2007年大河『風林山』   - 第四回『復讐の鬼』 感想 - 


昔は大人気だったのに最近はレギュラーで放送している放送局も少なく、人気にかげりが出てきたTV番組ジャンルといえば…そう。御年配の方々ならお察し頂けるでしょう、『時代劇』です。

かつては『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』のような勧善懲悪モノから『必殺仕事人』シリーズのような世間の矛盾に鋭く切り込んだ社会派の人情モノまで、様々なタイプの時代劇がブラウン管を賑わせたものです。

 で、その時代劇の花形といえば、言うまでもなく『チャンバラ』でしょう。土壇場に追い詰められた悪役が開き直って手下を呼べば、黄門様御一行や吉宗公が見事な太刀さばきでバッタバッタと悪党をなぎ倒す。やっぱり時代劇にはこれがなくちゃあ、締まりがありません。

 けど、ああいった時代劇の歴史設定はそのほとんどが『江戸時代』に入ってからのこと。悪党一味はその服装に違いはあれど、たいていの場合が『平服』姿…つまり、兜や鎧はいっさい身につけていません。

 そりゃあそうですよね。江戸時代は、将軍徳川家により統治された天下泰平の世の中です。
 戦国時代のような形式による最後の戦いだった島原の乱(1637年)から、動乱の幕末期…現在放送中の大河『龍馬伝』の時代(1860年代)を迎えるまでの約二百年間、日本はこれといった内乱や兵乱沙汰もなく、犯罪発生率も世界で類を見ないほど低い、平和な法治国家だったんですから。

 その平和ボケした時代背景は、戦後六十五年目を迎えた今の本邦と非常に良くています。だから、その物語に視聴者はたやすく感情移入が出来るわけです。


■ですが、戦国時代のまっただなかに生きていた大河『風林火山』の登場人物はそうもいきません。平和に慣れた江戸時代と違い、戦国時代は世の中を平和裏に治める法も秩序も弱弱しく、強いものが正義といった狂乱の弱肉強食の時代。
 戦場に手柄を求めて出陣していった戦国武将達は、命を落としたり怪我をしないように、鎧や兜で身の安全を磐石にしていました。

 と、なると…これは誰もが感じられたことがでしょうが、ひとつの疑問が生じてきます。

江戸時代みたいな普通の服を着た人を日本刀でばったばったと薙ぎ倒すのは判るけど、ああいう鎧兜で完全武装した鎧武者はどうやったら 斬り倒せるのか?』ということ。時代劇では案外安直に唐竹割りやら袈裟懸けやらで鎧武者をぶった斬ってますが、本当にあんな簡単に鎧兜を一刀両断できるほど、日本刀は切れ味抜群だったのでしょうか。

 第四話最大の見せ場、勘助怒りの襲撃。

 今回御案内する第四話『復讐の鬼』では、そんな皆様の疑問に答えてくれる場面…戦国時代さながらの斬り合いシーンがあります。

 時代考証をリアルに採用し、「本格派かつ新鮮」「新鮮かつ重厚」をモットーにしている大河『風林火山』、当然その立ち回りをつぶさに観察すれば、実は疑問への『回答』がしっかりと込められていたのです。
 それでは、その詳細について今回も無駄に長い前説こと『戦国与太噺』で御紹介したいと思います。今回もこじつけたっぷりに(何

 …――えぇ、内容だけ知りたいという方は山本勘助の凛々しい顔が目印の"しおり"まで一気に飛ばしていって下さいな。 …"柔軟材の要らない、けど融通が利かない歴ヲタ。" そんな人に、私はなりたい>( ・(,,ェ)・)

      戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬Uスピリッツより)

 さて、日ノ本六十八ヶ国が兵乱の戦渦に巻き込まれた混沌の戦国時代。合戦に臨んだ戦国武将達はどうして、鎧兜に身を包んだのでしょう。…――聞くまでもないですよね、そりゃあ『死にたくないから』です。

