河越夜戦前夜までの関東の状況【編】

戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 硬派な戦国大河として好評を得た07年大河『風林火山』の中盤でも要注意、見ごたえ抜群な歴史の一大転換期である『河越夜戦』。複雑な因縁の糸がからまりあい、誰が敵で誰が味方か判らない混沌とした関東諸勢力たちの一大決戦が始まろうとしています。

 果たして、なぜ北条氏康(松井誠)は関東管領ほか八万の軍勢と御家の興廃を賭けて戦わなければいけなかったのか、果たしてその歴史的事情はどんな複雑な関わりがあったのか。



 今回はその大舞台を題材にした第二十三回『河越夜戦』を前に、複雑な利権が絡み合った当時の関東諸勢力の状況・歴史的事情の背景などを歴史痛的視点から与太話で解説していくコラム『河越夜戦前夜までの関東の状況』シリーズ、その中編をお届けいたします。


 それでは、皆様のお時間を少々拝借仕るッ。 m9っ ;・`ω・´)いざッ。


■復興した鎌倉府と関東管領家の確執、そして破

 さて、前編でもお話しした通り…かつて足利尊氏が関東十カ国を経営するために設立した鎌倉府は第四代・足利持氏が室町幕府と対立した末に討伐され、敢え無く滅亡を遂げたわけですが…。

 その二年後には鎌倉府を滅ぼした室町幕府の独裁者・足利義教までもが家臣の謀反にあって世を去り、指導者を失った日本六十余カ国は大混乱に陥ります。


 そんな世情を読み取ったのが、今は亡き鎌倉公方・足利持氏公方家の生き残りである足利永寿王丸。

 
 永享の乱の最中、信濃国へと逃亡していた永寿王丸は越後守護上杉家などの後援を得て、信濃から上洛、室町幕府へ鎌倉府復興を働きかけます。


 既に最大の怨敵であった幕府六代将軍・足利義教はこの世になく、彼のあとを次いだ七代将軍・足利義勝(あしかがよしかつ)もたった十歳で急逝。

 後にどうしようもない優柔不断で日本全土に『戦国時代』を巻き起こすことになる、足利義政(あしかがよしまさ)が跡を継ぎ第八代将軍になりますが、まだ十二歳。幕府の政治は幕府重鎮達が寄り合いで動かしているような状態。

 相次ぐ将軍の死でてんとこまいまいになっていた幕府高官達は、関東まで気を配る余裕など全然ない状況です。

 そして幕府も、永寿王丸を支援する関東豪族の多さを見て、四代に渡って関東を統治してきた鎌倉公方家の影響力が思った以上に強かったことを再認識。
 1447年に永寿王丸の申し出をあっさりと許諾。

 
ここに鎌倉府は、起死回生の大逆転、御家復興を果たしました。
 
 1449年(宝徳元年)、永寿王丸は元服の儀式を済ませて鎌倉公方に就任。足利(あしかがしげうじ 1438〜1498)と名を改めます。


 かくして成氏は鎌倉に入って鎌倉府復興を宣言し、関東十カ国の守護大名や諸豪族達にこぞって出仕を促しました。 (■・関東地方は八カ国ですが、鎌倉府の権限は陸奥(現福島・宮城・岩手・青森県)出羽(現山形・秋田県)にも達していたので、関東十カ国と記載しています。



 しかし、関東管領を務めていた上杉家としては、この足利成氏の鎌倉公方復興はあまりばしいことではありませんでした。
 
 足利成氏は、室町幕府と鎌倉公方との関係折衝を投げ出してさっさと上野国に退去してしまった先の関東管領・上杉(うえすぎのりざね 1410?〜1466)


 と恨み、彼への嫌悪・怨恨の意を隠さなかったからです。

 彼には関東管領、本来であれば鎌倉公方を守るために働かなければならなかったはず憲実がのうのうと生きながらえているのが許せなかったようです。何せ、見方によっちゃあ父・持氏の仇敵にもなりますから。


 実際のところ、上杉

 
 と、永享の乱を引き起こした事をとても後しており、自分はもちろんのこと幼少の息子達らも連れて一緒に剃髪出家。既に関東管領を引退していました。

 そして、足利持氏の菩提を弔い、二度と関東の政治には関らない事を宣言していたのですが…まだ二十歳にも満たない青年であった若い成氏には、そんな憲実の苦心が判らなかったようです。



 また、足利成氏はかつて父の信頼厚かった東関東の豪族である結城家や小山家を重鎮として侍らせましたが、関東管領の上杉家やそれに近い豪族達は遠ざけ、疎んじるようになります。坊主が憎けりゃ袈裟まで憎いってやつですね。
 

