍勢を動かし、突出し過ぎたにも関わらず意固地にその場に留まりあわや全滅の危機に直面。原虎胤の援軍に救われた事もありますし、諸史にその過酷さが刻まれた志賀城攻防戦(笠原清繁以下が志賀城で玉砕し、残った虜囚達が売り払われ過酷な運命を辿った事件。『苦い勝利』参照のこと。)においても討ち取った首を篭城している笠原軍に見せつけ、それを見て恐怖の余り出撃してきた笠原軍を殲滅したのは実は板垣信方の発案だったともいわれています。
おまけに、晩年には出陣した戦場で部隊に対し総大将に無断で『勝ち鬨を上げる』命令を下したり、部下達が戦場で討ち取ってきた首を実況見分する『首実検』を勝手に行うなど、晴信を奉らない目に余る愚挙が目立つようになります。
…何、『勝ち鬨くらい勝手に上げても良いじゃないか』って?…――とんでもない。( =(,,ェ)=)。
戦場で『鬨の声』と呼ばれる大声を張り上げる事や、自分達の勝利を宣言する勝ち鬨を上げる命令、そして討ち取られた敵将の首を実見するというのは総大将が担う大変に重要な責務であり、これを勝手に部下が行うと言うのは大変な無礼でした。
とある戦で、勝ち鬨を無断で上げた部隊長の将が後に総大将により斬罪に処せられたという史料も残っており、これは主君を主君とも思わない重大な越権行為です。こういうエピソードを見るにしても、板垣信方は千葉さんが好演した様な人格者の戦国武将ではない、我も強ければ誇りも高い老武将であったことが伺い知れます。
■風林火山紀行で紹介された板垣信方の墓と板垣神社。
板垣信方は煙草が好きだったそうで、放映当時は板垣信方の最期に感動した歴史Fanが大勢参拝し、煙草を供えていく方が後をたたなかったんだとか。
■板垣信方の最後とその後の板垣家の話、つづく。( -(,,ェ)-)oO( なんて司馬遼的な言い回し。 )
…若い頃は豪胆かつ慎重な性格で兵法を練り上げた策戦巧者であり、信虎の代には敵対していた駿河今川家の領土奥深くまで突撃を敢行。
主君の命が下るまで甲斐国に戻らなかったという忠烈剛毅の猛将であった板垣信方でしたが…年老いていくにつれて兵法の切れも失い、独断専行で勝ち鬨や首実検を行うなど、慎み深さを失ったかの様に老醜振りを晒していきます。
主君であった武田晴信もこれらの増長には苦々しく想っていたようですが…かつての傳役でもあり、自らが武田家総領位を得た立役者でもあったため強い叱責はせず、扇に得意の和歌を書き連ねて板垣信方・信憲父子に送ると言った、やんわりとした諫言をもってその軽々しい振る舞いを制するといっただけに留まったようです。
『誰もみよ 満つればやがて 欠く月の
十六夜ふ穴や 人の世の中』
(見るがいい。美しく煌めく十五夜の満月もいずれは欠ける。そして、欠けてしまった十六夜の月は、欠けて行く事を知って居るのだろうか…十五夜と比べて、なかなか顔を出さなくなり遠慮深くなる。人の世も然りだ。※…我流解釈につき間違い多々含む(コラ)
しかし…かつては和歌で主君晴信を諌めた信方も、和歌を使ったこの諫言の意を汲めなかった様です。それとも、年老いた故に頑固一徹さが増し引く事を覚えなかったのでしょうか…。
信方は統治を任されていた諏訪郡代で勝手に論功行賞を行うなどの出過ぎた行為を続け、やがて上田原の合戦においてもその傲岸不遜が仇となり、命を落としました。
実は大河『風林火山』では飽くまでも晴信の為と割り切り、上田原の合戦を己の死に場所と定めていた板垣信方でしたが…一説に拠れば、信方が討死を遂げたのは上田原合戦の最中、勝手に首実検を行っていた隙を突かれて村上軍の奇襲にあったせいだという説があるのです。
深く勘繰れば、この晩年の老醜、信玄を軽んじる愚が目立ったが為に、武田二十四将から洩れてしまったのかも知れません。
…信方の死後、板垣家総領位と譜代家老筆頭職『両職』の地位は嫡子の板垣信憲(いたがきのぶのり ????〜1552 信重・弥次郎)が引継ぎましたが…。
彼も父親と同じ傲慢な性質を受け継いだ上に、父親の様に兵法に優れなかった様で…合戦場において命令を聞き間違える、突撃する味方を傍観する、仮病で出陣を休むといった体たらくであり遊興酒色を好む小人物。
おまけに、部下や家臣を大事にしない、『武田晴信であっても守らなかったら罰せられる』甲州法度之次第をも平気で破るとあっては是非もありません。
上田原で討死した『職』の朋輩・甘利虎泰の子である甘利昌忠(あまりまさただ 1534〜1564? 信忠、左衛門尉)が父親譲りの兵法者であり、戦場で幾多の武功を上げていましたから、晴信の落胆と憤慨も大きかった様です。
そして遂に1552年(天文21年)。目に余る失態の数々に業を煮やした晴信によって、信憲は"七か条の詰問状"を以って叱責され、職位剥奪の上甲府長禅寺に蟄居(出仕停止、謹慎)を言い渡され…遂には誅殺されてしまいました。
この処断に於いて甲斐源氏の裔たる名門・板垣家は断絶し滅亡してしまいました。
…のちに、明治維新とともに議会政治と憲政に命を掛け、『板垣死すとも自由は死せず!!』の名文句で知られる板垣退助の登場まで、板垣家の名は歴史に埋もれていくことになります…。
2007年大河『風林火山』第二十ハ回 両雄死す 感想と解説(後編)