2007年大河『風林山』   - 第六回『仕官への道』 -


 さて、当ブログ『風林火山と戦国を語る。復・刻・版』も今夜で第六話までUpが完了いたしましたが、御新規に御覧の皆様、かつて御贔屓に頂いた常連客様はいかが御覧なのでしょうか。

 三年前とは似ても似つかない、事実上復刻版でも何でもない内容と更新ペースでお届けしていますが…これを読んで下さっている方で、『風林火山』完全版DVDを購入した方はいったいどれだけいらっしゃるのでしょう。

 ──…。

だんだん不安になって来ましたが、その、アレです。この際気にしない方向で今宵も『戦国与太噺』から御案内をば。

戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 さて、今回は…大河『風林火山』でも中心的役割を果たす大勢力である今川家・北条家と甲斐武田家の因果関係について御紹介いたします。

 例によって、DVDの内容だけを知りたい方は山本勘助の凛々しい顔が目印の"しおり"まで読み飛ばして頂いても結構です。それでは、皆様の御時間を少々拝借。


■室町幕府の御三家・清和源氏今川家
 今川家は足利将軍家と同じく清和源氏の血を受け継ぐ名門で、この当時駿河・遠江(現静岡県西部・中央部)の守護職を務めていました。

『室町幕府将軍位は、足利家の血が絶えたら吉良家(あの有名な吉良上野介の家系です。吉良家も、源氏の血を継ぐ名門です。)が継ぎ、吉良家が絶えたら今川家が継ぐ。』とされた準一門衆の扱いを受けており、江戸幕府で言えば御三家の様な存在でした。

 目下の状況としては、第四話で今川氏輝(五宝孝一)が世継を残さぬまま突然の急死を遂げ、その後継者の地位をめぐって梅岳承芳(谷原章介)と異母兄の玄広恵探(井川哲也)が争った結果、土壇場で武田家を寝返らせた梅岳承芳が勝利。
『花倉の乱』と呼ばれた内乱がようやくに終結したところです。


 武田家とは戦国時代に入ってから常に小競り合いを続け、常に不仲な関係でしたが、第5話で承芳は『狼を手馴付ける。』と称して武田家に接近、長年の敵対関係から和睦(わぼく、仲直りの事)しました。今は『信頼は出来ないけど、敵でもない』、そんな微妙な間柄です。


 北条家との関係は、話すと非常に長くなりますが屈折した関係です。

 大河『風林火山』の舞台となる時代のまだ50年ほど前である1476年(文明八年)にも、駿河今川家で家督をめぐって御家騒動が起きかけた事件がありました。

 時の今川家総領・今川義忠(いまがわよしただ)後継ぎを決めぬまま討ち死にしたため、後に残った六歳の長男・龍王丸(りゅうおうまる)と、今川家一門衆で龍王丸の親戚にあたる小鹿範満(おしかのりみつ)が、今川家家督をめぐって対立。
 このままでは、どこかで聞いた台詞ですが『駿河はまっぷたつじゃ』です。

 この事件の際に、ある才覚豊かな人物が両陣営の修羅場を上手くまるめこみ、平和裏に龍王丸の家督相続を実現させる偉業を達成します。

その人物こそ、北条家の初代だった北条早雲(ほうじょうそううん)です。今川龍王丸の母親・北川殿の弟にあたり、龍王丸にとって早雲は叔父−甥の関係です。

 大河『風林火山』に登場した北条氏綱(品川徹)は早雲の嫡男で、北条氏康(松井誠)は早雲の孫にあたります。


 そして、難局を乗り切り今川家家督を相続した龍王丸は元服して今川氏親(今川氏親)と名乗ります。この氏親の正室が寿桂尼で、今川氏輝・玄広恵探・梅岳承芳は氏親の子供達です。

 ・・・ということは、今川家にとって北条家には『今の今川家があるのは北条家のおかげ』という、ある種の恩義みたいなものがあるわけです。


 けれど、北条早雲は駿河今川家の様にどこかの国の守護でもなければ戦国大名でもない、今川家の食客という立場に過ぎません。

 そこで今川氏親は、世話になったし武勲も挙げてくれた、という事で叔父の早雲を駿河国東部、伊豆国(現静岡県東部・伊豆半島)との国境沿いにある興国寺城(こうこくじじょう)の城主に任命しました。

