2007年大河『風林山』   - 第七話『晴信初陣』 - 


 突然ですが、当ブログ『大河『風林火山』と戦国を語る 復・刻・版』を御覧の皆様の中で、『自分は生活習慣や生活規則・信条を定め、それを厳しく遵守している』なんていう殊勝な心掛けを持っている、という方はいらっしゃるでしょうか?


 赤髭は自他共に認める『がつく自堕落』性分であるため、つい最近まで長らく無縁な代物だったのですが…これを漏れなく守り続けるというのは素晴らしい事であると同時に、とんでもなく大変な苦行であると痛感している次第でして。


 なかでも『早寝早起き』に関しては、なかなか体が慣れてくれません。


 昔から『早起きは三文の徳』だなんて申しまして、健康維持の基礎基本とされている生活習慣ですが…――三文って現代の貨幣価値に換算すると、永楽銭一貫文が約十五万円で、一貫文は千文の事なので一文は約150円也…――〆て450円の得にしかならないわけでして(殴  
ヘリクツイウナ!!>(*>ヮ<)っ)・ω・`)・∵;; <アイトワ!?



 けれど、その小さな生活習慣の積み重ねこそ、大きく価値ある未来をつかむ第一歩であるのも、間違いない話。


 そこで今宵の『戦国与太噺』は、そんな健康習慣を徹底的に重視した戦国大名にして、大河『風林火山』でも重要なキーパーソンとなる"相模の獅子"こと北条氏康、そして相模北条家が定めた家法について御案内いたします。


 例によって、DVDの内容だけを知りたい方は山本勘助の凛々しい顔が目印の"しおり"まで読み飛ばして頂いても結構です。それでは、皆様の御時間を少々拝借。

戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■健康第一、お掃除第二。下剋上の雄・相模北条家の厳しい生活習慣
 
 『酒は、朝しか嗜まぬのじゃ。』という北条氏康の深みある台詞から始まる第七話『晴信初陣』ですが…この『酒は晩じゃなくって朝に呑む』という北条氏康の生活習慣は、歴とした史実。相模北条家に伝わる氏康訓戒の言葉だったりします。

 しかも、大酒にならないように量は『三杯まで』、時間は『朝食の時』と正確に定められていました。

 この習慣の益については、劇中で北条氏康(松井誠)本人が素敵な笑顔で説明してくれることですが…相模北条家には他にも、生活習慣の遵守や健全な精神維持の意味が厳しく定められていました。

 北条家が鉄壁の生活習慣を推奨したのは、何も氏康に始まったことではないからです。

 北条家の健康的生活の徹底、その発祥は氏康の祖父にして相模北条家の始祖である北条早雲(ほうじょうそううん)にまでさかのぼることが出来ます。

 北条家の居城となる相模小田原城を扇谷上杉家から北条早雲が奪取した1495年(明応五年)頃、北条家のルールとして定められたという分国法『早雲寺殿廿一箇条』(そううんじどのにじゅういっかじょう)がそのしきたりのはじまりで、そこには相模北条家にある武士が守るべき生活習慣が詳細にまとめられています。


             北条早雲像 (神奈川県小田原市)


 その項目を順に追って、その真意を読み解いてみましょう。


■早雲寺殿廿一箇条

 、朝はつねに早く起きるように心がけること。

 大事な家訓の第一か条目がいきなり『早起きの奨励』。相模北条家では、まず朝に早く起きることが重要でした。

 その時刻、実に寅の刻(午前四時頃)。

 なぜこんな時間に起きるのかと言えば、『主人が遅く起きているようでは、、召使いや小者までが気持ちをゆるめてしまって、公務の大切な用事にも事欠くようになる。その結果は、必ず主君からも見離されてしまうことにつながるため、深く慎まなくてはならない。』というもの。

 早起きには、自分の健康維持だけでなく用心の心がけが兼ねられていたわけです。

 別項目では、『朝の八時や十時に起きるようでは、主人への御奉公や自分の用事も済ませられない。そんなんじゃぁ、毎日毎日無駄に暮らしているだけだ。』と鋭い口調で断言しています。 