 武士の名誉や正義が重んじられた鎌倉時代なら、戦いは純然とした一騎討ち。正々堂々とした命のやり取り、正義と名誉が根底にある"決闘"でした。

 だからこそ、無様に生き延びるより『いかにして死ぬか』が重要視されたわけですが…そんないさぎよく華々しい合戦の美学・理想的な思想は時代が下るにつれ、徐々に俗物的で現実主義なものに変化していきました。
 はやくいえば、戦場に生きる人達のテーマが『どう生き延びるか』に、"決闘"が"サバイバル"に変わっていったのです。

 こうなってくると、『いざ常に勝負!!』だなんて言ってられません。死んでしまったらおしまいなんです。奇襲闇討ちなんでもあり、卑怯千万どんと来いという合戦では、恥や外聞を気にしていては命がいくつあっても生き延びれません。

 そんな風潮にしたがい、防具も進化していきます。『大鎧』と呼ばれていた鎌倉時代以来の鎧兜…大柄かつ重厚で身動きの取りづらい、武士の名誉や誇りできらびやかに飾られた無駄の多い具足は、『敵からの攻撃を合理的に防御・回避が出来、戦場で生き延びやすいように洗練された、隙や無駄がないもの』に変わっていきました。

     鎌倉・室町時代の大鎧(左)と戦国時代の当世具足。

 このような戦国時代向けに改造・調整された鎧兜のことを『当世具足』(とうせいぐそく)と言います。
 大河『風林火山』の頃…ちょうど山本勘助が生きた時代は、古い時代の大鎧が新しい時代の当世具足に進化していく過程にあり、その両方ともが戦場に混在している時期でした。
 大河『風林火山』でも、武田信虎や北条氏綱など各大名家の最高司令官クラスは赤や緑の飾り糸で編み上げられた昔ながらの大鎧を着用していますが、甘利虎泰や板垣信方といった前線指揮官クラスは黒っぽい鉄製の当世具足を着込んでいるのがわかります。

 当世具足の特徴は、なんでもありの戦国時代の合戦に対応するために『様々な敵の攻撃を想定した、とにかく隙が無いつくりであること』でした。当たり前ですが、刀なんか考えなしに振り下ろしても、まず致命傷にはならないような丈な完全武装です。

 兜で頭部を、顔は面頬(めんぽう)できっちり隔し、首筋は錣(しころ)と小鰭(こびれ)という鉄入りの襟で、のど元は咽喉輪(のどわ)が隙間無く覆う。
 胴は剣道の防具でもおなじみのあれがあるとして、腰は草摺(くさずり)という鉄板を編んだ楯が釣り下がり、太股には佩楯(はいだて)、脛は脛当(すねあて)
 腕は袖や篭手が大鎧の時代から完全ガードしているから…日本刀を普通に振りかぶって斬りつける、のでは大きなダメージがえられなかったと考えられます。

 …――しかし、それなら戦国武将達はどうやって当世具足で完全武装した敵を倒すことが出来たのでしょうか。

 真っ向から斬り倒したんじゃなくて、鎧の隙間を突き倒したり、矢で射抜いたり、殴り倒してたんです。

    戦国時代の当世具足、その狙い目と弱点。

 当世具足でも守りきれない場所や攻撃方法、いわば『鎧兜の』を狙ったわけです。
ここまで完全武装しても、目元やこめかみには隙間があるのでそこを切っ先で突く。相手が少しでも襟元を広げたらそこめがけて一撃をみまう。
 いくら窮屈に防具を詰めても脇や腕の裏側までは鉄板で覆えないので、そこも弱点。胴と草摺にも隙間がありますので、そこを深くえぐれば内臓に達し一撃必殺となりますし、槍や薙刀などの長い竿状武器にしているなら、太股の内側なども狙い目になります。

 意外な場所では足の甲も弱点のひとつ。ここを彼女に踏んづけられてうめき声を上げた覚えがある殿方ならお分かりでしょうけれど、足の甲は神経が集中しているので痛覚に敏感な場所なんです。槍の柄でここを思いっきり引っ叩くと、さしもの戦国武将も動けなくなったと当時の史書は伝えています。

 あと、これは看護婦さんなどの医療従事者の方ならピンとくるかも知れませんが…以上の急所は全部、脈が通っている場所ですので、刃物で斬りつけられれば相手は出血多量で意識朦朧となり、とてもじゃありませんが戦える状態ではなくなります。