 これを不服に思った関東管領上杉家、室町幕府と復興したばかりの鎌倉府は早くも対立しはじめます。

 新生鎌倉府の誕生により平和がもたらされると思われていた関東に、再び暗雲が垂れ込めはじめました。



 …そして、その緊張は一挙に爆発。鎌倉府公方だった足利成氏はとうとう堪忍袋の緒を切らし、とんでもない暴挙に打って出ます。


 1455年(享徳三年)、成氏は関東管領となっていた憲実の長男・上杉(うえすぎのりただ)を家臣に命じて襲撃させ、なんと彼を暗してしまいました。




 この暴挙に腹を立てた関東管領上杉家は憲実の次男・上杉房(うえすぎふさあき)を新たに関東管領に据え、室町幕府に使いを走らせ鎌倉府を申請。

 これを受けて幕府は今川範忠(いまがわのりただ)率いる鎌倉府討伐軍を差し向けます。足利成氏を許し、鎌倉公方家復興を許して僅か八年目の反逆にはさすがに幕府上層部も許せなかったようです。



 この討伐軍に敗北した成氏はそれまでの本拠地だった鎌倉を捨て、鎌倉公方家の有力家臣であった結城家の庇護下にある、下総国(現千葉県北部)古河城に逃亡。


 新たに自らを『古河御所(こがごしょ)、すなわち『古河公方(こがくぼう)という尊称を名乗るようになりました。

 古河公方家は、室町幕府が新たな鎌倉公方として派遣した足利(あしかがまさとも 1435〜1491 将軍足利義政の弟)公方(ほりごしくぼう)や、関東管領上杉家と敵対し続け、室町幕府の言う事をまったく聞かなってしまいました。 


 この対立は1478年に古河公方と関東管領上杉家、1482年に古河公方と堀越公方・室町幕府が和睦するまでの間…実に27年間も続くことになりました。

 この一連の動乱のことを享徳の乱(きょうとくのらん)と言います。



 …――まぁ、非常に長ったらし会話をしましたが、要は


『室町幕府は関東十カ国を統治するために鎌倉府を設立するが、鎌倉府は執事であり家来であるはずの関東管領や幕府そのものと敵対、鎌倉から古に逃れて半ば反乱軍化してしまった』

 ということです。この非常にややこしい関係、ずっと後の時代…大河『風林火山』の時代になるまで尾を引くことになります…。



■応仁の乱による国時代の到来、そして関東の情勢

 さて、それから時代は流れ…1467年(応仁元年)に足利将軍家の後継者争いに端を発した『応仁の乱』が勃発。

 十年に渡って続いたこの長い長い騒乱のおかげで京の都は灰燼に帰し、室町幕府の権威は失墜。

 秩序と平和の失われた世は、軍略智略に長けた者、力のある者…いわゆる『戦国』達によって切り盛りされる下剋上の世の中、実力のある者が地位と名誉を得る闘争の時代を迎えます。

 …のちに国時代』と呼ばれる、長い長い乱世の幕開けです。




 そんな無秩序な闘争の時代到来を受け、関東十カ国を統治していた関東管領上杉家もいつしか、二つの家系に

 つまり『二つの上杉家』が剣戟を交えて鎬を削りあい、同族なのに相争う関係となっていました。

 すなわち、上野国を本拠として北関東地方を治める『内上杉家 (やまのうちうえすぎけ)と、

 その山内上杉家の傍流ながらも武蔵国・相模国といった南関東地域で急速に力を伸ばした谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)ら二家の登場です。



 山内上杉家と扇谷上杉家は、いがみ合い忌み嫌いあう関係でありながらも、たちの悪い事に…お互い共が間違いなく『関東管領上杉家』なものですから、『俺が関東管領だ!! ヽ(#゚Д゚)ノ』と言い張って勢力争いを続けます。



 関東を統治する鎌倉公方家も古河公方と堀越公方、相変わらず二つの公方家が並立したままで、関東を統治する気概はあっても実力がありません。

 関東管領上杉家も、公方家を支える家宰職などという役割などほったらかしで、連年のように合戦を繰り広げていましたが…戦線は膠着し、一進一退で戦火ばかり広がり、関東八カ国は荒れていく一方という有様でした。



 しかし、この混沌とした戦国時代初期の関東戦線に、扇谷上杉家から一人の傑が登場します。

…その英傑たる武将の名は、太田(おおたどうかん 1432〜1486 持資、資長)。


 道灌は『坂東の大学』と賞賛された下野国・足利学校(あしかががっこう)で武経七書(兵法)や和歌や礼儀作法などの教養を学んだインテリで、江戸城・河越城といった名城を次々と築く築城術の達人、まさに『文武両道』を絵に描いた様な武将です。