  『下克上の申し子』と呼ばれた戦国群雄・北条早雲の野望は、興国寺城城主となることで自分の領地と軍隊が持てるようになった、まさにこのときから始まったのです。

 …ということは、北条家にとって今川家は『戦国大名として世に羽ばたく為のお膳立てをして貰い、世話を焼いてくれた有難い恩人』であり、厳密に言えば主従関係を結んだ君主となるわけです。


 そして1536年、大河『風林火山』の時代になる頃には北条家も大躍進。興国寺城から伊豆半島を攻め取って伊豆韮山城へ、そして相模国を関東管領上杉家から奪い取って相模小田原城へと拠点を移していきました。

 北条早雲は1519年(永正十六年)に亡くなりましたが、後を継いだ北条氏綱は駿河今川家の後ろ盾を受けて東は関東を攻め取り、北は甲斐武田家と槍を交えるなど一端の戦国大名として名を挙げた存在になっていました。

 そんな北条家の躍進をこころよく思わなかったのが甲斐武田家です。

 武田信虎は共に北条家を敵対視している関東管領上杉家と手を組み、1533年(天文二年)には時の扇谷上杉家総領・上杉朝興(うえすぎともおき)と同盟。

 朝興の娘を嫡男晴信の正室に迎え、関東管領家と姻戚関係を結んで相模北条家包囲網を組んでいました。敵の敵は味方の理論、というやつでしょうか。

 と、いうことは…大河『風林火山』ではきれいさっぱりはしょられてましたが、武田の若君は三条夫人より前にお嫁さんを貰っていたことになります。しかも宿敵・上杉家から。

 けれど、朝興の娘は晴信の子を身篭ったものの大変な難産となり、翌1534年(天文三年)、母子ともに死亡。

 また、武田信虎・上杉朝興連合軍は北条氏綱と戦っても連戦連敗でまったくいいところなしだったため、ぜんぜん包囲網にならない無力な同盟でした。

 そんなこんなで駿河今川家と相模北条家はともに援軍を出し合いながら、連動して甲斐武田家・関東管領家と戦っていたわけですが、そんな最中に起きたのが御家騒動、『花倉の乱』。

 ・・・武田家を敵に回したままでは御家騒動には勝てない、と判断した梅岳承芳は武田を手なずけてしまったわけですが、これは甲斐武田家と戦っている北条家にしてみれば面白いはなしではありません。

 敵の敵は味方な筈なのに、その味方が敵と和睦しちゃったということは…以後、駿河今川家は相模北条家と甲斐武田家の戦いには口も槍も挟みませんよ、という意味になるからです。

 今まで一緒に戦ってきたのに、あっさり捨てるのね。許せないわそんな身勝手。北条氏綱でなくても、そう思うでしょう。

 第5話で承芳の母、寿桂尼(藤村志保)が甲斐武田家との和睦を聞いて『この和睦は、御家騒動で勝つための一時的なものなんだろうね?』と心配そうに釘を刺したのは、北条家との気まずい関係を察してのものでした。
しかし承芳は『もはや、早雲公(氏綱父)と父上(氏親、承芳父)の誼を気にしている時代ではありません。』と冷徹に判断しています。

 あの台詞の裏には、こうした北条家と今川家との屈折した関係があったわけです。


■誇り高き平家の末裔・北条家の実像。
 さて、南北朝時代から続く今川家、鎌倉時代から続く武田家と違い、相模北条家は戦国乱世に彗星の如く登場した歴史の浅い新星です。
 先述のとおり、今川家の食客をしていた北条早雲が一代のうちに伊豆半島から相模国(現神奈川県・東京都中西部)、に渡る広大な領土を獲得して戦国大名の基礎を築き、それを受け継いだのが北条氏綱でした。

 甲斐武田家とは先述の通り交戦状態にありますが、駿河今川家とは一応、婚姻関係も結んで平穏関係を保っています。…しかし、両家の思惑は複雑かつ穏やかではないものです。
 今川家は今川家で『北条家はウチがやった興国寺城から今の地位を築いたんだ、いってみりゃウチの家来みたいなもんだ。』と見下している感がありましたし、北条家にしてみれば『我が北条家がでかくなったのは今川家だけのおかげじゃないッ!!機を見て、智恵を絞って、剣戟を交えてでかくなったんだ。いつまでも家臣扱いは心外だ!!』と思っていたからです。