…なんだろう、この書き手にとって激痛を伴う内容。 


 、夕刻は五ツ(午後八時頃)までに寝しずまるようにすること。

 第二箇条目は『寝の奨励。』で、その時刻はずばり、

 その理由は、といえば

夜盗は必ず子〜丑の刻(夜半の十二時から二時まで)の時刻に忍び入るものである。宵の口に無駄な夜更かしをして真夜中にぐっすり寝入っていると、夜盗に忍び込まれて家財を盗まれる結果となる。このような事は損得勘定以前に、外聞が悪いものである。とくに注意しなくてはならない

から。早寝も早起きも三文以上に御得なわけです。

 また、『昔の偉い人は『夜十二時に寝て朝四時起床』だなんて言ってるが、それも人によりけりだ。』とも言っています。

 先人の言うことは何でも盲目的に従うばかりが能じゃないと言っているあたり、下剋上で成り上がった相模北条家らしい革新志向が感じられます。


 一、朝起きたら、顔を洗う前に便所や厩舎、庭や屋敷周りを点検して、掃除しなければならない箇所を確認して下人に掃除するよう命令しろ。それが終わったら、顔を洗え。

 北条早雲は我が身一代、下剋上で成り上がっただけあって人間観察力に優れていたと伝わっており、外見が他人の第一印象にどれほど大きな影響を与えるかを良く理解していたようです。

 朝起きたら顔を洗う前に屋敷内を見回れと言うのは『屋敷の主人の顔が汚れていることより、屋敷周りが汚れていることのほうが醜名になりやすい。この屋敷は気合が入っていない、とあなどられて隙をつかれやすくなる』ということなのでしょう。

 ちなみに、『うがいに使った水は軽々しく捨てるな。飲め。』という記述もあります。

 北条早雲は『折れた針すら蔵にしまい込むほどケチ』だったとも伝わる人物です。確かに、蛇口を捻れば水が出る御時世と違い水は井戸から汲み上げたもの、大切に使わなきゃいけませんよ…ねぇ。 Σ( ̄▽ ̄;)


 、神仏を崇拝することは、心身の憩いである。


 仏教を信じなさい、ということ。

 『神様なんか拝んだって、何の得にもなりゃしない』と思うのは無神論者の赤髭ですが、早雲が言うには

神仏に対して拝む気持ちがあるならば、ただひたすらに心を正しく穏やかに保ち、正直一途に暮らし、目上の者を敬い、目下の者を慈しみ、慎み深くなり、ありのままの心持ちで生活することが出来る。それは天意にも仏意にも叶うというもの。

、だそうです。

 要するに『仏教を信じていれば自然と他人に尊敬される・主人に信頼を得られる人になりますよ』ということでしょうか。精神的健康にも繋がりそうですし。



          北条早雲像。壮年の頃のもの。


 歌道について少しの嗜みもない人は、卑しい人と言っても仕方のない連中である。それゆえ、歌道は大いに心がけて学ぶべきである。

 これは、武芸以外にもストレスを解消できる、なるべく高尚な趣味を持ちなさいということ。

 たとえ生き延びるためとはいえ、です。

 戦場で血槍を振り回して敵を撃ち殺し、首級を求めて眼を剥くという殺戮の日々に暮らす戦国乱世。そういう生活環境に長く心身を置いていれば、当然ながら心も荒みます、人間味もなくなります。

 戦国時代の武将が嗜む趣味には色々と種類がありますが、そんななかから早雲が歌道を選んだことは、歌道が心を平静に保ち、古の歌人達の優雅な思想に触れて教養が豊かになり、しかも対人スキルにもなるという一石数鳥な趣味であったためです。

 実利主義らしい北条早雲の思想が良くわかる取捨選択と言えますね。そして早雲が"良くない趣味"として挙げたのが次の項目。



 友達とは選ぶものである。
 良い友達とは、手習いや学問の友である。悪友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八などの遊び友だちである。

 趣味なら何でも良いわけじゃない。

 なぜ碁・将棋などのボードゲームや笛・尺八などの雅楽は駄目なのか。
 早雲が言うには『これらの遊びは、知らぬといって決して恥にはならぬものであり、また、たとい習ったからといっても他のことに応用が利くわけでもない。これらの趣味は、他になす事のない連中が空しい時間をいかにしてすごそうかと考えて行なうものである』から。

 無駄な趣味ばっかりな赤髭には、堪える言葉です。 
                      (ノ=(,,ェ)=)<500年前カラ 駄目出シサレタ..