 また、室町時代からの旧態然とした合戦方式に大革新をもたらす戦術…戦国時代の合戦場を席捲する存在となっていた『足軽(あしがる)と呼ばれる軽装歩兵を組織化する集団戦の確立、いわゆる『足軽戦法』を編み出した天下無双の名将です。


 先に説明した、関東地方を舞台にした関東管領vs鎌倉公方の戦い『享徳の乱』でも大活躍し、扇谷上杉家が誇る懐刀として関東各地を転戦。

 そうかと思えば居館とした江戸城で風流典雅な連歌会を開催する文化人の横顔を見せて教養をいかんなく発揮、プロの詠み手たちを惚れ惚れさせるような歌を披露。

 

 また、山内上杉家の重臣・長尾景春(ながおかげはる)が謀叛を起こし、同調を求められた際には『ばか。』の一言で拒絶、忠義心も人一倍。その反乱鎮圧にも尽力し、そうかと思えば堀越公方・足利政知から命を受ければ、駿河今川家の家督相続争いに介入するため出陣していく。

 まさしく縦横無尽、八面六臂の大活躍。



 この道灌による優れた軍事力で、扇谷上杉家は山内家を圧倒しはじめます。




 扇谷上杉家は破竹の快進撃で南関東を占領し、道灌の名声も天下に鳴り響きましたが…。

 1486年(文明十八年)、7月26日。

 道灌は相模国(現神奈川県・埼玉県西部)糟屋で、主君・扇谷上杉家の手によって(暗殺)されてしまいました。享年五十六歳。

 関東地方を席捲し、あの北条早雲すらも恐れさせた稀代の名将が、こともあろうに仕えていたあるじによって殺されてしまったのです。



 この不可解な暗殺事件、太田道灌の大活躍を恐れた山内上杉家の総領・上杉顕定(うえすぎあきさだ)が、

『道灌は軍事を整え、主君の扇谷上杉家に謀叛を起こそうとしている!!』

 と扇谷上杉家総領・上杉定正(うえすぎさだまさ)に通報したのが原因だとされています。


     


 念を押しますが、扇谷上杉家にとってライバルである、山内上杉家からの密告です。


 ちょっと考えてみりゃ『策略か、嘘だ。』と勘繰りたくなるものでしょうが、実際この頃の道灌は出仕も滅多にしなくなり、館に閉じこもっていたことも信憑性を高めましたし…なによりも、あまりに実力があり過ぎる道灌が実際に反乱を起こせば扇谷上杉家がうい、定正はそう考えたのかも知れません。


 1486年といえばまだ、山本勘助も毛利元就も生まれてすらいない時代のことですが、戦国時代が始まってもうすぐ二十年という混沌とした世相。
 関東は応仁の乱以前からの長い戦乱続きで土地も、人の心も荒み様がひどく…武将たちは疑心暗鬼に心を惑わされる時代になっていたのです。



 ちなみに、道灌が粛清されたのは風呂上りの直後、同じ扇谷上杉家である曽我兵庫(そがひょうご)によって斬り殺されたのですが…その際、

 と叫んだと伝わっています。

 無実の罪で忠臣を殺すような扇谷上杉家(当方)はそう遠くない将来にびるぞ!!と怨念のような言葉が、彼の最後となりました。



■戦国時代に颯爽と登場!! 世の申し子・北条早雲の登場

 さて、そんな太田道灌最期の怨念と予言が的中したのでしょうか…彼の死後、扇谷上杉家を思わぬ苦難が襲います。


 扇谷上杉家が北関東戦線で山内上杉家と対立しているうちに、その"苦難"は背後から…戦国時代を象徴するように『勢力』が目覚しい活躍を遂げ、かつて太田道灌が築いた南関東の勢力圏を次々と侵掠して来ていたからです。





 侵略者の名は、伊勢(いせそうずい)

 元は駿河今川家の食客(いそうろう)でしたが、武勲を立てて駿河興国寺城を所領に受けて戦国武将化。

 興国寺城から見てすぐお隣の伊豆国(現静岡県東部・伊豆半島)を統治していた堀越公方家で家督を巡っての御家騒動が起きたのを受け、これに介入すると、亡き太田道灌をほうふつとさせる鮮やかな戦略を披露し、あっというまに伊豆一国を制圧してしまいました。

 かつては一介の居候だった男が、ものの数年で室町幕府の連枝である堀越公方家を滅ぼしてしまったのです。



…『下(身分卑賤な者)が、上(身分の高い支配階級)(うちか)つ!!』



 そんな下剋上の代名詞たる彼の異名こそ、人呼んで北条雲。(ほうじょうそううん 1456〜1519)