 以上のような鎧武者の急所を踏まえたうえで大河『風林火山』を御覧になると、ちゃんとこだわってるんですねえこれが。

 板垣信方の太刀先が、ほんの一瞬の隙をついて勘助の首筋を捉える。

 今回の第四話でも勘助と板垣信方の一騎討ちがありますが、決着は板垣信方の太刀先が勘助の首筋、頚動脈を必殺の間合いにとらえたことで勘助が戦意を喪失、幕を下ろします。

 合戦での斬り合いの際でも、第一話『隻眼の男』では勘助が赤部下野守や北条軍の鎧武者を倒す際にわざわざ首筋を狙って太刀の先端を深く突きいれ、強く引いて切り裂く様が見られたりします。リアルさを追い求めた歴史考証が、立ち合いまで深く計算しているのがよく判りますね。

 なんて、今回も長々しい世迷言を終えたところで、第四話を御紹介です。

      ストーリー解説・キャラクター紹介。

完全版『風林火山』の第四話、全44分29秒。
■時期設定は前半部については未詳ですが、後半終盤に天文五年三月との表示あり。庵原忠胤(石橋蓮司)が『今川家総領・今川氏輝(五宝孝一)が"一昨日に身罷られた"。』と吐露するシーンがあることから、詳しくは今川氏輝が没した三月十七日の二日後、『1536年(天文五年)三月十九日頃』だと思われます。

□ミツ(貫地谷しほり)という"守るべき城"を見出し、甲斐国葛笠村でささやかながらも幸せな暮らしを続けていた山本勘助(内野聖陽)。しかし、山での狩猟で獲物を得て意気揚々と帰還した勘助を待っていたのは『ミツが死んだ。』という突然過ぎる悲報だった。

 平蔵(佐藤隆太)と共に山菜を取りに出かけていたミツは武田家による鹿狩りに遭遇し、ミツの摩利支天像を見て狂乱状態となった武田信虎(仲代達矢)より非道の仕打ちを受け、腹を引き裂かれるという非業の死を遂げたのだという。

 この表情ひとつとっても仲代達矢さんの狂気を演じる上手さが判る。

 悲憤のあまり太刀を引っ掴んで駆け出した伝助(有薗芳記)を止めたのは、もっとも怒りを感じたであろう勘助本人だった。

 ほどなくして葛笠村を訪れた板垣信方(千葉真一)と原美濃守(宍戸開)が信虎暴虐の緘口令を敷く。
 悲嘆に暮れる伝助を召抱えようとする板垣と、それを口封じの策略であると叫ぶ平蔵を鞭打つ鬼美濃の姿を睨みつける勘助。やがて、ミツを失った悲憤が頂点に達した勘助は白刃を振りかざして板垣に襲い掛かっていく。

 勘助、我慢の限界を超えて突撃開始。でもサニー千葉じゃ相手が悪い。

 怨念と鬼気に憑かれたような立ち合いの末に敗れた勘助だったが、いぶかしがる板垣信方や鬼美濃を前に、突如自身を武田家の家臣にと売り込み土下座をしてみせる。その変貌ぶりの真意に気づけない伝助らは、ただただ唖然するばかりだった。

 父の筆舌尽くしがたい非道を目の当たりにして、憤る武田晴信(市川亀治郎)。
 その潔癖な精神に母の大井夫人(風吹ジュン)は『信虎の迷いや恐れを一身に引き受けてきた軍師・荻原常陸介が生きていたなら、止められたかも知れない。光を放つものは、影を追うものがそばに居てこそ安心して輝ける。いつか晴信にもそんな人物が必要になる』と諭す。
 軍師を、影を追うものを失った武田信虎は一人、闇を恐れて凝視している。