 既に蜜月関係だった今川氏親も北条早雲も亡くなって久しく、相模北条家は今川家の家来というには大きすぎる領土も手にしていました。下克上の風潮のなか成り上がった遠国大名・北条家と、由緒正しい足利将軍家一門衆である守護大名・今川家とのあいだには、埋まらない溝が延々と続いていたのです。

 第五話で北条氏康(松井誠)が『今川は北条を家臣の如く見下している向きがある』と言い放った台詞や、北条氏綱が『・・・これ以上、駿河のタコに吸い着かれてはかなわんからな。』と呟いた台詞は、上記のような屈折した両家の関係を示唆したものだったのです。


ストーリー解説・キャラクター紹介。

 完全版『風林火山』の第六話、全44分29秒。
■時期設定は前半部については未詳ですが、冒頭で福島越前守が討たれ、彼の没したのが1536年(天文五年)六月二十六日。よって花倉の乱が終結して一ヶ月ほど後か。三条夫人が甲斐へ輿入れして来たのが1536年(天文五年)七月と表示される。時に山本勘助、三十七歳。

□1536年(天文五年)、今川家の家督相続争いに端を発した花倉の乱は甲斐武田家の援軍を策略に阻まれた福島越前守・玄広恵探方の大敗に終わった。雪斎と寿桂尼による補佐を受け、梅岳承芳は還俗して今川家家督を相続、名を今川義元と改める。

花倉の乱終結に武勲のあった勘助は今川義元に拝謁。望みのままの恩賞を取らせるという義元の言葉に勘助は今川家仕官を望むが、その悲願に今川家の反応は冷淡そのもの。額を畳にこすりつけ懇願する勘助を義元はうとましげにあしらい、雪斎は哀れみの眼で見据え、寿桂尼は本意とは裏腹な温情の言葉で慰撫するのだった。勘助の今川家仕官は、失敗に終わる。

 甲斐守護職、武田信虎は長年の仇敵であった駿河今川家と和睦し、領内へ逃げ込んできた福島軍残党を捕縛し、皆殺しにするよう下知。やがて、前島昌勝の屋敷に匿われていた福島越前守は小山田信有により誅殺され、武田晴信の助命嘆願もむなしく前島一族は皆殺しとなってしまった。

 今川家との和睦約定にあった通り、京の都は転法輪三条公頼卿の娘・三条夫人が甲斐へ輿入れに下向。見目麗しい姫君と初の対面を果たした晴信、政略結婚を宿命と言う三条の可憐なさまを見て、彼女を受け入れ甲斐の将来を嘱望するのだった。

 今川家に警戒され、甲斐へもどることも駿河から出ることも出来なくなった勘助にいつしか対面した無頼漢・青木大膳が声をかける。その言葉から相模北条家への仕官につながる糸口を見出した勘助は得意の口八丁で大膳と今川家の尾行を煙にまき、奪い取った馬で一路小田原を目指した。

 やがて、北条家の世継である北条氏康との拝謁に漕ぎつけた勘助。北条家内部に内通の間者が居ることを朗々と言上するが、氏康のとった行動は勘助の予想を一枚も二枚も上回るものだった
―…。

『本間江州。そちは、管領上杉憲政と通じて居らぬか?』
勘助の顔に、驚愕の色が走る…。


■福島彦十郎(崎本大海)&福島越前守(テリー伊藤)
 前回、甲斐武田家の援軍を貰い損ねた玄広恵探陣営の事実上総大将だった福島越前守。信虎翻意の御膳立てをした小山田信有の強襲によりあっけなく落命してしまいましたが、最後の最後まで戦国武将らしい、見ごたえのある演技を見せてくれました。いやぁ、テリーさんがこんなに渋い役者顔を併せ持っていたとは意外でした。今後、テレビドラマで見かけた際には要チェックかも知れない。

