いざ尋常に、負!? 戦場での思想と戦術の変遷【第回】





 さて、せっかく本格嗜好の硬派な歴史大河が始まったと思ったら、そんな浪漫なんか欠片も御理解頂いてない様子の某兵庫県知事らが外野から批判しまくっている本年大河『平清盛』。

 赤髭としてはまだ院政や摂関藤原家による皇朝・貴族専制政治だった頃の、まだまだ後世ほどの隆盛も身分向上も見られない頃の武士の暮らし振りや立場、その歴史を堅実に踏襲しており、去年なんかよりずっとずっと好感が持てるのですが…。
(*-(,,ェ)-)。oO ( 知事は黙って県政真面目にやってりゃいいと思うのは赤髭だけだろうか。)


 そして、実はこの手の批判に案外といのがNHK。


今回も、兵庫県知事の演出批判に対し『今後も現状の演出を変えるつもりはない。』とおっしゃってる様ですが…過去には、外野からの要望や批判に結構流されやすい向きもありました。 



 例えば、92年大河『信長 King og Zipangu』では戦国時代の薄暗い世上や照明器具を歴史考証し、全体的に暗い画面構成にしたところ、視聴者から『画面が暗くて見難い』と批判を受け、途中から照明を多くして撮影していますし…

 00年大河『葵徳川三代』では、徳川家康の悪癖として有名な『いらいらしてるときに爪を噛む』という動作を津川雅彦さんが好演したところ

夕飯時に見るドラマで爪を噛む場面を見せるな、不な!!

 という批判があり、家康役になみなみならぬ思い入れのある津川さんが『じゃあ飯食ってる最中にテレビを見るのはどうなんだ、行儀の悪い!!』と反論したものの、結局は演出側が折れて家康が爪を噛まなくなる、だなんてことがありました。


 65年大河『太閤記』に至っては、織田信長を演じた高橋幸治さんの恰好良さに人気が沸騰、視聴者より「信長を殺さないで!!」『本能寺の変を出来るだけ延期して!!』などの意見が殺到、NHKは演出どころか本まで書き換えてしまったほどです。

(*-(,,ェ)-)。oO ( じゃあ何で、去年のファンタジー妄想大河は批判に耳も貸さずに最後まであの路線で突っ走ったんだろう。そんなに歴史硬派で視聴率的には失敗した『風林火山』が怖かったんだろうか…。 )


 日本政治史上初めての武家政権、弓矢の大将だった平清盛(松山ケンイチ)が幾多数多に襲い来る歴史を乗り越えて頂点に立つ栄枯盛衰の武家物語として、期待のかかる本年大河。

最後まで、射放たれた矢の如く真っ直ぐに今の路線でやり通してもらいたいものです。






 さて、そんな門外漢の批判にさらされながらも頑張る『平清盛』なわけですが、武家の台頭を描く物語ながら、残念ながら時代背景が平安時代末期。

 戦国歴史を取り扱う当『髭亭』としては詳細を追って説明・解説する予定は無いのですが…平安武士と戦国武士、まったく関係がないと言われれば、そうでもなかったりします。


 実は平安朝時代の武士の戦闘風習と戦国時代の合戦事情には、案外と似通った、もしくは大きく変化していった興味深い事情が幾つかありました。

 朝廷、公家の使い走り…『』とまで罵られた彼らがやがては皇朝も藤原家も超越する時代の寵児となっていった時代背景、その大きな要因である合戦でどんな変化がおきていたのか。


 今回は、平安朝の武士と戦国武将、同じ合戦場を疾走する勇敢な男達に関する戦術・思想の変遷について全二回、その前編を御案内していきたいと思います。


 それでは、御一緒して戴ける読者様のお時間を少々拝借。
 。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!