 …そう、彼こそが戦国時代における小田原北条家の初代にして北条氏綱(品川徹)の父、そして北条氏康(松井誠)の祖父にあたる、戦国きっての風雲児です。




 北条早雲こそが戦乱の寵児として戦国時代の騒乱を駆け抜け、旧態政権がはびこる関東地方めがけて打ち込まれた、研ぎ澄まされし下克上の嚆矢そのものだったのです。



■北条早雲の大活躍、そして両上杉家との烈な争い
 早雲は堀越公方を滅亡させると、先ず最初に乱れきっていた内政に着手します。


 荒れ果てていた田畑や領土を蘇らせるのは、領民の力。

 そう考えた早雲は年貢を四公六民(お米に掛かる所得税40%。戦国時代では格安)として税金を大幅値下げ、疲弊している民には城の糧秣を惜しみなく与え、怪我や病気の民には薬を与えるという徹底した領民慰撫政策を次々と実行。
 見習え、どっかの『国民の生活が第一』な政党。(;-(,,ェ)-)


 伊豆国に善政を敷いて家臣達や領民の心を掌握し、支持を獲得します。


 そして充分に内治を整えてから軍備を強くする、いわゆる『富国強兵』を実行して着実に力をつけ…1495年(明応四年)、今度は伊豆国のお隣、扇谷上杉家の所領であった相模国を攻撃し、後に北条家の本拠地となる小田原城を奪取します。

 この際にも早雲は道灌顔負けのの兵法達者振りを発揮。

  敵であるはずの小田原城主・大森藤頼(おおもりふじより)とは事前に何度も顔を合わせ、昵懇の仲になっておいてから

        
(【勢子】…せこ。森林などで狩猟をする際、獲物を追い立てて弓手が狙いをつけやすくする係りのこと)

 と、小田原城に申請。

 用心深く慎重だった先代・氏頼と違って、根がお人よしで歳も若い藤頼。
 仲良しな早雲の言葉だけにまったく疑わずにこれを許可。

 すると早雲は、待ってましたとばかりに勢子にみせかけた軍勢を一気に相模国内に侵入させ、慌てる大森軍を圧倒。あっさり小田原城を攻め落としてしまったのだとか。



 これぞまさしく、孫子の兵法十三篇の初歩。

兵は詭道也』を山本勘助の生まれる五年も前に実行していたことになります。

 一筋縄ではいかない戦国乱世で、我が身一代で二カ国を掠め取った戦国武将の大先輩、その面目躍如といったところでしょうか。



 北条早雲はその後も順調に勢力を拡大し、相模でも最強と呼び名の高かった扇谷上杉家武将・三浦導寸(みうらどうすん)を滅ぼし、相模国統一を達成。


 さぁ、次はいよいよ扇谷上杉家の本拠・武蔵国だ…と、意気軒昂な早雲でしたが、1519年(永正十六年)7月、三浦三崎で側近や親類縁者と舟遊びに興じたその晩から急に体調を崩し、臥せってしまいます。

 幾多の障害を突破してきた老獪な戦国武将のこと、すぐに復調するかと思われたのですが…長年の過酷な戦国武将人生で磨り減りきってしまったのでしょうか。

 1519年(永正十六年)8月、北条早雲は伊豆韮山城で波瀾に満ちた生涯を閉じました。


■以前だと、北条早雲は1432年(永享四年)の生まれで、齢八十八歳の大往生だとされてきましたが…

 …近年の研究では北条早雲の出自やその正体・生年に関する新事実が幾つも明らかにされており、特に近年では1456年(康生二年)生まれが有力視されています。
 …そうだとしても、六十四歳ですので人生五十年の時代、大往生で間違いないのですが。



 関東戦国史の序盤を代表する梟雄だった、北条早雲の死。

 その彼の薫陶を受け継ぎ、家督を相続したのが大河『風林火山』の初期に北条家総領として登場し、老獪な外交戦略と兵法で北条家雄飛の基礎を築いた北条(ほうじょううじつな 1487〜1541)です。


■話はまだまだわらない、関東戦国事情

 さて、ようやく話が大河『風林火山』…相模北条家や山内・扇谷上杉家に向けて接近しはじめましたが、実は戦国時代の関東地方は複雑怪奇。

 実はまだまだ、河越夜戦に至る経緯は説明しきれていません。


 いったいどうして、相模北条家は戦国史上でも類を見ない大軍、関東管領家八万などという大規模な軍勢に襲われる羽目になったのか。

 それは次回、『河越夜戦前夜までの関東の状況』シリーズ・後編で明らかとなります。読み応えのある歴史硬派コラムとなったシリーズの最終編、御期待下さい。

河越夜戦前夜までの関東の状況【後編】

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