 第五話『駿河大乱』の終盤で勘助と太刀をあわせ、あっけなくその刃を弾かれてしまった福島越前守の嫡男・福島彦十郎。なにやら意味深なファーストインプレッションがあったと思ったら何のことは無い、やっぱり複線でした。北条家に仕官を企む勘助の正体を今川家の間者と誤認看破するという、勘助にとって生命の危機を演出する大切な役割を果たしました。

 彼が後に北条家にその人有りと称えられることになる屈指の猛将、『地黄八幡』こと北条綱成(ほうじょうつなしげ)…だなんて御紹介したのも、はや三年前の話になるんですね。

 今思えば大変な間違いをしたものです。当時は福島正成=福島越前守、福島正成=北条綱成の父親、と言う認識があったため彦十郎が北条綱成に間違いないと思い込んで紹介しましたが、どうやら大河『風林火山』では福島越前守と福島正成は同一人物とはして居なかったようです。

 福島正成は1521年(大永七年)、駿河今川家と甲斐武田家が戦った飯田河原の合戦で今川方の総大将を勤めたとされる人物ですが、玄広恵探を擁して挙兵し、花倉の乱を起こした福島越前守と同一人物とされてきました。しかし、それとは逆に別人であるという説も同様にありました。そして、二十一世紀の今になってもどちらが正しいのか確定していません。

 なぜこんな良く判らない歴史の混線が起きるのか、といえば…それは福島越前守が負けて滅んだ武将だからです。

 実は戦国時代、勝った側の歴史は書状や著名人の日記などに残りやすいのですが、こと負けた側となると意外なほどに史料が残らないものです。勝てば官軍とは良く言いますが、負ければ賊軍なのです。当時は生きていくのも大変だった戦国時代の乱世、賊のことなんか誰も見向きもしないし、その人生の記録はおろか名前すらもまともに後世に残らない。
 福島越前守の生涯もまた、どこの誰だか確定もしないまま今に伝わってしまったのです。

■梅岳承芳→今川義元(谷原章介) with 雪斎(伊武雅刀)
梅岳承芳は1536年(天文五年)当時で十八歳。花倉の乱直前に謎の急死を遂げた今川氏輝(五宝孝一)の弟で、駿河今川家の勢力を大躍進させた名君であった今川氏親の五男です。      
 第五話『駿河大乱』において今川家家督を巡る後継者争いに勝利し、時の室町幕府将軍足利義晴(あしかがよしはる)より一字を偏諱(へんき。主君や父親など、目上の人物から名前の一文字を授与され、改名すること)を受け、聞き馴れた名前である『今川義元』となりました。

 総領の正室・寿桂尼が生んだとはいえ、五番目の子ということから出生当初は跡継ぎ候補からは大きく外れており、僅か四歳の頃…方菊丸(ほうぎくまる)という幼名時代だったときに太原雪斎へ預けられました。傅役として方菊丸の教育養成係となった雪斎の英才教育を受けた方菊丸は十四歳で得度し梅岳承芳へと名を改め、臨済宗の総本山である京都建仁寺へと修行に出向き、花倉の乱直前に母から召還を受けるまで出家の身でした。

 今回、『山本勘助が駿府で流浪時代だった頃に対面し、仕官を臨まれるも彼の醜い異形の容姿を嫌って却下した』という有名なエピソードを再現してます。

 
演じる谷原章介さんはこれが二度目の歴史大河出演。『余にその顔を見て過ごせと申すか!!』『・・・儂の心が読めぬか?』など過酷な言葉をあっさりと言ってのける、あくまで怜悧かつヤなタイプの切れ者を演じきってます。

 公家かぶれで眉を剃り、凡庸なイメージのあった今川義元像では無く、雪斎の英才教育を受けた才気ある戦国大名として義元を演じること心がけたという谷原さんですが、ライバルっていうより嫌味な委員長って雰囲気が、もう…(苦笑。谷原さん、きっと石田三成も出来るな…。(苦笑

 そして、今回もその若き今川義元の傍らに侍っているのが黒衣の執政・雪斎和尚。

 今川義元は『今川家仮名目録』『仮名目録追加』など分国法の制定や、英明な領土経営術の手腕を持つ優れた為政者ではありましたが、軍師であった太原雪斎があまりに優秀な副官であったため、実戦での指揮を執ったことがほとんど無かったようです。