 北条早雲とは、よっぽど現実主義者だったのでしょうね。確かに戦国武将にとっては将棋も囲碁も笛も尺八も無用な趣味かもしれませんが、将棋・囲碁は織田信長や豊臣秀吉・徳川家康も没頭したそうですし、数多くの名人を輩出しています。

 一概に、無駄な趣味とも断言できないと赤髭は思うのですが…。



 ――…とまぁ、かなり細かい箇所まで生活習慣や信条について規定した『早雲寺殿廿一箇条』ですが…相模北条家の歴代総領はこの遺言を語り継ぎ、守り続けました。

 その後の北条家は『健全な精神は健全な肉体に宿る』という言葉を裏打ちするかのように有能な一族衆に恵まれ、初代早雲から五代北条氏直までの百年間、御家騒動はおろか謀叛らしい反逆もなく、その所領内では戦国時代でも稀に見る平和を実現します。

 正しい生活習慣を心掛け、過ぎ行く日々に確かな意義を見出して暮らしていく。

 健康維持の基礎基本を守ったことで強力な礎を築いた相模北条家の結束は、後に小田原城へ襲来する越後上杉家の猛攻を耐え抜き、そのもっと後に急遽来襲した甲斐武田家の強攻にも微動だにしない、鉄壁の防御を天下に示すことになるのです。


c(=(ェ,,)=c【布団】 
教訓、大事を成すにあたって一番大切なのは、心身の康状態。 


ストーリー解説・キャラクター紹介。


 完全版『風林火山』の第七話、全44分29秒。
■時期設定は三条夫人が甲斐へ輿入れして来たのが1536年(天文五年)七月、武田信虎と三条夫人が紅葉を楽しむ場面があるから秋頃。真田郷の山々も紅葉を迎えていたようなので、中盤は晩秋から初冬にかけてか。終盤には1536年(天文五年)十一月と表示がある。時に山本勘助、三十七歳。

□1536年(天文五年)、今川家へ仕官する夢破れた勘助は青木大膳(四方堂亘)から北条家家臣・本間江州が山内上杉家に通じる間者であるとの情報を知り、それを伝手に北条家への仕官を企む。

 しかし、北条家の若き世継・北条氏康(松井誠)は既に本間を手懐けており、逆に山内上杉家に虚報を流す間者として利用していた。その器の大きさと底知れぬ才覚に勘助は信服。北条家への仕官を望むが、かつて花倉城で敵対し今は北条家へ逃れていた福島彦十郎に『今川家の間者』とあらぬ誤解を受ける。

 地を這い、懸命に北条家への仕官を熱望する勘助の姿に疑念を解いた氏康だったが、替わりに勘助の眼に底知れぬ怨恨の炎を見る。


 その夜、氏康は領内の漁師小屋に酒肴の席を設け、勘助を歓待する。

 勘助が仕官を望んでいた話には、勘助を生焼けのさざえに喩え『食してみると美味いやも知れぬが、今のそなたを食す気にはなれない。』と却下する。そして、己の欲に取り憑かれた者を、家臣には出来ないと。

『恐れながら、それがしに欲などござりませぬ。
心の奥底を見抜かれても狼狽せず、反駁する勘助に氏康は言葉を続ける。

恨みもまた人の欲に過ぎぬ。武田を討ちたければ、恨みを忘れて己の大望だけを見つめよ。さすれば敵の姿も、はっきりとそなたの眼に映ろうぞ』

 氏康は勘助を間者として他国に放つと家臣に言い伝えた。それは勘助を生きたまま解き放つ方便だったが、結果として勘助はまたも仕官の夢が破れることとなり、失意のうちに相模を離れたのだった。