 ミツを殺した武田家中に仕官する勘助や伝助・太吉を激しく非難する平蔵。勘助は武田家から扶持を受けるのは『内側から武田家を撹乱し、信虎をつためだ』と腹案を語るが、そんな勘助を平蔵は『ただ戦がしたいだけだ、ミツは葬式も無しに売られたんじゃ!!』となじり、泣き叫ぶ。
 二度と武田に頭は下げないと飛び出していく平蔵と、無力感にうちひしがれる伝助。その夜、勘助は闇夜の中でミツの面影を回想し、一人悲涙をこぼした。異形異相の鬼に始めて心を開いた最初の想い人を失った哀愁が、勘助に復讐を誓わせる原動力となり心に宿るのだった。

 そりゃあ、こんなかわいい子を嫁にして間も無く八つ裂きにされたんじゃ復讐の鬼にもなる。

 翌朝、ミツの墓前で手を合わせる平蔵。勘助に自身の非力さを嘆き、勘助の才覚を羨む素直な心情を告白し、けれどミツを忘れられないと涙する。
 そんな平蔵に勘助は自身の心に巣食っていた陳腐な驕りを告白し、改めてミツの弔い合戦をすることを誓う。『勘助が武田を討ったら、甲斐に戻る。勘助のために米を作ろう』と言葉を残し、平蔵は甲斐を旅立っていった。

 板垣信方に召抱えられ、武田晴信との謁見機会を得た勘助。板垣より姓を授けられ河原村伝兵衛となった伝助、葛笠姓を受けた太吉がただただ恐縮するばかりの中、晴信にいきなり太刀の切っ先を向けられた勘助は、思わず太刀を抜いてしまう。

 その表情を見た晴信は『孫子いわく、兵は道也!!』(戦とは騙しあいである)と詠じ、勘助が武田家仕官を決めた理由が『怨恨による復讐』にあると直ちに見抜く。勘助は得意であるはずの兵法で晴信に謀られたことに狼狽しながらも、そのばを取り繕うしかなかった。

 …――時に、武田晴信十五歳、山本勘助三十七歳。晴信は勘助に深い興味を抱き、勘助は親子ほど歳の離れた甲斐の若殿に、己の性根を見透かされたことが悔しくて堪らない。これが、後に戦国最強の甲斐武田騎馬軍団の総帥と、その軍師のファーストインプレッションとなった。
大望がなければ、恨みを晴らしたとてなんになろう。』 激情に憤る勘助の意識に、失望を知らぬ青二才であるはずの晴信の言葉は耳鳴りのように反響していた。

 眼光の鋭い勘助。苦みばしった険しい表情に悔しさが見え隠れする。

 それからほどなくして、駿河国守護職・今川家にその根幹を揺るがす一大事が発生する。
時の今川家総領・今川氏輝(五宝孝一)とその弟・彦五郎が同日同時に命を落とし、今川家に突如として後者争いが勃発。

 次代今川家総領の跡目は、今川家の女戦国大名・寿桂尼(藤村志保)が生んだ四男の梅岳承芳(谷原章介)と、福島越前守(テリー伊藤)ら福島一族に支援された三男の玄広恵探(井川哲也)によって争われることとなった。これが世に言う、『花倉の』である。

 そんな風雲急を告げる駿河国へ、勘助は武田方間者(スパイ)として潜入するのだった―。


武田晴信(市川亀治郎)
 何が困るって、十五歳に見えないから困る(それ禁句。まぁ、十代の織田信長を演じた渡哲也さんとかもっと振り幅が酷いのも無くはないですが…。

 書物を読まずして兵法を極めたという勘助に、不適な笑みを向ける晴信。
『明るいハムレット』と銘打ち、"悩める文系"という新しい武田晴信像で挑んだ市川亀治郎さんの濃い存在感は『男臭いのばかり(笑)』と御自身が評価した他の俳優陣面々と比較すると、良い意味で区別化が図れているとは思います、はい。

 あの一種独特の雰囲気、画面に影法師を残すような『まったり感』がなんともいえません。ああいう心地良い(?)余韻を後に引く武田信玄は、ホントに初めてです。

 爽やかさ以外の何かがこもってる笑顔とか白い歯とか、孫子の兵法を駆使して二十歳以上も年上の勘助の心を看破して、遠慮無くその大望の無さ・復讐心だけで動く虚無を指摘する小賢しさ。…――私が武田信虎ならばこんな才気走ったしゃくに障る長男、ぶっちぎりで廃嫡を考えるでしょう(苦笑。     