 史実でも、『駿河今川家とはどんな御家か』と武田信玄に尋ねられた山本勘助、即座に、

『悉皆坊主無くては立ち行かぬ御家です。』

 と答えています。悉皆(しっかい)とは"みなことごとく"という意味、つまり今川家は雪斎和尚なくしては何も出来ない御家とまで言い切ったわけで、逆に言えば雪斎は今川家の総てを取り仕切るほどに優秀な軍師であったわけです。

 前回『軍師は戦場でそんな華々しい戦果を上げる職業じゃない』とか口走りましたが、雪斎和尚だけは別格です。今川家の執政として領土統治、民政にも参画したかと思えば豊富な教養知識を活用し外交官としても活躍、本来は武家の領分である合戦でも優秀な指揮官と、まさに八面六臂の働きを為しました。

 雪斎さえ居てくれれば義元は戦場に出る必要も無かったので、兵法者としての実力を自認し、隻眼の顔を曝け出してまで仕官を熱望した勘助に侮蔑の言葉をくれて退場してしまいました。

 …けれど、ここでもし、勘助を雇っていれば…雪斎和尚の様に重用していれば、後に訪れることになる桶狭間の悪夢もなく、尾張の小領主に過ぎなかった若き日の織田信長に一杯喰わされることも無かったかも知れません。事実、ずいぶんあとになって義元は山本勘助を軽視し侮っていた代償がいかに高いものであったかを知ることになるのです。

 …そして、『勘助の力が必要になるときがきっと来る』とその事を予言していたのが、女戦国大名こと寿桂尼(藤村志保)でした。…――三年前にはこの後の展開を知らなかったのですが、知ってみると深いなぁ、この複線は。
( ・(,,ェ)・)

■三条夫人(池脇千鶴)
 三条夫人は1536年(天文五年)当時で推定十五〜六歳。

 藤原家の数ある血脈のうち清華家(せいがけ。藤原氏の頂点である摂関家に次ぐ第二位の名門、非常に位の高い血筋)七流のうち、転法輪三条家の出身。父親の三条公頼(さんじょうきんより 1495〜1551 従一位左大臣)は武田晴信が元服した際、甲斐に下向したこともあり婿殿とは面識があります。

 三条夫人は次女で、血が繋がっていない姉と妹が居る。どちらも嫁ぎ先が凄いもので、姉は時の室町幕府管領・細川晴元(ほそかわはるもと 1514〜1563 聡明丸・六郎、右京大夫)に正室として嫁し、妹は浄土真宗本願寺派の法主で、後に石山本願寺門跡となり織田信長と張り合うことになる本願寺顕如(ほんがんじけんにょ 1543〜1592)の正室として嫁いでいます。

 つまり武田信玄は、室町幕府管領と浄土真宗の総元締めを義兄弟に持つこととなります。
今風に言えば、小沢一郎と池田d…誰
だこんな時間にウワナニヲスル

 信玄は後にこの血脈をフル活用し、信濃国守護職を貰って信濃統治を正当化したり、上杉謙信領土内の浄土真宗門徒を煽動して一向一揆を頻発させています。上杉謙信が頭を抱えたのは言うまでもありません。さすが信玄、やることが上手くて汚い。( ・(,,ェ)・)b

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か、かわええやないか。(*´∀`)(殴 

 とまぁ、趣味丸出しの第一声は置くとして…由布姫(柴本幸)には、雰囲気的にもイメージ的にも池脇さんをキャスティングしたほうが良かったんじゃないか?と、赤髭は考えるわけですよ。

 史実の由布姫こと諏訪御寮人とは、本当に佳人薄命を地でいくような過酷な生涯でした。そんな彼女の抱いたら壊れそうな脆さや、薄幸ゆえの透き通るような儚さを醸し出してるのは、どっちかといえば池脇さんの方が上手のような気もするんですが…まぁ、儚さと同時に、かなり芯の強い向きもある井上靖原作の『風林火山』の由布姫だけに、かわいいだけじゃ駄目だっていうのはよーく判るんですが、ね…。

 でも、かぁいいなぁ池脇千鶴さん。『若殿さん…永久(とこしえ)にお慕い申し上げております。』って、赤髭も言われてみたい。超言われてみたい。

…どこかに池脇千鶴さん、落ちてないですかね。 (*>ヮ<)っ)・ω・`)・∵;;<ウェエエイイイイイ!!!!