 その頃甲斐では、元服を迎えてもなお初陣の沙汰がない晴信と、次男・次郎を寵愛する信虎の不仲が懸念の噂として城内にあふれていた。


 このままでは晴信は廃嫡され、次郎が跡目を継ぐのではないか。そんな話まで囁かれるなか、三条夫人は信虎とふたり紅葉があでやかな夕暮れの庭に出る。京の都が恋しくないか、さびしくはないかと問う信虎。



 そんな信虎のらしからぬ穏やかな顔から寂しさを見出した三条に、信虎は『晴信は自分の粗忽さを嫌っている』と寂しげに漏らす。

  晴信は初陣の際には、信虎の愛馬である鬼鹿毛を賜ったことがあったが、その態度を傲慢とみた信虎はそれを却下したことがあった。そのことを晴信が寂しそうに呟いていたことこそ、信虎を慕っている証左であると三条は信虎に訴える。

 信虎は、日頃家臣達の前で見せる酷薄な顔とは似ても似つかない、疲れた微笑を浮かべて独白する。

『せめて…せめてこの無骨な父から『馬を習いたい』と、そう申して欲しかったのじゃ。

 ……――さすれば、わしも見たいものだった……
  わしの鬼鹿毛に乗り、初陣するせがれの姿を……。』


 その寂寥感あふれる信虎の横顔を見た三条は、吐露した言葉を晴信に伝える。

晴信は猜疑心に苛まれながらも三条の心を想い、信虎の前で馬を習いたいと申し出た。

 しかし、三条と晴信の想いは裏切られ、親子の情はもはや改善不可能な域にまで達してしまう…――。

 『とうとう、本性を現しよったの、晴信。妻をつかわし、このわしをたらしこんだつもりでおったのであろう?

  …さようなことも見抜けぬと思うてか、このわしが…。』


 拳を握る晴信。しかし、信虎が胸の奥に秘めていた思いもまた、この時晴信の強気により挫かれていた。晴信は信虎に許しを請う台詞を吐かず、返って強気な態度に出てその場を後にしてしまった。許しを乞えと怒鳴る信虎、聞き入れず立ち去っていく晴信。


『見えませぬか、晴信が御館様の情けを乞うておられるのが…。』

大井夫人のすがるような言葉も、二人の溝を埋めるには至らなかった。亀裂が癒えぬまま、甲斐武田家の親子虎は初陣の日を迎える。


 一方、山伏の姿に身をやつしていた勘助は仕官を求めて信濃国へ。その流浪の最中、ひょんなことで葛笠村時代の同胞・平蔵と再会。その平蔵を通じて、小県郡真田郷の領主・真田幸隆との邂逅を果たす。真田幸隆は勘助がただの山伏ではないことを即座に看破し、館へと招き入れる。

 真田家に逗留し、幸隆と城攻めの兵法について語り合う勘助。そこへ、甲斐武田家が信濃に攻め入ったとの急報が入る。武田家が攻撃を仕掛けたのは佐久郡・海ノ口城。


 勘助と平蔵が武田を仇敵視することを知る真田幸隆は、二人に武具と馬を取らせて海ノ口城援軍に向かわせる。ミツが命を落として約一年。ついに勘助と平蔵は、怨敵・武田信虎と戦場で相対することになるのだった…。




武田信虎(仲代達矢)&武田晴信(市川亀治郎)


 2007年当時は、三条の前で吐露した心情から急遽一転、狂気の暴君として豹変を遂げた信虎の心模様がどうしても読めませんでしたが…今思えば、これも信虎なりの屈折した、意地の悪い愛情だったように感じられます。

 ひょっとしたら、晴信があそこで拳を握らず、敵愾心を抑えて『鬼鹿毛がどうしても欲しい!!父上に騎馬術を習って、初陣までに乗りこなしたい!!』と、信虎に屈していれば…次の日の夕暮れには、紅葉散る庭園で我が子に馬術を教える信虎の姿が、見られたのかも…。

 