 濃い十五歳。

 しかし、大河『風林火山』ではあまり細かく描写されていませんでしたが、実のところ晴信の子供時代は英雄の例に漏れず聡明かつ勤勉で、多くの大人達を感心させる神童でした。
 特に読書にかけては『一字を教えて十字を知る』ような見事な学習ぶりだったと伝わっていますので、あながち『文系少年』でも、間違いとはいえないんです。

 武田晴信の幼少時代の家庭教師は、傅役である板垣信方の他に玄伯 (ぎしゅうげんぱく ????〜???? 長禅寺開基) という臨済宗の高僧が居ました。

 (りんざいしゅう)とは『座禅』によって精神統一を深めることにより御仏の教えを悟る『禅宗』と呼ばれる新興の宗派ですが、はやくから武家に信仰されていたため家庭教師役として武将の子供を教育する機会の多かった宗派のひとつです。
 徳が高く知識の深い禅宗の名僧に教えを受けることは、現在風に言えば名門大学の卒業学歴に匹敵する教育を受けられるということ、いわば名将として育つための登竜門的意味がありました。
 


 しかし、晴信少年の明晰な知性はその高僧すら驚かせるものがあったようです。まだ幼少だった晴信に岐秀は『往来 (ていきんおうらい) という書籍を渡し、熟読するようにと指導したことがありました。
 この『庭訓往来』とは儒教の祖である孔子(こうし 名:丘、字:仲尼 BC551〜BC479)が、庭で遊ぶ子供達に儒学の基礎基本を説いた教訓の逸話集で、言ってみれば『小学校低学年向けの"道"を学ぶための教科書』です。

 しかし、晴信少年はその庭訓往来をものの二日〜三日で読破し、内容を完璧に理解。岐秀に『この本は戦国武将たる者が読む本だとは思えない。もっと他のもの、兵法であるとか軍学に関連した本が欲しい。』と言い放ったそうです。
 よく居ますよね、聡明過ぎて先生の指導に従わないクラスの秀才。たぶん晴信も、ああいうタイプだったんでしょうねきっと。( ・(,,ェ)・)

     この頃晴信、推定8〜9歳。早熟すぎてこども店長もびっくりな気がしなくもない。

 そこで岐秀和尚が晴信少年に見せたのが『武経(ぶけいしちしょ)と呼ばれる七冊の漢籍、古代中国で成立した兵法書の数々でした。

 その内訳は六韜 (りくとう)・三略 (さんりゃく)・尉繚子 (うつりょうし)・司馬法 (しばほう)・李衛公問対 (りえいこうもんたい)・呉子 (ごし)、そして『』(そんし)の七冊。いずれも軍学や策略に関する名軍師・名将が筆した古典的名著ばかりです。
 これらの兵法学は、当時の武家教育では十四歳〜十五歳頃に学習するカリキュラム、もうすぐ元服を迎える年齢層が学習する高等教育にあたります。
 少なくとも、まだ年端も行かない幼少の子供に教えるようなものではありません。現代風に言えば、小学校低学年の子供に大学の参考書を渡したようなものです。

 けれど、晴信はこの七冊を受け取るや夜に日を継いで猛勉強。やがてその真髄を究めるに至り、特に傾倒した『孫子兵法十三篇』に関しては、元服した頃にはその全てを暗唱出来るほど完に記憶・応用が出来たそうです。
 つまり、勘助は『あんな小僧に謀られた!!』と刀を振るって怒り心頭のご様子でしたが、出会った時点で晴信は既に兵法の奥義を学習した天才少年。だからこそ晴信は『書物を見ずに兵法の奥儀を極めたというのはまことか?』だなんて勘助に聞いたわけですね。

 実地は伴いませんが参考書や傾向と対策を完璧に抑えた神童vs実地はバッチリだけど基礎基本が集大成に至っていない、しかも復讐心で身も心も凝り固まっていた三十路のおっさん(暴言)。

 そりゃあ勘助、いっぱい喰わされても仕方ないと思いますよ? ( ノ(,,ェ)・)
 