■北条氏康(松井誠)

 北条氏康は1536年(天文五年)当時で二十二歳。相模小田原城主・北条氏綱の嫡男として生まれましたが、後に『相模の獅子』とその器量を讃えられた円熟期とは違い、少年時代は線の細い臆病者だったようです。

 小さい頃に小田原城内で家臣が火縄銃を撃った音にびびりまくり、その羞恥で発作的に腹を切ろうとして近習に止められた半泣き顔の我が子を見て、北条氏綱は本気で廃嫡を考えたそうです。

 しかし、後に北条氏康は顔面に向こう傷二箇所、体に刀傷七箇所を誇る猛将に成長し、1530年(享禄三年)十六歳の初陣では上杉朝興の軍勢を粉砕。

 民政の手腕も抜群で、かなり早い段階で領内に検地を実施したほか、『税制がわかりにくい!!』と税制改革に着手、領民が疲弊していればあっさりと減税・無税の徳政令を敷いたり、そうかと思えば減税しておいて新税を導入したりと現在の政治家に負けず劣らずの実力を示します。

 領民は氏康のことを『御本城様』という敬称で慕い、強い絆で結ばれた北条家と領民の関係は上杉謙信の度重なる関東征伐にもびくともせず、居城の小田原城は謙信と信玄の攻撃を受けても陥落しなかった。

北条家の後に関東を治めた徳川家康は氏康が残した領地統治制度に深い感銘を受け、尊敬する武将に彼の名を挙げたとか。



 戦国最強の三代目、北条氏康が舞い踊りながら登場。勘助との遭遇を果たす。仕官のための儲け話を青木大膳(四方堂亘)から聞き出した挙句に利用した勘助の知略をさらに出し抜き、勘助に『参りました』と言わせたその実力は既に相模の獅子そのもの。

 その器の大きさは、勘助から悪態と短所ばかりしか見出さなかった今川義元より確実に上でしょう。大河『風林火山』の登場人物では、間違いなくトップクラスの戦国大名です。

 演じる松井誠さんは歴史大河は『炎立つ』以来の登場。大衆演劇の一座に生を受け、零歳で初舞台を踏んだというから文字通り人生叩き上げの俳優さんです。
 北条氏康役をキャスティングされた際、氏康と名のつく本を片っ端から読み漁った結果『読み過ぎて、返って人物像がわかんなくなった』というお茶目さんですが、女形役が大得意とは思えない見事な男前っぷりです。

 赤髭的には、いやがおうにも目立つ首筋のほくろはどうにかして欲しかった感がありますが(どうでもええやん)、暖かながらも知略抜群な器量の広い若殿像は、悩める文系ハムレットの武田晴信とは好対照。

 若い頃の北条氏康というイメージにぴったりな俳優さんだと感じました。大河『風林火山』終了後以降、あまりテレビで見かけないのが残念ですが…。


■今週の風林火山
【註・あくまで歴史痛の観点から視聴した個人的感想です。】
■総合 ★★★☆☆ 山本勘助が信虎憎しの怨情で仕官先探しに奔走するなか、徐々に徐々に回り始める物語の糸車。

■戦闘 ★★★☆☆ 序盤からいきなり、炎に包まれた前島昌勝邸での戦闘シーンあり。危機とした表情で殺戮を指揮する小山田信有の顔、今回で退場する福島越前守(テリー伊藤)の気迫溢れる立ち回りが印象に残る。

■俳優 ★★★☆☆ 青木大膳(四方堂亘)のピントのずれ具合が素敵。北条氏康の器量が大きな若殿振り、相変わらず狂気入った武田信虎と若殿のはつらつとしたやりとりも好対照。池脇千鶴たんは可愛いからなんでもいい(評価になってない。

■恋愛模様 ★★★☆☆ 晴信替われ、俺と替われ。なんで晴信が三条夫人と同衾してるんだ。ディスプレイの中って入る方法ないのかよ!! 薬?あー、飲んでるよ!!七色のやつっ c( ;・`ω・´)っ)・ω・`)・∵;;<ヘブシ