【本当に尋常過ぎた? 律儀な民族、合戦様の黎明期】

 さて。日本に『戦国時代』という、歴史上でも稀な闘争の時代を創世した戦国大名達。彼らがいかにして約百年間も闘争の時代に明け暮れたかについては、別記事に詳細を譲りますが…何にせよ。

 権謀術数・神算鬼謀、夜討ち朝駆けなんでもありな戦国乱世を闘い抜き、天下を目指して勝利をつかみ取らんとしていた戦国武将達の御先祖様にあたるのが、本年の大河『平清盛』に登場する平氏、源氏といった平安朝の武士達です。


 まだ世の中が何だかんだで安定していた平安時代に天皇や皇族達の身辺警護や荘園の防備をし、京洛の治安を維持する役目を担い、時には悪人や罪人を殺害する。
 夜も昼も週休二日制もない、今で言うところの『3K』…汚れ役引受人の肉体労働者だったのが彼ら『武士』の根源なのですが…

 武士が専業軍人として京の都に産声を生まれたばかりの頃は、まだまだ貴族の時代。合戦というのもまた、彼ら貴族と同様に名誉を重んじる…元を辿れば賜姓皇族(しせいこうぞく)である貴族揃いだった源平の末裔らしい戦い振りだったようです。


 
賜姓
(しせいこうぞく)

 元は皇族だったが時の天皇から姓(せい/かばね)を賜り、臣籍に降りた者のこと。皇族はそもそも姓がなく名前だけなので、姓を貰うことはすなわち皇族から離れることを意味します。

 天皇家は平安時代頃から『後継者が居なくなる』ことを恐れ、子供を増やすことに熱心になった時期があったのですが…。 

 しかし、天皇になれるのは当然一人。結果、代が進むにつれて『皇族の数が増えすぎる』という事態に直面。皇族である以上お金や領地をあげなきゃいけないので当然、財政事情が悪化しますよね。


 困った歴代天皇は『あんまり血筋が
すぎて皇位を継げそうにない皇族』に姓を与えて、皇族ではなく家臣として扱うことにしました。これを『皇親賜姓』(こうしんしせい)といい、結果『御先祖様は天皇なんだけど、今は皇族じゃない家系』が数多く生まれます。

 実を言えば歴史上の人物で姓が『源』あるいは『平』な人達は、ほぼ間違いなくこの賜姓皇族だと考えてよく、このシステムのおかげで戦国武将の大半が平氏か源氏か、もしくは藤原家になったと言っても過言ではありません。


 今年の大河の主人公・平清盛は桓武平氏・六波羅流伊勢平氏という家系で、子孫に長尾景虎(上杉謙信)・織田信長を輩出(両者とも自称臭いですが)。

 大河にも出演中の源為義は清和源氏という家系。のちに子孫から源頼朝・足利尊氏・武田信玄が輩出されて『武家の大将』であるイメージが定着、のちに徳川家康は勝手にこの血筋を頂戴して家系図をねつ造しています。…さすが家康、節操が無い。



□そんな、貴族然とした平安武士達の戦い振りについて…生まれてごく間も無い頃の『合戦』の礼儀を列記して説明していくと、以下の様な展開となります。



【1.先ずは宣布告から。】

 色々な理由…貴族同士の権勢争いや利害の衝突、政治的な経緯から『合戦』が回避不可能になると、最初は合戦を仕掛ける側が使者を送り、相手に『合戦する場所や日時』を指定した、『宣布告状』を送りつけます。


不意打ち?奇襲? とんでもない。

 確かに、大河『風林火山』で山本勘助が大書した『兵は詭道也』、合戦兵法の極意とされる孫子兵法十三篇は既に日本へ伝来してはいましたが、まだまだ世の中が『確実な利』より『武士としてのりと名誉』が重要視された時代。

 たとえ勝利を納めても、手段も方法も選ばない滅茶苦茶な戦術を駆使などしたら上流階級では批判が殺到、天皇や藤原家からの覚えも悪くなり…武士の名誉に、また武士達の主人である平安貴族達にとっても大きな名誉毀損になります。

 戦国武将が聞けば鼻で笑いそうな話ですが…平安武士の戦いには勝利以上に切なものがあった、ということです。


         




【2.戦場に着いたら、自分達の正をキッチリ自己主張。】

 双方が約束の時間に、思い思いの兵装や人数を揃えた軍勢を率いて集結すると…それぞれの総大将か代理の者が、戦場じゅうに響けとばかりの大音声を張り上げて、自分達の正当性を声高に主張します。

 当然、相手を悪者扱いして主張を論破するのも忘れません。とにかく敵側の悪を糾弾し、正義が自陣営にあることを徹底して、けれど下品にならないように理路整然と叫ぶのがポイントです。

…―要するに、最初は喧嘩なんですね。

 