板垣信方(千葉真一)
 なんと言っても第四話『復讐の鬼』の見せ場は、世界のサニー千葉が見せる渾身の殺陣でしょう。歴史大河における太刀周りは林邦史朗さんという殺陣師の方が指導と形付けをしているのらしいですが、今回の千葉さんの動きはそれとは明らかに筋が異なっています。切れとか気迫とかが、良い意味で。

 憤怒の咆哮を発しながら斬りかかってきた勘助の袈裟懸け、立て続けの突きを鋭くはじくと、脛狙いの低い太刀筋を短い鍔ぜりあいのあと、自身の太刀先を蹴ることによって勘助の体バランスを崩そうとする。

 この一連の動きには、思わずため息が出てしまいます。戦国時代以来の古流剣術では、相手の姿勢を崩すために蹴りを挟む技術が多くあることを千葉さんは体で覚えているのでしょう。伊達に柳生新陰流の達人と呼ばれた柳生十兵衛役をこなしてはいません。

 この鋭い眼光と殺陣に移る際の迅速さが、ハリウッド帰りの貫禄。

 また、わざと大柄な構えを取って敵の攻撃を誘うのは香取新当流などによく見られる動作です。画面の視点がときおり勘助の足に向くのは、板垣が勘助の足元が悪くバランスが良くないことを見抜いたという意味。

 次の瞬間、板垣は強い打ち込みを勘助の足元に見舞ってバランスを崩させ、一瞬でその首筋をとらえました。最後にカチャリと刃を立てたのは『あとはまっすぐ引くだけで、お前の頚動脈を掻っ切るぞ』という無言の警告。
 和太鼓だけのBGMがこの鬼気せまる立ち合いを演出しているあたりも、千葉さんの演技を良くわかってらっしゃると痛感させられたところ。以上の様な本格さ、真剣さこそがここ数年の大河になかったものなのですが…なんでこれで視聴率でなかったかなぁ、残念無念。

 また、武田晴信と勘助が謁見した際、晴信が勘助に向けて突如として太刀を向けた途端、勘助が一瞬太刀を抜きかけますが…そこで、板垣が即座に"何か"を勘助の手元に投げ『控えい!!』と叱りつけるシーン。あれ、スロー再生どころかコマ送り再生にしても『何を投げたのかわからない』んです(汗。

 おそらくは畳んだ扇だと思うのですが、洗練された千葉さんの動きが速すぎてはっきりとわかりません。ああいう場合、武士は『小柄』という太刀の鞘に添えられている刃渡り数センチほどの小刀を投げつけるのですが、千葉さんがあの調子で投げつければ余裕で内野さんに突き刺さるでしょう。扇でよかった(苦笑。

 やはり、流石は千葉真一さん。殺陣を経験した年季の違いとその迫力が堪能出来た回でした。

寿桂尼(藤村志保)
 寿桂尼は1536年(天文五年)当時で推定年齢四十台後半。1490年(延徳二年)頃に、京都で藤原家観修寺流という格式高い血統の貴族であった中御門宣胤(なかみかどのぶたね 1442〜1525 従一位権大納言)の娘として生まれました。

 1505年(永正二年)ないし1508年(永正五年)頃に駿河国守護職・今川(いまがわうじちか 1473~1526 竜王丸・彦五郎、道号紹僖道山 治部大輔・修理大夫・上総介)の正室として嫁ぎ、後に今川家総領となる嫡男の氏輝・次男の彦五郎、そして五男の梅岳承芳を出産。その人となりは、洗練された京の公家出身らしく器量気品ともに良しの才媛だったと伝わっています。

 その評判を裏打ちするように、今川氏親が晩年に中風で寝たきりとなると替わりに駿河今川家の政治を代行して政治手腕を磨き、戦国時代の分国法として名高い『今川家仮名目録』の成立に関与。   

 1526年(大永六年)に氏親が五十六歳で没した後は出家して『寿桂尼』と名乗りましたが、隠居するどころかますます大活躍。弱冠十四歳だった嫡男氏輝の後見人となって今川家の舵を取り、『戦国大名』の異名を取る東海道のキーパーソンとなりました。
 今川氏輝が成人して今川家家督を相続した後は第一線からは引いたものの、政治顧問・相談役として家中に強い影響力を持っていました。