 信虎もそうなってくれることを期待して居たのかも知れないと、今はそう思えるようになりました。もっとも、晴信は晴信で信虎の豹変に傲慢さと横暴を見出し、『馬なんかなくったって初陣はバッチリ決めてやる、覚悟しやがれ!!』みたいに感情を逆撫でする言動を吐いて座敷を立ってしまいましたけども。

 これはこれで信虎も計算違いだったんでしょうね。『晴信ッ!!』と、立ち去る我が子に恫喝するような言葉を投げつけてしまったのも、実は動揺してのことだったのかも…。

 このすれ違いの連続で生まれた小さな亀裂が、あと数話後には決定的な溝となって…生涯、癒えることのなかった後の大事件への複線になるわけです。



三条夫人(池脇千鶴)
 かわええ(・(ェ,,)・*)(前回からそれしか言ってない)


 三条夫人といえば京の都から甲斐に下向してきたという境遇もあり、二言目には今日の都を懐かしんで愚痴ばかり言うため晴信との夫婦仲は良くなかった、だなんて一説もありますが…大河『風林火山』では辛抱気があり、おしとやかで凛然としたお姫様像で通しているようで。

 …これはとても喜ばしいことです、ええ。こんな可愛い顔して性悪な姫さんだったら、赤髭は人間不信で寝込むところでした(関係ねえ。



 もっとも、井上靖原作『風林火山』では嫌味しか言わなかったので不安ではありますけども(汗。


北条氏康(松井誠)
 『戦とは、国を守るためにするものじゃッ!!欲の為にするものではない!』の台詞は、民政に意をそそぎ領民の安寧こそ第一とした相模北条家の英主・北条氏康だからこそキメられる名台詞。


 今は自分を信じられず、人の情にしがみつく頼りない若殿かも知れませんが…この将来有望な世継が相模北条家を背負って立ち、相模の獅子と謳われる大器に成長していく過程がちゃんと描かれるのか、それも見どころの一つかも知れません。


真田幸隆(佐々木蔵之介)

真田幸隆は1536年(天文五年)当時で二十四歳。
 信濃国小県郡真田郷の領主。徳川家康を震え上がらせた兵法策略の鬼才・真田昌幸は三男で、大阪夏の陣で大活躍し徳川家康に死を覚悟させた真田幸村は孫にあたる。

 神算鬼謀の知略で名を馳せた戦国真田家は、この幸隆を初代に始まる。優れた智謀で北信濃に真田家の勢力基盤を築き、忍者や間諜を駆使した策略戦に長け、不惜身命の六連銭を旗印にするなど、真田が真田らしくある由縁はこの初代幸隆の頃より既に基礎が熟成されていた。

 実は最近になって、実名は幸隆ではなく『幸綱』(ゆきつな)が正式名称で、"幸隆"は 綱 の達筆な草書を 隆 と読み間違えただけではないかという説がある。
 親兄弟、嫡男が揃って 綱 という字を通字(つうじ。一族が代々名前に受け継ぐ一文字のこと)にしているため信憑性が高く、最近に発行された武田家に関する書籍には『名前は幸綱が正しい。』とはっきり書かれているものもある。

 また、実名も不確かであるが幸隆以前の家計図も同様に不確定で、幸隆の父親が誰なのかもはっきりしていない。真田一族は、戦国時代の信濃国に突如芽生えた異能の一族とも言える。


 2007年当時、既に大人気を博しFanからは『蔵之介様』と呼ばれていた若手俳優・佐々木蔵之介さんが真田幸隆役で初登場。

 88年大河『武田信玄』では名優・橋爪功さんが飄々とした知恵者振りを好演した真田幸隆ですが、歴史痛的には『若いときから苦労性で、酸いも甘いも知りつくした策師』というイメージがある真田幸隆だけに、若いながら器量才気に溢れはつらつとした若駒の様な活気ある若殿、という幸隆像は非常に新鮮な印象を受けました。

 また、歴史大河初登場には到底見えない佐々木さんの存在感と重みのある演技力が幸隆の大物振りを引き立てます。

 諸国を旅し見聞と人物観察力には長けている筈の勘助を一瞬うろたえさせるほどの切れの良さは、後に日本一とうたわれることになる真田家鬼謀の片鱗をうかがい知るに十分な迫力でした。