 延々、両陣営の悪口合戦が続き…やがて耐え切れなくなったどちらかが激昂すれば、それが開戦の火蓋となります。論戦の途中に奇襲したり、弓を撃っちゃダメですよ。

 それは卑怯者のすることですから、八幡大菩薩に怒られます。



【3.鏑矢を蒼天高く射撃てば、甲高く響き渡るのは戦の合図!!】

 さて、もはや場所も戦う理由も闘気も漲りって意気軒昂。最後に、双方の軍から弓矢自慢の者が相手の陣営に向けて『鏑矢(かぶらや)という、鏃(やじり。矢の尖端)に特殊な孔をあけた矢を引き絞って、射撃し合います。

 この儀式のことを『わせ(やあわせ)と言います。

 現代でも物事の始まりや、最初の先鞭をつけた人の事を『嚆矢(こうし)と言いますが、実はこの嚆矢とは、矢合わせで使う鏑矢のことです。合戦の最初に合図として撃つことから、その意味が転じて使われるようになった言葉ですね。


 鏑矢は、鏃に空いた穴が笛と同じ要領で風を切り裂き、猛禽類が鳴く様な『ぴゅぅぅうううう!!!!』という甲高い音を戦場中にかせます。

 この鳴動こそが、今からは口喧嘩ではなく武士の闘い…命の遣り取りが、華々しい合戦の桧舞台が幕を開けたことを告げる調べとなるのです。



【3.花は桜木、人は武士。
   名誉誇りも高らかに名乗りを上げれば、いざ一
打ち!!】
 さて、ここからが平安朝の武士達の面目躍如にして独特な戦闘法…いわゆる『討ち』のはじまりです。

 両陣営でも腕に自身のあるものは、華やかな鎧兜に身を包んだ益荒男振りを誇示し、己の名誉と実力に釣り合った良き敵を求めて敵に自分の存在感や由緒ある御家の歴史、また自らの実力を戦場じゅうに響くような大音声で発します。


 この名乗りの際に、いかに猛々しく誇り高く、気高く…また勇敢さをアピール出来るかも、平安朝武士の腕の見せ所です。


 下の台詞は(大河のネタバレになるかもなので詳細は伏せますが)とある合戦で初陣を果たした平清盛の嫡男・平重盛(たいらのしげもり)が、敵方陣営で隠れ無き武勇の誉れを誇った源為朝(みなもとのためとも)という武士に対してぶちあげた名乗りです。(保元物語)

     平内大臣重盛。武田家の典厩信繁、豊臣家の大納言秀長の様に当主より先に死んだ屋台骨の代名詞である。(画像は源平合戦より加工編集)


 順を追って解説してみましょう。

 我こそは桓武天皇十二代の後とは、重盛が『なくよ鶯、平安京』で有名な桓武天皇から数えて十二代目の子孫である、つまり自分は誇り高い賜姓皇族である『桓武平氏』の血筋にあることをアピールしています。


平将軍貞盛とは、桓武平氏でも幾つかある血筋のうち、935年に起きた『平将門の乱』で反逆者・将門を討伐することに成功した平貞盛(たいらのさだもり)から連なる六波羅流平氏の子孫であることを誇っています。

 ここは血筋の創設者ではなく、かつて御先祖様が輩出した有名な武人を替わりに当てはめることもあります。


 刑部卿忠盛が、これは大河でも中井貴一さんが好演している清盛の父、平忠盛のこと。

 忠盛が西国で海賊相手に奮戦した場面は大河第一回でも躍動的に描かれましたが、彼の孫であることを主張することで祖父の武勲を誇り、また自分がその血を引く勇敢な若武者であることも合わせて喧伝しています。



 安芸守は、言うまでもありませんが重盛の父・で本年大河の主人公・平清盛のことです。清盛も瀬戸内海の海賊討伐では目覚しい活躍を挙げた平家の勇者、実父の武勲もしっかり誇っています。



 鎮西(ちんぜいはちろう)とは、重盛が一騎討ちの相手に所望している敵方の勇者・源為朝の通称です。

 為朝は勇敢ながら大変気が短く粗暴な性格で、懲罰の意味もこめて鎮西(北九州)に追放されたのですが…そこでも名を落とすどころか鬼神もかくやの大暴走をやらかし、ついた綽名が『鎮西八郎』。

 この合戦が起こった当時では、源氏でも一番の荒武者として有名でした。


    