□88年大河『武田信玄』では、今は亡き名優・岸田今日子さんが存在感たっぷりに好演した寿桂尼に今回キャスティングされたのは、女優の藤村志保さん。
 2007年当時で既に女優生活十五年目という大ベテランで、戦国時代を背景とした初の大河である65年大河『太閤記』では主役・豊臣秀吉の妻であるねね役を好演。
 以来、大河ドラマに出演を重ね『風林火山』が実に八作目というから圧巻と言わざるを得ません。その貫禄は、女戦国大名として崇敬を集めた寿桂尼そのものといったところでしょうか。

 長い女優生活の中でも『寿桂尼のように腹の据わった、メリハリと威厳のある女性像を演じるのは初めて』と語っていた藤村さんですが、何をおっしゃいますか。どこか頼りない雰囲気のまま退場してしまった今川氏輝と違い、寿桂尼の存在感・重圧感は初登場だった前回から抜群にだったじゃないですか。

 女戦国大名・寿桂尼。この妙な照明の暗さが、リアルさと威厳を強調してます。

 特に、自分が腹を痛めて産んだ子である氏輝と彦五郎が福島方の策略で同日に命を落としたくだり。二人の遺体と位牌を前に、涙の一滴もなく『おのれ福島…。』と呻いた寿桂尼の顔は、『我が子を殺され憤る母親』ではなく『手駒を切られて歯噛みする策士』そのもの。

 戦国時代という動乱の時を生きた女傑の雰囲気は、四十年を越す女優歴のある藤村さんだからこそ醸せた魅力だと感じました。

         第四回『復讐の鬼』評価表。

今週の風林火山
【註・あくまで歴史痛の観点から視聴した個人的感想です。】
■総合 ★★★★☆ 山本勘助の人生、急転直下ののち運命の出会い。勘助が復讐の鬼となって打倒武田家に神算鬼謀を尽くすその序章となるのが今回。大河『風林火山』最初のターンニングポイント。
■戦闘 ★★★★☆ 山本勘助と板垣信方が闘気白熱する一騎討ちを演じる。守るべきものを奪われた隻眼の鬼が、白刃片手に迫り来る内野さんの表情は悪漢、もとい圧巻。
■俳優 ★★★★☆ 山本勘助と武田晴信・板垣信方主従と遂にファーストインプレッション。市川さんや千葉さんの個性的な演技力と、内野さん・仲代さんの正統派的な演技力がぶつかりあう。河原村伝兵衛や葛笠太吉、平蔵ら葛笠村ズの心情描写の違いも見逃せない。
■恋愛模様 ★★☆☆☆ 前回の甘口展開が嘘のように急転直下。ミツが死んでしまったのちもなお『忘れられない、忘れない。』とその思いを吐露する平蔵の心模様が涙を誘う。
■役立知識 ★★★☆☆ 板垣信方が勘助との一騎討ちに幕を引いた一瞬、首筋に沿わせた白刃を『カチャリ!!』と立てた動作。太刀にしろ打刀にしろ、日本刀は包丁と一緒で"刃を立てて引かなければ標的を切ることが出来ない"ことを熟知した、歴戦の戦国武将らしい描写。
■歴史痛的満足度 ★★★★☆ 今川氏輝・彦五郎兄弟がまったくの同日に亡くなった史実を物語の流れに組み込んだ点などは、思わずニヤリ。このくだり、信用の置ける史料にすら『同じ日に死んだ。』としか書いていない。陰謀渦巻く戦国乱世らしいミステリーを匂わせる歴とした事実。

■次回は第五回『駿河大乱』。久々の合戦シーンに期待が高まる。福島越前守の男気溢れる御大将振りと、策士めいた梅岳承岳の意味深な台詞が印象に残る予告。
 風林火山紀行は山梨県北杜市。八ヶ岳一帯にかつて知行が与えられていたとされる山本勘助供養、鎧堂観音・武田の棒道などが紹介されています。


2007年大河『風林火山』第五回『駿河大乱』 感想と解説




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