■役立知識 ★☆☆☆☆ とくに気づいたお役立ち情報はなし。

■歴史痛的満足度 ★★☆☆☆ 北条家の軍中に出ていたという乱捕り禁止令と、それに触れて追放処分となった青木大膳。戦国乱世もたけなわであるこの時代なら、乱捕りに励む野武士崩れはどこの御家にも大量に居たはずなので、腕前に自信がある青木大膳なら仕官にはそれほど困らないはずなのだけど…。なお、戦国時代の合戦で乱捕り御法度の禁制が本格的に出るようになるのは戦国時代の終わり頃。


■次回は第七回『晴信初陣』。武田信虎(仲代達矢)の見せる様々な横顔と相変わらず面長な(暴言)甲斐の若殿の覚悟を滲ませた台詞、真田幸隆(佐々木蔵之介)の『必ず戻れよ…。』という言葉が印象的な予告。


 風林火山紀行は神奈川県小田原市・箱根町。今回山本勘助も訪れた相模北条家の居城・小田原城をはじめ、北条氏康画像(早雲寺蔵)・小峯大堀切、北条家菩提寺である早雲寺と北条家五代の墓などが紹介されています。



歴史痛の眼。要するに薀蓄のひけらかしとも言う。


 さあ、ここからは大河『風林火山』を見るにあたって至極どうでも良い重箱の隅、世間の一般常識から隔絶された戦国歴史痛がその無駄知識をフル回転させてお届けする、そんな『長すぎる付録』こと『歴史痛の眼』コーナーです。

 …――えぇ、なんどでも僕はこの眼でぶっちゃけます。『こっから下は、別に読まなくっても良いです』と。

 それでは、御一緒して頂ける皆様の御時間をさらに拝借。 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!


■1536年(天文五年)当時、他の戦国群雄達や世情はどう動いていたか


Q1.【上杉謙信っていうかGacktは?ねぇGacktはどうなってるの!!?(*´∀`)】

 上杉謙信は当時七歳。名前も長尾虎千代(ながお とらちよ)という幼名でした。

 謙信は越後国守護代長尾為景(ながおためかげ ????〜1536 弾正左衛門、信濃守)の次男、一説には四男の生まれ。

 長尾家の世継には十七歳も(説に拠っては二十歳以上とも)年の離れた兄・長尾晴景(ながおはるかげ)が居たため、謙信も出家し遁世の予定が決まっていました。林泉寺というお寺に入門し、天室光育(てんしつこういく)という高僧について様々な勉強をしていました。

 しかし、謙信は信心深く清廉潔白な性格ながら、この時点でもうどうしようもない腕白小僧だったようです。後に光育は長尾家に手紙で『虎千代殿はお坊さんに向きません。
 ただ、兵法や武芸の素質には目覚しい器量が備わっているため、武将として育てたらどうでしょうか?』と書き送っています。

 ちなみにGacktは自称1540年生まれだそうなので、まだ生まれてません。(何?


Q2.【戦国の覇者・織田信長は?】

 織田信長は当時三歳。名前も織田吉法師(おだきちほうし)という幼名でした。信長は尾張勝幡城主・織田信秀(おだのぶひで)の次男(一説には三男)で、生まれた直後より後継者である嫡男に指定されており、何と二歳の頃から那古屋城城主を務めていました。

 といっても、いくら織田信長が聡明であろうともこの年齢では城主業務は出来ないため、実質上は傅役だった平手政秀(ひらてまさひで)らが執り行っていたようです。

 後に大変な大うつけ、継いで戦国の覇者、第六天魔王と呼ばれる破天荒な英雄になる信長ですが、この頃はまだ気質純朴で可憐な美少年でした。女装して舞を踊る吉法師の姿は、天女と見間違うかと想うくらいに美しいものだったそうです。

Q3.【豊臣秀吉は?】

 信用できる史料に秀吉の名前が登場するのは、実に三十年も後のこと。秀吉の前半生はまったくの謎に包まれていますが、『太閤記』によればこの年の正月、一月一日に尾張中村の百姓・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と なか の長男として生まれています。