かけいでよや、見参、参せん!!は、『はよ出て来てかかってこんかい!!』、です。気合入ってますね。



 ちなみにこの名乗りは、源為朝のあまりの強さに怖気づいた父・清盛が『ここは一度退却して、為朝のない部署から攻撃を仕掛けよう』という命令を下した不甲斐なさに憤慨した重盛が十九歳という若さに任せて暴走し、為朝と一騎討ちするためにしかけたもの。

    


 嫡男重盛の身の程知らずな暴挙に驚いた清盛、部下を走らせて重盛を為朝の前から引っ張り撤退させたのはいうまでもありません。

(*-(,,ェ)-)。oO ( 為朝は弓矢一発でニ人の鎧武者をまとめて貫き、しまいにゃ弓で船まで撃沈した日本版・呂布みたいな超人です。幾らなんでも相手が悪い。)




【4.弓矢取りの血族、その誇りと名誉に掛けて。
    壮絶な一騎打ちは利する他に活路なし】


 さて、一騎打ちが始まりますが…双方、騎馬に跨り戦場を縦横無尽に疾駆しながら相手を倒すべく攻撃の機会を狙うのですが…その手に握っているのは実は太刀でも槍でもなく、矢です。

 歴史の教科書でも、この時代の武士は馬に乗ったまま的を射抜く『流鏑馬(やぶさめ)、逃げる犬を騎馬で追いかけて矢を当てる『犬追物(いぬおうもの)などの鍛錬で、とくに馬に乗ったまま矢を放つ鍛錬に明け暮れたと表記されていますが…

 実は一騎討ちで扱う武器が、弓矢だったからなんです。



 御存知の通り、われわれ日本人は農耕民族なわけですが、平安朝の武士達はモンゴル人の如き騎馬民族の様に弓矢を重要視し、その鍛錬に明け暮れていました。

 なぜモンゴルを例えに出したかと言えば、実は平安武士は弓を引くときに弦を親指と人差し指でつまみながら引く『ンチ式』ではなく、親指に弦を引っ掛けて、矢の羽根を人差し指・中指で挟んで構えるという『民族式』の弓撃ち方式を採用していたからです。

        

 農耕民族の日本人がなぜこの射撃法を覚えたのかは定かではありませんが、一説によれば、奈良時代に中国の王朝から日本の朝廷に贈られた名馬の世話役として一緒に渡来した騎馬民族の弓術が武人に伝授され、広まったからではないか…とされています。



 この射撃法は馬上から連続して弓を撃つのに適した方法で、弓の手錬れともなれば『次に撃つ矢の羽を薬指と小指の間に引っ掛けておき、一の矢を撃ったら即座に二の矢をつがえて撃つ』、という曲芸じみた騎乗連射すら可能にするものでした。


 大河『風林火山』などでも、この騎馬民族独特の撃ち方は再現されています。



 後年、鎌倉時代に『』…モンゴル人が中国に開いた元王朝から攻撃を受けた時、弓矢に馴れている蒙古騎兵に日本の武士が悪戦苦闘しながらも敗北せず、敢闘出来たのは…平安時代から鎌倉時代にかけての武士が弓矢にそれだけ精通していたからです。

        


 本職の遊牧騎馬民族の弓術を採用し、その技術で二度に渡った元寇を切り抜けるという離れ業。
 この時代、武家のことを『矢の家』、武人のことを『取り』、武人としての人生は『馬の道』と呼んだのは、蒙古騎兵すら撃退し、それだけの実力をもたらすほどに弓矢と武士は切り離せない関係だったことの、揺るぎない証拠と言えるものでしょう。

 
  
■歴史痛
Check-Point 弓矢恐るべし?その破力の実態。


この平安武士の弓矢偏重精神は実の話、四百数十年後の戦国時代まで武将達に連綿と受け継がれていました。



 本格的な戦国時代考証を織り込んだ漫画『センゴク』でも語られており有名な話ではあるのですが、戦国時代に戦場で一番活躍した武器は、刀でも槍でもなく、弓矢だったりします。

 歴史評論家の鈴木眞哉氏の調査によれば、戦国時代の弓矢による死傷率は実に
41.3

 刀による負傷・死因は僅か
3.8しかなかったことと比較しても、どれだけ弓矢の破壊力が恐ろしかったかが推察できるデータと言えます。


 それもそのはず、弓の筈。
 平安時代から戦国時代にかけて、弓矢の改善も試行錯誤が繰り返されて…武田信玄・上杉謙信の時代には、遂に弓が全長七尺五寸
(約225cm)、矢の長さは三尺(約90cm)に到達。