 赤髭的には、『されば、斬れ。』と勘助斬殺を家臣に命じておきながら『左様なことも判らぬのか!!』と逆に家臣を一括するシーンが印象的。『そんな茶振りすんなよ幸隆…(苦笑』と思う反面、その理不尽をすぐには認識させない覇気の鋭さに感銘を受けていました。今後の幸隆がどんな活躍を見せるか、期待は大といったところでしょうか。

■今週の風林火山


【註・あくまで歴史痛の観点から視聴した個人的感想です。】
総合 ★★★☆☆ 勘助が仕官を求めて放浪するのは前回と一緒ですが、後半になると真田幸隆を通じて勘助vs甲斐武田家の仇敵関係が一気にヒートアップ。ここを抑えておかないと今後の急激な展開についていけなくなるかも。

■戦闘 ★★☆☆☆ 鎧兜や槍刀が関係しない、因縁的な精神的戦闘ならあるけども…他はせいぜい、山本勘助vs真田家の小者さん達の小競り合いくらいか。それも一瞬で終わっちゃうし。

■俳優 ★★★★☆ 仲代達矢さん演じる武田信虎の様々な心模様、それを如実に表現する表情にも注目ですが、晴信と話すときと三条夫人と話すときでは声に篭る感情の余裕が全然違っているのも要check。―…信虎は既に、夢でうなされるほど嫡男を恐れているんです。

■恋愛模様 ★★☆☆☆ だから、千鶴たんといちゃつくんじゃない晴信。(#・(,,ェ)・)も、今だミツのことを忘れられずに復讐心に駆られている勘助を再確認させた平蔵も、恋愛のポイントといえばポイントか。既にミツが退場して数話過ぎているのを忘れがちになりますが…劇中では、彼らの復讐はまだ続いているわけです。

■役立知識 ★★★★☆ 真田幸隆が『真田の牧が良い馬を育てるのは、望月には負けんぞ。望月の牧を存じておろうのう。朝廷も御所望になった馬じゃ!!ぉ?』と嬉しそうに言うシーン。

 信濃国は平安朝の昔から官営の牧が南北五箇所あり、モンゴルの勇敢な血筋を引いた馬を育成していました。その最南端にある『望月の牧』では、毎年中秋の名月の日までに朝廷へ馬を送る儀式を行い、京都へ馬を輩出。この牧から京都に送られる馬こそが都人にとって本邦最上級の馬と認識され、武家には垂涎の的ともなった。
 …つまり真田幸隆は『真田の牧で育った馬は日本一の馬にも負けない!!』と胸を張っているわけです。こんな難しい知識までさらっと脚本に組み込むあたり、風林火山は敷居が高い。

■歴史痛的満足度 ★★★☆☆ 大河『風林火山』では、、「本格派かつ新鮮」「新鮮かつ重厚」をモットーにした作品作りが行われたわけですが…北条氏康の酒の呑み方や幼少期のエピソードなどは、戦国時代通じゃなきゃ喜びも嬉しがりもしない要素。そこを敢えて脚本に絡めてきたあたりはさすが本格戦国ドラマ、というべきか。



■次回は第八回『奇襲!海ノ口』。
 『どうやらあの城には、相当の軍師が居るようです。』という台詞を背景に不敵な微笑を浮かべる山本勘助、甲斐武田家の果敢な攻撃に対し智謀の限りを尽くす勘助の生き生きとした姿、そして謎の大男の剣閃を二刀流の刃で発止と受け止める板垣信方(千葉真一)、相変わらず面長(暴言)な武田晴信の咆哮が印象的な予告。

 勘助がはじめて合戦の参謀役となりそうな、迫力抜群の合戦風景が期待できそう。


 風林火山紀行は長野県上田市・真田町。今回山本勘助も訪れた真田氏本城跡・真田氏館跡をはじめ、山家神社および同神社蔵の『幸隆奉納・奥社古扉』、幸隆の三男・真田昌幸の築いた上田城などが紹介されています。

2007年大河『風林火山』第八話『奇襲!海ノ口』 感想と解説





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