 近年の研究では1537年(天文六年)二月六日生まれとも言われていますので、その説をとるならまだ生まれていません。

・・・ちなみに、秀吉本人は

『母親は萩中納言(はぎちゅうなごん)と呼ばれた天皇の女房(女官)を勤めた人で、天皇のお手つきがあった後に尾張に下向してきた後、生まれたのが儂だ。』

と言っています。
・・・この期に及んで大嘘つくな、秀吉。
( ・(,,ェ)・)


Q4.【徳川家康は?】

・・・生まれてません。お父さんの松平広忠(まつだいらひろただ)ですら、まだ11歳です。
・・・すみませんね、徳川家康嫌いなもんで。(ぉぃ


Q5.【天皇とか将軍は?】

当時の天皇は第百五代・後奈良天皇(ごならてんのう 1496〜1557 知仁)です。
 この頃の朝廷は最ッ高にお金が無くて困っていた時代で、後奈良帝も直筆のサインを短冊に書いては御所の軒先に吊るし、それを売って生活の足しにしているほどの困窮ぶりでした。

 後奈良帝は1526年(大永六年)、つまり十年前に即位したのですが、『即位の儀式』を行うお金すら工面できず、儀式を執り行えないでいました。

 こういう場合、朝廷は暗に貢物や献金を要求することでなんとかやりくりするものですが、後奈良帝は潔癖な性格で猟官(りょうかん。お金で朝廷の官位を売ること)を好まなかったので、台所事情は火の車。

 また、戦乱が長く続く世の中を憂いたのか1534年(天文三年)には京都の諸寺院に対し疾疫鎮撫の加持祈祷を命じ、1539年(天文八年)には直筆の般若心経を諸国一宮に配布し、洪水や凶作で荒れ果てた国土が復興するように祈らせたことが記録に残っています。

 ・・・こんな時代なのに、芯のしっかりした人だったようです。


 将軍は室町幕府第十二代将軍、足利義晴(あしかがよしはる 1511〜1550  亀王丸、万松院殿・従三位大納言)です。武田晴信・今川義元らが元服・還俗した際に、時の最高権力者として一字偏諱を与えています。


 この頃の室町幕府は度重なる権力争いで機能が形骸化しており、将軍が命令を発しても言うことを聞いてくれたのは畿内の数カ国だけという有様。幕府の実権は管領(かんれい、執事と訳されるがまぁ言えば総理大臣みたいなもの)細川晴元(ほそかわはるもと 1514〜1563 聡明丸・六郎、右京大夫)に握られていました。

 そして、その細川晴元も十分に家臣達をまとめあげる器量が無く、近畿で軍事活動が起きるたびに、近隣の諸豪族へ

『何でも言うことを聞くから、助けて!!』

とかいう情けない内容の手紙を送って協力を仰いでいるような状況。


 要するに、もう室町幕府はガタガタで、どうしようもなくなっていたんです。

 こんな時代だからこそ、戦国群雄達は好き勝手に暴れまわることが出来たのですが…たとえ形だけになってしまっても権威にすがりたいと想う気持ちは地方ではまだまだ残っていました。


 第五話で武田信虎(仲代達矢)と雪斎(伊武雅刀)が話し込むシーンで、信虎が『公家の嫁さんを貰っても、はたしてそれが和睦の証になるかのう?』と尋ねた際に、雪斎が『こんど紹介する姫様の姉は、管領細川晴元の嫁さんです。』と言うと、途端に信虎は満面の笑顔で承知しています。

 あれは、京都から遠い甲斐の山奥にある甲斐武田家が清華家に列せられる高位の貴族・転法輪三条家から嫁を迎え、それが室町幕府管領細川晴元と義兄弟関係になることがいかに名誉で、勢力拡大に箔がつくことに意味があるかを信虎が理解したからです。

 その威光の効果はてきめんでした。武田信虎はあっけなく福島越前守との約定を破棄し、駿河今川家との和議を選んだわけですから。

 長い歴史に裏打ちされた朝廷や幕府の"権威"は、戦国乱世になっても死ななかったわけです。

2007年大河『風林火山』第七話『晴信初陣』 感想と解説





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