 五間(約9.14メートル)の距離間で三枚並べた畳を全部貫通し、遠矢(とおや、的を意識しない遠距離射撃)で四町(約
436メートル)離れた場所まで矢が撃てなければ一人前の弓足軽とは言えないほどに、弓矢の技術は発達していたのです。

 1543年(天文十二年)、日本に伝来した火縄銃がすぐに戦場の主流武器とならなかったのは『大量生産が出来る体制がなかったこと』、そして『大量導入できるほどの財力を持った戦国大名が登場するまで時間が掛かったこと』も原因にありますが、実は『日本に導入された当初の、せいぜい
50メートル先の敵しか殺せない、しかも雨が降ったら使えない火縄銃』では、日本人の弓に勝てなかったことも原因だったりするんです。

 恐るべきはアナクロ兵器、戦国時代の日本人…と、いうべきでしょうか。




 また、この頃の弓矢重視の考え方は戦国時代を超え、現代でも言葉の端々に残されていたりします。


 反乱をおこす事は『を引く』、隙間も無く連続するのは『継ぎ早』。

 執拗な要求は『の催促』、どうしようも無くたまらない事は『も楯も堪らない』。

 時の過ぎ行く流れは、『光陰の如し』、数多くの中から選ばれることは『白羽のが立つ』。などなど…現代の世にも弓矢に関する慣用句は数多く残されています。


 そして、弓に弦を引っ掛ける部分の名前、(ゆはず)

 弓に弦が張ってあるのは当たり前の事なので、現代でも『それまでの事情から考えて、当然の事実』と言う意味で、我々はこう言います。

〜するはずがない。』『〜なら出来るはずだ。』と。
この"はず"とは、この弓筈が語源になり、長い年月で"ゆ"が省略されて出来た言葉なのだったりします。

 平安朝の武士達の誇りであった弓矢が、どれだけ日本語の歴史に影響を残しているか、どれだけ戦場で命を賭けて闘ったか…その名残が千年近く過ぎた平成現代の慣用句にうかがえるところが、興味深い話だとは思いませんか?



【5.必の一矢が生死を分かつ!!。
    勝者は誇りの生を得て、敗者は名誉の死を迎える】


 さて、閑話休題。 話を一騎討ちに戻しましょう。

 厳重に防御された大鎧と兜を装備した騎馬武者どうしの一騎討ちは、太刀は使わざれど、まさしく『真剣勝負』。互いの隙を狙って一撃必殺の矢を見舞い合います。

 この間…決着がつくまでは、双方の陣営はただ固唾を飲んで見守るばかりとなります。一騎打ちなのですから、当然余計な横槍はいけません。



 なお、一騎打ちの最中に注意するのは『絶対に相手の馬をってはいけないこと』です。

 良い武人は、己の意思と名誉を担う優秀な軍馬を大切にするもの、『将を射んと欲するなら、先ず馬を射よ』という言葉どおりの戦術は、このころはドがつく卑怯者と呼ばれても仕方ないような戦法だったのです。


         


 そして、激しい弓の撃ち合い…敵味方敵味方が固唾を呑んで見守る死闘の末に、どちらかが致命傷を負い、命を落とせばそれが一騎討ちの幕…勝負の決着となります。


 一騎打ちの勝利側は『八大菩薩、神仏の御加護はわれらにあり!!』と士気を鼓舞してやんややんやと盛り上がり、敗北した側は『討ち取られた讐を雪ぐい合戦だ!!』と巻き返しを図り、自陣営が誇る次なる勇者を差し向けていく。


 これを何度か繰り返し行うのが正しい戦場の作法でした。まるでスポーツのように律儀と礼式が守られ名誉と誇りを最重要視するあたりが、『勝てば官軍』だった戦国武将とは違う…平安武士の戦いが闘』と呼ばれる由縁でしょう。



◆しかし、こんな『戦場道』というべき気高い平安武士の戦闘法も時代が移り変わるにつれ、廃れていき…紳士然とした、名誉と誇りに彩られていた武士の戦い方にも徐々に変化が訪れはじめます。


 その兆候は、『平安武士』と呼ばれた戦場の貴族達が生まれて、ものの百年も経たないうちの事。

…実をいえば、平清盛の時代から既に始まっていたのです。



いざ尋常に、勝負!? 戦場での思想と戦術の変遷【第二回】


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